魂を貪るもの
其の五 錯綜
3.占いの館にて

 卵の殻の中の薄皮のように白く美しい長い髪が、窓からのわずかな風の流れに靡く。
 その女性の麗しく瑞々しい顔を見れば、その髪の白さが年を重ねたためのものではないことがわかる。
 彼女は、窓際に置かれた植木鉢に植えられた小さな木に、白い手の細い指を伸ばし、やさしく撫でた。
 その手のひらに淡い光が宿る。
 光は流れるように手から木へと移り、細い幹を包み込み、脈打つように膨脹、収縮し、やがて木の内部へと吸い込まれるように消えた。
 それを見つめていた白髪の美女――シャロル・シャラレイの双眸が神秘的な金色の光に揺れた。
「――運命が来る」
 彼女の呟きに呼応したかのように、部屋のドアをノックする音が響いた。

「どうぞ」
 シャロルが法衣の裾を靡かせながら、窓から離れて部屋の中央へと移動する。
「失礼いたします」
 ドアが開き、二人の人間が部屋に入ってくる。
 一人はおっとりとした感じのする二十歳前半の女性、もう一人はダークスーツで身を固めた黒髪の青年。
 鈴音の行方を捜し求めてやってきた神代葵とロック・クロネオーレの二人だった。
「私が館の主、シャロル・シャラレイです」
 来客である葵とロックに、シャロルが優雅に頭を下げる。
 純白の髪が流れるような動きを見せる。
 そして、鷹揚な仕草で部屋に備えられている豪奢なソファを勧める。
 二人は素直に腰掛け、シャロルへ真剣な眼差しを向けた。
 テーブルを挟んだ向かいのソファに座った女占い師は、来客二人のその真摯な態度を正面から受け止める。
「神代さんですね?」
 まるですべてを承知しているかのような口調と表情で、シャロルは葵の苗字を言い当てた。
「どうして、私の名前を?」
 驚いた表情で、葵が尋ねる。
「別に占ったわけではありません。以前にこちらへいらっしゃった神代ちとせさんと面影が似ていらっしゃいますから家の方かと推察したのです」
 シャロルが柔らかに微笑んで答える。
「ちとせ。……妹と?」
「ええ、とても似ていらっしゃいます。特に、眼差しと申しましょうか、魂の形と申しましょうか、人にはやはり内面から滲み出るものがあるでしょう?」
「そうですね。私も巫女としてさまざまな人たちと接していますから、何となくそういうものはわかります」
 葵がシャロルの言葉を受けて頷く。
 それにしても初見で肉親であるところまで見抜けるというのは、シャロルが占いの技量だけでなく、優れた洞察力を持っていることの証だろう。
 シャロルが陶器製のティーポットから紅茶を注ぎ、葵とロックの前にカップを置いた。
 ダージリン・ティーの熟したマスカットにも似た豊潤な甘い香りが部屋に広がる中、シャロルは姿勢を正して葵たちに向き直った。
 シャロルの青い硝子細工のような瞳が、微かに金色の光を漏らす。
「――ご用件は、織田鈴音さんのことですね?」
「鈴音さんが来たのですか?」
 シャロルのすべてを見透かしたような言葉に、葵が思わず身を乗り出す。
 ロックの目も光った。
「いいえ、彼女は、ここには姿を見せていません」
 シャロルの静かな否定を受けて、葵とロックの顔にははっきりとした落胆が浮かぶ。
 一呼吸をおいて、シャロルは続けた。
「織田鈴音さんの『星』――私に見える運気のようなものは、この前、ここへいらっしゃった後も気になって見ておりました」
 シャロルの瞳がまた黄金の色を微かに帯びた。
「それが今、輝きを失っています」
 シャロルがため息を吐き、紅茶を口に運んだ。
「それゆえ、彼女と関わり深いあなた方のご用件は、彼女のことだと……」
「鈴音さんは、無事なのでしょうか?」
 葵が、一番気になっていることを尋ねる。
 運気を見続けていたというシャロルならば、もしかしたら鈴音の安否もわかるのではないだろうかと思ったからだ。
 シャロルはカップをゆっくりとテーブルの上に戻した。
 そして、黄金色に染まりかけている瞳を葵に向け、静かな口調で答えた。
「彼女は今、闇の入口にいます」
「闇の入口?」
 言葉の意味を取りかねて聞き返す葵に、シャロルは頷きながら答えた。
「精神の闇です」
「精神の闇、ですか?」
「奈落と申し上げても良いでしょう。堕ちれば魂は暗黒に染まり、最悪の場合は鬼や悪魔と化すことになり、もはや人間としての再起は望めなくなるでしょう」
 シャロルの説明を受けて、葵の顔色が青くなる。
 それを見つめながら、シャロルは構わずに続けた。
