魂を貪るもの
其の八 夢魔
2.
ミリア・レインバックの演奏は、対決しようとしているはずの悠樹が思わず聞き惚れそうになってしまうほどの巧みで美しいものだった。
それに、幻影の罠を打ち破ったにもかかわらず、甘い薫りはエントランスホールに充満したまま、薄れる様子もない。
黄金の髪が揺れるたびに、唇から吐息が流れるたびに、艶やかな薫りが新たに撒き散らされるようであった。
ミリアの姿を視界に入れているだけで、その声や奏でる音色を聴いているだけで、その吐息や薫りを吸い込むだけで、脳が痺れそうになる。
「なるほど、まさしく、魂を奪うセイレーンですね」
ギリシア神話などにおいて、海を航行中の人々を岩礁から美しい歌声で惑わし、海へと引きずり込む妖婦。
その歌声に虜にされて水死した人々の屍と魂は、山を築くほどだったといわれる。
それが、セイレーン。
対峙している場所こそ海ではなく、腕に抱える銀の竪琴を除けば、その姿こそ現代的な女秘書然としたものだが、ミリア・レインバックの全身から漂う雰囲気はセイレーンの名にふさわしいものだ。
「でも、魂を持っていかれるわけにはいかない」
悠樹は誘惑してくるミリアの色香を打ち消すように軽く頭を横に振り、気合いを入れて全身に風を纏う。
だが、ミリアへ向かって羽ばたこうとした瞬間、エントランスホールに再び異変が起きた。
壁や床、天井といった至る所に投影された映像が悠樹の瞳に飛び込んでくる。
「ちとせ? 鈴音さん?」
映し出されたのは、ちとせや鈴音の姿。
ただの映像ではない。
映し出された二人は衣服もボロ布同然に引き裂かれ、その全身は血と痣と傷で彩られていた。
しかも、映像の中で、鞭や棍が振るわれ、呻き声や悲鳴を搾り出されている。
ちとせと鈴音が拷問にかけられている幻影だった。
「……悪趣味な幻影ですね」
「サディストの所以を見せてあげると言ったでしょう」
ミリアが喉を鳴らすと、画面が切り替わり、新たな拷問器具が、ちとせたちを痛めつけ始める。
焼き鏝を背に押しつけられたちとせが絶叫を上げて失神し、三角木馬に跨らされた鈴音が苦痛に満ちた呻き声を上げる。
悠樹は双眸に感情を宿さず、前髪を手櫛でそよがせた。
ため息を吐く。
「幻影だとわかっているのに、惑わされると思いますか」
「惑わされるわ」
ミリアは演奏を続けながら、妖艶な視線で悠樹をなめあげる。
「どんなに冷徹冷静であっても、どんなに朴念仁であっても、五感から取り入れる情報を完全に無視することなどできはしないわ」
幻影だとわかっている相手に、あえて、見せる。
ミリアの声は自信に満ちている。
「小さな歪みもやがて無視できないほどに大きくなり、神経を掻き乱す」
ちとせと鈴音の無残な幻影と、ミリアの艶然とした容姿が視覚を惑わす。
ちとせと鈴音の幻影が上げる耳を塞ぎたくなるような悲鳴と、ミリアの奏でている聞き惚れるような音色が聴覚を惑わす。
ちとせと鈴音の流す血の香りと、ミリアの濃厚な薔薇の香りが嗅覚を惑わす。
セイレーンの官能的な誘惑だけならば、完全に無視できたかもしれない。
だが、虚構とはいえ、親しい者が地獄の責め苦に落とされている様を、気にしないことなどできない。
無視できなければ、必ず精神に歪が生じる。
それこそ、あえて幻影を見せるミリアの狙いだ。
「それなら……」
悠樹は彼だけが持つ独自の神経を研ぎ澄ました。
「目も耳も頼らないで戦う。ぼくには風がある」
風を頼る。
風の流れを頼る。
視覚も、聴覚も、嗅覚も侵される危険性があるならば、触覚。
最も頼ることができる、風の感覚。
風の流れを読み、風の流れに従う。
悠樹は舞い上がった。
風の流れだけを辿って、ミリアへと羽ばたく。
だが、そこで知った。
ミリアの仕掛けた罠は、そう行動させることが狙いであったことを。
「これは……」
悠樹は眩暈を覚えた。
風の流れが、膨大な情報量を悠樹の頭の中へ流し込んできたのだ。
――処理しきれない。
そう思った瞬間。
左肩口から右脇腹にかけて熱く鋭い痛みが駆け抜け、悠樹は墜落した。
