魂を貪るもの
其の九 氷の魔狼
5.魂を貪るもの


「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 ちとせが力尽きたように両膝から崩れ落ちる。
 巫女装束からも、髪の毛からも、黄金の色は消え、もとの色に戻っていた。
「はぁ……、はぁ……、うっ、くっ……ごほッ……!」
 吐血が口を出て、床を朱に染める。
 全身が軋んでいる。
 指一本動かすのでさえ、ままならない。
 荒く呼吸をしながら、視線だけを上げる。
 煙が晴れていく。
「うっ……あっ……」
 ちとせの両目が大きく見開かれる。
 床についた手が震える。
 ――シギュン・グラムが立っていた。
 無言のまま、"氷の魔狼"が、一歩踏み出す。
 足下に紅が滴り、焼け爛れたような床へと広がる。
 ストライプスーツはボロボロに裂け、其処彼処に焦げ痕が刻まれ、熱を持った煙が立ち昇っている。
 夥しい流血で、全身がしっとりと濡れている。
 満身創痍だというのに、その美しさだけは変わらなかった。
 額の傷から流れ落ちる血に染まった端整な顔が、跪いているちとせへと向けられている。
 もう一歩、足を進める。
 血の通わぬ義手からも、生身の肩口から流れた血が垂れ落ちる。
 失神してもおかしくない激痛が全身を蝕んでいるはずだが、その足取りはしっかりとしていた。
「神代ちとせ」
 静かに歩を止めて、シギュンがちとせの名を呼んだ。
 笑い声を上げなかった。
 笑みも刻まなかった。
 その狼の目に、色が浮かんでいる。
 全開にされた獣性が。

「殺してやろう」

 死の宣告を受け、ちとせの全身に震えが走った。
 "氷の魔狼"が、己の血に染まった義手を掲げる。
 それに呼応するように血塗れの巨大な狼が、シギュンの背後で咆哮を上げる。
 冷たい輝きを帯びた月色の髪がざわめき、魔道機械の義手が銀色に染まっていく。
 銀の正体は、絶対零度の冷気と殺気。
「おまえを殺した時、私は今までで最高の『生』を実感できる」
 キィィィィンッという音ともに、莫大な冷気が収束していく。
 ちとせが両膝に手を置きながら、軋む身体を無理矢理に立ち上がらせる。
 シギュンの宣告は、決着の一撃がくる証明だった。
 倒れてなどいられない。
 不敵な笑みが、ちとせの顔に自然と浮かぶ。
 戦いが、楽しいのではない。
 追い詰められたのが、楽しいのではない。
 楽しいのではない。
 楽しいわけがない。
 その笑みは、自分を奮い立たせるための、集中力を高めるための、きっかけ。
「宇受賣さまっ!」
 努めて明るい声で自分の内なる女神に呼びかける。
「『死なない程度(リミッター)』解除を申請しちゃいます!」
「……ッ!」
 芸能の女神が絶句する。
 数瞬の沈黙の後、天宇受賣命は、諭すように言った。
「(神代ちとせ。あなたの身体はすでに限界を超えています。これ以上、開放する太陽の力を引き上げたら本当に……)」
「死なないですよ」
 ちとせがしれっと応える。
「(しかし……)」
「今のままじゃ、あの人に喰い殺される。それだけはイヤなんで」
 ちとせのこめかみには、冷や汗が浮かんでいた。
 自分の身体の事は、自分が一番よくわかっている。
 身体が限界を超えているのは、百も承知している。
 黄金の炎を使いこなせていないのも、実感している。
 それでも、"氷の魔狼"を真正面から迎え撃つには、限界を超えた先の力を、持てるすべての力を出し切るしかないのだ。
 あまりにも分が悪いが、やるしかない。
「(……わかりました)」
 覚悟に応えるように、女神が自分の中で頷くのを感じた。
 同時に、全身が張り裂けんばかりの力が、身体の内側から巻き起こる。
 全身から眩いばかりの金色の光が溢れ出す。
 髪も両目も巫女装束も再び、黄金一色と変わった。
 全身を、太陽の黄金炎が駆け巡る。
 身体中が軋み、砕けていくのを感じながら、ちとせは前方にいる"氷の魔狼"を睨みつける。
 その唇の端から血が流れ落ちる。
 許容以上の力の解放によって、全身に激痛が走っている。
 それでも、神扇を水平に構え、精神を集中する。
 胸の前に、陽光と炎が収束していく。
 やがて、太陽そのもののような光球が生まれ、膨張を始めた。
 ちとせとシギュンの間で、太陽と吹雪の力が綯い交ぜになった戦意の風が吹き荒れる。
「神代ちとせ!」
「シギュン・グラム!」
 向かい合った二人が、お互いの名を叫び合う。
 シギュンの背後で半実体のフェンリルが巨体を震わせ、咆哮する。
 シギュン・グラムが義手を突き出す。
 猛吹雪を狼の形に象ったような強烈にして膨大な冷気が解き放たれる。
 同時に、ちとせが自分の身長の二倍まで膨れ上がった黄金の太陽を解き放った。
 だが、猛烈な吹雪は太陽を飲み込み、圧力の瀑布となってちとせを押し潰そうと押し寄せてくる。
 屋上の唯一の遮蔽物である出入り口の壁に、背中から叩きつけられる。
「はぐぅっ!」
 壁に蜘蛛の巣のごとく亀裂が入り、割れたガラスのように崩れていく。
 ちとせの全身が軋んだ音を立て、精神の中で芸能の女神が悲鳴を上げる。
 全身の骨が砕けるような激痛が絶え間なく走り、身体中に刻まれている傷から血が滝のように流れ出す。
 だが、恐るべきことに、その流れ出した血も、苦痛に絞り出された汗も、吹雪の冷気で凍りついていく。
 絶対零度のチカラで肉体を破壊され、神経さえも凍てついていく。
 傷口から侵入した冷気が身体を内部からも凍らせていく。
「くっ、あっ……ごぼっ!」
 氷結しかかったドロリとした血を吐き出す。
 ちとせは無理を承知で引き出した力が、たいして通用していないことに歯を食いしばった。
「こ、これが、神を喰らう"氷の魔狼"の力!」
 せ、競り負ける……!
 すべてが凍らさていく。
 このままでは、死。
 死。
 もっと、力を。
 死を押し返す力を。
 もっと、力を。
 もっと、力を。
 力を。
 力を。
 もっと、もっと、もっと……!
 でも。
 力が、ない。
 ない。
 ない。
 ない。

