魂を貪るもの
其の十 獄炎の魔王
1.手段


 ――雨が降り始めた。
 白衣に緋袴という見慣れた巫女装束を身に纏い、葵が一心不乱に祝詞を捧げ続けている。
 ロック・コロネオーレは、彼女の清らかで美しく、一種の神々しささえ感じさせる姿をサングラス越しに凝視していたが、ふと近づいてくる人間の気配に気づき、雨に濡れるのも構わずに鳥居のところまで歩を進めた。
 石段をゆっくりと登ってきたのは、背の高い青年だった。
 重厚な肉体を窮屈そうに包んだ猫ヶ崎高校の制服が、雨に打たれている。
 ロックも見覚えのある青年だ。
「キミか」
「おう」
 青年は、神社に張られている結界を見回し、彼の友人たちの霊気がこの場に感じられないことに気づいたようで、ロックへと疑問を投げかけてきた。
「ちとせたちは?」
「『ヴィーグリーズ』の拠点である『ナグルファル』へ、この異変の元凶を断ちに行っている」
「……そうか。今回もまた、『ヴィーグリーズ』の仕業か」
 ロックの答えに、青年は唸るように頷いた。
 以前にも、『ヴィーグリーズ』の手によって成長した世界樹(ユグドラシル)の力により猫ヶ崎市は外界から隔離され、混乱に陥った。
「街の様子は?」
「猫ヶ崎の根本を支える『吾妻コンツェルン』が自警団も出して頑張っているからな。辛うじてだが、街の機能は保たれてる。ただ、濃くなってきている瘴気から悪魔が多数生まれ出したりすれば、手に負えんかもしれん」
「ちとせサンたちを信じるしかないようですね」
「……ああ」
 青年が深くため息を吐く。
「置いていかれたのが、不満ですか?」
「まあな。おれはいつも留守番だ」
「葵サンも、いつも留守番ですよ。誰かが留守を守らなければいけない。だが、それは誰でもイイというわけでもない」
 ロックが境内の方を振り返って言う。
 葵は常に留守番を任されている。
 世界樹との戦いの時も、運命神(ノルン)との戦いの時も、そして、今回も。
「そうだな」
 青年は頷いた。
 戦場に赴いていないからといって、それは戦っていないということではない。
 ちとせたちが安心して行動できるように、彼女たちの背後を守っている。
 それは後方を任せられるという信頼がなければ成り立たない。
 青年もそれは理解している。
 だが、ちとせたちを最前線の危険に晒しながら、自分は彼女たちと肩を並べて戦えないことが残念だというのも本心だった。
 それは、ロック・コロネオーレも同じだろう。
 そして、ちとせの姉である葵も。
 青年はもう一度ため息を吐き、ロックの顔を真正面から見た。
「一つだけ確認させてくれないか?」
「何です?」
「豊玉真冬という女性を知ってるか? 猫ヶ崎高校の教師でな。高校の敷地内で、膨大な水で作られた『龍』が暴れていた時に、ちとせと一緒にいたのを見たって話があるんだが……」
「真冬サンですね。彼女は今も、ちとせサンたちと一緒にいます」
「……もしかして、豊玉先生は『ヴィーグリーズ』と何か関係があるのか?」
「彼女は、元『ヴィーグリーズ』の研究者だそうです」
「元、か」
「ただ、この異変の元凶には関係があります。だとしたら、許せませんか?」
「そうじゃないさ。おれだって、裏社会に属していたことはあるし、人の過去をとやかくは言う気は毛頭ないぜ」
 青年は、元マフィアだったロック・コロネオーレに、苦笑を浮かべながら答えた。
 もちろん、ロックも青年が真冬に対して、「許せない」と思っているとは、本気では考えてはいない。
 青年もまた、それをわかっていて、あえて応えたに過ぎなかった。
「先生の安否が知れないってんで、心配してる生徒がいっぱいいるんでな。行方が知りたかっただけさ」
 青年は激しくなってきた雨の中、ロックに背を向けた。
「行くのかい?」
「ああ、ちとせたちが快適に帰って来れるように、街の留守番にな」
「キミには、街の守る力がある。うらやましいことだ」
 ロックの言葉が思いがけぬことだったのだろう。
 青年が振り返る。
 ロック・コロネオーレは拳銃の腕前こそ一流だが、霊気を扱うことができない。
