魂を貪るもの
其の九 氷の魔狼
2.太陽

 日本神話の太陽神の巫女神たる天宇受賣命と、北欧神話の太陽(ソール)を喰らう天狼(スコール)の祖たる"氷の魔狼"フェンリル。
 光と闇、そう単純に割り切れるものではないが、相容れぬ二つの存在であることは間違いない。
 その戦いは必然にして不可避。
 だが、その戦いは運命に踊らされたものではなく、二人の意思が望んだもの。
 ちとせがシギュン・グラムに向け、神扇を構え直すと同時に、まるで二人の戦いの仕切り直しを告げるように雷鳴が響き渡った。
 大気を震わせる轟音。
 屋上の床が、いや、大地が揺れる。
 風が唸る。
 すべての現象が伝えるのは、魔界浮上が近いということだ。
「はあっ!」
 身体中に走る痛みをこらえながら、ちとせが駆けた。
 リボンに束ねられた長い髪が跳ねる。
 シギュンが左腕の氷爪で迎え撃つが、ちとせは身を低くしてそれを避けた。
 そして、神扇で打ち上げるような一撃で、シギュンの顎を狙う。
 シギュンは仰け反ってそれを躱わし、反撃の蹴りを打つが無理な体勢から放たれたそれは威力が乗っておらず、ちとせは神扇を翳してそれを受け流した。
 ちとせは止まらない。
 いや、止まれない。
 止まれば、シギュンが攻めに転じるからだ。
 シギュンの速さは先程の攻防で思い知っている。
 防御さえ無効化され、重いボディブロウで体勢を崩され、痛めつけられた。
 また攻められれば、対応できる自信がない。
 左手のひらに霊気を収束させ、ちとせが跳ぶ。
 見上げるシギュンに向かって、霊気を球状にして放つ。
 動きを止めるための、牽制。
 そのつもりだった。
 だが。
 シギュン・グラムは義手の右腕を掲げ、ちとせの放った霊気球を容易く握り潰した。
「んなっ!」
 ちとせはシギュンの動きを止めたところにラッシュを叩き込む予定していた。
 その当てが外れたばかりか、空中で無防備な状態を晒すことになり、息を呑む。
 シギュンの姿が視線の先から消えた。
 ボディブロウの痛みを思い出し、対空攻撃に備えて防御を固める。
 だが、しかし、今度もまた、防御は打ち破られた。
 冷やかな金髪が広がるのは、ちとせの下ではなく、遥か頭上だった。
 ちとせを超える跳躍からの反撃。
 空中でありながら、自在に身を捻り、シギュンの長い脚から蹴りが繰り出される。
 革靴が狙うのは、ちとせの後頭部。
 まともに食らえば、意識が飛ぶ一撃。
 ちとせは間一髪、神扇で蹴りを防ぐが、無理な体勢で受けた重い一撃に衝撃を吸収しきれなかった。
 床へと墜落し、這いつくばるような格好で、シギュンを見上げる。
 だが、空中に魔狼の姿はなかった。
 殺気は、すでに目の前。
 ――いけないッ!
 ちとせが慌ててバク転しながら、後方へと下がる。
 視界に、迫る魔爪。
 避け切れてない。
 ちとせが戦慄とともに、態勢を崩して頭をさらに後ろに下げる。
 鋭利な攻撃が、前髪を掠める。
 次にちとせが認識したのは、浴び続けてきた殺気以上の濃厚で鋭利に爆発した殺気。
 その直撃を受け、総毛立つ。
 殺気の正体は、黒光りする"氷の魔狼"の鋼鉄の義手。
 鉄爪は、ちとせを逃しはしない。
 ズブリッという生々しい音ともに襲ってきた激痛に、ちとせが全身を震わせる。
 左肩へ、魔狼の義手から生えた鋭い鉄爪が根元まで埋まっている。
 苦痛に動きが止まったところに、強烈な蹴りが腹部に叩き込まれた。
「あッ、がぁッ……!」
 すでに開幕のボディブロウ二連撃によって粉砕されている腹部へ深くめり込む、シギュンの革靴の底。
 内臓への損傷が激しさを増し、血を吐き出しながら、ちとせは吹き飛ばされた。
 ちとせの血で濡れた鉄爪を、シギュンが、レロリとなめる。
 獲物――神代ちとせ――の血の味は、自分の鉄分の味と比しても遜色がないというように、シギュン・グラムの虚無を湛えた双眸が微かな満足と高揚に揺れる。
 ちとせはその様子に悪寒を覚えながらも、必死に立ち上がった。
 見る見るうちに巫女姿の左上半身が、傷口から流れ出た血によって赤く染まっていく。