 いや、まだ、あった。

 あった。
 あった。
 ある。
 ある。
 ある。
 魂が、あるッ!
 魂がまだ残ってるッ!
 魂の力を、生命力を、振り、絞るッ!
「はあああああああぁぁっ!」
 魂を、命を、燃やす。
 全身から黄金の火焔が、生命力そのものを燃やしながら迸る。
 出血がひどくなる。
 だが、だからどうした。
 どうせ、凍りついたら終わりだ。
 火力を上げる。
 反動の衝撃に、ちとせの髪を結わえていたリボンが外れた。
 "氷の魔狼"が、「おまえの命を喰らい尽くす」と宣言していたのを思い出す。
 喰らわせる。
 喰らわせてやる。
「ボクのすべてを喰らわせてやるッ!」
 金色に染まった長い髪の毛が、ぶわっと舞い上がる。
「だりゃぁああああああぁぁぁっ!」
 黄金の太陽が、狼の大顎を形取っている猛吹雪を引き裂きながら突き進んでいく。

 シギュン・グラムは、神代ちとせのチカラが眩い閃光とともに爆発したのを、二人の間の渦巻く戦意の壁さえ突き抜けて、肌で感じた。
 押され始めたことには、焦燥を覚えなかった。
 吹雪を消し飛ばしながら迫りくる黄金の太陽を、冷静に見ていた。
「私が押されている」
 この"氷の魔狼"が。
 瀕死の神代ちとせのどこに、これほどのチカラがあったのか。
 その身に降ろしている女神のチカラは、すでに限界を超えているように見えた。
 だが、まだチカラが残っていた。
 その残っていたチカラを燃やしている。
 何のチカラだ?
 何を燃やしているのか。
 いったい、何を?
 そして、気づく。
 魂だ。
 魂を燃やしている。
 魂か。
 魂のチカラか。
 私にはないチカラだ。
 私には、ない。
 魂が。
 私には、魂がない。
 だから、私が生を得るには、殺し、喰らうしかなかった。
 父の魂を喰らい、恋人の魂をも喰らった。
 それでも、足りない。
 殺す価値すらない有象無象どもの命さえ狩った。
 それでも、やはり、足りなかった。
「熱いな」
 ぽつりと呟いた。
 神代ちとせの魂は、黄金に燃え盛っていた。
 ああ、熱い。
 だが、その熱さこそが、心地よかった。
 すべてを凍てつかせる吹雪が霧散していく。
 絶対零度の氷が溶ける。
 シギュン・グラムの虚無を湛えた狂眼が、恋焦がれるものを見たような眼差しへと変わる。
 殺気の消えた両眼に映る視界が、金色一色になった。
 "氷の魔狼"が、黄金の太陽に飲み込まれる。
 雷鳴さえ超える炸裂音が響き渡り、屋上が激震とともに半壊する。
 シギュン・グラムは、全身から血を噴出させ、煙を上げながら、宙に舞っていた。
 そのまま、『ナグルファル』の屋上から、投げ出される。

