魂を貪るもの
其の五 錯綜
4.影野迅雷

「っ……!」
 鈴音は身体に走る痛みで目を覚ました。
「ここは……?」
 上半身を起こし、額に手を当てる。
 頭や身体に、真新しい包帯が巻かれていた。
「ここは神代神社じゃないな」
 周囲を見回し、深いため息を吐く。
 ――何度目だろうか、こうして痛みで目を覚ますのは。
 ――少なくとも、猫ヶ崎に来てからは、三回目か。
「あたしは……」
 少々情けなくなって、唇を歪める。
 葵たちを振りきって出てきたにもかかわらず、霧刃のもとに辿りつけてさえない。
 傷の治療しないで自分勝手に飛び出したあげく、その傷が開いて倒れただけだ。
 笑い話にもならない。
「ちっ……」
 自分自身の間抜けさに舌打ちし、布団から這い出る。
 そして、身体を走る激痛を抑えつけて、よろめきながらも立ち上がる。
 陽光が差し込んでいるベランダへと視線を向けた。
「……」
 窓の外の風景に見覚えはない。
 多分、猫ヶ崎市内ではあるのだろうが、街に来て日が浅い鈴音には、ここがどこであるかの見当もつかなかった。
「ふぅ……」
 再び、ため息を吐く。
 と、その時。
 ――ガタッ。
「!」
 背後からの気配に、鈴音の顔に鋭い表情が浮かぶ。
 満身創痍の状態で背後を取られることを彼女の本能が嫌った。
 右腕は未だに麻痺しており、使い物にならない。
 何とか動く左手を握り締めた。
「誰だっ!」
 ――バギィッ!
 振り向きざまの鈴音の左裏拳が、部屋の壁に炸裂する。
「ひょえええぇぇっ!」
 悲鳴が上がる。
 壁にめり込んだ鈴音の拳の下で、艶かしい美女が尻餅をついていた。
「!」
 その美女の顔を見て、鈴音の顔から険が取れる。
「おまえは……」
「ハ、ハァイ☆ 目が覚めたのね」
 美女が表情を強張らせつつ、腰を叩きながら立ち上がった。
 鈴音が意識を失う前に出会ったサッキュバスだ。
 砕けた壁が崩れるのをバツの悪そうな顔で見ながら、鈴音がゆっくりと左の拳を収める。
「おまえが、あたしの手当てを?」
「オマエじゃなくて、レイチェリアよ。レイチェって呼んでね」
 サッキュバスは、にっこり笑いながらそう名乗った。
「あ、ああ、……あたしは鈴音だ。織田鈴音」
 戸惑いながら鈴音も名乗り返した。
 何となく調子が狂う。
「んで、レイチェが手当てをしてくれたのか?」
 前髪をかきあげながら、レイチェリアに尋ねる。
 額に巻かれた包帯が一瞬顔を見せたが、鈴音のサラサラの髪は瞬く間に流れ落ちて白い布を隠した。
 裏拳を放った左手の包帯に血が滲んでいるのに気づいて、鈴音は顔をしかめた。
「ン〜、アタシもだけど、迅雷さまが応急手当してくれたのよ」
「迅雷?」
 聞き覚えのない名前が、レイチェリアの口から出た。
 この部屋の主だろうか。
 レイチェリアは、鈴音の裏拳で大穴の開いた壁を手でさすりながら困ったような声を出す。
「ア〜ン、こんな大穴開けちゃって、怒られても知らないからァ」
 言葉のわりには、表情はあまり困っていないように見える。
 何となく楽しそうな風さえある。
「よくわからないヤツだな」
 鈴音が小さく呟く。
 レイチェリアはかなりの変わり者のサッキュバスだろうとは思っていたが、彼女特有の調子を相手にしているとどうにも気が抜ける。
 微かに困惑したような表情の鈴音に、色物サッキュバスは小首を傾げた。
「どうかしたァ?」
「いや、何でもねえよ。それより、そのあたしを手当てしてくれたその迅雷ってヤツは?」
 鈴音はゆっくりと布団の上に腰を下ろした。
 実のところ、平然を装って口にこそ出さないが、全身を蝕む激痛のせいで立っているのも辛いのだ。
 緊張感で張り詰めていた先程は裏拳を咄嗟に出すことができたが、気の抜けた今は一挙一動に体力を削られるようだった。
 レイチェリアも鈴音の前にちょこんと座る。
「迅雷さまは、今、鈴音のためにお薬買いに行ってるわよ。だから、アタシが留守番なの」
「そうか」
 鈴音は深く息を吐き、特に厳重に包帯の巻かれた右肩に左手をやった。
 右腕の感覚は戻ってきていない。
「なんかさ、鈴音って表情暗いね」
「えっ、そ、そう……か?」
「うん、せっかくの美人なのにモッタイナイわ。でも、傷が治れば元気になるよね」
 レイチェリアが微笑みかけてくるのを見て、鈴音は複雑な顔になった。
「だから、元気になるまで、いつまででも居てイイの。きっと迅雷さまも承知してくれるわ」
「なんで?」
「うん?」
「なんで、あたしのことに構ってくれるんだ。あたしがどんな人間だなんて知らないだろ?」
「さあ、なんでかナァ? やっぱり、美人には笑顔でいて欲しいからかなァ」