 消耗する体力、遠くなりかける意識、乱れる呼吸。
 口の中に溜まった血の残滓を吐き捨て、消えそうになる気力を奮い立たせる。
 だが、戦いが始まってから、シギュンへ有効打がまったく与えられていないことは、どのような苦境にあっても余裕を失わないちとせの精神力をもってしても焦燥感を感じずにはいられなかった。
 魔狼は、ちとせの動きを読んでいる。
 虚を突くのが、ちとせの正攻法。
 それが、できない。
 ちとせ自身はすでに息も絶え絶えなのに、シギュン・グラムは息一つ乱していない。
 ふと、ちとせの脳裏に恐ろしい疑問が過ぎった。
 ――この"氷の魔狼"は、このシギュン・グラムは、今まで全力を出したことがあるのだろうか。
 どこまでも、どこまでも、冷たい、底の見えぬ、力。
 尽きぬ絶対零度の、冷気。
 しかも、"氷の魔狼"は、魂の代わりに肉体に存在している摩耗した奈落をそのままに、この戦いを、ちとせを殺す過程を、楽しもうとしている。
 冷静に、どこまでも冷たく、計算しながら、驕らずに、戦っている。
 天才が、その巨大な才能を試すように、楽しもうとしているのだ。
「悪くはない。悪くはないが、足りんな」
 ちとせにとって絶望的な言葉が、シギュンの唇から紡ぎ出された。
「おまえの力をもっと引き出すにはどうするべきなのか」
 虚無の狂眼に殺気と高揚感を漂わせ、獲物へと問いかける。
「全身の経絡を破壊するか。そうすれば、ヘルセフィアスの呪縛を破った時くらいには力が出るかな?」
 以前、『ヴァルハラ』でヘルセフィアス・ニーブルヘイムと対峙した時に、ちとせは額の経絡を損傷して莫大な霊気を放出したことがあった。
 シギュンはその時、確かに言った。
 ちとせの霊気の爆発は、一瞬だけだが自分を超えたかもしれない、と。
 "氷の魔狼"はその時の力を、ちとせに求め、再現させようとしているのかもしれない。
 自分の欲求を満たすためだけに。
「好き勝手言ってくれちゃって」
 ちとせが左手の指を開いたり閉じたりを繰り返す。
 大丈夫だ。
 抉られた肩からの酷い痛みはあるが、神経も筋肉も正常に反応する。
 左腕の動きに支障は出ない。
 シギュンがわざと獲物の動きに支障が出ないように損傷を抑えたとも思えたが、ちとせは自分の実力で急所を避けたと思い込むことにした。
 ――飲まれるなッ!
 自分を叱咤し、気合を入れ直す。
 再度、疾走する。
 口の中で術を唱える。
 体力、霊力、殺気、経験、戦いに必要なもののほとんどが、"氷の魔狼"に及ばない。
 唯一の取り柄である知までも、今までのところは読まれてしまっている。
 だが、対抗できるのは、知だけだ。
 正面から戦っても勝てないのだ。
 裏をかいた知を何度でもぶつけるしかない。
 神扇に霊気を収束し、作り出した霊気球を放つ。
 また簡単に握り潰されるかもしれないが、恐れていては始まらない。
 青白い軌跡を残しながら、霊気で輝く光の球体が、シギュンの虚ろな病んだ瞳に映り込む。
 魔狼は、やはり簡単に右手で、それを弾いた。
 軌道の反れた霊気球は明後日の方向へと飛んでいった。
 それでも萎えない。
 もう一度、さらに霊気を収束して、一回り大きく形成した霊気球を放つ。
 だが、それは、やはり弾かれ、あろうことか、ちとせ自身へ向かって返されてきた。
 渾身の攻撃の直後であり、咄嗟に避けることができない。
 霊気球はこともあろうに、ちとせの散々に痛めつけられている腹部に炸裂した。
「はッ、ぐぁッ……がぁッ……ッ!」
 ちとせの両目が零れ落ちんばかりに見開かれる。
 練気して放っただけに、霊気球には威力が凝縮されていた。
 巫女装束の中央を抉り、腹部に埋まった衝撃と圧力によって体内を破壊される灼熱の激痛に、ちとせの身体が悲鳴を上げる。
「ごほっ、……うぁっ……、げほっ!」
 両手で腹部を押さえ、崩れるように両膝が折れる。
 咳き込んで吐いた血が、床を赤く濡らした。
 下がった視線が、自分の吐いた血に向けられる。
 その先には、ゆっくりと近づいてくる"氷の魔狼"の革靴。
