魂を貪るもの
其の九 氷の魔狼
3.凄絶

「やはり、虚を突くのが巧いな。少しは楽しめる小細工だった礼に、これは返してやろう」
 シギュン・グラムの言葉とともに、風を切り裂く音が鳴り、神扇が投げ返されてきた。
 せっかく奪った武器を返す。
 それは、単純に、実力が上回っていると自覚しているシギュンが、ちとせに全力を求めているからに過ぎない。
 舞い散るダイヤモンドダストの中に一歩踏み出したシギュン・グラムを睨みつけながら、ちとせは唇を噛んだ。
 神扇が手に戻ったところで、状況は、最悪だ。
 いや、最初から状況は最悪だった。
 シギュン・グラムという人間と対峙せざるを得ない境遇に陥っている時点で、すでに最悪だったのだから。
 力が通じない。
 そんなことは最初から分かっていたことだ。
 それでも、頭の片隅では、どうにかなると思っていた。
 必死になれば、劣勢を覆せると、微かな、ほんの微かな、甘い幻想を抱いていた。
 それを、打ち砕かれた。
 シギュン・グラムがもう一歩前に出た。
 ちとせは動かない。
 次の手が思いつかない。
 もう一歩、シギュンが近づく。
 殺気の密度が増す。
 ちとせは動けない。
 神扇を構えてはいるものの、前に出ることができない。
 退かないだけで精いっぱいだった。
「どうした、動かないのか?」
 シギュンが懐から煙草を取り出し、咥えた。
 マッチで火を点ける。
 虚ろな双眸に煙草の火が反射して、瞳の中で陽炎のように揺れている。
「私は、おまえの小細工に期待をしているのだが、な」
 だから、あがいて、あがいて、あがいてみせろ。
 私に本気を出させるほどの力を見せてみろ。
 言外にそう言っているのは、ちとせは百も承知している。
 言われなくても、頭をフル回転させている。
 だが、考えつかない。
 どう動いても魔狼に喰らいつかれる映像しか浮かばないのだ。
 シギュンが紫煙を吐く。
「来ないというのであれば、こちらから狩りに出るまでだな」
 煙草の先端から、灰が床へと落ちた。
 ――ぞくっ!
 ちとせの背中に悪寒が走る。
 シギュンから死の波動が広がり、大気が萎縮し、凍りついていく。
 それは、ちとせの意識をも一瞬、凍りつかせた。
 気を緩めたわけではない。
 緩めることなどできるはずがない。
 だが、濃密な殺意を受け、ちとせは凍りついてしまった。
 精神の空白。
 それは、"氷の魔狼"に対峙している時に決して見せてはいけない意識の隙であった。
 瞬間、シギュン・グラムの姿は、ちとせの認識から消えた。
 直後、ちとせは我に戻った。
 そして、知った。
 一瞬にして、間合いを消されたことを。
 シギュン・グラムが体勢を低くして、滑り込むように迫っている。
 左右に避けても、斬られる。
 後ろに避けても、突かれる。
 ちとせは身体を反らして後ろに倒れながら、ちとせは鋭利な鉄爪が掬い上げるように振り上げられたのを見た。
 床に手のひらをつき、アクロバティックに後方へ飛び退り、さらに連続バク転で間合いを取って起き上がる。
 鳩尾の辺りから胸へかけて、灼熱が走っている。
 真っ赤な液体が溢れ散る。
 臍の上から胸の谷間まで巫女装束が切り裂かれ、露わになった正中線の肌には縦一文字に裂傷が走っている。
「あくっ……、つぁ……ッ!」
 傷自体は浅い。
 肌を裂かれただけで、内臓にも筋肉にも届いてはいない。
 だが、だからと言って、巫女装束の裂け目から見える豊かな胸の深い谷間を隠す余裕などはなかった。
 すでに、魔狼が喰らいついてきている。
「自ら後ろに倒れて避けたか。攻め手が思いつかないだけで、頭の回転は鈍っていないようだな」
 体勢を持ち直そうとするちとせの視界で、シギュン・グラムの鉄爪と氷爪が交差するように鈍い光を放った。
