魂を貪るもの
其の九 氷の魔狼
1.対峙

「ここは……?」
 ちとせが目を丸くする。
 視界に映るのは、暗闇。
 肌に感じるのは、瘴気混じりの大気。
 込み上げるのは、吐き気。
 神代ちとせは、一変した景色を見回した。
「屋上?」
 見覚えのない場所ではあったが、建物の屋上であることは分かった。
 ただし、空は灰色の雲に包まれ、太陽の光はない。
 時折、暗雲の間を走る稲光が辺りを照らす唯一の光だった。
「『ナグルファル』の屋上なの?」
 自分がこの場所にいるのは、エントランスホールでの戦いが始まった途端に乱入してきたミリア・レインバックの仕業であろうことにはすぐに思い至った。
 意識が転換する直前に、必死に手を伸ばしてきた悠樹は、ミリアの罠に気づいていたのだろう。
 仲間たちを分断するための罠の存在に。
 だが、悠樹は間に合わなかったようだ。
 それは仕方がないことだが、鈴音や悠樹のことは気にかかる。
 そして、それ以上にファーブニルと戦い始めていた真冬たちのことも心配だ。
 早く合流しなくては。
 そう思った、次の瞬間だった。
 全身が、ざわりと総毛立った。
 脚がすくみ、背筋が凍りつく。
 頬を冷たい汗が伝った。
 ――いる。
 敵が、いる。
 それも、この感覚は……。
 この、まさに、身も凍るような感覚は……。
「神代ちとせ」
 後ろから声を掛けられ、ちとせは全身を硬直させた。
 漂ってくる紫煙の香りは、心に刻まれて忘れることなどできようもない。
 全身をアドレナリンが逆流し始める。
 震える。
 武者震いなどではない。
 純粋な恐怖が、全身を震わせている。
 自分の生唾を飲み込む音で、ようやく我に返った。
 ゆっくりと声の主を振り返る。
 視界に映るのは、紫煙。
 肌に感じるのは、殺気混じりの冷気。
 込み上げるのは、今まで感じていた以上の吐き気。
 豪奢な黄金の髪が、瘴気の濃い風に揺れる。
 最高級ブランドのものと思われる黒地にストライプの入ったスマートなシルエットのパンツスーツが、稲妻に照らし出された。
 奈落の底を思わせる何も映さない狂眼が、ちとせに向けられている。
 "氷の魔狼"シギュン・グラム。
「まもなく『魔界』は浮上し、世界は没する」
 異なる二つの世界が併合し、混沌が押し寄せ、運命神の干渉を完全に排除するための血で血を洗う新たな世界が誕生する。
 それこそが、『ヴィーグリーズ』の企てている計画『ムスペルヘイム・プロジェクト』の最終目的なのだ。
「だが」
 狂眼の中にちとせだけを映したまま、シギュン・グラムが煙草を指で弾いた。
「それは、どうでもいいことだ」
 『ヴィーグリーズ』総帥ランディ・ウェルザーズの側近にして、筆頭幹部のはずであるシギュン・グラムの口から『ムスペルヘイム・プロジェクト』の目的に関心がないという言葉が出ても、ちとせは驚かなかった。
 ただ、短めのプリーツスカートの裾とオーバーニーソックスの間から覗く太腿を、笹の葉を何枚も重ねたような形状から『笹葉』とも呼ばれる『神扇』でパシッと叩いた。
 パシュンと音を立てながら、ちとせの全身を霊気が駆け巡る。
 シギュンが落ちた煙草を踏み潰し、一歩前に出た。
「そう、どうでもいいことだ。この対峙の瞬間に比べれば。わかるな、神代ちとせ」
「……わからないわね」
 ちとせが神扇をシギュンに向けて軽やかに構える。
 同時に美しき芸能の女神が、器たる少女の正面に舞い降る。
 天宇受賣命は、やさしげに微笑み、深く頷いた。
 そして、シギュンへと振り返り、射抜くようにねめつけながら後ろへ下がり、ちとせと重なった。
 女神がちとせの中へ消え、ちとせの姿がブレザー姿の女子高生のものから、天宇受賣命が纏っているものと同様の巫女装束へと変わる。
 ちとせは天宇受賣命にも劣らぬ眼力(めぢから)を持つ猫のような大きな瞳をシギュン・グラムへと向け、彼女の問いかけを否定した。
「どうでもいいわけがないじゃない」
 このまま『この世界』が『魔界』と融合すれば、到来するだろう大混乱の中で無数の命が消えていくことになるだろう。
 そして、『ムスペルヘイム・プロジェクト』の成就のために、多くの命がお互いを削り合い、弱者は淘汰されていくことになるに違いない。
 計画の実行者の一人であるこの"氷の魔狼"はそれをわかっていながら、まるで無関心な他人事の物言いをする。