「終わりか」
 視界が戻った時、シギュン・グラムは自分が落下しているのを自覚した。
 あっけないものだ。
 他者を喰い殺して生きてきたが、私の死は意外とあっけないものだな。
 だが、最後の最後で、初めて全力というものを出すことができた。
 神代ちとせのチカラは、この"氷の魔狼"の氷を溶かし、魂の入っていない自分を充実させてくれた。
 そう思った。
 このまま、隆起している大地に叩きつけられて死ぬのか、『この世界』へ競り上がってきている『魔界』にまで落ちるのか。
 もはや、シギュンには、どちらでも良いことだった。
 だが、唐突に浮遊感が断ち切られる。
 何かが、右腕の義手を伝わって頬を濡らす。
 その正体は、瞬時に理解できた。
 幾度も幾度も味わってきた生暖かさ。
 何度も何度も目に映してきた深紅。
 もっとも、よく知っている液体だ。
 ――血。
 機械の義手から流れるはずのないものだ。
 シギュン・グラムは見上げた。
「神代ちとせ」
 ちとせが、いた。
 義手の鉄爪部分を掴んで、シギュンが落ちていくのを妨げていた。
 その全身を切り裂いてきた魔狼の爪を握り締め、宿敵の死を妨げていた。
 シギュンの頬を濡らす紅い液体は、ちとせの血だった。
 爪刃を握り締めて切り裂かれた神代ちとせの手のひらから流れ落ちている血だった。
「シギュン・グラム!」
 必死になって呼びかけてくるちとせを心底不思議そうに、シギュンは見上げていた。
 ちとせはシギュン以上に満身創痍の状態だ。
 息は絶え絶えで、苦痛に顔が歪んでいる。
 先程まで黄金に染まっていた髪の毛が真っ白になっている。
 限界を超えて、魂を、生命力を燃やしてしまったせいだろうか。
 よく見れば、神降ろしの力も抜けてしまっていて、ズタボロのブレザーの制服を着た女子高生の姿に戻ってしまっている。
 ブレザーの中のブラウスも着ていないよりはマシという程度にまで傷んでおり、裂傷や痣の刻まれた素肌が見え隠れしている。
 この精根尽きた身体に鞭打って、あの距離から全力で走ってきたというのか。
 そして、私の義手を掴んだというのか。
 自らも落下する危険を顧みず、身を乗り出し、しかも、ギリギリであったとはいえ、手のひらを切り裂かれる覚悟で、鋭利な魔爪を躊躇いもなく掴んだというのか。
 ――落ちゆく私を救うために?
「……勝者が敗者に手を差し伸べるか」
「そんなだから、あなたは勝てなかったのよ」
 ちとせが握った魔爪の刃に手のひらを切り裂かれる激痛に耐えながら、シギュンを引き上げようと力を込める。
 だが、体力と霊力を極限まで消耗していることと、手が血で滑っているために、シギュンが落ちないように握り締めているのがやっとのようだ。
「チカラは、こういう時に使うためにあるんでしょっと」
「……そう、か」
 シギュン・グラムの唇から静かな呼気が漏れた。
「神代ちとせ」
「なによ」
 今忙しいんだから話しかけるなと言わんばかりのちとせに、シギュンは言った。
 言いたくなった。
「その手を放せ。このままでは、おまえも落ちるぞ。運が良くても腕を失うことになる」
 ちとせは一瞬目を丸くしたが、すぐに首を横に振った。
「お断りっ」
 "氷の魔狼"に勝った少女は、苦痛に耐えながら微笑んだ。
 シギュンの瞳孔が収縮した。

