魂を貪るもの
其の八 夢魔
4.追奏(アンコール)


「ぐっ、あっ……!?」
 跳躍していた悠樹の顔が苦悶に歪んだ。
 同時に墜落し、床に落ちる。
 己から流れ出た血によってぬめった床を滑り転がる。
 心臓を鷲掴みにされるような激痛と、身が凍ってしまうような寒気が全身を襲っている。
 そして、悠樹の耳に響いているミリアの紡ぐ旋律に乗って、地獄の底から聞こえてくるような不気味な声が聞こえてくる。
 死霊の呻き。
 怨霊の呪詛。
 悪霊の喚声。
 冥界へと誘う死神の声が悠樹の耳を打ち、生命そのものを削り取られるような感覚が脱力させていく。
「聞こえるでしょう、死霊の招き声が。呼び声に応じて意識を失った時、坊やは死ぬ
「うっ、がっ、はぁっ……」
 悠樹は耳を塞いだが、死を突きつけてくる音は消えない。
「脳に直接響いているのよ。たとえ、耳を塞ごうと、鼓膜を破ろうと、無駄。もはや、逃れる術はなくてよ」
「くあっ……ッ!」
 悠樹は唇を血が滲むほどに強く噛みしめて、意識を保つ。
 恐ろしいほどの精神的圧迫、それに伴う消耗。
 そして、吐血と苦痛は精神だけでなく肉体をも破損させるほどの、魂への侵食力を示している。
 身体の外部からも内部からも破壊されていく。
 まさに地獄の苦しみ。
 だが、悠樹は、見た。
 ミリア・レインバックの形相もまた凄まじさを帯びていくのを。
 シニヨンに結った黄金の髪がほつれ、目は血走り、唇の端からは血が止め処なく流れ落ちている。
 狂気という旋律を指揮する指揮者のような、正気を失いながらも調和を乱さない演奏家のような、己が魂を削りながら作品を完成させる芸術家のような、神経質で、美しく、凄絶で、淫靡な、そして、恍惚に溺れたかのような表情で、竪琴を奏で続ける。
 胸を貫通している傷の影響もあるのだろうが、根本的なところから壊れていくような印象を受ける。
 悠樹の魂を破壊しながら、己の魂さえも壊していくような鬼気迫る美しさに、悠樹は恐ろしい苦痛を味わっている最中でありながら息を呑まずにはいられなかった。
「ぐぅっ、……なるほ、ど、……き、切り札、ですか……」
 ミリア・レインバックが唇から血を滴らせたまま、嗤う。
「わたくしを見ようとしない坊やの態度がわたくしの自尊心を傷つけ、わたくしの魂に炎を灯してしまったのよ。わたくしにもっとも似合わない、情熱の炎を、ね」
 風は掴めない。
 だが、掴めないものほど欲しくなる。
 絶対に手に入らないものだからこそ、欲しくなるのだ。
 ミリア・レインバックの屈折した情熱は、悠樹を殺すことに向けられていた。
「……まいったな」
 死に向かう状況の中、夢魔の歪んだ告白に悠樹は閉口せざるを得ない。
 もちろん、実際には閉口している暇などない。
 『ナグルファル』へ向かう前に、鈴音は言った。
 一人も欠けさせない、と。
 自分が死ねば、その誓いは破られる。
 自分が死ねば、ちとせはどうなる。
 自分が死ねば、仲間はどうなる。
 ――死ねない。
「いや、『死ねない』。じゃない、な。『死なない』だ」
 いつかのちとせの言いようを思い出し、瀕死の苦しみを押しのけて無理矢理に苦笑した。
 自分の中には、ミリアの殺意に負けぬ情熱がある。
 思考しろ。
 苦痛が邪魔をする。
 失血で脳の回転が鈍っている。
 酸素も足りていない。
 だが、思考しろ。
 ミリアの情熱が込められた葬送曲は脳に直接響き、無視できない。
 だが、死を受け入れるわけにはいかない。
 立てるか?
 いや、立てない。
 風は?
 生命を削れば纏える。
 だが、魂を消耗すれば死が近づく。
 死ぬわけにはいかない。
 死なない、だろ?
 そうだ。
 では、いけるか?
 腕が重い。
 脚も重い。
 風は纏える。
 飛べる。
 いけるか?
 いけるさ。
 しかし、飛べるだけだ。
 大丈夫だ。
 弾丸だ。
 弾丸になれば、いける。
 それで、ミリア・レインバックを倒せるのか?
 体当たりで?
 それは無理だ。
 この身体では。
 武器がいる。
 風か?
