魂を貪るもの
其の十 獄炎の魔王
3.新生の氷


 ランディ・ウェルザーズは、奇襲の一撃で片腕を失っている。
 好機と見た鈴音が駆け、悠樹もその後を追う。
 だが、ランディはうろたえた様子も見せず、『レーヴァテイン』をゆっくりと目前に掲げた。
 高熱が生まれ、ランディと『レーヴァテイン』から熱気が溢れ始める。
 それに気づいた鈴音が悠樹を振り返る。
「悪い、悠樹。ラーンを頼む」
「えっ?」
「デカいのが来るぜ」
 その一言で、悠樹は状況を飲み込み、戦慄した。
 ランディ・ウェルザーズの周囲が陽炎のように揺れている。
 その正体は恐ろしいほどの熱気と魔力。
 "獄炎の魔王"が、噴火直前の火山のように、力を溜めている。
 その力を一気に解放することで、広範囲に被害を及ぼす強大な攻撃を仕掛ける気でいるに違いない。
 悠樹は風を纏って飛翔し、急旋回してラーンへと向かいながら、ちとせと真冬に向かって声を張り上げた。
 ラーンを庇うのが精いっぱいで、ちとせたちを守りに行く余裕はない。
「真冬先生、ちとせ、シルビアを守って!」
 事を察した真冬が頷き、シルビアを抱き抱えているちとせの前に立ち、炎の壁を展開する。
 悠樹は倒れているラーンの前に降りて、風の壁で周囲を覆った。
 鈴音だけが、駆ける。
「鈴音さん、何を!?」
 叫んだのは、悠樹。
 ランディの攻撃を警告してきた鈴音自身が、防御を考えずに突っ込んでいくとは。
「発動前に潰すってことさ。悪いな、悠樹」
 鈴音は振り返りもせずに、先程と同じようでいて、まったく違う意味の「悪いな、悠樹」を口にした。
「ラーンを守りに行ってもらったのは、保険だ。万が一間に合わなかった場合のな」
 ランディが力を溜め切る前に倒すには、鈴音一人で叩くよりも、二人がかりの方が良いに決まっている。
 だが、鈴音はあえて、一人での戦いを選んだ。
 意識を失っているラーンを守りにいける者が悠樹以外にはいなかったし、やはり、自分以外の人間を危険に晒すのもできるだけ避けたかった。
 鈴音が跳んだ。
 長距離を一瞬で詰める神速の跳躍からの一撃。
 奇襲にも等しい強襲にもランディは慌てた様子も見せず、『レーヴァテイン』を水平にして受け止めた。
 重い衝撃に、足下の床が陥没する。
 青白い霊気を立ち昇らせる退魔刀・細雪から放たれた一撃に宿った霊力は、『レーヴァテイン』の魔力に勝るとも劣らない。
 ランディが感嘆しながら右腕に力を込め、魔剣を振り払い、鈴音の身体を弾く。
「危険を承知で飛び込んでくるか、"凍てつく炎"の妹よ」
「大技を発動させる前に潰せば、危険は消えるって寸法さ」
「なるほど、私の片腕を斬り落とした今ならば、それも可能だと思ったか」
 ランディが、『レーヴァテイン』を振って、火炎球を放つ。
 直撃したかに思えたそれは、鈴音の身体を通り抜け、彼女の背後の床を焼き焦がした。
 残像か。
 そうと悟った時には、目の前で、本物の鈴音が袈裟掛けに細雪を振り下ろしていた。
 だが、ランディは冷静に蹴りを放った。
 細雪はランディの足を切り裂いたが、間合いが至近過ぎるために深手には至らない。
 逆に蹴りで鈴音の腹を抉り、吹き飛ばす。
 鈴音は床を滑りながらも片手を付き、独楽のように回転して反動で立ち上がる。
 そこへ躍りかかる。
 『レーヴァテイン』を振り下ろすが、鈴音はなんと刃の側面を手の甲で殴りつけて軌道を反らせた。
 そして、細雪を両手で握り直して、斬り上げた。
 ランディは避け切れずに胸を切り裂かれる。
「これほどか」
 胸の傷に手を当て、ランディが呻く。
 青白い透明な霊気が、魔王に纏わりついている火焔を散らせた。

「これほど、だよ」
 鈴音が唇の端から滴る血を拭い、ランディ・ウェルザーズに応える。
 乱れた前髪が顔に垂れるのも気にせず、細雪を腰溜めに構え直す。
 そして、苦笑した。
 ランディ・ウェルザーズという魔王の力を持った強敵を前にして、自身の中に高揚感が沸き上がってくるのを感じたからだ。
 以前、ジークに対して、自分はもう戦士ではないと言ったのに。
 本能は戦いたがっている。
 それに対して、天武夢幻流の後継者として育てられ、生成されてきた理性は、戦いを否定していた。