「きゃあっ!」
 ちとせの両肩から血飛沫が飛び、諸肌を脱いだが如く、巫女装束の両肩部分が引き裂かれる。
 特に左肩は、先程刺された傷口を抉られる最上級の激痛に侵された。
 歯を食いしばり、激痛に朦朧としそうになる意識を保つ。
 額から汗が流れ落ちるが、拭う暇などはない。
 一瞬で離した間合いを消されてしまっている。
 すぐに、しなやかなシギュンの蹴りが右脇腹を穿ち、乾いた打撃音が鳴り響く。
 衝撃で吹き飛びそうになったところへ、今度反対側からのミドルキックが打ち込まれ、左脇腹が軋んだ音を立てる。
 続いて振り下ろされたシギュンの左腕の氷爪は、両手で水平に構えた神扇で受け止める。
 だが、押し込まれて、両膝が震える。
 筋力ではシギュンに分がある上、肉体の受けたダメージが大きく、踏ん張りが利かない。
 ちとせの両膝が沈む。
 バランスの崩壊したちとせの顎を狙って、シギュンの義手が打ち上げるように放たれる。
「ッ!」
 激震。
 だが、揺れたのは、ちとせの意識ではなく、シギュン・グラムの身体。
 床から吹き上がった青白い光が、光球となって天へと駆け、シギュンの顎を跳ね上げていた。
 衝撃に仰け反ったシギュンが、上半身を元に戻す。
 唇の端から、朱線が流れ落ちる。
「……先程の一撃を避けた時か」
「ぜんっぜん避け切れてないけどね。その後もボコボコにされたし」
 ちとせが踏み込みながら言う。
「でも、あなたが小細工をご所望だったから、お土産は残させてもらったわ」
 シギュンに正中線を抉られた後、床に手をついた時に霊気を流し仕掛けておいた。
 練りに練った策ではなく、瞬間的な思いつき。
 だが、それは心を折らずにいたからこそ、思いつけた手段。
 それが、ちとせの窮地を救い、反撃の機会となった。
 顎への一撃で、脳の揺れているシギュンの無防備な腹部に神扇を突き入れる。
 レバーに衝撃が伝わり、シギュンの動きが止まる。
「ッ!」
 シギュンの血に濡れていた唇から、さらに血の欠片が混じった空気が吐き出される。
 ちとせは、止まらない。
 ようやく掴んだ、唯一かもしれない、反撃の機会。
 この一撃では、終わらない。
 否、終われない。
 シギュン・グラムは動きを一瞬止めているだけで、倒れてはいないのだ。
 虚ろな眼光は、打撃を受けながらも揺るいではいない。
「だだだだだだっ!」
 自らを奮い立たせるように叫びながら、ちとせが陸上部で鍛え上げた自慢の瞬発力で地を蹴る力を、攻撃力へと変換し、ラッシュを仕掛ける。
 神扇でシギュンの頬を殴り、左の拳で逆の頬を打ち抜く。
 シギュンの長い脚に下段蹴りを入れ、よろめいたところへハイキック。
 さらに左右の拳を打ち、後ろ廻し蹴り。
 身に下ろした芸能の女神の本領を発揮するが如く、神楽舞のように美しく、流れる動きで、シギュン・グラムへ全力を叩き込んでいく。
「はああぁぁぁ……」
 舞い続けながら、両手のひらに霊気を収束させ、圧縮させる。
 その光に、シギュンの狂眼は再度、太陽を見た。
「うぉりゃああああっ!」
 ちとせの叫びが木霊し、双掌がシギュンの身体に炸裂する。
 閃光とともに『ナグルファル』の屋上が揺れた。
 大気を凍らせていた冷気が吹き飛ぶ。
 叩き込まれた太陽を思わせるちとせの霊気が浸透し、シギュン・グラムの全身に青白い光が迸る。
 そして、シギュンの身体のあちらこちらから光と血霧が吹き上がる。
 だが。
 だが、しかし。
 シギュンは倒れない。
 倒れていない。
 雷鳴が轟いた。
 黒雲の間から落雷が『ナグルファル』を飲み込むように競り上がる『魔界』へと走った。
 照らし出されたシギュン・グラムの姿を見て、ちとせは硬直した。