 ダークスーツの懐に隠し持ったリボルバーは、人にあらざる存在には限定的にしか通用しない。
 力持たぬ者。
 ゆえに、魔物たちが跳梁跋扈し始めれば、街を襲う大異変に対する術は限られてしまう。
 だが、青年には、街を守るために使うことができる強大な霊気がある。
「ロック。姉貴さんを頼むぜ。それは、おれじゃなくて、おまえが頼まれたことだ」
 力持つものである青年はロックの顔を正面から見つめ、にやりと笑った。
「それこそ、うらやましいこった」
 青年の言葉を受けて、ロックは彼の妻の癖のように雨で濡れた前髪をかきあげた。
 そして、サングラスのブリッジを指で押し上げる。
「変なことを言って悪かったね」
「いや、良いさ。おかげで、おれも気合いが入ったからな」
 青年はそう言うと、街を守るために神代神社を後にした。
 その背に、憂いは、まったく感じられなかった。

 台座に置かれた魔剣『レーヴァテイン』から莫大な魔力が溢れ続けている。
 それを鋭く、冷厳な視線で凝視している男がいる。
 髪形は金髪のオールバック。
 ダークスーツに包んだ長身は、首の太さや肩幅の広さから、その強靭さを窺わせる。
 『ヴィーグリーズ』総帥、ランディ・ウェルザーズ。
 雷鳴が轟き、落雷とともに、激しい地響きが起こる。
 彼は表情一つ変えない。
 それは、この異変がすべて彼の(たなごころ)の中にあるからだ。
 『レーヴァテイン』の魔力が、『魔界(ムスペルヘイム)』を浮上させ続けている。
 間もなく。
 間もなく、『この世界』と『魔界』は融合を果たし、『新たな世界』が生み出される。
 『この世界』の住人と『魔界』の悪魔どもが、弱肉強食を繰り広げ、運命神(ノルン)どもの意図の及ばぬ『強き世界』を作り上げるのだ。
 ――だが、それを阻止しようとする者たちがいる。
 ランディ・ウェルザーズはわずかに表情を動かし、総帥室の入口を振り返った。
「シンマラ」
 凛として立つ黒髪の女性の二つ名を、ランディ・ウェルザーズは口にした。
「久しぶりだな、ランディ・ウェルザーズ。いや、"獄炎の魔王"スルトと呼ぶべきか」
 黒髪の女性――シンマラこと豊玉真冬が、ランディの正体を口にする。
 彼女の両脇には、赤髪をツインテールに結った毒々しいゴシックロリータのドレスを纏った短身痩躯の少女と、青い長い髪をして、軍服のような衣装に身を包み、馬上槍という超重量武器を手にした長身の女性の姿があった。
 二人は、真冬の愛弟子にして、『ヴィーグリーズ』の元幹部であるシルビア・スカジィルとラーン・エギルセル。
 三人とも浅くはない傷を負っているようだが、動けないほど消耗しているわけではないようだ。
「おまえたちがここに来たということは、老人は敗れたということか」
「ファーブニルは、私たちが倒した」
「……そうか」
 悼むようにランディは両目を閉じ、しばしの沈黙の後、口を開いた。
「ファーブニルは世界の変革を心底望んでいた。そして、それはおまえも同じだったはずだ。シンマラよ、なぜ牙を剥く。私はおまえの望みを叶えてやろうというのだ」
「"獄炎の魔王"よ。人の望みとは変わるものだ」
「……万物流転、か。ミリアは好んでその言葉を口にしていたが、あやつは『ヴィーグリーズ』に残り、おまえは去った」
 真冬の答えを聞いたランディがゆっくりと目を開ける。
 その双眸の冷厳さが真冬を威圧する。
「皮肉なことだとは思わんか?」
「無責任に逃げたことは認めよう。だからこそ、私は過去を清算しに来た」
 真正面からかつて総帥と呼んだ男の言葉を受け止め、真冬は決意に満ちた表情で言い放った。
 ランディはその威圧的な視線を、彼女の愛弟子たちへと移した。
「シルビア、ラーン、おまえたちも同じか。いや、問うは、愚というものか」
 ラーンもシルビアもまた、怯まなかった。
「ランディさま、私たちは、ファーブニル老にも未来を託されました。そして、私たちはあなたの紡いだ未来では満足できないのです」