 高揚しているといっても、抑えきれないほどではない。
 理性の鞘で、本能の刃を包容は、できる。
 姉を追いかけていた時にはできなかった芸当だ。
 あの頃は、姉の背だけを見て、自分を気づかってくれる周囲へ目を止めることさえできない焦燥の中にいた。
 焦燥ゆえに刃を向け、前に進むために斬ることだけしかできなかった。
 今は、違う。
 精神的に余裕がある。
 最終奥義を手にするために行なった再修練の結果だろうか。
 ちとせたちと出会ったためだろうか。
 それとも、愛するロックと結婚したからだろうか。
 惚気る自分にもう一度苦笑し、表情を引き締める。
 惚気る自分がいることは悪ことではない。
 天武夢幻流の後継者が軟弱でいられる世界は、必死で剣を振るわねばならない世界よりも平和なのは間違いないのだから。
 ランディ・ウェルザーズが作り出そうとしている世界では、自分は延々と剣を振るい続けなければならないだろう。
 自分がいつでも惚気られる世界を作るために、今は戦う。
 そう思えば、戦士の本能も悪くはない。
 どうせならば、高揚しながら戦いたいではないか。
 そして、死線を越えれば、戦士は休息できる。
 怠けようが、惚気ようが、それは自分の勝手だ。
 鈴音の目の色が変わる。
 雑念を振り払う。
 飛び退り、距離を取る。
 霊気を一気に臨界まで高める。
 全身から吹き上がった霊気が、長い髪を舞い踊らせる。
「姉貴、()くぜッ!」
 かつて、「生きなさい」と言った姉に呼びかけるように、鈴音が叫んだ。
 両親と姉の形見たる細雪が震える。
 ランディの発する威圧のせいか、それとも集中力を高めて鋭さを増した鈴音自身の霊気のせいか。
 だが、鈴音には、呼びかけに姉が応えたかのように感じられた。
 それだけで、力が溢れてくる。
 その力を細雪に集中し、床を蹴る。
 天武夢幻流の後継者として鍛えられたバネが疾走の風を生み、長い髪が後ろに流れる。
 駆ける速度を上げる。
 音速から光速へ。
 そして、神速へ。
 一刀だ。
 一刀で、決める。
 『レーヴァテイン』が迎え撃つように鈍く光るのが見えた。
 構わない。
 跳んだ。
 交錯。
 斬!
 手応え、あり。
 着地と同時に息を吐く。
 視界の端に、ランディ・ウェルザーズの千切れんばかりに裂けた上半身が見えた。

「……すばらしい剣の冴え、だな」
 ランディ・ウェルザーズがゆっくりと、振り返った。
 鈴音の斬撃は、ランディの肉体の半ばまでを切り裂きいていた。
 さらには細雪の青白い霊気が傷口を侵食している。
 下級の妖魔はもちろん、高位の魔族であっても、細雪の退魔の力が全身に浸透してしまっては、致命傷を避けられないはずだ。
 しかし、ランディは苦悶の表情を浮かべてはいたが、倒れることはなかった。
「だが、我を構成する核を傷つけるまでには至らなかった」
「……さすがに、魔王か。その状態で動けるとは、な」
「いかにも、我は魔王。すべてを焼き尽くす原初の炎たる魔王スルトだ」
 厳かにランディが言い、その右手に握った『レーヴァテイン』を裂けた自分の肉体へと刺し込んだ。
 『レーヴァテイン』が、肉体の内部へと消える。
 ランディの全身が小刻みに震え出した。
 筋肉が蠕動し、ランディ・ウェルザーズそのものが黒い炎に包まれる。
 漆黒の陽炎が全身を覆い尽くし、収縮し、黒が圧縮される。
 すぐに輪郭が露わになった。
 ランディ・ウェルザーズの肉体は大いに変化していた。
 黒い顔と黒い躯幹には体毛の一本も残っておらず、黒い四肢には炎が絶えず迸っている。
 斬り落とされたはずの左腕は再生されており、裂けていた肉体にも傷一つ残っていない。
 双眸だけが血のように紅く輝いていた。
 ランディ・ウェルザーズは、まさに『黒い者』を意味するスルトの名にふさわしい姿――漆黒の魔人へと変貌を遂げていた。
「"凍てつく炎"の妹よ、我が獄炎に焼かれよ」
 魔王の、"獄炎の魔王"スルトの、低い声が響き渡る。
 その全身を駆ける炎が猛ったように吹き上がる。
 紅蓮が膨張を始め、大気が恐怖したように震えた。
 熱気を伴ったその震動とは正反対の冷たさが、鈴音の背筋を走り抜ける。
 鈴音は知った。