「しかし、今のところ、彼女は大きな力によって守られています」
 守られている。
 その言葉は、打ちひしがれそうになっていた葵に希望を持たせた。
「無事なのですね?」
 葵が意気込んで尋ねる。
 シャロルは頷いたが、しかし、厳しい声で答えた。
「今のところは無事です。ですが、彼女は闇に堕ちる瀬戸際で戦っています。守られているといっても、それは外からだけのことです。彼女の内面は、すでにボロボロのはずです。この心の戦いは、彼女にとって、もっとも困難で危ういものになるでしょう」
 鈴音は霧刃を追い、そして、対峙し、文字通り手も足も出ないまま、敗北してしまった。
 その身と心に負った傷はあまりにも深い。
「先日、彼女がここへ来た時に、私は成り行き上、彼女の心を覗きました。織田鈴音という女性は、過去に家族を失った日から、己自身の中に潜む闇から常に狙われてきたのです」
 シャロルは体験した『織田鈴音の心』を思い出し、苦しそうな表情を浮かべた。
 鈴音は地獄とも呼べるほどの苦難の道を歩んできていた。
「過去の悲劇を誰とも分かち合えない孤独。破邪武術の後継者としての人々を守らなければならないという重圧。そして、壮絶な魔との戦いの連続」
 人生経験の浅い彼女へ襲い掛かる矛盾、裏切り、浴びせられる悪意。
 凶悪な敵との戦い、肉体への陵辱、精神への侵蝕。
 一人の女性が背負うには重すぎる数多くのものが、彼女に苦しみを与え続けてきた。
 普段の鈴音が、内面の苦しみを他人に感じさせないのは、無意識的に、あるいは意識的に、前向きに生きようとしていたからだろう。
「そういった常に彼女を貶めようと狙ってくるありとあらゆる闇へ精神力を振り絞って対抗してきた彼女へ、今、大きな絶望が影を落としています」
 天武夢幻流を継ぐものとして、負けることの許されない戦いの連続。
 そして、妹として姉を止めなければならないという想い。
 張り詰めていた鈴音の心が、先の霧刃との戦いの惨敗によって、崩壊寸前まで追い詰められているのだと、シャロルは言う。
「しかし、輝きを失って抜け殻に等しい身で、それでも尚、奈落へ堕ちまいと必至に抵抗しているのです。それは他者が踏み込めるものではありません」
 シャロルの言葉の重さを、葵は心で受け止める。
 そして、長く静かな息を吐く。
 鈴音がもし闇に堕ちれば、戻っては来なかもしれないという。
 葵は、それを否定するように首を横に振った。
 ――鈴音さんが、戻って来ないはずがない。
「鈴音さんは、強い人です。きっと乗り越えてくれるはずです」
 真摯な眼差しで葵がそう言い切り、シャロルも深く頷いた。
「今は流れに任せ、本人からの連絡を待ってあげてください」
「ええ、鈴音さんを信じていますから」
 葵は穏やかな微笑みを浮かべ、立ち上がった。
 ただ信じているだけでは伝わらないかもしれない。
 だが、不幸中の幸いにも、葵は、鈴音が姿を眩ませる直前に、彼女へ想いを伝えることができていた。
 自分やちとせたちが鈴音の力になりたいと思っていることを伝えることができたのだ。
 ロック・コロネオーレという青年が、鈴音の力になるために来ていることも伝えることができた。
 だから、鈴音は、自分たちの信頼を感じてくれているはずだ。
 憂いを振り払った葵の態度に、ロックは心底感心していた。
 シャロルが初見で、葵はちとせに似ていると言ったことを、まさにその通りだと感じていた。
 葵とちとせには、おっとりとした姉と行動的な妹という違いはあっても、その根本を為すものが似ているのだ。
 昨晩出会ったばかりだが、ロックは神代姉妹に人格としてのやさしさと力強さを感じずにはいられなかった。
「織田鈴音さんがお戻りになられたら、お伝えください」
 席を立った二人にシャロルが声をかける。
「運命の会合は、動かずともやってきます。光と闇は必ず交錯します」
 シャロルの言葉は霧刃と鈴音の再会のことを言っているのだろうと、葵たちは察しをつけた。
 探さなくてもいつか鈴音の道と霧刃の道は交わる。
 その時は近いのだろうか。
 再び対峙した時にこそ、二人の間の決着がつくはずだ。
「わかりました。どうも、ありがとうございました」
 葵はシャロルに礼を言い、ロックと一緒に丁寧に頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」
 二人の来客は部屋を出た。