 ――鈴音さん、身体の方は大丈夫なんですか?
 ちとせの心配そうな声が、鈴音の頭に響く。
 彼女にはじめて会った時も今に似た状況だった。

 ――良くなるまでゆっくりしていってくださいね。
 続いて、葵の声が聞こえてきた。

 ――鈴音サン。オレにアナタを止める権利も義務もない。だけど、アナタもオレを止められない。
 ――オレも"凍てつく炎"を追う。一緒に行きませんか?
 あの時、ロックも想いの込められた言葉で、そう告げてくれた。

 今、レイチェリアもまた、ほとんど初対面の自分のことを心配してくれているようだった。
 だが、鈴音は表情を鋭く砥ぎ、立ち上がった。
 廃物寸前の身体が軋んだ音を立てる。
 それでも、歯を食いしばって痛みに耐える。
 ――やっと、霧刃を見つけたんだ。
 何年も追いかけてきた姉を。
 狂気に駆られて弱者を踏み躙る姉を。
 たとえ、自分の身体が壊れても、姉を止めなければならない。
 そう、必ず。
 その想いだけが、痛めつけられた肉体と疲弊しきった精神を支配していた。
 そして、その想いの強さゆえに焦燥感と殺気だけが強くなっていた。
「……悪いが、行かせてもらうぜ」
「えっ?」
 鈴音は額の包帯に手をかけると無理矢理に剥ぎ取り、そのまま玄関へと歩き出した。
 早朝に神代神社を出た時と同じように、ただの一歩一歩が体力を奪っていく。
 それでも、歩みを止めない。
 止めるわけにはいかなかった。
「ちょっ、鈴音? 傷口が開くわよっ!」
 鈴音の行動に驚いたレイチェリアも慌てて立ち上がり、悲鳴混じりの声を上げる。
 その声も聞こえていないように、鈴音は玄関を開けて外に出た。
 そして、振り返ると少し悲しそうな瞳で、レイチェリアを見つめた。
 レイチェリアは、どうにかして鈴音を止めようとする。
 玄関を出るだけの動きでも、鈴音の消耗は明らかだった。
 彼女の右半身の包帯には、すでに出血が滲み出ている。
 それに全身に走る激痛によって、鈴音の額には汗が流れ始めていた。
「鈴音。ダメよ、そんな身体で……」
「レイチェ、迅雷とかいうヤツに礼を言っておいてくれ」
 レイチェリアの言葉を鋭い眼で制して、外に出ようとする。
 鈴音の決意の灯った激しい視線を浴びて足が竦んだのか、レイチェリアは追って来ない。
 ――悪いな、助けてもらったのに。
 鈴音は視線を下げて、心の中でレイチェリアに謝る。
 葵の怒った顔が、また脳裏に浮かんだ。
 ――バカだな、あたしは。
 それでも行かねばならない。
 鈴音が視線を上げる。
 と、その時、鈴音は、気配を感じて動きを止めた。
 そこに、後ろから声がかけられる。
「礼ってもんは、自分で言うもんだぜ」
 鈴音は先程のようにいきなり攻撃をすることなく、気配に殺気がないことを確認する。
 そして、振り返る。
 そこには、一人の青年が立っていた。
「迅雷さまっ!」
 レイチェリアは彼を見るなり、顔をパッと輝かせた。
「迅雷?」
 鈴音が値踏みをするように青年を凝視する。
 年の頃は高校生くらいだろうか。
 だが、身長は鈴音よりも一回りほど大きく、体格もがっしりとしていて、服の下には鋼のような筋肉が凝縮されていることを窺わせる。
 顔立ちも男らしいものだが、その瞳に邪気はなく、綺麗に澄んでいる。
 ただ鈴音の研ぎ澄まされた退魔師としての勘は、青年の抑えてはいるが溢れるばかりの霊気を感じ取っていた。
「……おまえが、あたしを手当てしてくれたヤツか」
「ああ。まあ、治癒術は使えねえから、手当てといっても応急処置だがな」
 迅雷と呼ばれた青年は、そう言うと、鈴音に手を振ってみせた。
 指先が微かに青白く光る。
 自分も『霊力(ちから)持つ者』であることをアピールしているようだ。