 水のように澄んだ表情でラーンが言い、シルビアが双眸に雷光の輝きを宿しながら継いだ。
「アタシたちの未来は、アタシたちで決める」
 赤と青の髪がばさりと揺れ、フランベルジュとランスの切っ先が同時に、"獄炎の魔王"スルトたる男へと向けられる。
 微塵も揺るがない意志。
 師と和解し、保護者同然だった老人の熱意を受け止めた少女たちには、もはや何の迷いは感じられない。
「よかろう」
 ランディ・ウェルザーズもまた、揺るがなかった。
 お互いの目的は同じ。
 運命神の世界への介入を完全に断ち切ること。
 だが、お互いの用いる手段は相容れない。
 ランディ・ウェルザーズは混乱と弱肉強食を欲して『魔界』の浮上を実行し、真冬たちはそれを防ぐことを考えているのだ。
「シンマラよ、おまえが製造した、この『レーヴァテイン』を破壊すれば、『魔界』の浮上は防ぐことができるだろう」
 ランディが、台座に置かれた『レーヴァテイン』に手を伸ばした。
 柄を握り締めると同時に刀身から瀑布のごとく溢れ出る魔力に、炎が混じり、猛るように吹き上がる。
「未来を欲するならば見事、掴み取ってみせよ。だが、それができぬ時は、我が原初の炎の力によって、無惨に焼け死ぬだけだと知れ」
 『レーヴァテイン』の切っ先が、真冬たちに向けられる。
 同時に、ランディの身体を包んだダークスーツに紅蓮の炎が迸った。

「それにしても、あのサド秘書が悠樹を追い詰めるほどの使い手だったとはね」
 いかにも意外そうにそう言った鈴音が、エントランスホールの片隅に転がっている銀の竪琴を視界の端で捉えながら、腰には細雪を納めた黒金の鞘を帯び直した。
 そして、合流を果たしたばかりの悠樹へと心配そうな視線を向けた。
「大丈夫か?」
「ええ、葵さんの治癒術はさすがに強力ですね」
 悠樹は大きく深呼吸をして頷いた。
 彼は、ミリア・レインバックとの死闘の後、しばらく動けずにいたが、全身に霊気を巡らせ続けて、鈴音がエントランスホールに戻ってきたところで、ようやく葵の精製した勾玉で治癒を施せるくらいまで回復していた。
 治癒術の効果は抜群で、全身の傷は完全に塞がっていたが、代償として体力は大幅に消耗してしまった。
 それでも動けないほどではない。
 悠樹は鈴音に極力心配をかけまいと、「血が染み込んだワイシャツの着心地は最悪ですが」とわざとらしく顔をしかめた。
「あたしも服はボロボロだしな。まあ、仕方がないさ」
 鈴音もジークと激闘を繰り広げたために、彼女が着ているチャイナドレスの損傷も激しい。
 服の裂け目から抜群のプロポーションを誇る悩ましい肢体が見え隠れしており、このような状況でさえなければ、理性が多いといわれる悠樹でも心臓が高鳴りっぱなしになるところだろう。
「鈴音さんは、勾玉の力を使わなくても大丈夫なんですか?」
「だいぶ回復してるさ。相手をしてた筋肉野郎がサービスしてくれたんでね」
 鈴音の骨の砕けていた右拳も、破壊されかけていた両脚も、すでに治癒していた。
 さすがに歴戦の退魔師であり、幾度も死線を潜り抜けてきた鈴音の回復力と、悠樹が鈴音よりもはるかに重傷だったこともあるが、それでも、退魔の専門家には程遠い悠樹の回復力では比べるべくもない。
「それに……」
「ちとせのためですか」
 悠樹の問いに、鈴音は深く頷いた。
「ああ。ちとせも勾玉を一つ持ってるが、ちとせの『相応の相手』が、シギュン・グラムだとしたら、一つで足りるとは思えないからな。それに、真冬たちも無事とは限らない」
 地下の鍛錬場と、このエントランスホールは近い位置にあったため、鈴音と悠樹は比較的短時間で再会できたが、ちとせの行方は掴めていない。
 真冬たちの行方も知れないが、彼女たちが相手をしているだろうファーブニルとの因縁から考えても、真冬たちがさらに分断されている可能性はわずかだ。
 今一番の危険に晒されているのは、シギュン・グラムの相手をさせられている可能性の高いちとせであろうことは、悠樹と鈴音の共通認識だった。
 "氷の魔狼"に立ち向かう困難さは、ちとせとともにシギュンと矛を交えた経験のある悠樹は痛感している。