 シャロル・シャラレイは来客二人が部屋から出ていった後も、少しの間、閉まったドアを見つめていたが、ふと、窓際に目を向けた。
 窓から太陽光が差し込み、植木鉢を照らしている。
 窓際に歩いていくと、木をやさしく撫でた。
「私にはすべてが見える。いいえ、見たくなくても、見えてしまう。見なくてよいものまで見えてしまう」
 シャロルが独りになった部屋で呟く。
 その声は奇妙に平板で、抑揚がなかった。
 織田鈴音は、確かに地獄の苦しみを背負って生きてきていた。
 シャロルが見た彼女の歴史は、何度も彼女を追い詰めていた。
 そして今、最悪の絶望が鈴音の心を蝕んでいる。
 しかし、織田鈴音はきっと闇へ堕ちずに済む。
 それは、予言ではない。
 彼女には支えてくれる仲間がいる。
 その事実を踏まえての、確信に近い予感だった。
 シャロルも、織田鈴音の過酷な人生には同情を禁じ得ない。
 だが同時に、仲間に囲まれている彼女に対して歪んだ羨望を感じていた。
「この私を理解してくれる人はどこにもいない」
 一瞬だけシャロル・シャラレイの瞳が黄金の輝きを帯びたが、すぐに黄昏が訪れたかのように昏く翳った。
「私は……」
 長い長いため息を吐き、植木へ翳していた手を額に当てる。
 酷い頭痛がする。
 シャロルはよろめいて、後退った。
 支えを求めて伸ばした手をテーブルにつくと、上に乗っていた袋が床へと落ちた。
 それを拾う間もなく、目の前が暗くなっていく。
 轟という耳鳴りとともに、紅蓮が視界を染める。
 何もかもが灼熱の炎によって燃え上がる光景が、彼女の周りに広がっていた。
 紅蓮の炎が、この世のすべてを焼き尽くす。
 それは何度も何度も見てきた光景。
 否、見せられてきた光景。

 ――神々の黄昏(ラグナロク)

 シャロルは苦しげな表情で、映像を脳裏から消すように頭を微かに横に振った。
 炎に包まれていた映像が、現実のそれへと戻る。
 虚ろな眼差しで、窓から外を見上げた。
 いつもと変わらずに煌々と輝く太陽が、そこにあった。
 シャロルはテーブルから床に落ちた袋を拾おうと視線を落とした。
 その袋が、通常のルーン占いに使っているものだと気づき、シャロルの動きが止まった。
「――『ウィアド』」
 袋から一つの石が転がり出ていた。
 ルーンが刻まれているはずの石には傷一つない。
 『ウィアド』は、ブランク・ルーンと呼ばれる白紙のルーン。
 人間にはどうすることもできない運命の力を表すルーン。
 純白の髪が窓から吹き込むそよ風に揺れ、再び金色の光を帯びた双眸が哀しみに歪む。
 必ずしも悲劇的なものを暗示するものではない。
 だが、シャロルには、『ウィアド』というブランク・ルーンの暗示こそが、運命神(ノルン)の嘲笑のように思えてならない。
「――光と闇が交錯し、裁きが下される。そして、世界はすべて黄昏へと変わる」
 その呟きを聞いていたのは、淡い光に包まれた窓際の植木鉢の木だけだった。


>> BACK   >> INDEX   >> NEXT