「がっ……はっ……風が……読めない……?」
ワイシャツが切れ、胸から腹に走った朱線から、血が溢れ出す。
胸に手を当てる。
ぬるりとした感触。
致命傷には程遠いが、焼けるような痛みは無視することはできない。
乱れた精神をさらに乱す。
「罠は何重にも仕掛けてこそ、罠。このエントランスホールには、すでに竪琴の弦が蜘蛛の巣のように張り巡らされているわ」
エントランスホールに響き渡る激しい旋律と幻影の中のちとせたちの凄惨な悲鳴を背景に、ミリアの甲高い声が悠樹の置かれている状況を指摘する。
「このホール全体が、わたくしのステージなのよ」
「はじめの不完全な幻影は、それを隠すためでもあったということか」
「ふふっ、真正面から坊やと戦ったら、戦闘能力の低いわたくしではとても勝てませんもの。だから、
ミリアの演奏に力が入る。
「無数に張り巡らせた見えない弦が、研ぎ澄まされた触覚に無視できない情報を与えるの。あなたは情報処理が追い付かず、状況を把握できなくなっているのよ」
触覚に頼れば、脳内にイメージされるのは暗闇の空間に広がる恐ろしいほどの数の弦。
悠樹が頼った風、すなわち触覚は、五感のうち、視覚、聴覚、嗅覚の三つを封じられてしまったことで、悠樹の意思に関係なく必要以上に研ぎ澄まされてしまった。
エントランスホールに張り巡らされた見えない弦のすべてを強制的に把握しようとしてしまい、結果として、膨大な情報量を悠樹の精神に流し込み、混乱を招いたのだ。
味覚以外の五感すべての感覚を狂わされているのと同意義。
「味覚以外のすべての感覚を同時に責められては、さすがの坊やも辛いでしょうね」
ミリアの口調は心底楽しそうだ。
悠樹は血の流れる胸から手を離し、再び跳躍しようと試みる。
だが、やはり、風が惑う。
「ぐッ……」
ワイシャツの切れ端が宙に舞い、背に激痛が走った。
真っ赤な鮮血が宙空に散らばる。
今度は背を両肩から斜め十字切り裂かれた。
床に落ち、苦痛に呻く悠樹の耳朶を、幻影の中でまた違う拷問が開始されたちとせと鈴音の絶叫が打つ。
ちとせは逆さ吊りにされて水槽に落とされるという水責めの地獄に苦しみ喘ぎ、鈴音は有刺鉄線で縛られた全身に高圧電流を流されて悶絶させられている。
幻影の中で彼女たちに加えられる拷問は過酷さを増していっているようだった。
悠樹の顔が歪んだのは、身体に走る裂傷の痛みのためだけではない。
「必ず惑わされる、か」
唇の端から血を滴らせながら悠樹が繰り返した夢魔の言葉は、真実だ。
運命神の作り出した亜空間で影のちとせと戦った時も、つい先ほどミリアが作り出した幻影のちとせを抱いた時も、多量の理性が覆い隠していただけで、神経にさざ波は立っていたのだ。
それを今、自覚させられる。
虚構だとわかっていても、ちとせや鈴音の無残な姿や悲鳴は悠樹の神経の奥底にさざ波を立てる。
さざ波は、大きな波となり、調子を狂わせる。
惑いをもたらす五感は頼れない。
だが、風の流れで罠を見破ろうとすれば、情報処理が追い付かないで不覚を取るはめになる。
立ち上がった悠樹が混乱する脳を白紙に戻そうと頭を振る。
足元がおぼつかない。
それでも、右手に風を纏う。
情報探知のためではなく、攻撃のための風だ。
「烈風!」
風を飛ばす。
近づけないならば、飛び道具で攻撃すれば良い。
単純な戦法。
「まだ立ち上がって悪あがきするのね。ゾクゾクしちゃうわ」
ミリアがうっとりとした半眼を悠樹に向けて、愉悦に喉を鳴らす。
「ただ、そんな直線的な攻撃には当たらなくてよ」
情報把握が狭められて放った悠樹の烈風は動きにひねりがなかった。
遠距離から放たれた直線的に過ぎる、ただの避けやすい飛び道具でしかなかった。
そして、精度にも欠けていた。
ゆえに、ミリアには当たらない。
余裕のある動きで避けられた烈風は、ミリアの背後へと空しく消えた。
ぱしゅんっ、ぱしゅんっ。
「……ッ!」
乾いた音を立てて、悠樹の身体を朱線が縦横無尽に駆ける。
その不可視の刃によって刻まれた裂傷から、真紅の霧が広がる。
