魂を貪るもの
其の十 獄炎の魔王
2.原初の炎


 ランディ・ウェルザーズが、首を締め上げていたラーン・エギルセルを放り投げた。
 シルビア・スカジィルの目の前に落下した青い髪をした軍服姿の女性は咳き込みながら、ちとせに気づいて顔を上げた。
「げほっ、げほっ……、神代ちとせ……」
「ちとせくん……」
 ランディに腹を踏み潰されている真冬も、ちとせの存在に気づき、苦痛によるものとは別の呻きを漏らした。
 彼女の目に映るちとせが満身創痍だったからだ。
 猫ヶ崎高校指定のブレザーはボロボロの上に血で汚れ、傷と痣に彩られた肌が覗いている。
「降魔師の小娘か」
 ランディ・ウェルザーズもまた、ちとせへと視線を向け、意外そうな表情を浮かべた。
 真冬の腹から黒い革靴を引き抜く。
 鮮血の混じった咳を吐き出しながら、真冬が床を転がってランディから離れる。
 それを追撃せずに、ランディ・ウェルザーズは、ちとせの顔、否、力強い意志を宿す猫目を凝視し続けていた。
「……ここまで辿り着いたということは、シギュン・グラムを倒したということか」
 その言葉に、シルビアもラーンも、そして、真冬も、身体を蝕む痛苦を忘れ、ギョッとしたように眼を大きく見開く。
 ちとせがこの場にいるということは、確かに彼女が、ミリア・レインバックの用意した『相応の相手』を倒してきたということなのだ。
「神代ちとせ、オマエ、"氷の魔狼"を倒したのか」
 確認するように問うてきたシルビアに、ちとせは強張った笑みで応えた。
「自分でも信じられないけどね」
 たった一人でシギュン・グラムを退けられたことを一番信じられないと思っているのは、他ならぬちとせ自身だった。
 神扇を握る右腕に残る微かな裂傷を左手で(さす)る。
 『ナグルファル』の屋上から落ちゆく"氷の魔狼"の義手の鉄爪を掴み、しかし、氷爪で刻まれた腕の傷は未だに冷気を残しているように感じられた。
「神代ちとせ」
 ラーンが、シルビアと挟むように、ちとせの左側に立った。
 彼女の軍服も血と煤で汚れてしまっているが、青い髪は水のような透明さを保持していた。
 ラーンはちとせへ、カフスの破れた袖から伸びる白い手を差し出した。
「私の持っている治癒の勾玉を使ってください」
 その手のひらには、葵に治癒術が込められた勾玉が乗っていた。
「ラーン、これはあなたの……」
 ちとせは勾玉をすぐに受け取ろうとはしなかった。
 彼女が重傷を負っているとはいえ、ラーンもシルビアも真冬もダメージが蓄積しているのは明らかなのだ。
 唯一とも思える回復手段を簡単には受け取れない。
 ちとせは、そういう性格だ。
「シギュンさまを倒したのは称賛に値しますが、今のままのあなたでは戦力に換算できません」
 静かな湖面を思わせる表情で淡々と言うラーンは、ちとせが勾玉を受け取るまで手を引っ込める気はないようだ。
「早く治癒しろ。別にソレが最後の一個ってワケじゃない。まだアタシもシンマラも持ってる」
 シルビアがイライラした表情で、促すように付け加える。
 こだわっていても仕方がない。
 ちとせは、力強く微笑んだ。
「ありがと。んじゃ、さっそく」
 ちとせは左手を伸ばし、ラーンの手を握った。
 温かな治癒術の力が、ちとせを包み込み、全身の傷や痣が治っていく。
 その間に、真冬は立ち上がり、両拳に炎を宿した。
 ランディは気配でそれを察したが、振り返りもしない。
「無駄だ。シンマラよ。私には、炎は通じん」
「確かにな。今まで、私の炎は、おまえを傷つけることはできていない」
 真冬は頷いたが、その目に諦めの色は浮かんでいない。
 赤い炎が、青白く変わり、純白の揺らめきへと昇華されていく。
