魂を貪るもの
其の八 夢魔
1.前奏(プレリュード)

 『ナグルファル』の最上階にある総帥室の窓から、火山の噴火のように吹き上がる漆黒の瘴気を見下ろし、ランディ・ウェルザーズは唇の端を吊り上げた。
 大地の亀裂の深淵に、異質な大地が覗いているのが視認できる。
 それは、猫ヶ崎市を媒介点として、『この世界』へと迫り上がり、『この世界』と融合しようとしている。
 それは、『魔界(ムスペルヘイム)』と呼ばれる『この世界』とは『別の世界』の大地。
 『この世界』と『魔界』が融合すれば、運命を握る運命神(ノルン)が手を出すことが容易ではなくなる『異界』を造り出す。
 だが、『魔界』の住人である悪魔や魔獣の価値観と『この世界』の霊長である人間の価値観は相容れない。
 必ず血で血を洗うことになるだろう。
 異形の存在と人間とが血を流し、人間と人間が血を流し、異形の存在と異形の存在が血を流すことになるだろう。
 しかし、その流された血は、『異界』を活性化させ、運命神の呪縛を完全に寄せ付けない『新たな世界』へと変貌させる。
 それこそが、"獄炎の魔王"スルトたるランディ・ウェルザーズの望みにして、運命神への復讐であり、『ヴィーグリーズ』の推し進める『プロジェクト・ムスペルヘイム』の最終目的なのだ。
 『ユグドラシル』の出現に引き続いて猫ヶ崎市を襲っている異変に、自衛隊も世界最大級の財力を誇る『吾妻コンツェルン』も積極的に対応策を打ち出そうとしているとの情報がある。
 だが、『魔界』浮上などという壮大な、そして、馬鹿げた計画の真相に辿り着いているものは、今のところいないようだ。
 たとえ、『ムスペルヘイム・プロジェクト』の全容を看破したとて、すでに『魔界』の瘴気に包まれつつある『ナグルファル』には、もはや最新の武装をもってしても容易に近づくことは困難だろう。
 『ナグルファル』内部に侵入したシンマラや降魔師の少女たちを排除してしまえば、すべては終わる。
 いや、すべてが始まるのだ。

 周囲に展開していた空気のうねりが消えた時、八神悠樹は『ナグルファル』のエントランスホールに取り残されていることに気づいた。
 脳の冷めた部分が慌てることなく、妖艶なる夢魔の罠に陥ったという己の状況を把握する。
 ミリア・レインバックの罠の発動に気づいたのは自分だけだった。
 だが、気づいただけで阻止するまでには至らなかった。
 真冬、シルビア、ラーンの姿もない。
 彼女たちと対峙していたファーブニルの姿も確認できない。
 戦いの最中だったジークもいない。
 鈴音の姿もなかった。
 分断されてしまったようだ。
 だが。
 周囲へ廻らしていた視線が止まる。
「ちとせ」
 ちとせが、いた。
 少し離れた場所に倒れている。
 気を失っているのか、すぐに起き上がってくる気配はない。
 だが、悠樹は駆け寄らない。
 悠樹の頭の中で警鐘が鳴り響いている。
 なぜならば――ミリア・レインバックが、いないからだ。
 銀の竪琴を奏でていた夢魔の姿が、ない。
 もう一度周囲に意識を向ける。
 やはり、夢魔の姿はどこにもない。
 もちろん、ファーブニルとジークの気配もない。
 ちとせ以外の仲間たちの霊気も感じられない。
 『ナグルファル』内にはいるのだろうが、『レーヴァテイン』の魔力と『魔界』浮上の影響で正常に霊気を感知できる範囲は限られてしまっている。
 少なくとも、霊気を感じられる距離にはいない。
「ない、な」
 確認するように、悠樹が呟く。
 そこは、エントランスホールではあったが、罠の発動前にあったものがない。
 あるのは、自分と、ちとせの姿。
 夢魔の罠は継続している。
 周囲の気配を探りながら、できるだけ急いで、できるだけゆっくりと、ちとせへと近づく。
「!」
 ちとせの顔を確認できる位置まで歩を進めた悠樹の眉がぴくりと跳ね上がった。
 ミリアの罠が発動した時の空気の振動波をもろに食らったのだろうか。
 制服がボロボロに裂け、胸元が肌蹴て豊かな胸の谷間と下着が姿を見せている。
 きわどく捲れ上がったプリーツスカートと黒のニーソックスの間から覗く太腿は健康的な色気と妖艶さを同時に放っている。
 悠樹はゆっくりと片膝を着き、ちとせを抱き起した。
「ちとせ」
「……うぅ……」
 ちとせが小さく呻き声を上げ、うっすらと目を開く。
「悠樹……?」
 猫のような瞳が、心なしか潤んで見える。
 悠樹はちとせに頷き、もう一度周囲に意識を向ける。
 ミリア・レインバックは姿を現さない。
 すでに、ちとせは悠樹の腕の中だ。
 どうやら、ちとせに注意を向けさせておいて攻撃してくるというわけでも、ちとせを人質に取るという計略でもないらしい。