 しかも、今回はたった一人で、相手をしているはずなのだ。
 急がねばならない。
「行けるか?」
 悠樹の焦燥を感じたのか、鈴音が答えを聞くまでもない問いを口にする。
「もちろん、行けますよ」
 悠樹は当然のように頷いた。
 明らかに無理をしながら涼やかに応じたその背を叩き、鈴音がにやりと笑う。
「その意気やよしってな。んじゃ、休憩はここまでだ」
「ええ」
「よっしゃ、強行軍と行くぜ」
 鈴音が言葉通りに、消耗している悠樹を置いていく勢いで駆け始める。
 悠樹も文句を言わずに追いかけていく。
 鈍く光る銀色の竪琴が、エントランスホールを後にする二人の背を見送っていた。

 一人の女性が、『魔界』の浮上に呼応するように瘴気の濃く漂い始めた街中を歩いていた。
 卵の薄皮のように白い髪が、雨でしっとりと濡れている。
 純白の法衣も雨で濡れ、雪のような白い肌に張り付いている。
 気にはしない。
 雨に打たれるのは、慣れている。
 いや、慣れてしまっている。
 冷たいとは感じる。
 そう感じられることは、とても幸福なことだとも、その全身が白い女性は、思っていた。
 以前は雨の冷たささえ感じられぬほどに、心が冷え切っていたから。
 今は、違う。
 ふと、白い法衣の裾が揺らめきを止めた。
 幾色かの悲鳴が聞こえてきた。
 眉を顰め、表情を曇らせる。
 音を立てずに、地面を滑るように走る。
 角を曲がったところで、最初に目に飛び込んできたのは、黒い影。
 異形だ。
 獅子を想わせる身体の背に鷲の両翼が生えている。
 その異形の怪物の前に、丸顔に眼鏡を掛けた少年が尻餅をついていた。
 彼の傍らには指していただろう傘が転がっている。
 そして、その周りで同じ年頃の少年たちが何人か怯えた表情で身をすくませていた。
 ブレザーの制服から判断するに、全員が猫ヶ崎高校の生徒だろう。
 怪物は街に充満している瘴気に誘われたか、『魔界』から這い出てきた悪魔だろう。
 少年たちは、それと遭遇してしまったに違いない。
 白い女性は、目の前の状況が引き起こされることを想定して、街を散策していた。
 猫ヶ崎を、この異変から守るために最善を尽くす。
 それは自分が自分に課した使命であり、かつて、この街を今と同じような混乱に陥れたことへの贖罪でもあった。
 白い女性が両手のひらに、魔力を集中する。
 収束する魔力の気配で白い女性に気づいたのか、異形の怪物が振り返った。
 その顔は、騾馬(らば)に似ていた。
「悪魔よ、この場から去りなさい」
 騾馬の顔をした悪魔は言葉では答えずに、口を裂いて笑った。
 そして、白い女性を引き裂こうと両腕の鉤爪を伸ばしてきた。
 だが、その腕が届く前に騾馬の顔の左側面で爆発が起こり、悪魔は弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
 崩れ落ちる瓦礫が、異形の怪物の上に山を築く。
 その上を悪魔の顔面へと魔力を放った物体――手首から先だけの『両手』――が浮いている。
「お逃げなさい」
 尻餅をついている少年にそう言った白い女性の両腕の手首から先が法衣の袖から消えている。
 彼女は自分の『両手』を空間転移させたのだ。
 悪魔の出現、そして、女性の異能の力を見せつけられ、丸顔の少年は震えながら立ち上がった。
 他の少年たちも、緊張したままの面持ちで、しかし、金縛りが解けたように動き出した。
 だが、彼らは誰一人その場から逃げ出そうとしない。
「お逃げなさい。悪魔は、まだ倒れてはいません」
 女性がもう一度少年たちに促す。
「……あなたはどうやら怪物と戦う不思議な力を持っているみたいですが、自分だって助けてくれた人を置いて逃げるなんてマネはできません」
 少年はそう言って、落ちていた傘を拾って閉じると、まるで剣のように正眼に構えた。
 武器にするつもりらしいが、悪魔に通用するとは思えない。
 それに少年の腰は引けていた。
「火乃、カッコつけてるわりに、腰が引けてるぜ」