 ファーブニルを打ち破った、精神を集中して生み出す、白き焔。
 シルビアやラーンと違い非戦闘幹部だった真冬の持てる最大の武力。
 だが、ランディは意に介した様子もなかった。
 真冬は熱気に長い黒髪をなびかせ、臨界に達した白き焔を解き放った。
 ランディは動かない。
 避ける気など、はじめからなかったのだろう。
 ――直撃。
「なっ……?」
 驚愕の声を上げたのは、真冬だった。
 白き火焔に包まれながらも、ランディ・ウェルザーズは平然としていた。
 その身体には火傷一つ負っていない。
「シンマラよ、通じぬと言ったはずだぞ。いかに威力を上げようとも、な」
 ランディがゆっくりと、真冬へと向き直った。
 真冬は目を見開いたまま、動くことができない。
 この場にいる誰よりも自分が弱いことは、認識している。
 しかし、自分の最高の威力を持った攻撃が、まるで通じないというのは想定外だった。
 動けずにいる真冬の前で空気が奇妙な音を立てた。
 何かが、破裂するような音。
 ランディの重厚な肉体が繰り出した左拳が、真冬の腹に突き刺さっていた。
「かはっ……!」
 ボディブロウがストレッチワイシャツの中央に深々と埋まり、真冬の唇を割って血の欠片が混じった空気が吐き出される。
 内臓を潰される激痛に身体を痙攣させ、唇から血の筋を垂らした白皙の美貌がガクリと項垂れる。
 倒れる肢体を腹に埋まった拳で支えられているかのように、真冬の全身が脱力するが、そのまま気を失うことは許されなかった。
 ランディが左拳を鳩尾に埋めたまま、腕一本で真冬の身体を持ち上げる。
 己の体重で鳩尾へとランディの拳がミシリと沈み込み、真冬の体内を破壊していく。
「ああああああッ……!」
 苦悶に顔を歪める真冬を、ランディは無造作に投げ捨てた。
 吐血の糸を引きながらも気力を振り絞り、真冬が反撃に転じるべく宙で身を捻るが、体勢を整う前に、ランディが『レーヴァテイン』を振り翳していた。
 轟という音を立てて、巨大な火炎が生み出される。
「!」
 火炎で火炎を受け止めるしかない。
 焦燥に駆られながらも、そう判断した真冬が両手に炎を生み出すそうと意識を集中させる。
 だが、間に合わない。
 真冬の両手に炎が宿るより早く、ランディの放った地獄の炎が真冬を包み込んでいた。
「……水の盾をシンマラの前に展開したか」
 ランディが静かにラーンを睨みつける。
 彼女の周りを大量の水が旋回し、瀑布のような水蒸気が部屋に満ち溢れている。
 どさりっと音を立てて、真冬の肢体が床へと落ちた。
 真冬は痛む腹に手を当てながら、愛弟子を見上げた。
「すまない、ラーン」
「いいえ」
 ラーンが両手で握ったランスを頭上に掲げ、旋回させ始める。
 周囲を取り巻いていた水と水蒸気が、吸い込まれるようにランスへと収束していく。
「水こそがもっとも有効な打撃を与えられるはずなのに、私が不甲斐ないから師に無理をさせてしまいましたから、このくらいのフォローは……」
「ラーン。一人で背負おうとするなよッ!」
 ラーンの発言を咎めたのは師である真冬ではなく、シルビアだった。
 雷光の如き、爛々とした視線を、ラーンに向けている。
「アタシたちは一心同体だ。それに、ランディさまに手も足も出ないのは、ラーン一人じゃないんだ。もちろん、このままでは終わらないッ!」
「ごめんなさい、お嬢。思いつめてしまうのは、私の悪い癖ね」
「ラーンは素直だからな。バカ師の悪いところまで影響を受けているのさ。気にするな」
「バカ師とは言ってくれるものだな。確かに、ラーンは素直で良い娘だが、シルビア、キミはひねくれすぎだ」