 シギュン・グラムは、床に広がる今までにちとせの身体から流れた血と吐血を踏み躙りながら、一歩一歩近づいてくる。
 ちとせは、霞む目でそれを見ながら、あれだけの血を失うほどに打撃を受けたのだから、自分に残るダメージが大きいのは仕方がないことだと思った。
 そう思いながらも、瞳から光は消さない。
 あきらめない。
 あきめたら、殺されてしまう。
 気力を振り絞り、必死に立ち上がる。
 そして、神扇をバッと広げる。
 舞った。
 舞いながら精神を、集中させる。
 霊気を全身に充実させ、神扇に収束させながら練り上げる。
 とんっと床を蹴り、ふわりと跳躍した。
 宙を翔るちとせを見上げた、"氷の魔狼"が足を止めた。
 ちとせの手にした神扇が眩いばかりの閃光を放っている。
 神々しいまでの輝き、膨大な熱量。
 それは、太陽。
 暗雲で覆い尽くされた空に出現した太陽をシギュン・グラムの虚ろな眼差しが凝視する。
 シギュンの黄金の髪がざわめいた。
 義手の右腕の鋼鉄でできた五指が、ちとせへと向けて開かれる。
 シギュン・グラムにとって、まさしく万人における太陽のごとく価値あるものであるというように。
 硝子のような紺碧の瞳に、ちとせの姿が、シギュンの関わったいかなる人間よりも鮮明に明確に映し出されている。
 ジークという男は、シギュンにとって好意的に解釈することのできる存在だった。
 強さを価値基準とし、肉体と精神を修練し、戦士としての高みを目指し続けた。
 強さを求めるという点で、理解できる男だった。
 だが、シギュン・グラムが求めた強さは、ジークの求めたそれとは決定的に違っていた。
 ジークは己自身と、そして、対峙する相手に、強さを求めた。
 シギュン・グラムは、違う。
 相手に対してだけ、強さを求めた。
 自分の命と天秤にかけられるだけの相手だけを求めた。
 自分の空虚さを満たすほどの相手を無意識に求め続けていた。
 "凍てつく炎"織田霧刃は、あれほどの憎悪を持てる人間がいるのかと思えるほどの憎悪を放っていた。
 何もかもを憎み、何もかもを許さなかった。
 それがすべてを無慈悲に磨り潰す強さへと収束した。
 シギュン・グラムは、違う。
 世界に対して無関心だった。
 憎悪さえ持てなかった。
 何も、ない。
 あるのは、殺意だけ。
 指向性のない渇いた殺意だけがある。
 ファーブニルという男は、忠誠心の塊のような男だった。
 あれほどに組織へ忠誠を尽くし、世界への変革へ熱意を傾けることができる人間がいるのかと思えるほどに熱い男だった。
 そうでありながら、組織を裏切ったシンマラやその愛弟子二人にさえ、熱意を伝えることのできる男だった。
 シギュン・グラムは、違う。
 ない。
 伝えるべき熱意も、熱意を残す相手も、ない。
 その摩耗しきった"氷の魔狼"の心にわずかばかりに食い込むことができたのは、枯渇した心を持つ"夢魔"ミリア・レインバックだけだった。
 だが、神代ちとせは、夢見ることのできないミリアへの似て非なる同調とは、真逆の興味をシギュン・グラムに持たせた。
 不屈の精神でシギュン・グラムの牙を退けて見せた。
 太陽のような、力強さで、シギュンを無感心にさせず、突き動かした。
 生まれながらの天才にして、孤高の殺戮者である、シギュンの底なしの奈落に吊り合うだけの魂を、シギュン・グラムが喰らうだけの価値がある魂を、持っている。
 何もない、底すらない奈落の、シギュンの狂眼に映る価値を顕したのだ。
 そして、神代ちとせは今も太陽のようなチカラを示している。
 喰らう価値のあるチカラを、魅せている。
 尋常ではない練気により物理的な風さえも生じ、天を覆い隠している暗雲さえも渦巻いている。
「いっけぇぇッ!」
 ちとせの全霊の一撃。
 それが解き放たれた。
 ちとせの莫大な霊気を纏い、砲弾と化した神扇が、上空からシギュン・グラムへと突き進む。
 シギュンは避けるという選択肢を消していた。
 興味と高揚が、その虚無の瞳の中で、膨張する。
 喰らい、尽くす。