 月色の髪と、スマートなシルエットのストライプスーツのところどころを血に濡らしながらも、"氷の魔狼"は平然としていた。
 今まで背筋に走っていた悪寒とは違った種類の寒気が、ちとせを襲う。
 唾を飲み込みながら、思う。
 美しい。
 凄絶に、美しい。
 命懸けの戦いの最中であるにも関わらず、ちとせはシギュン・グラムの氷像の如くまったく崩れない完璧な美しさに震えた。
 シギュン・グラムの血の流れ落ちる唇が歪んだ。
 それは、明らかな笑みの形。
 虚ろな病んだ眼差しは変わらないが、その硝子玉にはちとせの顔がはっきりと映っている。
 また、ちとせは違う種類の悪寒に襲われ、震えた。
 シギュン・グラムが唇から流れる朱線を拭った。
 その血を、今までのように舌へは運ばない。
 すでに口の中は真紅が滲み、呼吸に絡まる血の香りが、恍惚へと誘ってきているからだ。
「楽しいだろう、神代ちとせ。全力で命を刈り取るやりとりは」
「楽しいわけがないじゃない」
 ちとせは即答した。
 殺し合いが、楽しいわけがない。
 闘争心は、ある。
 ちとせはもともと闘争心が強い。
 陸上部の副部長を務め、インターハイの出場経験もある。
 闘争心がなければ、スポーツの世界で良い成績は残せない。
 陸上部でエーススプリンターを張っているのは、伊達ではないのだ。
 だが、ここで行なわれているのは、殺し合いだ。
 相手に勝つことと、相手を殺すことは、まったく違うことだ。
 楽しいわけが、ない。
「あなたと一緒にしないで」
 ちとせが歯軋りをしながら、神扇を振るった。
 だが、その打撃は、シギュンの義手によって簡単に止められた。
 血染めの魔狼は満身創痍に見えて、まるで衰えていない。
 それどころか、冷気も動きも、さらに鋭さを増している。
 想像以上の実力差。
「一緒にしないで、か」
 戦慄を新たにするちとせの右腕を振り払うシギュン。
 風が唸った。
 八神悠樹の操る烈風よりも、遥かに冷たく、威圧的なまでに厳しい、極寒の風。
 純粋な、死を予感させる、魔狼の住まう北欧の風。
 その正体は、シギュン・グラムの長い、脚。
 後ろ蹴り。
 体勢を崩されているちとせにそれを避ける術も防ぐ術もなかった。
 砲弾の威力を持った後ろ蹴りが、ちとせの鳩尾に突き刺さる。
「かっ……ふっ……っ……ぁ……」
 腹部を打ち上げられ、ちとせの身体が思い切り、くの字に折れた。
 ちとせは、自分の内部で、すでに深刻なダメージの蓄積している内臓がズタズタになるのを感じだ。
 脳裏に駆ける激痛の稲妻に歪む唇を割って、血が吐き出される。
 身体が痙攣し、肢体から急激に力が抜ける。
 唇の端から、鮮血の混じった涎が垂れ落ちる。
「(い、いけない!)」
 ちとせの身体から浮かび出た女神が、苦悶の表情で後方へ下がる。
 両手で腹部を抑えながら、苦痛に満ちた声を上げる。
「(神代ちとせ……いけません……意識を失っては……)」
 ちとせの中へ戻ろうと必死に右手を伸ばす。
 だが、女神の努力もむなしく、その身体は薄れていき、小さな悲鳴を上げながら天へ昇るように消えてしまった。
 ちとせの姿が巫女装束から、ブレザーの制服姿へと戻る。
 その両目は虚空を見つめたまま、瞳から意志の光を失っていた。
 散々に痛めつけられていた腹部をさらに破壊されるという許容外の激痛に、立ちつくしたまま、意識を手放してしまったのだ。
 倒れられないという精神力だけが、ちとせの身体を崩れさせずいた。
 シギュン・グラムが病んだ目で、棒立ちになったまま失神しているちとせを頭から足先まで見回す。
 巫女装束の状態で受けた時のダメージを反映して、ブレザーもプリーツスカートも黒のオーバーニーソックスもボロボロになっていた。