 悠樹は、ほっと息を吐いた。
 わずかに精神を緩める。
 ちとせが腕の中で首をもたげた。
「ミリア・レインバックは?」
「わからない」
「わからない?」
「罠を発動させて、消えた」
「罠?」
「鈴音さんたちと分断されたよ」
 悠樹がもう一度視線を周囲に向ける。
 警戒のためではない。
 ちとせに状況を理解させるためだ。
「ねっ、ぼくたち以外何も残ってない」
「そだね」
 ポニーテールを動かしながら周りを見渡した後、ちとせも頷いた。
「でも、これはどうしたものだろね」
「相応の相手に振り分けると言っていたけどね」
「相応の相手、ね」
「ちとせの相応の相手は、てっきりシギュン・グラムだと思ったけどね」
「ボクの相応の相手?」
 ちとせが悠樹を見上げながら、目を細める。
 抱き返すようにちとせの腕が伸ばされ、悠樹の首に回される。
 誘うような猫目が、悠樹の透明な瞳を見つめる。
「ボクの相応の相手は悠樹に決まってるじゃない」
 甘い息が、悠樹の耳にかかった。
 まるで毒のように痺れる感じを悠樹は首筋に感じた。
「ちとせ」
「なぁに、悠樹?」
 呼びかける悠樹に、ちとせが甘えたような声で答える。
 その朱が増した唇を舌がペロリと濡らす。
 首に回されたしなやかな腕に引き寄せられ、悠樹の顔がちとせの上気した頬と唇が触れる寸前まで近づけられた。
 香水などつけていないはずのちとせから薔薇のような濃厚な香りが漂ってくる。
 ふふっと、ちとせが笑った。
 甘く艶めかしい笑み。
 その瞳が妖しく輝き、悠樹の首に回されている腕に力が込められる。
 悠樹の首筋に指が食い込む。
「ちとせ?」
 痛みに顔をしかめる悠樹を、ちとせは艶めかしい笑顔を浮かべたまま見つめ続けていた。
「悠樹、悦楽の中では果てさせてあげる」
 ちとせのブレザーの袖からシュルシュルと細い糸のようなものが這い出てくるのを悠樹は視界の隅に捉えた。
 糸のようなものの正体は楽器の弦のようであった。
 そして、それはまるで意思のある生き物のように悠樹の首に絡みついた。
「ちとせ」
 悠樹がもう一度、ちとせの名を呼んだ。
 ちとせからの返事はない。
 その代わりに弦が悠樹の首に食い込む。
 ギリギリッと音を立てながら、頸動脈を圧迫する。
 弦が食い込んだ部分の皮が擦れ、血が滲み出す。
 悠樹は苦しげな表情を浮かべながら、視線をちとせの顔から反らしてもう一度周囲を見回した。
 そして、ちとせの顔に視線を戻す。
 悠樹の喉に食い込んだ弦から滴った血が、ちとせに滴り、濡らした。
 ちとせは悠樹を愛おしそうに見上げながら、艶めかしい笑みを浮かべ続けている。
 苦痛に苛まれているはずの悠樹の顔にも、やさしげな笑顔が浮かぶ。
「ちとせ、ぼくは誰もいないとは言わずに、何も残ってないと言ったよ」
 悠樹が首を絞められながら掠れた声で発した言葉を聞いた途端、ちとせの表情が凍りついた。
 双眸の奥に青白い理性の光を湛えながら、悠樹は続けた。
「……細雪が、ない」
 確かに、ない。
 鈴音たちの姿がないのは、ミリア・レインバックの罠で分断されたからだ。
 だが、鈴音が落とした細雪は、エントランスホールに転がっていなければならないものだ。
 細雪をエントランスホールから排除することが、ミリアのシナリオに含まれていたということは考えにくい。
 鈴音が細雪を手放したのはイレギュラーなのだから。
 それに。
「存在を感じようと精神集中すれば、細雪の霊気を感じることもできる。このホールに残っている証拠だ。それなのに、ない。それなのに、見えない」
 『レーヴァテイン』の魔力が溢れ、『魔界』浮上の影響で霊感の働きにくくなっている『ナグルファル』で、細雪の存在を確かに感じることができる。
 それは、細雪が近くにあるからだ。
 だが、あるはずの細雪が、ない。
 だから、ちとせにあえて「何も残ってない」という奇妙な言い回しをしたのだ。
 それなのに、ちとせは何の反応も示さなかった。
 悠樹が違和感を覚えるにはそれで十分だった。
 ちとせに向けられた悠樹の目は笑っていない。
「このホール全体が幻影で包まれているみたいだね」
 風が唸る。
 シュパッという鋭い音が鳴った。
 悠樹の首を締め上げていた弦が細切れに切断される。
「ちとせの幻影だけにすれば良かったのに、このエントランスホール全体を幻影で包んだことは、画竜点睛を欠くといったところですね」

「"凍てつく炎"の形見に邪魔されるとはね。まったく気に入らないわ」
 妖艶な声は悠樹の背後から聞こえてきた。
 悠樹が手を振る。
 弦を細切れにした旋風が悠樹の周囲を包み込む。