 真冬がシルビアの口の悪さにため息を吐きながら立ち上がり、炎で先端がやや縮れてしまった黒髪を手櫛でかきあげる。
 ラーンの理性とシルビアの情熱、そして、真冬の包容力。
 それらが混ざり合うと、ちょうど良い空気が生まれるようだった。
 ちとせが、真冬の正体を知った時からは、考えられない光景だった。
 あの時点では、真冬は疲弊し、シルビアは憎悪に身を焦がし、ラーンは虚ろで冷たい女性に思えた。
 和解した後の彼女たちは、まるで違う。
 これが本来の師弟の姿なのだろう。
「問題なさそうね」
 ちとせが、呟く。
 真冬たち三人がかりでも、今のところランディにはたいして通用していない。
 だが、軽口を利けるだけの余裕はまだある。
 まだ十分いける。
 必ず勝てる。
 ちとせにとっては、『軽口』だけは何があってもなくすわけにはいかない勝利の指標(バロメータ)なのだ。

 一方、ランディ・ウェルザーズは、冷厳な面持ちを崩さない。
「さすがに、しぶといな」
 魔剣『レーヴァテイン』を片手に、ゆっくりと近づいてくる。
 ラーンが水でコーティングしたランスを肩に背負うようにして構える。
 炎と正反対の属性である水で守られたランスならば、北欧神話における炎の巨人族の王スルトの化身たるランディ・ウェルザーズへも有効な武器となるはずだ。
 それを一縷の望みとして、ランディの左胸を標準にしてランスの切っ先を向け、床を蹴る。
 超重量の武器を突き出して全力で駆ける単純な突進。
 だが、それゆえに、止めることが困難な威力を生み出す。
「るああぁぁッ!」
 裂ぱくの雄叫びとともに、ランスを突き伸ばす。
 加速の十分に乗った一撃は、ランディの分厚い胸板をも簡単に貫くかに思えた。
 だが、ラーンの顔が驚愕の表情に染まる。
「なっ……!」
 水でコーティングされたランスの切っ先は、ランディのスーツの上からでもわかる厚い胸板に突き刺さる直前で溶解していた。
 ラーンの力でランディへ押し込まれていくに従って、水蒸気と煙を上げながらランスがドロドロに溶けていく。
「ラーンよ、何を驚く?」
 ランディは左手のひらに紅蓮に輝く塊を生み出した。
「おまえは先程、我が炎から水でシンマラを救った。私はその逆を行なったに過ぎんぞ」
 ラーンは水の盾で炎による攻撃を防ぎ、真冬を救った。
 ランディはその逆、ラーンの必殺の一撃を防ぐために炎の熱を利用した。
 対極の力ゆえに互いに相殺する。
 ただそれだけだと、ランディは言ったが、炎は水で直接に冷却すればすぐに消える。
 しかし、炎で鋼鉄のランスを、しかも水でコーティングされていたはずのそれを溶かすのは容易ではない。
 柄の部分以外が溶解したランスを突き出したままで自失しているラーンの青い髪が、ランディの振り上げられた左手に宿った火炎球に照らされ、シルビアの髪のように紅く染まる。
「しまっ……」
 ラーンが我に返った時には、紅蓮の塊が振り下ろされていた。
 熱気の混じった風が肌を焼く。
 至近距離。
 避けられない。
 着弾したと思った瞬間、火炎球が中央部から、二つに裂ける。
 左右の床に炸裂した火炎球の爆風で、ラーンの髪が舞い上がる。
「お嬢!」
「ラーン、一撃防がれて自失するとこまでバカ師を見習ってる場合じゃないぜ」
 ランディの火炎球を切り裂き、ラーンを救ったのはシルビアだった。
 シルビアが電撃を纏った愛剣フランベルジュを振り上げた姿勢で、ラーンの頭上前方に跳び上がっている。
「シルビア」
「覚悟しな、ランディ・ウェルザーズッ!」
 急降下しながら、シルビアがフランベルジュを振り下ろす。
 金属音が鳴り響く。
 魔剣『レーヴァテイン』がシルビアの剣を受け止めていた。