 白いブラウスも魔爪により裂かれた巫女装束と同じように正中線に沿って破れ、ブラジャーも左右のカップの正面の繋ぎ目を千切られて両肩のストラップと背中のベルトだけで引っかかっている状態となっており、豊かな胸の谷間が露わになっている。
 衣服の裂けた個所からは素肌が覗き、血と痣に染まっているのが確認できた。
 だが、ちとせは倒れていない。
 倒れる気配もない。
 その目は意識を失っても尚、前方を睨み続けている。
 その手は意識を失っても尚、神扇を握り締めている。
 その脚は意識を失っても尚、地面へと折れずにいる。
「共感せずとも、というところだな」
 ちとせが共感しようとしなくても、彼女の存在はシギュン・グラムにとって有用だった。
 高揚感は、充足感へと変わりつつある。
 シギュン・グラムが達した時、ちとせは死ぬことになる。
 だが、まだ、足りない。
 過去に消し去ってきた数多の価値のない命よりも、ちとせはシギュンを歓喜に打ち震えさせている。
 だが、まだ、満ち足りては、いない。
 それに、気を失っている無抵抗の者を殺すのは、シギュンの趣味ではない。
 そしてまた、やさしく起こしてやるのも、趣味ではなかった。
「起きろ」
 無造作に伸ばされたシギュンの義手が、ちとせの左胸をブラウスの上から、左右のカップの間で千切れ、外れかけているブラジャーごと、鷲掴みにする。
「はっぐぅっ……!」
 ブラウスを内側から盛り上げている女性の象徴を無骨な機械の義手で鷲掴みにされる痛みに、ちとせは無理矢理覚醒させられた。
 意識を取り戻したちとせが胸を襲う激痛に視線を下げ、シギュンの義手に握られている自分の左胸を認識して、苦悶の絶叫を上げる。
「うああああああぁぁっ!」
「目が覚めたか、神代ちとせ」
 神降ろしが解け、防御力の大幅に下がった生身の肉体に与えられる凄惨な激痛に、ちとせは全身を突っ張らせた。
「ふぐぅッ! ああああッ……ッ!」
「魔爪で貫かずに、起こしてやったのだ。さあ、脱出してみせろ。もっと私を満たしてみせろ」
 シギュンが力を込め直し、義手の指の間からちとせの左胸のふくらみがこぼれんばかりに握り潰す。
「うぁああああぁぁ……!」
 破壊された腹を打ち抜かれる以上の凄惨な苦しみに、ちとせの全身が痙攣する。
 地獄の苦しみを味わっているちとせを眺めるシギュン・グラムの色のない瞳には愉悦は宿っていない。
 "氷の魔狼"が期待しているのは、獲物の苦しむ様ではなく、狩りの対象がこの状況をいかにして脱出するか、なのだ。
 それだけに、ちとせの胸を破壊する握力には、まるで遊びがなく、容赦もなかった。
 ちとせは、激痛に苛まれながら、ようやく、両腕を動かし、シギュンの義手を掴んだ。
「あっ、ううっ……、くっ……」
 いくらか、シギュンの握力を弱めることに成功し、左胸を破壊する激痛が緩み、状況を把握できるようになる。
 自分が失神してしまったために加護してくれていた天宇受賣命は天へ帰らざるを得なくなり、神降ろしは解けてしまったのだろう。
 だが、シギュン・グラムは気を失った自分の命を奪おうとせず、さらなる戦いを、さらなる力を求めて、自分を叩き起こした。
 その代償が今の状況。
 胸を破壊し尽くされる前に脱出してみせろという、"氷の魔狼"からの苛烈にして過酷な課題を突きつけられているのだ。
「私を失望させるなよ」
 シギュンは義手で左胸を握り潰したまま、ちとせの身体を吊り上げる。
 ちとせの両足のつま先が宙に浮く。
 両腕でシギュンの義手を掴んでいるとはいえ、根本的な部分では自分自身の体重すべてを鷲掴みにされた左乳房ひとつに預ける形となり、今まで以上の激痛がちとせを責め苛む。
「くぁっ、あ、ゃッ……ッあぁッ……!」