 あらためて認識させられた。
 "氷の魔狼"の本質は、周囲の反応など無関係に、自らの虚ろさを埋めようと周りの者を貪り喰らう破壊者なのだ。
 ちとせにとって、それは純粋に許しがたいことだった。
「そうか。だが……」
 シギュン・グラムの虚ろな狂眼が微かに、ほんの微かに、揺らめいた。
 それに気づいたちとせの表情が強張る。
 そして、頬を引き攣らせながらも、笑う。
「……それはわかるよ」
 かろうじて、言葉を搾り出す。
 何がわかるのか。
 それは、目の前の魔狼と命尽きるまで戦わねばならないということ。
 シギュンにとって、この対峙の瞬間――シギュン・グラムと神代ちとせの殺し合い――こそが、世界が没することよりも、重大で崇高なものだということ。
 許せないことだからこそ、ちとせは理解していた。
「そうだ。命を削り、魂を燃やせ」
 "氷の魔狼"は少女が恐れ慄きながらも逃げないことに満足を覚えた。
 彼女は逃げられないから逃げないのではない。
 逃げようと思っていないから逃げないのだ。
 恐怖に屈するでもなく、恐怖を拒むでもなく、恐怖を受け入れ、その上で立ち向かってくる少女なのだ。
「それでこそ、私の見初めた獲物なのだ」
 シギュン・グラムの背後に巨大な狼の姿が揺らめき、咆哮を上げる。
 北欧神話の神々の黄昏(ラグナロク)において、戦と魔術の神として強大さと狡猾さを併せ持った主神オーディンすらも喰い殺した最強の魔獣フェンリル。
 その強大な力は、シギュン・グラムの降魔師としての巨大な器を表しているようにも思えるが、同時にその巨大な器が実は空っぽであるかのように虚無的な狂眼は何も映さない硝子を思わせる。
 その両方の印象が綯い交ぜとなり、シギュン・グラムという存在は奈落を想起させた。
 だが、その"氷の魔狼"から溢れ出る冷気は、奈落そのものであるといわれる深淵の魔王アバドンですら凍死してしまうような絶対零度の冷たさを持っている。
 『魔界』の風を含んだ大気が冷やされ、床が霜によって白く染まり始める。
 冷たく輝く黄金の髪を手櫛で後ろに流し、シギュンは唇の端を酷薄に、そして、微かに吊り上げた。
「せっかくレインバックがお膳立てした邪魔の入らない舞台だ。楽しませてもらう」
 もちろん、ちとせは楽しむことなどできない。
 ただでさえ、恐怖が全身を走っているのだ。
 それに、彼女の目的は、『魔界』浮上を阻止することであって、シギュン・グラムと殺し合いをすることではない。
 悠樹たちの安否も気にかかる。
 シギュン・グラムは、そのようなことはお構いなしにゆっくりと近づいてくる。
 屋上の空間すべてを圧倒的な殺気混じりの冷気と威圧感が覆い尽くす。
 文字通りの凍れる沈黙が、二人の間を流れる。
 と、シギュン・グラムの姿が残像を引いて消えた。
「!」
 意識する間もなく、ちとせは両腕を胸の前で交差して防御の体勢を取る。
 だが、次の瞬間には腹に埋まる重い衝撃に、両目を大きく開かされていた。
 シギュンの血の通わぬ義手で作られた拳が、交差した両腕の下を掻い潜り、腹に深々と埋まっている。
 鋼鉄の拳に突き上げられる重い衝撃に、ちとせの身体が宙に浮く。
「がはぁ……ッ!」
 ちとせの口から、血の欠片が混じった空気が吐き出される。
 初撃からの痛打。
 だが、シギュンの攻めはそれで終わりではない。
 鋼鉄の右腕がちとせの腹から引き抜かれると同時に、再度、腹部へ、今度は左の生身の拳が唸りを上げて突き刺さった。
 その拳は、鋼鉄の義手から放たれたものと比べても何の遜色もないほどの威力だった。
「ごふっ……!」
 再び、血の混じった空気を吐き出す。
 揺らぐ意識。
 メリメリという軋んだ音を立てて、シギュンの拳がちとせの腹部に食い込んでいく。
「……あッ……うッ……」
 一撃目と同様の、杭を打ち込まれたかのような、重い二撃目。
 強烈なボディブロウ二連撃に腹部を粉砕され、意識の混濁したちとせはよろめいた。
 胸の前で交差していた両腕が下がる。
 防御の揺らいだ胸元へ、強烈な廻し蹴りが打ち込まれ、ちとせは後方へ吹き飛ばされた。
 そのまま、外周を囲む壁以外で屋上に存在する唯一の遮蔽物――出入口――の壁に背中からまともに叩きつけられる。
「がっ……!」
 衝撃に肺の中の空気が無理に押し出され、咳とともに口から血が零れる。
 そのまま、膝が折れ、壁に寄り掛かかりながら、ずり落ちかかる。