「速いが軽い。体重が足りんな、シルビア」
「アタシも一応女だからな。体重が軽いって言われて悪い気はしないぜ」
 シルビアが空中から全体重を乗せて放った剣を軽々と受け止めたランディに向って、凶悪な笑みを浮かべる。
「戦闘には不利だ。もっともそんなことはおまえ自身が百も承知だろうが」
 ランディが『レーヴァテイン』へと下からすくい上げるように力を込める。
 そのまま腕を振り上げ、シルビアを空中へと押し上げる。
 だが、力の作用に逆らうことなく、シルビアは弾き飛ばされたが、焦燥した様子はない。
 空中で短身痩躯をきりもみ回転させながら、尚もその唇は吊り上がっていた。
「あったりまえだ。それから、残念なことに本命はアタシじゃないんだよ」
 ふいにランディの視界の端で、陽光が輝いた。
 魔剣『レーヴァテイン』を振り上げた状態の無防備なランディの懐で、黄金色に染まったポニーテールが舞い上がる。
 ちとせが割って入っていた。
 凛とした強い光を放つ大きな瞳が、ランディを睨みつける。
 すでにブレザーから巫女装束へと変わっている姿を陽光で包んでいた。

「黄金の炎」
 ランディ・ウェルザーズは、懐に入り込んだちとせにではなく、ちとせの発している力に驚いたようだった。
 しかし、それは決定的な驚愕ではない。
「太陽神の力か」
 呟くように言ったランディが振り上げていた『レーヴァテイン』を振り下ろすよりも早く、ちとせが黄金の力を神扇に収束する。
「はあああああぁぁっ!」
 気合いの声を張り上げ、ランディの胸板に黄金の炎の塊を叩きつける。
 煌々とした輝きとともに、ランディの全身を黄金の光が迸った。
 爆発。
 そして、眩い閃光が収まった時、ちとせは戦慄せざるを得なかった。
「そ、そんな……」
 ランディ・ウェルザーズが平然と立っている。
 無傷だ。
 そのダークスーツにさえ、焦げ目の一つもない。
「その力は私には通用せん。我が力は原初の炎。光の炎であろうと、闇の炎であろうと、炎で我を傷つけることはできんのだ」
 真冬の白き焔が通用しなかったのと、まるで同じ結果。
 炎の巨人族の王たるスルトを、炎で傷つけることはできない。
 女神の力の本領たる黄金の霊気は、太陽の恩恵のようにちとせの身体能力を活性化させ、陽光のように闇を砕く力を授けている。
 それが、攻撃力に変換されたものが、黄金の炎なのだ。
 陽光を炎に変換せずとも扱えるが、それでは攻撃力としては劣ってしまう。
 黄金の炎の力があればこそ、次元の違う強大さを備えた"氷の魔狼"シギュン・グラムとどうにか拮抗できたというのに、"獄炎の魔王"には、その太陽の炎が通じない。
 その恐るべき事実が、無情にも突きつけられた形だった。
「そして、炎に達せぬ程度の陽光など、多少眩いだけに過ぎぬわ」
 掲げた魔剣『レーヴァテイン』の刃が、溢れ出る莫大な魔力とは別種の鈍い光を放つ。
 その振り下ろされる刃に自分の顔が映っているのを、ちとせは見た。
 避けるのも、防ぐのも間に合わない。 
「させない!」
 その叫び声とともに、『レーヴァテイン』が受け止められる。
 受け止めたのは、ラーンだ。
 右手には水で形成した疑似ランスが握られ、振り下ろされた『レーヴァテイン』を防いでいた。
「失礼しますよ、神代ちとせ」
 そう言って、ラーンが左手でちとせの後ろの襟首を掴んだ。
「ひょえっ!?」
 急に後ろから引っ張られて奇妙な声を上げるちとせを、ラーンは容赦なく投げ捨てた。
 ちとせが床に倒れるのと、『レーヴァテイン』の圧力で水のランスが破壊されるのは同時だった。
 ラーン自らは振り下ろされた『レーヴァテイン』を避け切れず、肩から切り裂かれ真紅の血飛沫が上がる。
