魂を貪るもの
其の八 夢魔
3.後奏(ポストリュード)


 シュッと空気を切るような音が鳴り、次いでズブリッという何かが突き刺さる感触が右肩を突き抜け、悠樹は呻いた。
「くぅっ……」
 激痛に目をやれば、ミリアの放った弦で形成された銀色の槍の一本が、右肩に突き刺さっていた。
 焼けるような痛みに歯を食いしばるが、出血量自体は少ない。
「切るのに厭きましたから、今度は貫いてあげます。ふふふっ、束ねた弦は、切れ味こそ落ちるけれど、貫通力は見ての通りよ」
 ミリアの言葉に応じるように悠樹を取り囲む銀色の槍がざわめく。
 悠樹には、この凶器の柵に囲まれた処刑台から逃げる力は残されていない。
 仮に逃げたとしても、すぐにエントランスホールに張り巡らされた弦に切り刻まれるか、捕えられてしまうだろう。
 ミリア・レインバックの罠は狡猾で恐るべきものなのだ。
 悠樹の発揮できる力は最小限に抑え込まれ、ミリアにとっては自分の能力を最大限に引き出すことができる。
 そういう舞台を整えられては、いかに悠樹があがこうと勝てるはずもない。
 言わば、彼は震える手で握った拳銃のような状態に仕立てられてしまったのだ。
 弾丸を撃つことができても、標的に当たるはずがない。
 だが、悠樹はあきらめない。
 震える手で握った拳銃で撃った弾丸を標的に当てる方法を探し続ける。
 時間が許す限り。
 つまりは、ミリアが悠樹を嬲るのに厭きて、殺される寸前まで。
 ミリアの視線が悠樹の左脚に注がれる。
 途端に、新たな鋭痛の電流に悠樹の身体がこわばる。
「っ……ッ!」
 悠樹の左太腿に銀色の槍が突き刺さっている。
 しかも、その槍は捻じれながら、ずぶりずぶりと太腿へと埋まっていく。
「うぐっ、あああっ……ッ!」
 ぶしゅりっという音とともに突き刺さった弦が完全に腿を貫通し、腿の裏側から尖った先端を覗かせる。
 悠樹の顎から汗が滴り落ちる。
 全身もびっしょりと苦痛の汗に濡れている。
「どこを貫けば、簡単に絶命するか。どこを貫けば、なかなか死ねないか。わたくしはよぉっく知っていてよ。ふふふっ、坊やにも教えてあげるわ」
 ミリアは嗜虐の笑みを浮かべて、悠樹の身体へと銀の槍を次々に突き刺していく。
 腕を、腹を、脚を、身体中を貫かれ、そのたびに悠樹の表情が激痛に歪む。
 幻影の中でちとせと鈴音へ繰り返されている拷問に劣らない、陰惨な光景だった。

 ミリアが、悠樹の身体に無数に突き刺さっている銀の槍をすべて引き抜く。
 その反動でぐらりぐらりと悠樹の身体が揺れ、身体中に開けられた穴から血が流れ出る。
 失血と苦痛で意識が混濁しているのか、すでに瞼も薄くしか開かれていない。
 もはやいつ気を失ってもおかしくない。
 悠樹の半失神の表情を楽しそうに眺めながら、ミリアは一本の銀の槍を操った。
「血塗れの姿も美しいけれど、もう肉体は限界でしょう。さあ、坊や、心臓を貫いてあげるわ」
 それは血で赤く濡れたワイシャツの越しに悠樹の左胸に突き刺さった。
「ッ!」
 悠樹の両目が大きく見開かれ、身体がビクリッと仰け反る。
 銀の槍は捻じれながら、悠樹の左胸へと深く埋まっていく。
 だが、その速度は非常に遅い。
 より長く悠樹に苦痛を味わわせ、より長くミリアが嗜虐の時間を楽しむためだろう。
「うっ、くっ、がはっ……!」
 悠樹の吐いた血の欠片が、ミリアの頬へ跳ねる。
 悠樹は力尽きたように項垂れた。
 獲物のだらりと垂れたままの両手の指が痙攣しているのを確認し、ミリアは自分の頬に飛び散った血をレロリッとなめた。
 そして、ハイヒールの音を響かせながら、項垂れた悠樹へと近づき、顎を掴んで無理やりに顔を上げさせる。
「もう少しで心臓に達するわ。わたくしの口づけを味わいながら逝きなさい」
 ミリアの蛭のような舌が、悠樹の口へと捻じ込まれる。
 悠樹は抵抗できない。
 左胸を貫かれていく苦痛に表情を歪ませるだけだ。
 死へと近づいていく獲物の吐血の味を味わおうと、ミリアが舌を悠樹の舌に絡ませる。
「ッ!」
 悠樹の唾液を貪ろうとしていたミリアの表情が嗜虐の陶酔から、驚愕へと変わった。
 彼女は見た。
 悠樹の瞳の奥で青白く冷たい闘志が灯っているのを。
 瞬間、悪寒が夢魔の背筋を駆け抜ける。
 そして、視界の端で動く影に気づいた。
 使い物にならないはずの悠樹の右腕が、動いている。
 風。
 風が右腕を取り巻いている。
 風を操り、さらにその風で右腕を操っている。
「風で腕を無理やり動かして……!」
 握り締められ切れていない手が、だが、風の渦巻いている手が、ミリアへと振るわれようとしている。
 ――殺さなくては!