 他の少年たちが丸顔の少年にそう言いながら、思い思いに傘や崩れている瓦礫の破片を手に構えた。
 丸顔の少年は眼鏡のブリッジをクイッと指で押し上げた。
「文科系だからね。パソコンのタッチタイプなら得意なんだけど」
「それはぜんぜん言い訳になってないぞ」
 少年たちの掛け合いを見ながら、白い女性は大きく息を吐いた。
 彼らのやり取りは、自分が未来に絶望していた時に救ってくれた者たちが見せてくれた光景に似ていた。
 雨が冷たく感じられる。
 だが、それは、心が温かいからだ。
 かつて人間と未来と自分自身に絶望し、世界を滅ぼそうとしていた白い女性は、やさしい微笑を浮かべた。
「わかりました。手伝ってください。ですが、無理はしないでください」
 少年たちは素直に頷き、両脚を震わせながらも白い女性の傍らに立った。
 騾馬の姿をした悪魔が瓦礫の山の中から姿を現わす。
 不意の一撃を食らったというのに、ほとんどダメージを受けていないようにも見える。
 悪魔が背の翼を羽ばたかせる。
 ――来る。
 白い女性が悪魔を真剣な眼差しで睨みつけ、部分転移させた『両手』を戻そうと念を送ろうとした瞬間。
 デンドンデンドンデンドンデンドン……。
 どこからともなく、腹に響く重低音が聞こえてきた。
「私の心が正義に燃える! 悪を倒せと轟き叫ぶ!」
 悪魔の背後にある家屋の屋根の上から、声が降ってきた。
 見上げれば、そこに猫ヶ崎高校の制服のブレザーを着た女生徒が、腕組みをして仁王立ちになっていた。
 脇には傘が置かれ、その下にあるスピーカーらしき物体から、重低音が鳴り響いている。
 スピーカーの隣に、黒猫がちょこんと座っているのも目に入った。
「正義の使者、音無スー推参!」
 女生徒は、何事かと後ろを振り返った悪魔をビシッと指差した。
「クロ、あれを使うわ」
 そう言う女生徒に、黒猫が勝手にしてくれとばかりのげんなりした顔で頷いたように見えた時には、女生徒は屋根を蹴って跳び上がっていた。
「スゥゥゥパァァァァァ!」
 雨の中、テンションの高い声音で叫びながら、天高く跳ぶ女生徒。
「イカヅチィィィッ!」
 跳躍が臨界まで達した彼女は、柔らかなプリーツスカートを翻して空中できりもみ回転しながら、騾馬の顔へと急降下。
「キィィィィィィィィッック!」
 体重に落下の加速の掛かった蹴りは、騾馬の顔を潰し、どす黒い血を噴き出させた。
 鉛の如き重い衝撃を受けて、悪魔の巨体が大地に叩きつけられる。
 蹴りの反動でとんぼを切った女生徒が、華麗に着地する。
「フッ、正義は勝つのよ!」
「音無先輩、危ない!」
 白い女性の横で傘を構えていた丸顔の少年が、勝利宣言をした女生徒を抱き倒した。
 わずかな差で、今まで女生徒のいた場所を獅子の腕が、唸りを上げながら通り過ぎていった。
 口から赤黒い液体を垂らしながら、騾馬の顔を憤怒に歪ませた悪魔が立ち上がっていた。
 白い女性が女生徒と丸顔の少年を守るように『両手』を彼らの前に展開させ、結界を張る。
 結界の中で女生徒と丸顔の少年が頷き合い、白い女性や彼らの仲間たちともアイコンタクトを交わし、傘と拳を構え直す。
 それを見た悪魔が咆哮を上げる。
 ダメージの蓄積を感じさせない雄叫び。
 どうやら、相当に強力な悪魔のようだ。
 だが、白い女性は、この戦いに負ける気など微塵もしていなかった。
 彼女の持つ未来視の能力で判断したのではない。
 雨が一層冷たく感じられる。
 丸顔の少年も、その仲間たちも、破天荒な女生徒も、皆、悪魔の強力さに怯えながらも、未来をあきらめた顔をしていない。
 彼らは、自分に雨を冷たく感じさせてくれる。
 それが理由だ。
 白い女性は、自分の確信に微笑んだ。

 ――電灯が点滅している薄暗い階段を、痛む身体を引き摺りながら下りていく。
 ローファーの靴音が響くたびに、全身を蝕み続けている激痛に絞り出された汗と、傷口から流れる血の雫が床に数滴ずつ落ちていく。
 呼吸の苦しさが、まるで楽にならない。
 だが、行かなくては。