「くぁっ……!」
 肩から腹部にかけて走る熱い激痛に、ラーンは呻き声を上げたが、後退しなかった。
 退かぬ意志の宿った両眼でランディを睨みつけ、その両手に水を再び収束させる。
 だが、棒立ちに近い彼女は恰好の標的でしかなかった。
「邪魔だ」
 ランディが『レーヴァテイン』を再び、振り上げる。
 魔剣が、ズブリッと肉に突き刺さる。
「あぐ……かっ……はぁ……ッ!」
 身体を貫かれ、呻き声を上げたのは、ラーンではなかった。
 ランディが炎を纏った魔剣を突き入れられたのは、正面ではなく、背後。
 ラーンではなく、後ろから斬りかかろうとしていたシルビアだった。
 フランベルジュを振り上げた体勢のシルビアの脇腹に、『レーヴァテイン』が突き刺さっている。
「シルビアよ。なかなか良いタイミングではあったがな。ラーンとおまえは一心同体。それが私におまえの奇襲を予期させた」
「ごぼっ……!」
 吐血が毒々しいゴシックロリータのドレスの胸元を紅に染め、許容外の激痛がシルビアの全身に痙攣をもたらす。
 乾いた金属音を立てて、フランベルジュが床に転がる。
「お、お嬢ッ!」
 相棒の無残な姿に悲痛な声を上げるラーンの目の前が真っ赤に染まった。
 ランディ・ウェルザーズが火炎球を生み出したのだ。
 すでにラーンも水は収束させているが、それでのガードは考えない。
 ――お嬢を助けなければ!
 それだけが今、ラーンの頭に残っている理性だった。
 火炎球を回り込むようにして、水流をランディへと打ち込んだ瞬間、紅蓮に網膜が焼かれ、吹き飛ばされる。
「うっ、あああぁっ……!」
 起き上がろうとするところへ、もう一撃火炎球が飛来し、それをまともに食らったラーンが爆圧で後方へと転がされた。
 全身から煙を立ち昇らせながら、ラーンは崩れ落ちた。
 ランディはラーンが床に倒れると、『レーヴァテイン』を脇腹に突き刺されているシルビアへと向き直った。
 ラーンが吹き飛ばされる前に放った水撃が胸板を直撃したはずだが、ランディにはたいして効いていないようだ。
 世界を焼き尽くす炎の巨人族の王スルトの化身たる男とはいえ、これほどまでに彼我(ひが)の強さの差があるとは。
 突き刺さった剣に脇腹を抉られる激痛以上に、ランディとの圧倒的な実力の差にシルビアは呻いた。
 だからといって、潔く退き下がれるほど、自分は従順ではない。
「うぐぅっ……」
 苦痛に搾り出された汗を尖った顎先から垂らしながらも、シルビアの双眸が放つ稲妻の光は弱まる気配はない。
 シルビアは、『レーヴァテイン』を握るランディの腕を両手で掴んだ。
 そして、力を振り絞って自分へと引き寄せる。
「なに?」
 『レーヴァテイン』を腹から引き抜こうとするのではなく、逆に自ら身体に深く沈み込ませ始めたシルビアの行動に、さすがのランディも驚きの声を上げる。
 ついに『レーヴァテイン』の刀身が、シルビアの身体を貫通し、背中から突き出る。
 血を吐き、咳き込みながら、シルビアは凄絶な笑みを浮かべていた。
「ランディさま、『レーヴァテイン』を破壊させてもらうぜ」
「シルビアよ、自らの身体を使ってまで『レーヴァテイン』を破壊しようとする執念は、見上げたものだが……」
 ランディが右足で床に転がる鈍く光るものを蹴り上げた。
 その正体は、シルビアが床に落とした愛剣フランベルジュ。
 ギザギザの凶悪な刃を持つ剣の柄がランディの左手へと納まると同時に、『レーヴァテイン』を引き寄せるために自らの腹を魔剣で貫き通したシルビアの顔に戦慄が走る。
「まだまだ甘い」
 ズブリ……。