 ミリアは戦慄しながら、弦で形成した槍を一気に悠樹の胸の奥まで押し込んだ。
 槍が背中まで貫通する。
 だが、悠樹は死なない。
 胸は貫いたが、心臓は貫いていない。
 見れば、銀の槍にも微弱だが風が纏わりついている。
「突き刺す瞬間に槍の位置をずらしていたというの!」
 ミリアは慌てて飛び退いた。
 だが、飛び退いて打撃を避けるだけでは、足りない。
 一方的に拷問紛いの攻撃を受けていた獲物が反撃に転じたのだ。
 ただの右腕による打撃などで終わるわけがない。
「烈風も来る……!」
 ミリアが大きく竪琴を掻き鳴らす。
 周りで空気が振動し、目の前に障壁を形成する。
 完全な防御態勢。
 残りの槍で悠樹を串刺しにするという選択肢はあった。
 だが、それは悠樹の攻撃に対しても無防備になってしまう。
 だから、防御に回った。
 悠樹の攻撃を防ぎ、それからとどめに転じても遅くはないからだ。
 ミリアにはわかっていた。
 今から放たれる悠樹の攻撃は賭けに過ぎないのだ。
 不意打ちの烈風を零距離から打ち込むつもりだったのだろう。
 だが、それは奇襲でなければ意味がない戦法だった。
 発動前に気づいてしまえば、冷静ささえあれば対処できてしまう代物で、しかも、瞬時に大威力の攻撃を仕掛けるには、悠樹は傷つき過ぎている。
 一瞬で完全に避けられるだけの間合いに逃げることは困難だが、防ぐことはできる。
 それがミリアの下した判断だった。
「惜しかったわね。わたくしがあと数秒気づくのが遅ければ、奇襲は成功、逆転勝利確定でしたのに」
「くっ……」
 ミリアの指摘に悠樹が唇を噛みしめる。
 だが、もう奇襲の機会はない。
「……烈……風……!」
 悠樹の右手から烈風が吹き荒れる。
 それは一直線にミリアへと向かい、振動障壁へと、衝突した。
 悠樹の風は、障壁を突破できないようだった。
 無防備な状態でまともに食らえば、全身を切り裂かれていたかもしれないが、やはり、備えてさえいれば、簡単に防げる攻撃でしかなかったのだ。
「ふふっ、やはり、奇襲を前提にした威力ね」
 障壁に防がれた風の衝撃が弱まり、四散していくのを感じながら、もはや反撃の力は残っていないであろう悠樹へのとどめを刺すべく、銀の槍を操ろうと竪琴に弦に指を伸ばした。
 だが、ミリアのしなやかな指は、弦に触れる寸前、ビクリッと震え、動きを止めた。

 唐突の衝撃に襲われたミリアは信じられないものを、見た。
 秘書スーツに赤い染みが広がっていく。
 染めているのは、胸の中央部から溢れ出る液体。
 ――自分の血。
 見えない何かが、胸部を貫通している。
「がッ……は……?」
 ミリアの唇を鮮血が割って出た。
 悠樹に目をやる。
 瀕死の少年の放った攻撃が何かしたのだ。
 だが、胸部を貫いているのは、風ではない。
 質量がある。
 物体だ。
 銀色の、物体。
 ミリアは、それに震える手を伸ばした。
「くっ……、はっ……、かはっ……!」
 胸に突き刺さっている物体を掴んだ途端、全身に朱線が走った。
 風に肌を切り裂かれる痛みに、ミリアは美貌を歪めた。
「こ、これは……わたくしの……」
 胸を貫いている物体は、銀色の槍。
 ミリアが竪琴の弦を束ね、作り出した、銀色の槍。
 貫かれているミリアから見て前方にある槍の端部分は鋭利な切断面を見せている。
「さっき脚からの烈風で切断した槍です」
 悠樹が答えた。
「坊や、これを風と一緒に飛ばして……!」
 ミリアがよろめく。
 同時に エントランスホール全体を包んでいた幻影が崩れ始める。
 あちらこちらで幻影が硝子の割れるように、粉微塵に砕けていく。
 拷問を受けているちとせと鈴音の姿も砕け散り、無数の弦が張り巡らされている状態のエントランスホールの元の姿が曝け出される。
「最初、ぼくの風だけで反撃するつもりでした。でも、烈風で切断したあなたの槍が目に入ったので使わせてもらいました」
 悠樹が左胸を貫いたままの銀の槍を風で操った右手で握り締め、一気に引き抜く。
 血止めになっている槍を引き抜いたために、左胸から大量の血が溢れ出す。
 だが、ミリアの魔力が宿っている槍を抜かずに残しておくわけにもいかなかった。
 全身を貫いている傷とは違い、殺すために放たれた槍が穿った傷からは、力が容赦なく奪われていく。
 悠樹は左胸の傷を右手で押さえながら、治癒力を高めようと身体中に霊気を循環させる。