 ミシリッと鳴った不気味な音は、義手が軋んだ音か、ちとせの胸が軋んだ音か。
 ちとせの両手が力なく、シギュンの義手から外れ、重力に従って垂れた。
「あうううううッ!」
 完全に左胸だけでシギュンの義手から吊り下げられ、ちとせの掠れた絶叫に血が混じる。
 瞳孔が収縮し、瞳に霞がかかる。
 絶叫が途切れた。
「……あう……う……ん……」
 力尽きたように項垂れ、唇の端からは血と泡の混じった涎が零れ落ちる。
「起きろ」
 シギュンが冷酷な声でそう告げるなり、ちとせの胸を潰す力を増す。
 ずぶり、ずぶり、義手が左胸に深く突き刺さり、滲み出た血が白さを残していたブラウスを赤く染めていく。
「うぅっ、……起き、てるわ……よ」
 項垂れたまま、ちとせが弱弱しい声で返事をする。
 唇から滴る血が顎を伝い、首を経て、ブラウスの裂け目から覗いている胸の谷間へと流れ落ちる。
 悶絶したかと思ったが、意識を保っていたらしい。
 "氷の魔狼"の色のない病んだ視線の先で、ちとせの胸の谷間に到達した吐血の筋が臍へと零れ、プリーツスカートへと染み込んでいく。
 シギュン・グラムは違和感を覚えた。
 ちとせの吐血にではない。
 吐血を追った視線が捉えた、ちとせの右手に。
 神扇が、しっかりと握られている。
 胸を潰される苦痛を和らげるために支えていた両手を力尽きて放したというのに、神扇を力強く握りしめ続けている。
 ちとせが顔を上げた。
 その双眸には光が宿っている。
 精神を、集中している。
 女性の象徴を破壊されながら、歯を食いしばって集中している。
 絶叫が途切れたのは、気を失ったからではない。
 両手を放したのは、力尽きたからではない。
 反撃の力を溜めるために、あえて自分の左胸を潰されるがままにしていたのだ。
 太陽のような高熱が生まれた。
 神扇を握っている右手にではない。
 左手。
 すでに振り上げている。
 その手のひらの上には、煌々と輝く霊気球。
 シギュンの顔へ、叩きつけるつもりだ。
 ちとせが左手を振り下ろす。
 シギュン・グラムは微塵も慌てる素振りを見せず、咄嗟に左腕を掲げた。
 霊気球の圧力にシギュンの左腕が軋む。
 だが、それだけだった。
 気合いの呼気とともに振われたシギュンの左手の氷爪は、霊気球をこともなげに切り裂き、四散させた。
 砕けた霊気球の熱風は瞬時に冷却し、まるで四散した霊気が凍りついたかのようにダイヤモンドダストが舞う。
「惜しかったな。精神力は称賛に値するが」
「褒めるには、早いわよ」
 必死の不意打ちを防がれても、ちとせの声にあきらめの色はない。
 濛々と視界を奪っていた霊気の残滓が晴れる。
 ちとせの右手が神扇を握ったまま、義手を掴む。
 シギュンは全身を緊張させた。
 神代ちとせの反撃は終わっていない。
 今度は義手を攻撃するつもりか。
 それとも、その素振りだけを見せて、義手以外の生身へ攻撃するつもりか。
 どちらにしても、無駄なことだと思いながらも、神代ちとせがどのような反撃に出るのか、シギュン・グラムは興味を引かれた。
「義手に霊気を打ち込んだ程度では、逃れることはできない」
「……そ、それはどうかしら、ね」
 ちとせの額から激痛により滲み出た汗が流れる。
 その表情は、胸を握り潰され続ける苦痛に歪んでいる。
 だが、ちとせは端から血の筋を垂らす唇を無理矢理に、笑みの形に変えた。
 次の瞬間、シギュン・グラムの瞳孔が収縮した。
「なっ……」
 突如襲った感覚に、シギュン・グラムの緊張に強張っていた筋肉が弛緩した。
 ちとせの左腕が伸ばされている。
 狙いは義手ではない。
 義手ではなく、右腕の生身の部分。
 ちとせは、シギュンの二の腕から脇の下にかけてを、あろうことか、くすぐっていた。