 腹を『レーヴァテイン』が貫通した状態で、必死に上半身を捻ったシルビアの胸を、ランディの握ったフランベルジュが根元まで刺し貫いた。
「ゴボォッ……!」
 二本の剣によって腹と胸を貫かれ、シルビアのワナワナと震える唇を割って、新たな鮮血が溢れ出た。
「ううぅ……ぐうぅぅっ……ふぐぅっ……!」
 大事な内臓の致命的な損傷だけは避けているが、激痛と失血が意識を奪おうと誘惑してくる。
 目の焦点が揺らぎ、吐血と咳とが繰り返される。
 毒々しい黒のゴシックロリータのドレスの胸部と腹部は真っ赤に染まり、血と死の香りがシルビアに背徳的な美しさを与えていた。
 ――クソッ、意識が掠れてきやがった。
 激痛に苛まれ、呼吸さえも困難な中で、シルビアは己の腹を貫く魔剣に意識を集中させる。
 ――気を失う前に。
 両腕にバチバチと電撃が収束し始めるが、視界は急激に暗くなっていく。
 ――特大の電撃を『レーヴァテイン』に打ち込んで……。
「急所を避けたとはいえ、ショック死しておかしくない激痛の中で、よく意識を保てるものだな」
 シルビアの決意を読み取ったランディが嘆息する。
「己自身さえ巻き込む大放電を行なうつもりなのだろうが、その時間は与えん」
 ランディが『レーヴァテイン』の柄を握る右手に力を込めると、魔剣の刀身が紅蓮を纏った。
 貫かれた腹から地獄の業火と莫大な魔力を注入され、シルビアの身体が大きく痙攣した。
 両手に収束していた電撃が散ってしまうが、すでにシルビアの意識は激痛に飲み込まれていた。
「うぐあああああああああぁぁッ!」
 フランベルジュの生えた胸を仰け反らせ、シルビアが血を吐きながら絶叫を上げる。
 滑らかな肌に亀裂が入り、両肩が爆ぜ、全身を炎に隈なく焼かれていく。
「シルビア!」
 悲痛な声を上げたのは、真冬。
 火炎が最大の武器である真冬は、ランディ・ウェルザーズの前では無力。
 それを百も承知で、愛弟子の窮地を救うために駆ける。
 真冬に気づいたランディが、すでに悲鳴さえ弱弱しくなったシルビアの腹から『レーヴァテイン』を引き抜く。
 穴の開いた腹から止め処なく血が溢れ出し、地獄の業火の残り火が燻り、もう一本の剣に胸を貫かれたままのシルビアの身体がぐらりと揺れる。
 そのまま、膝から崩れた。
 ランディも、シルビアたちが治癒術の込められた勾玉を持っていることは、ちとせが回復に使ったところを見ていたので承知している。
 だが、シルビアの肉体は、たとえ治癒術を施したとしても、すぐに行動できるような状態には回復できるものではない。
 それゆえ、ランディは、跪いて吐血を繰り返しているシルビアは捨て置き、駆けてくる真冬に向き直った。
 真冬の蹴りが、ランディの右手首を打つ。
 ランディの肉体にダメージを与えられないことは理解しているから、『レーヴァテイン』を蹴り落とすつもりだったのだろう。
 しかし、真冬の動きは、敏捷さではシルビアには及ばず、力強さにおいてもラーンに届いていない。
 研究員としては優秀な身体能力ではあっても、戦闘幹部に比べれば中途半端な動きに過ぎない。
 今の蹴りも一般人ならばひとたまりもないだろうが、ランディ・ウェルザーズは魔性の王なのだ。
「シンマラよ、おまえの攻撃が一番ぬるい」
 ランディの左腕が唸りを上げ、真冬へと振り下ろす。
 だが、――空振り。
 真冬は蹴りの反動を利用して、ランディから離れていた。
「私の力はこの場の誰にも及ばないだろう。だが、弾よけになる覚悟はできている」
 真冬はそう言って、懐に手をズボンのポケットに忍ばせた。
 彼女の狙いは、ランディでも、『レーヴァテイン』でもなかった。
「ちとせくん!」
 真冬がポケットから取り出したものを抜いた手を居合のように振って投げる。