いつもなら容易く風を操り、避けることができるはずの攻撃。
それを避けることができない。
悠樹の白いワイシャツは身体中の裂傷によって真紅に染まり、スラックスにも幾筋もの切り傷が走っていた。
その傷のどれもが致命傷ではないが、傷から溢れ出す出血がゆっくりと確実に死を近づけてくる。
「烈風!」
もう一度、風を飛ばす。
だが、精神に打ち込まれた楔と、失血のせいか、風は的外れの方向へと飛んで行った。
「くっ……!」
足がふらつき、床にできている少なくない血溜りへ、悠樹は片膝を着いた。
呼吸は荒いが、冷静さを失っているわけではない。
その宝石のような双眸は青白い意志力を維持している。
だが、動けない。
迂闊に動けば、死ぬだけ。
しかし、動かなくても、死ぬ。
その事実だけは、処理能力以上の情報の氾濫で一種の麻痺状態にある精神へ冷酷に刻まれる。
「風の翼を失った坊やに、鮮血の翼をプレゼントしてあげましょう」
血塗れの悠樹の姿を写し込んでいる紺碧の双眸が妖しい輝きを増した。
同時に、悠樹の両肩と両腕に幾筋もの赤い切れ込みが入り、身体の両側へ広がるように血が噴き出す。
それはミリアの言葉通りに、血でできた翼のようだった。
新たな血に染めた悠樹の両腕が力を失ってだらりと垂れる。
「これで五感だけでなく、両腕も使い物にならなくなったわね」
だが、悠樹はあきらめない。
満身創痍となっても、ミリアを睨みつける。
脚部に風を纏う。
腕が使えないなら脚。
戦いを放棄しようとしない悠樹を見て、ミリアの奏でる激しい旋律にさらなる熱が帯びる。
「あきらめないのね。ステキよ」
「ッ!」
悠樹の足下の床が崩れ、銀色の槍が飛び出した。
槍の正体は、弦がいくつも絡み合い束になった銀色の凶器。
「烈風!」
それを避けるように飛んだ悠樹が、空中から脚部に纏った烈風を放つ。
至近距離からの一撃は的確に銀の色の槍を切断した。
切断された槍は床の血だまりに水音を立てて落下する。
悠樹は空中で身体をひねり、再び両脚に風を発生させる。
今度の狙いは、もちろん、ミリア・レインバック。
だが、脚に纏った烈風を放とうとした瞬間、悠樹の両脚に幾筋もの赤い線が走った。
宙空に張り巡らされている見えない弦がこれまでと同じように悠樹を捕えたのだ。
「両脚も動かせなくしてあげる」
ミリアの声とともに、悠樹の両太腿から血が噴き出した。
「うぐぅっ……!」
脚部に纏っていた風の制御が崩れ、放った烈風はミリアに簡単に避けられてしまった。
さらに負荷のかかった脚部が自らの風の刃で切り裂かれる。
次いで制御力を失って暴走した風の残骸は悠樹の身体を這いずり、ズバッズバッという斬撃音とともに胸や脇腹にも新たな傷を刻んだ。
「がはっ……!」
ミリアの罠だけでなく、自分自身の風にまで切り裂かれた悠樹が吐血しながら三度目の落下を味わい、床に激突する。
「脚が……」
気力を振り絞って立ち上がろうとするが両脚の傷は深く、すぐにぐらついて床に両膝を着いた。
両腕も力なく、垂れたままだ。
「これで、五感と両腕両脚が役に立たなくなったわ。まさに、文字通り手も足も出ない状態というわけね」
ミリアが大きく竪琴を掻き鳴らし、紡がれていた激しい戦いの曲が終わる。
「……とどめの時間というわけですか?」
あきらめたような内容の言葉とは裏腹に、悠樹の声から理知的な響きはなくならない。
顔は血の気を失って白くなっていたが、端正さは崩れない。
五感を失い、両腕両脚の自由を奪われても、瞳に宿る光は消えてはいない。
「いいえ、嬲りものの時間よ」
ミリア・レインバックは心底からの愉悦を現わすように甲高い声で、嗤った。
風使いの少年は、まだあきらめていない。
否、『まだ』ではない。
『微塵も』あきらめていない。
反撃する力は残っていないだろうが、あっさりと死ぬような雰囲気もない。
――まだまだ、楽しめる。
「サディストの所以を見せてあげると言ったでしょう?」
ミリアがステージの開幕の時と同じ言葉を繰り返す。
銀の竪琴の弦が鋭い輝きを放ちながら幾本もの槍を形成し、悠樹を取り囲んだ。