 風は纏うだけで精いっぱいだ。
 纏う風へ転換する以外の霊気は治癒に回さなければならない。
 死なないために。
 生命を削りながら、生命を癒すのか?
 半端な覚悟だな。
 半端じゃない。
 真剣だ。
 生きるんだ。

 悠樹は己の身体に風を絡みつかせ、自らの身体を操り人形のように操り、立ち上がった。
 だが、ミリアの葬送曲に蝕まれ、無数の毒針で滅多刺しにされ続けているような耐えがたい苦痛が、全身を走り続けている。
 呼吸をするだけで身体中の骨が軋んだ音を立て、筋肉が悲鳴を上げ、血管の中で血液が荒れ狂う。
 顔色の真っ青であり、その姿に力強さなどは皆無。
 だが、瀕死の少年が立ち上がったという事実に、ミリア・レインバックの驚愕を反映するように両目が大きく見開かれる。
 次いで、少年の瞳がまだ生きているのを見て取り、夢魔の目は半眼に細められた。
「坊や、わたくしを見てくれたわね」
「ぼくのすべてを込めて、あなたを討ちます」
 悠樹はぐらつく身体を風で支える。
 切れたこめかみから血の霧が舞う。
 目が霞む。
 だが、見据える。
 死の苦痛を味わっている暗闇の中から、生きるための光明を目指す。
 筋肉の可動部を風の力で収縮させる。
「りゃあああああああああぁぁぁッ!」
 叫ぶ。
 言葉の意味を成さない咆哮。
 女性的な顔立ちと揶揄される少年が、猛獣のように吠える。
 魂の叫び。
 生を渇望する声は、死を招く葬送曲を切り裂いて、エントランスホールに響き渡った。
 跳躍、飛翔。
 真紅色の翼を広げて、悠樹が飛ぶ。
 血の帯を引きながら、高速でミリアへと迫る。
「坊やは瀕死の状態」
 ミリアは突撃してくる悠樹を凝視しながら冷静に頭脳を働かせる。
 悠樹の両腕両脚は思うように動かせないはずだ。
 風で無理やりに動かすことはできるようだが、攻撃力はすでにないに等しいだろう。
 それに、悠樹の特攻はかなりの加速を伴ってはいるが、体当たりにしかならない。
 もちろん、ぶちかまされれば、衝撃は相当なものになるだろうが、致命的なダメージを受けるとは思えない。
「それでも、坊やに油断はできない」
 ミリア・レインバックは悠樹の精神力を甘くは見ていない。
 現に悠樹にはミリアの油断を突いて胸を貫くという攻撃をやってのけた事実がある。
 今、繰り出している渾身の特攻も、ただの体当たりではない可能性が高いと、ミリアは判断していた。
 たとえば、体当たりとともに、胸の傷口から風を体内に送り込む気なのかもしれない。
 体内から風で切り裂かれれば、高位魔族のミリアとて致命傷になるだろう。
 たとえば、体当たりと見せかけて目の前で緊急停止し、何かしら別の攻撃を仕掛けてくるつもりなのかもしれない。
 今の段階でその攻撃に対処できるかは判断のしようがない。
「近づけない方がイイ」
 ミリアの出した結論は単純にして、この戦いが始まってから変わらぬものだった。
 呪曲に込める魔力を最大に集中する。
 迫り来る悠樹さえも意識から追い出す。
 しなやかな指が一際大きく、弦を掻き鳴らし、残酷な旋律がエントランスホールに響き渡る。
 生を渇望する悠樹の咆哮さえかき消す、死の音色。

「ガハァッ!」
 悠樹の胸を激痛が食い破り、口から大量の血が零れ出る。
 だが、今までのように墜落はしない。
 耐える。
 視界が揺れるが、耐える。
 光を求めて、耐える。
 悠樹は気力を振り絞り、墜落することを逃れた。
 だが、弾丸と化していた彼の軌道は視界が揺れた影響か、わずかに曲がった。
 ミリアの横を通り過ぎる。
「ッ!」
 悠樹の瞳孔が収縮する。
 同時に夢魔の目に意識が戻る。
 ミリアの唇の端が吊り上がる。
 ――反れた。
「残念だったわね、坊や」
 背後で風使いの床に激突する音が響いた。
 直撃する軌道から反れ、哀れにも墜落したのだろう。
 あとはこの葬送曲のクライマックスを迎えれば、風使いの少年は、死ぬ。
 勝利を確信したミリアが振り返る。
「――ッ!」
 青白い光が、ミリアの視界を焼いた。
 激しく、眩い光。
 その光源を認め、今度はミリアが驚愕に瞳孔を収縮させた。
 ――カチャッ。
 壮大な葬送曲が響き渡るエントランスホールに、鍔鳴りの音がやけに透明に響いた。