 ちとせの姿が切り裂かれ、跡形もなく消えた。
 次いで旋風は悠樹の背後にいる声の主へと収束する。
 しかし、同時に竪琴の音色が響き渡り、旋風は拡散した。
「だけれど、精神呪縛は"凍てつく炎"の妹にも効かなかったし、坊やにも幻が効かないかもしれないということくらい予測しなかったと思う?」
 悠樹の後ろに立っているのは、冷やかに輝く黄金の髪をシニヨンに纏めた妖艶な美女――『ヴィーグリーズ』総帥ランディ・ウェルザーズの秘書――ミリア・レインバック。
 ミリアの言葉を受けて、悠樹の表情に緊張が走る。
 ぱろん。
 ぽろん。
 ぴろん。
 ミリア・レインバックがうっとりとした表情を浮かべ、銀の竪琴を奏で始めた。
 しなやかな指が張りつめた弦に触れるたびに、瘴気を含んだような音色が悠樹の肌にねっとりと絡みつく。
「ホール全体を幻影で包んだのは、他に張り巡らせた罠を隠すためよ」
 と、悠樹の両側で、圧縮された空気が弾けた。
 それは刃の嵐となって悠樹を八つ裂きにすべく包み込む。
 振動刃が頬を切り裂き、赤い筋が走った。
 空気の刃は悠樹の服のあちらこちらを引き裂いていく。
 すぐに肉も切り裂かれることになるだろう。
 だが、悠樹の青白く輝く宝石のような瞳は、まるで揺らがない。
 動揺していない。
 静かに目を閉じ、そして、静かに息を吐き出す。
 途端、足下から吹き上がった風に前髪が吹き上がり、全身を肉塊に変じようとしていた空気の刃を蹴散らせた。
「んな……?」
 ミリアが目を丸くする。
 悠樹が瞼を開け、透明で無感情な瞳で振り返った。
「あなたが破られることを前提でわざと最初の幻影を仕掛けてきたことは、ぼくにはわかっていました」
 悠樹は頬の血を拭い、その血をぺろりとなめた。
「幻影を打破して安心したところを狙う計算で、今のが本命だったのでしょう?」
 澄ました顔で指摘する悠樹に、ミリアは気を悪くしたようなそぶりも見せずに嗜虐性を感じさせる淫靡な笑みを浮かべた。
 艶然とした笑みは寒気がするほどの色気を醸し出し、ミリア・レインバックの美しさが増したかのようにさえ、思える。
 ミリアは秘書スーツに身を包み、ロングタイトスカートを穿いているためにその露出度は低く、体型のはっきりとわかるような服装でもない。
 大幅に露出していると言えるのはロングタイトスカートのスリットから、ちらりと見える長く美しい脚だけだが、それでも、ミリア・レインバックの濃厚な色香は、不気味なほどに自己主張していた。
「さすがね、坊や。私の二段構えの罠まで見破るなんてね」
 舌なめずりするミリアに悠樹は肩をすくめてみせる。
「読み合いは慣れていますからね。相棒のおかげで」
「イヤな性格の娘に惚れたものね」
「ちとせは、あなたほど性格悪くはないですよ。少なくとも方向は陽性ですからね」
「あらあら、わたくしが陰性だとでも言うのかしら?」
「あなたは真性のサディストだ。どう考えても陰性でしょう」
「ならば、私のサディストたる所以をじっくりと味わわせてあげる。わたくしとの遊びを終わらせない限り、愛しの馬の尻尾のところへは行けなくてよ」
 左側だけ下ろしている前髪を指ですくい流し、ミリアは、ククッと喉で笑った。
 ちとせから引き離され、この場に残されてしまったことこそが、悠樹の最大の失態であった。
 分断の罠の発動を阻止できなかったことは結果的には仕方がないことだったと納得しているが、せめて、ちとせの手を掴みたかった。
 罠を発動すると同時に夢魔から告げられた言葉は、ちとせにとっては死の宣告に等しいものだったから。
 ちとせは今頃、この『ナグルファル』のどこかで、"氷の魔狼"シギュン・グラムと対峙させられているはずだ。
 だが、悠樹もすぐにそこへ向かうことはできない。
 夢魔の言葉通り、遊戯の相手をしなければならないのだ。
 ミリアとの遊戯を拒否し、逃亡することは可能かもしれないが、今ここで倒さなければ、必ず彼女は新たな罠を張り巡らせるだろう。
 背を向けることは危険過ぎる。
 ミリア・レインバックは一筋縄ではいかない相手なのだ。
「ふふふっ、麗しいわね。本当に坊やは美人だわ」
「……女顔で悪かったですね」
「違うわ。軽い調子の合間に見せる真剣な顔が、ホントに男らしくって、それでいて、儚くって、美しいのよ」
 ミリアが銀の竪琴を大きくかき鳴らした。
「めちゃくちゃにして、あ・げ・る」
 艶やかに濡れた声で宣言したミリアが、激しい旋律の戦意を高揚するような曲を演奏し始めた。


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