 『魔界』の浮上は間近まで迫っている。
 下の階から光が、必死に歩を進めるちとせの姿を照らし出した。
 無惨であった。
 生命力の激しい消耗で白髪となっていた髪こそ、もとの色へと戻っていたが ブレザーはボロ切れを羽織っているようにさえ見えるほどに傷んでいる。
 正中線で裂けた白かったブラウスも血に染まり、ブラジャーを剥ぎ取られた豊かな胸をどうにか隠す程度にしか機能しておらず、深い谷間は露わになってしまっている。
 プリーツスカートも裾がズタズタに裂け、白い下着が見え隠れしてしまっており、黒のオーバーニーソックスも激しく傷んで同じような状況だ。
 まるで、野犬の群れにでも襲われたかと思わせる惨状だが、ちとせをここまで痛めつけたのは、野犬よりも遥かに恐ろしい狼なのだ。
 どくんっという杭を打ち込まれるような痛みが胸を食い破り、熱いものが喉の奥から逆流してくる。
「ごほっ……!」
 咳とともに口から吐き出された鮮血の欠片が、ピチャッと床を濡らした。
 目が、霞む。
 全身に廻らせた霊気で刻々と治癒は進んではいる。
 その証拠に、自らの黄金の炎で焼かれた両腕両脚の火傷はほぼ治癒しているのだが、それでも、"氷の魔狼"の牙と爪によって刻まれた傷は深く、身体に受けたダメージはまったくといっていいほど回復していない。
 万全からは程遠く、まともに戦える状態でもない。
 だが、止まることはできない。
 大きな瞳の吸い込むような魅力のある眼力(めぢから)だけは、(いささ)かも衰えていない。
 階下に視線を飛ばしながら、歯を食いしばって進み続ける。
 鈴音と悠樹は大丈夫だろうか。
 真冬たちは無事だろうか。
 階段の最後の一段を降りる。
 振り返る。
 階段は無限の距離を持っていたのではないかと錯覚していたが、ほんの数メートルの高さでしかない。
 荒く息を吐きながら、正面へと視線を戻す。
 廊下は一本道のようだ。
 電灯はすべて正常に作動しているようで、視界の確保に苦労することはないように思えた。
 鉛のように重い脚を意志の力で動かし、一歩を踏み出す。
「ッ!」
 と、ちとせの表情が一変し、二歩目を踏み出す前に止める。
 空気の振動。
 次いで、爆音。
 ちとせの前方、通路に唯一存在していた扉が周りの壁ごと粉砕され、崩れ落ちるのが見えた。
 充満した煙と埃が晴れて、視界が明瞭になった途端、床に少女が一人倒れているのが目に入った。
 鮮やかな赤毛をツインテールにした少女。
「シルビア!」
 床に倒れているのは、シルビア・スカジィルだった。
 破壊された扉の向こうの部屋から、今の爆発で吹き飛ばされたのだろう。
 ちとせは全身に走る激痛を無理矢理に無視して、全力で駆け寄る。
「うくっ、うぅっ……神代ちとせ、か」
 愛剣であるフランベルジュを杖代わりにして、よろめきながらも立ち上がったシルビアが、ちとせへと一瞥をくれる。
 毒々しい黒基調のゴシックロリータのドレスは焼け焦げ、全身から煙が上がっていた。
 それでも、雷光のような眼光を破壊された扉の向こうの部屋へと向ける。
 その中に、敵がいることは明らかだった。
 ちとせがシルビアの視線を追う。
 その部屋は広い造りだった。
 天井も高い。
 その中央付近に、金髪を後ろに撫でつけ、ダークスーツに身を包んだ男が立っていた。
「ラーン! 真冬センセ!」
 その男はラーンの細い首を左手で締め上げながら吊り上げ、仰向けに倒れている真冬の腹部を踏み潰していた。
 そして、右手には、莫大な魔力が溢れ続けている魔剣『レーヴァテイン』を握り締めている。
 ちとせは、その男の顔に見覚えがあった。
 "獄炎の魔王"スルトの化身にして、運命神の干渉を『この世界』から完全に断つことを画策する男。
「ランディ・ウェルザーズ!」
 ちとせは激痛に苛まれ続けている身体に鞭打って、神扇の先端を『ヴィーグリーズ』の総帥ランディ・ウェルザーズへと向けた。


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