 レイチェリアの口調から察するに、彼女はこの青年の使い魔なのだろう。
「それにしても、いきなり、『ヤツ』呼ばわりはないと思うぞ。……おっと、そう言えばまだ、ちゃんと名乗ってなかったな」
 迅雷は腰に手を当てて、豪快に厚い胸を張った。
「おれは影野迅雷だ。おまえは?」
「あたしは、鈴音だ」
 鈴音は苦痛を噛み殺した擦れた声で答えた。
 彼女としては体力が尽きる前に一刻も早く霧刃を探しに行きたいのだ。
 しかし、帰宅した迅雷と鉢合わせしてしまったため、完全に立ち去るタイミングを失してしまっていた。
 さらに、鈴音にとって不都合なことに、レイチェリアが追い討ちをかける。
「迅雷さまっ、鈴音を止めてください。身体が、まだボロボロなのに出ていく気なの」
 鈴音は迅雷の顔を睨みながら、前髪をかきあげる。
「傷の手当てのことは礼を言うよ。だけど、あたしは、行かなきゃいけないんだ」
 鈴音の視線を真正面から受け止め、迅雷は肩をすくめた。
「ふぅ、何を焦ってんだか知らねえが……」
 手に持っているビニール袋を鈴音の前へ差し出した。
「傷薬とかいろいろ買ってきたんだぜ。とにかく、家の中に戻りな」
「……」
 鈴音は無言で無視すると、迅雷の横を通り抜けようとした。
 しかし、それは適わなかった。
 咄嗟に迅雷が鈴音の左腕を掴んで引き止めたからだ。
「放せっ! うっ……!」
 迅雷の手を振り解こうとした鈴音の口から、呻き声が漏れた。
 今や彼女の顔には、はっきりとした苦悶の色が浮かんでいた。
 迅雷の腕を振り払おうとするが、彼女にはその力も残っていない。
 弱弱しい抵抗だけが、迅雷の腕に震動を与えていた。
「暴れるな。傷が開くぜ」
 迅雷は鈴音に歩ける力が残っていないことを見抜き、彼女から手を放して玄関のドアを閉めた。
「はぁ……、はぁ……、頼む。……行かせてくれ、あたしは……」
 苦悶の表情を浮かべながらも尚足を踏み出そうとしている鈴音を無視して、迅雷はさっさと靴を脱いで部屋へと上がってしまった。
 そして、振り返らずに鈴音に返答する。
「それはできねぇ、相談だぜ。おれにはケガ人をほっとくことなんかできない。ここで、おまえに恨まれたとしても、そんな身体でどこかに行かせるわけにはいかないぜ」
 迅雷の言葉を聞きながら、鈴音は玄関を睨みつけた。
 歩く体力も底をついているが、出て行こうとする意志を見せることはできる。
「……」
 だが、鈴音は迅雷に視線を向けるでもなく、外に出る気配を見せるでもなく、一歩も動かずに玄関を睨みつけ、唇を噛み締める。
「レイチェ」
 そんな鈴音にちらりと視線を向け、迅雷はレイチェリアに小さな声で呼びかける。
「迅雷さまっ?」
 レイチェリアは動こうとしない鈴音を見つめていたが、迅雷の呼びかけに顔を向けた。
 レイチェリアの肩越しに鈴音を目で示しながら、迅雷が使い目の耳へと囁く。
「少し、あいつの話し相手になってやれ。おれは治療の用意をしておくからよ」
「は、はい」
 レイチェは、少し戸惑いを含みながらも素直に頷く。
 未だに玄関を睨みつけている鈴音へと振り返り、迅雷は声を飛ばした。
「嫌われちまったかな。だが、これもおまえのためだぜ。焦りは的確な判断を失わせる。少し頭を冷やすんだな」
 それだけ言い残すと、迅雷は台所の方に歩いて行ってしまった。
「……」
 鈴音は未だ、玄関を無言で睨みつけていた。
 強く噛み締められた唇から血が滴る。
 握り締められた左拳にも爪が食い込んでいる。
 迅雷の気配が消えてからしばらくして、彼女は瞳を固く閉じて項垂れた。


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