魂を貪るもの
其の七 浮上
8.燃焼

「『レーヴァテイン』か」
 真冬に向かって飛翔しながら、ファーブニルは呟いた。
 『レーヴァテイン』――世界のありようを変える魔剣――は、シンマラこと豊玉真冬の思想を具現化したものであり、同時に彼女の最高傑作だった。
 運命神の呪縛から世界を解き放つ。
 それは、ランディ・ウェルザーズの目的であり、『ヴィーグリーズ』の目的である。
 だが、しかし。
 シルビア・スカジィルもラーン・エギルセルも、師と再会を果たしたことで、世界を呪縛から解き放つ力を『レーヴァテイン』などという道具にではなく、彼女たち自身の内に見つけているように思えた。
 師を信じ、しかし、盲信するのではなく、自分の意志を持ち、己という存在を信じ、世界を変えられると信じている。
「老いたな」
 ファーブニルは身近な少女たちの変容を見て、自分が老人であることを実感した。
 未来を掴み取ろうとするのは、若者の特権だ。
 前に進む意志を持ち、内面を変えるとことで、外界をも変える。
 変革する力は、若者にこそある。
 だが、ファーブニルは若い世代の背を押す特権は老人にこそあるということも知っていた。
「シンマラよ、私は魔性の身として長き年月を生きてきたが、妻も子も持とうとは思わなかった。だが、娘を持つなら、おまえのような娘がよい」
「……そうですか」
 真冬が白き焔を唸らせながら、右腕を前に突き出す。
「では、孫を持つなら?」
「無論、あの二人のような娘たちだ」
 真冬の問いに対して、ファーブニルは竜の顔へと変貌した恐ろしげな顔でありながら、やさしげに笑った。
 だが、その動きには手加減も遠慮はない。
 振りかぶった鉤爪を真冬へと振り下ろす。
「はあああああぁぁっ!」
 竜人の鉤爪を迎え撃つのは、真冬の裂ぱくの気合い。
 熱風。
 白き焔が尾を引く。
 だが、それがファーブニルへ叩きつけられる寸前、竜人の姿が真冬の視界から消える。
 同時に強烈な痛みが真冬の長い脚を襲い、裂けた黒いズボンの生地が飛んだ。
 屈んだファーブニルが尾で真冬の脚を刈ったのだ。
 無様に尻餅をついた真冬の腹を狙って竜人の鱗に覆われた脚が落とされる。
 横に転がってその一撃をどうにかして避け、真冬はよろめきながらも立ち上がった。

「軽口と気合いではどうにもならんな」
 真冬は右手の白い焔を消さないように集中を維持し続ける。
 シルビアとラーンの師とはいえ、こと戦闘に関しては、真冬は彼女たちの足下にも及ばない。
 ファーブニルもまた、歴戦の大幹部。
 真冬が『ヴィーグリーズ』に貢献してきたのは、戦闘をこなせる幹部としてではなく、頭脳労働中心の研究者としてでしかない。
 彼我の実力の差に埋めがたいものがあるのは、今の一撃で証明されてしまった。
 とはいえ、諦めるわけにも、退くわけにもいかない。
 なぜならば、実力の差などは、問題ではないのだ。
 真冬の心に湧き上がるのは愛弟子たちと再び手を取り合えたことの喜びと、その弟子たちを貢献してくれていた存在への心からの感謝。
 それを全力で表現することが重要なのだ。
 『ヴィーグリーズ』を裏切り、愛弟子を裏切り、そして、愛弟子と和解したことでの成長を、『ヴィーグリーズ』の外での成長を示せば良い。
 そのためにこそ、戦う。
 そのためにこそ、拳や剣を合わせる。
 想いは伝わるはずだ。
 真冬は苦笑した。
「まるで、創作物語の中の一騎討ちだな」
 拳で語る。
 剣で語る。
 それは研究者の自分とは無縁の展開と思っていた場面でしかない。
 だが、それが、わかる。
 今は、わかる。
 そして、伝わって欲しいと願っている。
 かつて、ミリア・レインバックは真冬のことをリアリストに見えるが本質はロマンチストと評した。
 頭脳明晰だが、最終的な判断は客観的な事実ではなく、己の内から湧き上がる感情に従う。
 それが、豊玉真冬。
 真冬は焔の宿っていない左拳を放った。
 真冬の左拳を受け止めたファーブニルが、反撃のアッパーを繰り出す。
 顎を砕かれた真冬の目が虚ろになる。
 脳が揺れている。
 身体から力が抜ける。
 そこへ、竜の拳脚が襲い掛かる。
 防御もままならぬままに身体中を打ち抜かれ、鉤爪に引き裂かれる。
「がっ、ふっ、くっ、あぁっ……」
 真冬の口からこぼれるのは、苦痛の呻きと、荒い息、そして、吐血。
 身体中の骨や筋肉や内臓が悲鳴を上げる。
 一方的な展開。
 勝ち目がないのは明らかだった。
 だが、真冬は怯まない。
 今にも崩れ落ちてしまいそうになりながらも、倒れない。
 シルビアを正気に戻すためにその身を暴虐に晒し続けた時と同じように、耐え続ける。
 どれだけ打ち据えられても、右手の炎を庇う。
 決して消さない。
 この白き焔を打ち込むまでは倒れない。
 嵐のような攻撃を全身に受けながら真冬が力を振り絞って、焔の拳をファーブニルに向ける。
 だが、ファーブニルにはその動きを読まれている。
「シンマラよ、おまえの気力は一流の戦士にも匹敵するよ」
 竜人が跳躍する。
 炎を纏った真冬の拳を避け、逆に鉤爪で真冬の胸を抉る。
 真っ赤な血が飛び散る。
 純白のワイシャツが裂け、赤い下着に包まれた豊かな胸元が露わになる。
 だが、その白磁の肌は刻まれた爪痕から溢れる熱い液体で赤く染まった。
 がくりと両膝を床に着く。
 唇の端からも鮮血が滴り落ちる。