 間に合わなかった。
 予感していた超級の広範囲攻撃が来る。
 その攻撃を、この至近距離で、どうにかして耐えなければならない。
「鈴音さん」
 唐突に横から声をかけられ、鈴音が慌てて振り向いた。
「ちとせ!?」
 シルビアを介抱していたはずのちとせが全身に黄金の光を纏って立っていた。
 鈴音がシルビアの倒れていた場所に視線を向ける。
 昏睡したままらしいシルビアを守るように立った真冬は炎で結界を張るのが精いっぱいのようだ。
 きっと、ちとせを止める暇もなかったのだろう。
 真冬の顔はひっ迫している。
 ちらりと悠樹にも視線を向ける。
 彼は倒れているラーンの前で風の結界を張り続けているが、その目はこちらを見ていた。
 悠樹も真冬と同様に動ける状況にはないが、その顔には、あきれたような、仕方がないというような、複雑な表情が浮かんでいる。
 さらには、それは鈴音を非難するような表情でもあった。
「何で来た!?」
 激しい語調で問うた鈴音に、ちとせは不敵な笑みで答えた。
「至近距離なら、いくら鈴音さんでも強力に結界を張らなきゃ耐えられないかなってね」
「死ぬ気か!?」
「死なないって。ていうか、鈴音さんだって死ぬ気ないでしょ?」
 そう言って、目の前に神扇で、印を切った。
 ちとせと鈴音を守るように、黄金の炎が五芒星を描く。
 いかに太陽の力とはいえ、スルトの獄炎の前では無力だと思い知らされていたが、それでもそれがちとせの最高の力であることは事実だ。
 これからスルトが繰り出す攻撃に、どれだけ耐えることができるかもわからない。
 それは真冬の炎の結界にも言えることではあったが、スルトの至近距離にいるちとせの危険は真冬の比ではない。
 そして、魔王の恐ろしい力はすでに経験しているにもかかわらず、それでも、いつもと同じように「死ねない」ではなく、「死なない」と言い切るちとせに根拠などあろうはずもない。
 鈴音は頬を引き攣らせた。
 そうだ。
 そうだ、そうだ、そうだ。
 ちとせはこういう女だった。
 忘れてたわけじゃないが、油断した。
 自分の迂闊さを呪いながら、鈴音は悠樹の複雑な表情の意味を理解していた。
 悠樹は鈴音が突貫した時点で、ちとせの行動を予測していたのだろう。
 だから、仕方がないというような、そして、ちとせに危険な行動を取らせる原因となった鈴音に「責任を取ってくれ」と言わんばかりの表情をしていたに違いないのだ。
「面白い小娘だ」
 魔王スルトは、ちとせを嘲笑いはしなかった。
 逆に興味深いというように頷いたが、当然のように手加減などする気はないようだ。
「だが、終わりだ。消し炭となれ」
 魔王の宣言とともに、その黒い身体から膨大な紅蓮の光と激しい熱が溢れ出した。
 まるで、炎の津波。
 すべてを焼き尽くすかのような、巨大な炎がスルトを中心として四方へと伸びる。
 激しい炎が、黄金の五芒星を飲み込み、遥か後方の真冬と悠樹の展開する結界にも直撃する。
 悠樹は風の壁で炎を遮断しながら、爆風のような圧力に必死に耐える。
 真冬は炎の壁で炎を受け入れながら分散させるが、それでも尚侵食してくる魔王の火炎に身を焼かれた。
 ちとせと鈴音は、悠樹たちよりも深刻な状況にあった。
 前面に立ったちとせが結界へと全精神力を傾け、その後ろから鈴音が霊気を送り込んで支援している。
「たかまのはらにかむづまりますすめらがむつかむろぎかむろみのみこともちて……」
 ちとせが祝詞を口にしながら、精神を鼓舞し続ける。
 心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、必死に酸素を貪るが眩暈が襲ってきた。
 気を抜けば、そのまま倒れてしまいそうなほどの消耗。
「やおよろずのかみたちをかみつどひにつどひたまひかむはかりにはかりたまひて……」
 極度の疲労の中で、必死に結界を維持する。
 だが、魔王の火炎は、至近距離で防げるほど生易しいものではなかった。
 黄金の五芒星に亀裂が入る。
 そして、まるで硝子が砕けるように、ちとせが展開していた結界障壁が崩壊した。
「ちとせ!」
 細雪を構えた鈴音がちとせを庇うべく前に出ようとした。
 迫る火炎を細雪で斬り払えば、威力をいくらかは軽減できる。