 後にも先にも、シギュン・グラムを戦いの最中にくすぐるなどという行為に出たのは、神代ちとせだけであろう。
 それは先程の霊光球による不意打ちなどとは比べものにならないほどの虚を突いたものとなった。
 まったくの予想外の攻撃。
 威力はない。
 だが。
「ふっ……くっ……」
 "氷の魔狼"が、くすぐったさに呻き、微かに身を捩った。
 義手からも力が抜け、ちとせの左胸が地獄の締め付けから解放される。
 地面へと落ちたちとせは息吐く間もなく、すぐに跳躍した。
 全身のバネを使って回転する。
 ポニーテールが円を描き、プリーツスカートの裾が翻る。
 そして、脚を撥ね上げた。
 ローリングソバットの要領で、シギュン・グラムの顎を狙って蹴りを放つ。
 乾いた打撃音が、『ナグルファル』の凍った屋上に響き渡った。
 シギュンの顎を砕いた音ではない。
 体勢を立て直したシギュンの義手によって、ちとせの蹴り足が防がれた音だった。
 反撃が不発に終わったちとせがそのまま蹴りの反動を利用して、後方へと着地して間合いを広げる。
 ちとせの軽やかな動きはそこまでだった。
 呻きながら、崩れるように片膝をついた。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 両肩を大きく揺らすほどに息が荒く乱れ、苦痛に搾り出された汗で全身をぐっしょりと濡らしている。
 右手で押さえたブラウスの左胸部分には、豊かなふくらみを囲むようにシギュンの義手の指が突き破った五つの破れ目が開き、血が滲み出している。
 どれだけの強烈な破壊圧によって左乳房が握り潰され、年頃の少女として最大限の苦痛と屈辱を身に浴びたショックが窺い知れた。
 一方のシギュン・グラムは、ちとせの虚を突いた行動に揺らいだのは一瞬だけで、その白皙の顔には、すでに氷像の完璧な美しさを取り戻している。
「……面白いことをしてくれるな」
「……あ、あなたが望んだんでしょ」
 ちとせが胸に刻みついて離れない激痛に耐えながら、気丈にシギュン・グラムを睨みつける。
「フ」
 シギュン・グラムが肩を震わせた。
 その唇が再び、笑みの形に歪む。
 喜びに打ち震えている笑みであり、これ以上に残酷で冷酷な形はないという笑み。
「フフフッ、ハハハハハ……」
 戦いが始まってから時折声を出さずに笑みを浮かべていた"氷の魔狼"が、ついに高揚感に耐えられなくなったように身も凍りつく笑い声を上げた。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……、そんなにくすぐったかった?」
 背中に走る悪寒を無理矢理に抑え、ちとせが、"氷の魔狼"を挑発するように言いながら、立ち上がる。
 だが、両脚を内股に開いてどうにか踏ん張っている状態で、倒れないでいるのが精いっぱいだ。
 一歩も動くことができない。
 気力はあるが、身体がついていかない。
「神代ちとせ」
 総毛立つ哄笑を納め、シギュン・グラムが絶対零度の声で、ちとせの名を呼んだ。
 そして、動けないでいるちとせを虚ろに見返しながら、懐から煙草を取り出す。
 口に銜え、マッチで火を点ける。
 病んだ瞳には、高揚感がありありと浮かび、今までと違う獰猛さを揺らめかせている。
 紫煙を吐きながら、義手をちとせへと向ける。
 その金属製の手のひらに乗っているものを見て、ちとせの顔が蒼ざめた。
「それは……!」
 見覚えのある勾玉。
 葵に造ってもらった治癒術の勾玉だ。
 思わず、ブレザーの内ポケットを探る。
 ない。
 いざという時のために忍ばせておいた勾玉がない。
「前回の戦いで、このマジックアイテムを使って風使いの少年の傷を癒すのは見ていた」