「おおおおおおおおぉぉっ!」
 ラーンが雄叫びを上げながらランスを構えて突進してくる。
 その雄叫びは、ファーブニルの注意を引くためのもの。
 ラーン以外から意識を反らさせるためのもの。
 だからこそ、ファーブニルは、シルビアを探した。
 ラーンの直進的な攻撃には対処できる。
 跪いた真冬はすぐには立ち上がれない。
 シルビアの変幻自在な動きこそが、厄介。
「上か!」
 シルビアは空中にいた。
 壁を蹴り、天井を蹴り、床に着地することなく、空中を舞っている。
 ラーンのランスの切っ先がファーブニルに到達するのと、シルビアが天井を蹴って急降下してくるのは同時であった。
 しかし、ファーブニルは見切っていた。
 ラーンのランスを避け、降ってくるシルビアを衝撃波で吹き飛ばす。
 だが。
 シルビアは空中で回転し、再度天井に足を着いた。
 衝撃波の重圧が天井を砕くが、シルビアは耐え切った。
「シルビアよ、切り返すか!」
「ファーブニル、ラーンを放ったままでイイのか?」
 ファーブニルがラーンを振り返る。
 直線的な突進を避けられたラーンは、少し離れた場所でランスを振り上げ、頭上で回転させていた。
 再度突撃してくる様子ではない。
 得物で攻撃を放つにも間合いは遠い。
 しかし、彼女もまた、変幻自在の力を持っている。
「水か!」
 ファーブニルを取り囲むように水の柱が吹き上がる。
 さらに、天井に張り付いたままのシルビアが雷撃を放とうとしているのをファーブニルは見た。
「水の牢獄か。これでは逃げられぬ。だが!」
 水と雷の挟撃。
 周囲を取り囲む水の力からは逃れられないだろう。
 水流を介して襲い来るだろう電撃も回避は不可能だろう。
 だが、咄嗟に放とうとしているシルビアの電撃には溜めが足りない。
 真冬の白き焔のように集中に集中を重ね、威力を最大限まで高めた代物ではない。
 そして、ラーンの水の柱はシルビアの電撃を導くものではあるが、真冬の火焔に対しては威力を下げるだけのものだ。
 ラーンの水はシルビアの雷との相性こそ最高であっても、真冬の炎とは相殺してしまう能力。
 真冬の必殺の一撃の邪魔をしている。
 そして、渾身ではないシルビアの電撃ならば耐え切れる。
 仕切り直し、反撃に転じることは可能だ。
 ファーブニルはそう判断を下した。
 水の柱がうねり、ファーブニルの全身を包み込む。
 そこへ、放たれるシルビアの電撃に耐えるべく意識を集中したファーブニルの肉体に熱気が押し寄せる。
 電撃の衝撃。
 全身の鱗が水中で焼け焦げる。
 だが、感電で神経を焼かれる激痛はあるが、やはり耐えられぬほどの大威力ではない。
 反撃に意識を転じようとしたファーブニルの両眼が大きく見開かれる。
「なっ……!」
 驚愕し、絶句した。
 ファーブニルの言葉を奪ったのは、水柱の中からでも視認できる煌々とした輝き。
 真冬の右腕に宿った白き焔がさらに激しさを増していた。
 それは限界を超え、術者の肉体をも蝕むほどの燃焼。
 右腕から黒煙が立ち上っている。
 真冬が歯を食いしばり、白き焔と黒き煙が吹き上がる右腕を構える。
 それを見たファーブニルは脅威を感じた。
 水中にいる自分に炎は届かない。
 だが、脅威。
 真冬の炎を迎え撃つべく、両手に魔力を込めた。