 その先には、ランディが真冬の一撃を受けている間に、跪いているシルビアのところまで床を滑り込んだちとせがいた。
 ちとせは真冬の投げた勾玉を受け取り、シルビアを抱き抱えた。
 真冬の頭には、初めからシルビアを救うことしかなかった。
「そういえば、ミリアが言っておったな。『シンマラはクールに見えるが、その実はロマンチストだ。理性ではなく、感情で動く』と」
 ランディの言葉に真冬は応える気もないようで、シルビアとちとせを庇う意志を示すようにランディへと駆けた。
 良く言ったところで盾、悪く言えば弾よけ。
 それが、真冬にとっては自分の戦力を冷静に思考した結果の最良の選択であった。
 シルビアは重傷、ラーンも床に転がったままで意識は戻っていないようだ。
 神代ちとせは先程の奇襲と今の動きから判断して、万全とは言えないまでも動きに支障がない程度には回復しているようだ。
 真冬の実力では言葉通り弾よけになるくらいが精いっぱいだろう。
 ランディ・ウェルザーズは悠然とした態度を崩さない。
 魔王の圧倒的な有利は揺らいでいないからだ。
 『レーヴァテイン』を振って、刃を濡らしているシルビアの血を払う。
 ちとせがシルビアの胸を貫いているフランベルジュを引き抜いているのが見えた。
 シルビアの溢れる出血に両手を染めたちとせが、真冬から受け取った勾玉の治癒の力を解放する。
 淡い光がシルビアを包み込む。
 温かな治癒術の輝きが満ちていく。
 その光を魔王の視線から遮るように、真冬が立ちはだかっている。
 真冬はダメージが積み重なっている上に、炎による攻撃はランディの前では無力に等しい。
「愛弟子たちが回復するまで、私を凌げるかな?」
「……圧倒的な力の差があろうと、あきらめるわけにはいかないのだ」
 真冬が両手に紅蓮の焔を宿した。
 ランディが、魔剣『レーヴァテイン』を構え直し、その刀身に真冬のものよりも巨大な炎を灯した。
「シンマラよ、炎は通じぬぞ」
「それは理解しているつもりだ」
 真冬の言葉に虚勢はなかった。
 彼女は己の貧弱さを知りながら、未来を手に入れるために、魔王へと挑もうとしている。
 ランディは唇の端を斜めに吊り上げた。
 それは愚弄の笑みではなかった。
「ならば、好きなだけ足掻くが良い」
 足掻くのは、自由だ。
 懸命に足掻いてこそ、運命を捩じ伏せることができる。
 ――愉快だ。
 ランディはそう思った。
 そして、真冬の持つような強靭な意志さえも打ち砕くことで、ランディ・ウェルザーズもまた何者の呪縛を寄せ付けぬ高みへと登ることができる。

「ちょっと待ちな」
 砕けた壁の向こうの廊下から新たな声が飛んできた。
 同時に青白い閃光が迸った。
 青白い閃光は霊気が刃状に収束したもののようだった。
「!」
 ランディが、その場を飛び退く。
 だが、遅かった。
 閃光刃を避け切れず、左腕を切り飛ばされた。
 霊気の刃を打ち込んできた者は、魔王にさえも傷を負わせることができるほどの強力な霊気の持ち主ということだ。
 腕を切断された傷の痛みよりも、その認識が、隻腕となったランディを唸らせた。
「ジタバタするのは、あたしも大好きなんでね。是非とも仲間に入れてくれ」
 二つの影が立っている。
 一人はチャイナドレス姿で青白い霊気が立ち昇る日本刀を手に持った女性、もう一人はボロボロのワイシャツを着た少年。
 鈴音と悠樹だった。
「鈴音さん!」
「悠樹!」
 これ以上ない頼もしい援軍の到着に、真冬とちとせが歓喜の声を上げた。


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