 だが、倒れることは許されなかった。
 霞む目の前で、黄金が揺れる。
 それが、シギュン・グラムの髪だと気づいた時には、強烈な後ろ廻し蹴りがちとせの右胸に打ち込まれていた。
「ふぐぅっ!」
 衝撃で、再度壁に叩きつけられる。
 シギュンは靴底でちとせの右胸を押し潰したまま、懐に手を伸ばし、煙草の箱を取り出した。
 煙草を一本、口で器用に咥える。
 続いてマッチを取り出して、火を点けた。
「脆い。まさか、このまま簡単に壊れるつもりか?」
 シギュンが気だるそうな視線を向けて、ちとせの胸を潰す靴底へ捻るように力を込める。
「はぐぅ……っ!」
 豊かな胸が無残に磨り潰され、ちとせの苦痛に歪んだ唇から呻き声が漏れる。
 だが、ちとせはすぐに顔を上げ、視線に力を込めて、シギュンを睨みつけた。
「ごほっ、ごほっ、……じょ、女子高生に期待しすぎよ」
 苦しげに言葉を吐き出すちとせ。
 その手に握られた神扇に霊気が収束していくのを感じて、シギュンの瞳の奥に微かな高揚感が灯る。
「そうだ。その減らず口だ。その抜け目のない強かさだ」
 紫煙を吐き、シギュンがちとせの胸を押し潰していた脚を退ける。
 もちろん、ちとせを解放したわけではない。
 さらなる攻撃を加えるためだ。
 身体を一回転させ、抑えつけられていた力を失って揺れるちとせの頭部を蹴り飛ばす。
「うぐっ!」
 ちとせは屋上の床を勢いよく転がった。
 ダメージが大きく、即座には立ち上がることができない。
 だが、シギュンもすぐに追撃には移らなかった。
 咥えていた煙草の先端が消し飛んでいる。
 その氷の彫像を思わせる完璧な美貌の右頬にうっすらと朱線が走った。
 血が滲み、ツッと滴る。
 蹴り飛ばした瞬間に、ちとせが神扇で反撃を放っていたのだ。
 シギュンは火の消えた煙草を吐き捨て、頬の血を拭った。
 この戦いで初めて流れた己の血を、ぺろりと舌でなめる。
 鉄分の味は悪くなかった。
 唇の端が先程よりもはっきりとした笑みの形に吊り上がる。
「その調子だ。そろそろ私も魔爪を使わせてもらおうか」
 シギュン・グラムが義手の甲から鉄の爪が伸び、左手の甲から氷の爪が伸びる。
 全身から放たれる殺意が増大し、冷気が今まで以上の鋭利さを研ぎ澄ました。
 それは、今まで、彼女が全力ではなかった証拠。
 それは慢心からではない。
 怜悧冷徹な計算による手加減なのだ。
 シギュンは、ちとせの強かさを誰よりも知っている。
 そうでありながら、ちとせに本気を出させるために、追い詰めようとしている。
 満足いく戦いに身を投じ、ちとせを全力で殺すために。
 それこそが、"氷の魔狼"の欲求なのだ。
 だが、シギュン・グラムの思惑がどうであろうと、ちとせは最初から全力を出しているつもりだった。
 それなのに、まるで、歯が立たない。
 集中力の増減で、霊気の活性力が上下することはあるだろう。
 だが、たとえ戦いへの集中力を今以上に上昇させることができるとしても、どこまで、この絶望的な力の差が埋められるだろうか。
 そして、ちとせがシギュンを倒そうとしているのに対して、シギュンはちとせを殺そうとしている。
 倒そうとする者と、殺そうとする者。
 この差も大きい。
「ううっ……」
 ちとせが頭を片手で押さえながら立ち上がる。
 その右手に、ぬめった感触。
 血で濡れている。
 蹴られた時か、床に転がった時に、こめかみを切ったのだろう。
 頭が、痛い。
 殴られた腹も、痛い。
 蹴り潰された胸も、痛い。
 全身がバラバラになりそうだ。
 それでも、やるしかない。
 やれなければ、殺される。
 生きるためには、"氷の魔狼"の牙を折り、爪を砕かねばならない。
 できる、できないは、結果だ。
 やることは決まっているのだ。
 ちとせは、もう一度、神扇で自分の太腿を軽く叩いた。
 パシュンと霊気が身体を駆け巡る。
 全身に走る痛みも、威圧される恐怖も、追い詰められる焦燥も、すべてを集中力へと変え、精神を張り詰める。
 どれほどの力の差があろうとも、最善を尽くす。
 ――それだけだ。
「いくわよ!」
 ちとせの想いを代弁するように、ダメージを受ける前以上の力強さで全身を青白い霊気が駆け巡った。


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