 それが、迫りくる神扇へのシギュンの対応。
 前に突き出されていた右腕の義手が、ちとせの練りに練った霊気の込められた一撃を受け止める。
 ビキビキと軋むシギュンの鋼鉄の義手。
 霊撃の波動の余波と衝撃で、受け止めたシギュンを中心として屋上の床に亀裂が入った。
 シギュンは床を踏み締めるが、圧力によって意志に反して押し込まれ、引き摺られた両脚が屋上へと抉れた軌跡を描く。
 だが、シギュン・グラムが吹き飛ばされることはなかった。
 吹き飛んだのは、神扇に収束した霊気。
 義手の右腕に、ちとせの必殺の一撃は粉砕されてしまった。
「!」
 それを見たちとせが頬を引き攣らせながら、床に着地した。
 同時に、勢いをなくした神扇が、煙を上げるシギュンの鋼鉄の手のひらに収まる。
 シギュン・グラムが、受け止めた神扇を握り締める。
 神扇の聖なる力が、シギュンの血の通わぬ右腕を駆け巡り、焼こうとしているが、その程度の力は、魔狼の気にする必要さえないもののようだった。
 面白くもないというように俯くと、黄金の長い髪が表情を隠した。
 黄金の髪の下で、唇が無機質に言葉を紡ぐ。
「神代ちとせ、まさか、これで全力か?」
「……残念ながら」
 シギュンを睨むちとせの息は荒い。
 莫大な霊気を消費したために、立っているのも辛い。
 しかも、その一撃は、シギュン・グラムに対してダメージも与えることができなかったのだ。
 だが、ちとせは、ニッと笑った。
 と、同時に指を鳴らす。
「違いますよっと」
 床を濡らしていたちとせの血が眩い光を放ち始め、シギュン・グラムを取り囲むように五色の光の柱が天を突いた。
 シギュンは自分の足が動かないことに気づいた。
 そして、足下を中心にして床に形成された五芒星にも。
 ちとせが血の滴る唇で、呪を紡ぐ。
「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず……」
 五芒星結界から生じた力が、俯いた体勢のままの動きを止められたシギュン・グラムを圧殺する。
 シギュン・グラムの義手の右腕が軋んだ音を立てる。
「この技は……」
 流れる黄金の髪の狭間から見える"氷の魔狼"の目が微かに見開かれている。
 そう、この技は『ヴァルハラ』でシギュン・グラムを追い込んだ、ちとせの奥の手。
五色霊方陣(ごしきれいほうじん)ッ!」
 ちとせの気合いの入った声が響き渡る。
 そして、目の前で印を切り、全霊を収束。
 巨大で神々しいほどの光を放つ霊気球が、形成されていく。
「食らえぇぇッ!」
 その大きさが自分の身長を超えたところで、ちとせはシギュンに向かって霊気球を解き放った。
 同時に、五芒星結界の頂点から、ちとせの放ったとの同規模の霊気球が、不可視の鎖に自由を奪われているシギュンへと放たれた。
 計六つの巨大霊気球が炸裂する爆音が鳴り響く。
 猛烈な爆風で、埃や塵が舞い上がった。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 悪くなった視界の中で、ちとせは爆風の中に消えたシギュン・グラムのいた場所を睨み続ける。
 ヒュッと冷気が、ちとせの頬を嬲った。
 大気に漂う埃が、凍りつき、ダイヤモンドダストと化す。
 次の瞬間。
 煌めく、冷たい空気を反射する黄金の髪が、目に入り、ちとせは硬直した。
 そして、見た。
 冷やかに踊る金髪の間から覗く、"氷の魔狼"の唇が邪悪な笑みの形に吊り上がるのを。
 ――笑ってるッ!
 ちとせは、戦慄した。
「……そ……んな……」
 激しく肩を上下させて必死に酸素を貪るちとせの口から呆然とした呟きが漏れる。
 シギュン・グラムは、無傷だった。
 自分自身に注意を引きつけ、霊気を大量に消耗するほどの力を注いだ神扇の一撃を誘いに使ってまで放った五色霊方陣でさえ、まったく通じないとは。
 さすがのちとせも愕然とせざるを得なかった。


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