「ごほっ……、ごほっ……、槍の貫通力は自分の身体でさんざん味わいましたからね」
 血の混じった咳が零れる。
 唇の端から滴る吐血の雫を拭う左腕にも風が纏わりついている。
 ただ腕を動かすだけでも、風の力を必要としているのだ。
 決着をつけるための霊気も練りながら、治癒力増加へ裂く霊気も維持しなければならない。
 葵からもらった治癒の勾玉を使用するにしても、悠樹の身体は傷つき過ぎていた。
 今、新陳代謝を無理に活性化させても、生命力と体力が持たない。
 手慣れた葵本人の治癒の施術ならばともかく、勾玉に封じられた治癒術では、弱った肉体に劇薬を投与してしまうのと同じことになりかねない。
 回復どころか肉体をさらに弱らせる結果になる可能性もあるということだ。
「あなたはサディストゆえの残酷な罠で、ぼくを追い詰めた。ですが、あなたはサディストゆえの残酷さゆえに遊び過ぎた」
「……ふふふっ、坊やの言う通りね」
 ミリアが自嘲的に言いながら、胸部を貫いている銀色の槍を引き抜き、投げ捨てた。
 出血が激しくなった胸部の傷を右手で押さえながら、よろよろと数歩後退する。
 激しく咳き込み、吐血で床を濡らしたが、跪いたり、倒れたりはしない。
 左手一本で抱える銀の竪琴も放さない。
 高位の魔族であるミリアにとって胸の中央を貫かれたのは重傷だが、死に直結するものではなかった。
 そして、自ら作り出した槍を反撃の手段に使われたことでプライドは傷つけられたが、遊戯に浸っていた思考は冷静さを取り戻した。
「だけれど、わたくしよりも坊やの方が重傷だという事実は変わらない」
「あなたの言う通りです」
 よろめきながら立ち上がった悠樹がミリアの言葉を肯定する。
 両腕両脚を風の力で動かしている。
 ただ立つという行動のために霊気も体力も消費する。
 倒れそうになるが、倒れることはできない。
 なぜならば、倒れれば、死。
「それでも、倒れるわけにはいかない。死ぬわけにもいかない」
 悠樹が両腕で円を描くように風を収束させる。
 大量の風が収縮し、悠樹の目の前で暴風となる。
「その身体で制御できると思っているの。倒れるわよ、坊や。死ぬわよ、坊や」
「ぼくは行かなければならない」
 悠樹の青白い光を宿した双眸は揺らがない。
 ミリア・レインバックは悠樹の瞳の美しさに見惚れるように、そして、少しだけ不満そうに、血の滴る唇を複雑な形に歪めた。
「……神代ちとせね」
「神代ちとせです」
 ミリアの指摘に、悠樹が頷く。
 称賛とも嘲笑とも取れる不可思議な三日月の嗤いを張りつかせたまま、ミリアは目を閉じた。
「ふふふっ、気に入らないわね。わたくしと対峙しているのに、わたくしを見ていない。わたくしのステージだというのに、わたくしを見ていない」
 ミリアのシニヨンにアップしている黄金の髪の左側だけ垂らした前髪が、悠樹に収束する暴風の風圧で激しく揺れた。
 風は全く退く気配がない。
 ミリアは両目をゆっくりと開いた。
 葬送曲を奏でようと、銀の竪琴の弦へと指を伸ばす。
「わたくしの最高の呪曲で葬送してあげるわ」
 今度は、悠樹が戦慄する番だった。
 ミリアの身体から膨大な魔力が立ち上っている。
 妖艶な顔には冷酷さだけが張りつき、今まで淫靡な光を絶やすことなく揺らめかせていた瞳には死を感じさせる闇が漂っている。
 悠樹は本能的な危険を感じた。
 だが、逃げない。
 下がっても、殺される。
 夢魔の放っている殺気は後ろに下がったところで逃げられないことを告げていた。
 倒れても、死。
 下がっても、死。
 たとえ今、身体が壊れようとも、前に出て、ミリアを倒し、根本から断つしかない。
 そう即座に判断する。
 悠樹の背に真紅の翼が生まれた。
 もちろん、ミリアが切り裂いて噴き出させた血で創られた翼ではない。
 悠樹自身が作った鮮血の翼。
 生命力を燃やすように霊気を放出して作った風の翼が、鮮血を巻き込み、真紅の翼を形作ったのだ。
 跳躍。
 夢魔へと跳ぶ。
 だが、いつもの速度には程遠い。
 遅い。
 悠樹は傷ついた自分の身体の動きが鈍り過ぎていることを思い知らされた。
 なぜならば、すでに、できていた。
 ――夢魔の最後の呪曲の準備が。
 真紅の魔力を全身から立ち昇らせながら、ミリアの指が奏で始める。
 それは、底冷えするような葬送曲。
「呪曲"死"」
 ミリアが静かに呟いた。


>> BACK   >> INDEX   >> NEXT