 銜え煙草のまま、シギュンが義手の手のひらの上で勾玉を転がす。
「これをどうするか、わかるか?」
「……好きにすればいいわ」
 シギュンの問いに、ちとせは掠れた声で答えた。
 姉が丹精を込めて造った治癒術の勾玉は、相棒である八神悠樹が傍にいない今、ちとせの心の支えでもあった。
 砕かれれば、この傷ついた身体で戦い続けなければならない。
 シギュンに使われれば、その力の差はどうしようもないまでに広がる。
 どちらをシギュンが選択しても、ちとせの心に絶望を植え付けることは可能だった。
 だが、シギュン・グラムは、勾玉を砕くことも使用することもしなかった。
 指で、弾いた。
 放物線を描き、ちとせの目の前に落下する。
 ちとせは手を伸ばして、勾玉を掴んだ。
 微かに溢れ出る姉のやさしい霊気が感じられる。
 ちとせは、勾玉を握り締めた。
 そして、シギュン・グラムを睨みつける。
 奪い取った回復手段を、わざわざ見せつけた後に返す。
 その意味は、酸欠状態のちとせの脳でも理解できた。
 ――今すぐ、使え。
 それがシギュンの行動が暗に示している意味。
 ちとせの解釈を肯定するように、シギュン・グラムが冷酷な声で告げる。
「私を高揚させるのは、おまえの義務だ」
「本気の本気を出すってこと?」
「……私はまだ、満ちてはいないのだ」
 シギュン・グラムは、ついに全力を出す気のようだ。
 "氷の魔狼"の全力。
 それを受け止めることを、ちとせに強要している。
 今までシギュンが本気ではなかったことは、わかっていた。
 だが、正面切って宣言されると、さすがにちとせもポーズではなく本心から頬を引き攣らせた。
 もっとも、すぐに酸素が不足して、咳き込んだが。
 息を整え、キッとシギュンを睨み直した。
 シギュン・グラムの氷像のような(ろう)たけた美しさには及ばないが、気力と厳しさを加味したちとせの顔は、戦士の美しさを感じさせた。
 しかし、すぐに、その表情を崩す。
 崩すというよりも、柔らかさを出したというべきか。
 手に握った勾玉の温かさが、姉の笑顔を思い出させ、ちとせにそうさせた。
 迫りくる死に対抗するには、本来的な自分を忘れてはならないような気がしたのだ。
「では、遠慮なく」
 ちとせはできる限り、しれっと言った。
 そして、勾玉を肌蹴た胸元に当てる。
 ――姉さん、力を借りるよ。
 ちとせの全身を淡く輝く青白い光が包み込む。
 流れ出ていた血が止まり、傷口がゆっくりと塞がっていく。
 内臓を破壊された腹部の鈍痛も、もぎ取られる寸前だった胸に残っていた痺れるような痛みも、鎮まった。
 大きく息を吐き、神扇で太腿を叩いた。
 開幕の時と同じように、パシュンという音ともに霊気が全身を駆け巡る。
「宇受賣さま、来て」
 呼びかけに応じて、芸能の女神が安堵の表情を浮かべながら、ちとせの中に舞い戻った。
 ちとせの衣装が再び、巫女装束へと変わる。
 だが、衣装のダメージまでは修復されなかったようで、胸元は臍のあたりまで裂けたままで、左胸の部分には五つの穴が穿たれ、両肩の部分も千切れかけている。
 無残な姿だが、それは"氷の魔狼"に喰われた痕跡なのだ。
 そして、これからさらに凄惨な姿にされかねないのだ。
「さあ、限界を超えた力を示してみせろ」
 シギュン・グラムの全身から溢れ出た絶対零度の冷風が吹き荒んだ。
 『ナグルファル』の屋上に存在するシギュンとちとせ以外のすべてのものが凍りついていき、純白の世界が造り上げられる。
 ――この白銀の世界が、血の紅に染まる戦いが始まる。


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