 だが、間に合わない。
 紅蓮は鈴音の目前で、ちとせを飲み込んでいた。
 次いで、鈴音の視界も紅蓮に染まった。
 信じられぬほどの熱量が周囲に満ち、爆裂音が響き渡る。
 壁や硝子が焼け、砕け、溶け、散った。

 濛々と立ち込めていた煙が晴れていく。
 魔王の火炎によって、『ナグルファル』は半壊していた。
 総帥室から上層は砕け落ち、失われた天井の代わりに暗雲に包まれた空が広がり、下層もいつ崩れてもおかしくない状態になってしまっている。
 火傷しそうなほどの熱気と、焼け焦げた匂いが周囲に充満していた。
 火の粉の赤と煤の黒が、雷雨の中を舞い落ちてくる。
 まさに、スルトの放った攻撃は、すべてを焼き尽くす地獄の業火の威力。
 直撃した者は、炭も残らないだろう。
「!」
 スルトは紅蓮の両眼を見開いた。
「これは……」
 ――冷気。
 灼熱で彩られた周囲と相反する霊気が、足下に漂ってきている。
 スルトの視界に人影が写り込んだ。
 驚いたような顔をした鈴音を庇うように、ちとせが立っている。
 黄金と白銀。
 その吸い込まれるような大きな瞳に、左右で異なる光の色を宿している。
 その髪の毛も黄金と白銀が混じった不可思議でありながら神威を感じさせる色へと変わっている。
 ちとせの後ろに巨大なシルエットが浮かび上がるのを見て、ランディ・ウェルザーズは唸った。
 見覚えのある巨大な狼。
 ちとせが今、その身に降ろしているのは、太陽神の巫女神たる芸能の女神ではなく、神を喰らう北欧神話最強の魔獣。
 かつて、ちとせを喰らおうとしていた黄金の髪の女降魔師が宿していた巨大過ぎるチカラ。
「"氷の魔狼"フェンリル!」
 ちとせの背後に浮かび上がった半実体の魔狼が咆哮する。
 それだけで、周囲に満ちていた魔王が放った獄炎の灼熱の残滓が、凍りつくように冷めていく。
 氷風の衝撃が魔王の頬を打った。
「そうか、牙を剥くか、シギュン・グラム。あやつの心を動かすか、小娘」
 スルトは素直に感嘆した。
 "氷の魔狼"を自分の陣営に引き入れることはできても、忠誠を得ることはできなかった。
 だが、目の前の小娘は、どのような手を使ったかは知らないが、シギュン・グラムの奈落の底よりも冷たい氷をわずかであっても溶かしたのだろう。
「よかろう。我が炎を凍らせてみせよ」
 ――やはり、愉快だ。
 魔王は唇の端を吊り上げて笑みを刻んだ。

 ちとせは自分の右腕を信じられないという面持ちで見つめた。
 死の間際の"氷の魔狼"によって二の腕に刻まれた爪痕は、治癒術によってうっすらと白い線にまで薄まっている。
 このまま放っておけば消えてしまう程度の裂傷。
 それが脈打つように疼いた。
 結界が破られ、鈴音を庇おうと必死に前に出た時、脳裏に刻まれた酷薄な笑みを浮かべる唇が、耳元で何かを囁いたような気がした。
 内容は分からないが、そこには嘲りの響きがあった。
 そして、同時に聞こえた狼の咆哮とともにチカラが弾けたのだ。
 すべてを凍らせる絶対零度のチカラが。
「シギュン・グラム」
 宿敵だった女性の名を呟く。
 自決にも似た最期を迎えた彼女の命を救うことはできなかった。
 そのことに対して後悔はないが、無視することのできない虚無感を感じていたのは事実だった。
 だが、"氷の魔狼"との戦いは無駄ではなかった。
 無駄ではなかったのだ。
 冷気の溢れる右手を握り締める。
 "氷の魔狼"のチカラが身を駆け巡る。
 それは、ちとせが全霊を傾けて契約した女神のチカラとは違う、無契約のチカラ。
 だが、命懸けの戦いを経たチカラ。
 恐ろしくも頼もしい、"彼女"のチカラ。
 これならば。
 百人力、いや、千人力。
 ちとせは(かぶり)を振った。
 万人力以上だ。
 金銀の妖眼となった大きな瞳に、いつも以上の眼力(めぢから)が宿る。
 かつて、何も映さなかった双眸に力強い色を得た"氷の魔狼"が、再び咆哮を上げる。
「いくわよ、"獄炎の魔王"スルト!」
 宿敵のチカラを身に宿し、黄金と白銀に染まった少女が、漆黒の魔王へと挑む。


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