 ――私の負けだな、完全に。

 少女の笑顔を見ながら、魔狼は心の底からそう思った。
 純粋な力でも、経験でも、すべてにおいて上回っていたにもかかわらず、勝てなかった。
 その理由は単純にして明快だ。
 "氷の魔狼"だから、勝てなかったのだろう。
 それでも、悔いはない。
 神代ちとせという少女と廻り合えたことに、戦いの中だけでなく、終わった後でさえ、シギュン・グラムは満足していた。
 だから、――シギュンは、決めた。
「どうしても放さないつもりか」
「当たり前でしょ」
「ならば、おまえは死ぬしかない」
 シギュンが左腕に冷気を集中させ、氷の爪を形成する。
「私は"氷の魔狼"シギュン・グラムだ。敵に手を差し伸べられるのは屈辱なのだ。だから、おまえは死なねばならない」
「そ、そんな……」
 ちとせが戸惑ったような表情を浮かべる。
 だが、それに構わず、シギュンは氷爪を振るった。
 氷の爪は、ちとせの腕に掠り傷程度の爪痕を刻んだ。
 傷は、今まで身体に刻まれたものの中で、もっとも浅い。
 だが、冷気が衝撃とともに、両腕を伝わった。
「うぐッ……!」
 腕に走る冷たさと衝撃に耐えかねて、ちとせの手の指がシギュンの魔爪から離れた。
「シギュン・グラム!」
「おまえを道連れにさせてくれるな。私は満足したままで逝きたいのだ」
「あなた……わざと!」
 "氷の魔狼"の爪痕を刻まれた左腕を右手で押さえながら、自分に流し込まれた冷気に殺気がないことに気づき、ちとせが呻いた。

 再び襲ってきた浮遊感に身を委ね、シギュンは笑った。
 狂気の笑みではない。
 屈託のない、穢れを知らない、美しい宝石を初めて見た少女のような笑み。
 凄絶な美しさ、完璧な美しさは失せ、それでもそれ以上に美しいと思える笑み。
 ちとせを見上げる透明な美しい紺碧の瞳には、底知れぬ虚ろさはなく、澄んだ光が宿っていた。

「お別れだ、神代ちとせ」

 落下しながら、シギュン・グラムは懐に義手の右腕を潜り込ませた。

 ああ、煙草を吸いたい。
 この満足感を肺に刻みつけたい。

 火を点す時間がないことを知りながらも、"氷の魔狼"は取り出した箱から器用に右腕だけで煙草を取り出し、口に咥えた。
 手放した箱から、残りの煙草がバラバラと流れ落ちる。
 迫る死を感じながら、シギュンはもう一度笑った。

 ――さよなら、私の最高の獲物。



 ちとせは右腕を左手で押さえたまま、半壊している『ナグルファル』の屋上に佇んでいた。
 眼下に広がる『魔界』へ落ちていった"氷の魔狼"の姿は、もうどこにもなかった。
 月色の髪を舞い広がらせながら落下していくシギュン・グラムの目からは獣性も殺気も失せ、すべてを凍らせる虚ろさも消えていた。
 何も映さない、硝子玉のような狂眼は、紺碧の色を湛えた美しい瞳へと変わっていた。
 他者の命を貪り喰らって生きてきた"氷の魔狼"は、自分自身で自分の生に幕を閉じる間際、平穏を手にしたように、安らかな微笑みを浮かべていた。
 彼女は、本当に恐ろしい女性だった。
 その絶対零度の殺気によって、ちとせも全身を喰い散らかされた。
 だが、最期の最期に、落下していく"氷の魔狼"の両目には色が戻り、肌には体温が宿っていた。
 そして、魂が存在していた。
 ――満足したままで逝きたいのだ。
 彼女は、確かにそう言った。
 彼女は死にたかったのだろうか。
 それとも彼女はすでに死んでいて、この死闘の最後に彼女は生き返ったのだろうか。
 ちとせには、わからない。
 ただ、自分は"氷の魔狼"に喰らい尽くされず、生きている。
 そうだ。
 生きている。
 自分は、生きたい。
「シギュン・グラム」
 呪いのような宿敵だった女性の名を呼ぶ。
 もちろん、返事はない。
 自分に向けられた彼女の凍てつくような殺気は本物だった。
 最終的に自らの命を絶つ決断をしたのは彼女自身だった。
 それでも、救えなかったことに後悔を覚える。
 だが、いつまでも立ち止っているわけにはいかなかった。
「ごめんなさい。祈ってる暇はないんだ」
 感傷に浸ってはいられない。
 落ち込んでいる時間もない。
 それで割り切れるものではないが、ちとせは屋上から見える『魔界』に背を向けた。
 自分は生きている。
 身体はボロボロだが、まだ動ける。
 そして、やるべきことがある。
 仲間を救いに行かねばならない。
 『魔界』の浮上を防がねばならない。
 命が失われるのを黙って見ているわけにはいかない。
 ちとせは出入り口に落ちていた外れたリボンを拾い、長い髪をポニーテールに結い直した。

 ――お別れだ、神代ちとせ。

 "氷の魔狼"の最期の言葉が、ちとせの頭の中にもう一度聞こえてきた。
 両眼を閉じる。
 一瞬だけの黙祷。
 それだけが、恐るべき宿敵だった女性への別れの挨拶。
 目を開き、歩き出す。
 ちとせは瀕死の身体を引き摺りながら、振り返ることなく、屋上を後にした。


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