 強烈かつ澄んだ霊気を刀身から立ち昇らせる一本の日本刀。
「"凍てつく炎"の……!」
 織田家に受け継がれし退魔の武器、神刀・細雪。
 それを持つのは、床に這いつくばっている悠樹。
 床に墜落した際の衝撃で、両腕は完全に折れているようだ。
 それでも、刀を構えている。
 手ではなく、口で。
 細雪の柄を口に咥え、刃をミリアへと向けていた。
 血塗れの満身創痍だが、気力だけで口で刀を持つ悠樹の姿は美しかった。
 そよ風のような表情で、暴風の気力を放っている。
 ミリアは、見惚れた。
 銀色の竪琴から紡がれていた演奏が止まる。
 同時に悠樹は飛んだ。
 地を蹴った両脚の骨が砕ける。
 ミリアは動けない。
 驚愕のためなのか、見惚れているだけなのか。
 あるいは、そのどちらでもあるのか。
 ミリアは動けない。
 死の呪曲で反らしたと思っていた悠樹の最初の突撃は、初めからミリアを狙ったものではなかった。
 床に転がる最高の退魔刀を拾うためだけの、突撃。
 四肢を砕いてでも拾う価値のある最強の武器であり、高位の魔族であるミリアに致命傷を与えることができる刀を拾うためだけに生命を削り、用心していたミリアの裏をかいた。
 ただの第二撃ならば、いくら命がけであったとしても、ミリアに防がれていただろう。
 だが、最高の退魔刀である細雪の、しかも、緊張を一瞬でも解いてしまった意識外からの攻撃を防げるものではない。
 悠樹は空中で身体を捻り、ミリアにぶつかるように口に咥えた細雪を振り下ろした。
 袈裟斬り。
「あ、ああ……」
 秘書スーツに斜めに走る赤い線に目をやり、ミリアはよろめきながら後退った。
「うっ、あっ……」
 唇を震わせ、傷口から溢れ出る血を手ですくった。
 傷口が神々しい青白い霊気によって侵食されていくのが目に見えてわかった。
 致命傷だ。
 それを理解しても、ミリア・レインバックは取り乱さなかった。
「わたくしの殺意の情熱よりも、坊やの生きたいという情熱が……上回った結果……というところかしら……?」
 苦痛はなかった。
 悔いもなかった。
 命懸けのゲームが終わった。
 それだけのこと。
 自分の命を刈り取るのが、"凍てつく炎"が持っていた刀だということだけが癪に障るが、この期に及んでは仕方がない。
「……そして……、これが……死……?」
 ミリア・レインバックは、夢魔セイレーンとして生まれ、長い長い時を生きてきた。
 人間の何倍もの時間を生きてきた。
 だが、どれほど長く生きてこようとも、死は、初めてにして、一度しかできない体験だ。
 それだけに、それが訪れる時の快感は如何なるものかと期待していた。
「……憧れていたのに……、予想していたよりも……、あっけなくて……、つまら……ない……」
 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみもない。
 期待しすぎたのかもしれない。
 それとも、目の前の少年との戦いが思った以上に面白かったためか。
 とにもかくにも、ようやくやってきた死は、生よりも色褪せて感じた。
 だが、死にたくないとは思わなかった。
 生きたいとも思わなかった。
 今際の際に思ったのは、ただ一つ。
「それにしても、この竪琴が無事で良かった」
 それが、夢魔ミリア・レインバックの最期の言葉だった。
 銀の竪琴を愛おしそうに抱えるように跪き、血で濡れた指で竪琴に刻まれた自分の名をなぞる。
 そして、弦へと手を伸ばした。
 だが、旋律が紡がれることはなかった。
 ミリア・レインバックは竪琴を演奏する姿のまま、事切れた。
 その姿はまたたく間に細雪の刻んだ致命傷から吹き出た青白い霊気に包み込まれ、光の粒子に変わって大気へと溶け消えた。
 はじめからそこに誰もいなかったかのように、存在そのものが夢であったかのように、ミリアの屍は残らなかった。
 悠樹は床に仰向けに転がったまま、夢魔の墓標のように残った銀色の竪琴に目をやっていたが、しばらくして、自分が生きていること、ミリア・レインバックが倒れたことを実感して、大きく息を吐いた。
 そして、目を閉じて、夢魔へ黙祷を捧げた。


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