「ファーブニル!」
 真冬の右拳から躊躇いなく白き焔が打ち出されたのと、ファーブニルの魔力が真冬へと放たれたのは同時であった。
 シルビアとラーンが息を呑む。
 すべての動きが止まる。
 時間そのものが停止いたかのような、光景。
 静止。
 無音。
 沈黙。
 しかし、それは一瞬。
 閃光が迸り、大爆音が『大会議場』を揺るがせた。
 その瞬間、ファーブニルの胸部を衝撃が貫いていた。
「ガッ、ハァッ……!」
 ファーブニルは全身の鱗が焦げ、胸に大穴が開いているのを見た。
 水柱は消え、爆心地である竜人の周囲は床も天井も陥没している。
「……炎で……水が……爆ぜた……ッ!」
「はぁ……、はぁ……、水蒸気爆発ですよ、老」
 真冬は消え入りそうな声で告げ、右腕を押さえてその場に片膝を着いた。
「水が超高温と接触すると一気に気化されて爆発が起こるのです。正確には、火ではなく、超高温の金属片と接触させたのですが」
 自らの炎に焼かれた真冬の右腕は黒焦げになっていた。
 ファーブニルの猛攻によって全身を砕かれた傷跡は生々しいが、最後にファーブニルが放った魔力による外傷はなく、爆発による外傷もない。
 その火傷の痛々しい右手を広げる。
 そこには、ひしゃげてフレームのねじ切れた眼鏡が握られていた。
 真冬の愛用していた黒縁眼鏡。
「この眼鏡は、私が過去を覆い隠すために着けていたものです。このフレームの破片を焔とともにあなたにぶつけました」
「そうか。おまえは私に想いを刻み、打ち勝った。そして、おまえの愛弟子たちは私の攻撃からおまえを守り切った」
 真冬を貫くかと思われたファーブニルの魔力はわずかに逸れて、彼女の後ろの壁を粉砕していた。
 ファーブニルの身体を痺れさせたシルビアの電撃によって、真冬を狙って放たれたはずの魔力はその方向を狂わされていたのだ。
 そして、爆発の瞬間、ラーンは水流の壁を展開して、師を守り切ったのだ。

「……見事だ」
 ファーブニルは胸の大穴に手を当て、後方へとよろめいた。
 溢れ出る鮮血とともに魔力が全身から抜けていく。
 致命傷だ。
 だが、ファーブニルは自分の敗北に対して微塵の後悔も抱いていなかった。
 なぜならば、自分の欲していた炎が消えることはないからだ。
 消えないどころか、この先一層激しく燃えていくはずだ。
 炎を継ぐものは、むろん、目の前の者たちだ。
 だから、満足していた。
「ファーブニル」
 ラーンとシルビアが駆けよろうとするのを制したファーブニルの腕は竜の鱗に包まれたものではなく、枯れ枝のような人間のものに戻っていた。
 顔も深い皺が刻まれた老人のそれへと戻っている。
 ただ、そこには死の影が色濃く表れていた。
「老……」
 真冬が複雑な表情で呟く。
 老人は首を横に振り、腕を前に突き出した。
 血の滴る指先が、『大会議場』の出口を指差している。
「行け、シンマラ。行け、シルビア、ラーン」
 ごふりっと、血を吐く。
 すでに老人の足元は胸の傷から溢れ出た真紅の液体で染まっている。
 失血のために朦朧としてきてもおかしくない意識が、なぜか、はっきりとしていた。
「私におまえたちの歩みを止めさせる気か?」
 動こうとしない真冬たちに、老人は柔和な笑みを浮かべた。
 真冬はその笑みを見て、意を決したように頭を下げた。
「おさらばです、ファーブニル老」
 颯爽とした動きで後ろを向く。
 長い黒髪が一瞬だけ、老人の視界をふさいだ。
 視界が戻った時には凛とした背中が、老人の目に映っていた。
「さらばだ、我が娘」
「ファーブニル!」
 シルビアがふっきれたようにファーブニルに笑顔を向け、振り切るように彼女も保護者であった老人に背を向けた。
「アタシの魅力的な背中、よっく焼きつけとけよ」
 シルビアの声はわずかに震えていた。
 老人からは赤毛の少女の表情は見ない。
 真摯な瞳で老人を真正面から見つめていたラーンも踏ん切りをつけたように、ゆっくりと頭を下げる。
「老、今まで本当にありがとうございました」
 嗚咽を含んだ心からの礼の言葉を告げ、青髪の少女もまた、老人へと背を向けた。
「さらばだ、我が孫娘たち」
 ファーブニルは心の底から、笑った。
「……さあ、行け。振り返る必要はない」
 もう一度、はっきりと別れの言葉を告げる。
 三人は背を向けたまま、頷いたようだった。
 そして、黒髪の女教師と、赤髪と青髪の二人の少女が、出口に向かって駆け出した。
 老人の言葉通りに、彼女たちは振り返らない。
 振り返ることは、非礼。
 未来へ向かう背を見せることが最大の礼。
 そう思っているのだろう。
 それは正しい。
 三人が出口へと消えると、老人は天を仰ぐように両腕を広げた。
 後方へと身体が傾き、自らの流した夥しい血で濡れた床に倒れる。
 ファーブニルはゆっくりと目を閉じた。
 その顔には安らかな笑みが浮かんでいた。


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