魂を貪るもの
其の七 浮上
7.眼光
一瞬、何が起こったのか、豊玉真冬には理解ができなかった。
気がついた時には、すでに視界が一変していた。
「レインバックめ!」
シルビア・スカジィルの罵声が、一変した空間に響き渡る。
怒気に揺れるシルビアの赤い髪と、その隣でラーンの静まっている青い髪。
その二人を挟んだ向こう側には、両手に魔力を収束しているファーブニル老人が佇んでいる。
エントランスホールではない。
「ここは『大会議場』ですね。どうやらレインバックの罠で強制的に転移させられたようです」
ラーンが真冬を振り返ることなく、自分たちの置かれている状況の推測を口にする。
真冬がもう一度周囲を見回す。
『大会議場』というだけあって、部屋は非常に広く、天井も高い、戦いを行なうのには絶好の場所ではあるようだった。
「あの女にとっては、すべてが遊びか」
「シンマラ」
呻くように呟いた真冬に、シルビアがやはり振り返ることなく声をかける。
「神代ちとせが、死ぬぜ」
「えっ?」
赤毛の少女の突飛ともいえる発言に一瞬目を見開いた真冬だったが、すぐに言葉の意味を理解した。
「シギュン・グラムか」
「そうだ」
真冬が思い至り、口にした最悪の名前に、シルビアは頷いた。
ミリア・レインバックは『相応の相手』と言いながら、呪曲の魔力で、真冬たちをファーブニルへと振り分けた。
そして、『相応の相手』という言葉が真実だとすれば、ちとせに振り分けられた相手はただ一人。
悠樹や鈴音が一緒かもしれないが、エントランスホールにいた時にジークとの戦いもすでに始まっていた。
ジークの相手としてどちらか一人、もしくは二人ともを振り分けた可能性は高い。
ちとせは二人とさえ分断されて一人で、″氷の魔狼″の待つ場所とへ放り込まれているかもしれないのだ。
「行け、シンマラ」
「……何?」
「神代ちとせを助けに行けッ!」
赤いツインテールを激しく揺らして叫ぶシルビアの声が、『大会議場』に響き渡った。
真冬が両目を大きく見開く。
ファーブニルもまた、驚愕したように動きを止めた。
老人にとってもシルビアの行動は予想外のことだったのだろう。
「シルビア……」
真冬が声をかけるが、シルビアは振り返らない。
小さい背中を、しかし、まっすぐに伸ばして、前を見続けている。
「アタシたちは大丈夫だ。だから、神代ちとせをシギュン・グラムに喰らわせるな」
シルビアの声には揺るぎない力強さがあった。
「師よ」
ラーンも真冬に告げた。
「行ってください。私たちはもうあなたの心が常にともにあることを知っています」
シルビアのように大気を切り裂くような甲高い声ではなかったが、その口調は静かに重く、それでいて澄んでいた。
愛弟子二人の表情は、真冬からは見えない。
正面に立つファーブニル老人からは見えているだろうか。
真冬は二人の愛弟子が強い口調で決意を言いきったのとは裏腹に、少女たちの身体が震えていることに気づいていた。
それは怯えによるものではない。
――不安。
真冬が『ヴィーグリーズ』を抜けた後の、二人の師であり、保護者であった老人と対峙する不安。
だが、不安に駆られながらも、二人の少女には真冬を送り出そうとする決意が同時に存在している。
かつては憎しみの対象でもあったはずの神代ちとせを助けたいと思っている。
自分の窮地にあって、他者を労われる心。
戦いしか知らなかったはずの少女たちの成長は、真冬の目から見て明らかだった。
「シルビア、ラーン。私は――」
真冬は愛弟子の背に語りかけながら、両手に念を集中した。
――ボォウッ!
紅蓮の炎が宿る。
「行くわけにはいかない」
そう言い切った真冬へ、愛弟子二人が同時に振り返った。
「キミたちとともに、ファーブニルに相対する」
弟子が巣立つというのに、自分だけが逃げるわけにはいかない。
シルビアが首を横に振る。
「間に合わなくなるぜ」
「間に合わせる。それに、ちとせくんならば、どのような事情があろうと、ここでキミたちを置いていくことを許しはしないだろう」
真冬は自分の勝手であることを承知していた。
だが、命を賭けてでも通さねばならぬ自分勝手であることも承知していた。
「シンマラよ、その覚悟、受けて立とう」
動きを止めていたファーブニルが言葉を紡ぎ出す。
老人の目は猛禽類のように鋭い光を湛え、赤い髪の少女と青い髪の少女、そして、真冬を凝視している。
幾重にも刻まれた深い年輪が生きてきた時間の長さを物語り、法衣から覘く手は枯れ枝のようだが、その手に収束されている魔力は枯れ木のそれではない。
「そして、シルビアよ、ラーンよ、おまえたちを称えよう」
莫大な魔力と威圧感による意識レベルからの脅威を振り撒きながら、老人は手のひらを三人へと向けた。
漆黒の稲妻が駆け、衝撃によって、床が爆裂する。
三人が散る。
真冬は左へ、ラーンは右へ。
だが、シルビアが選んだのは、そのどちらでもない。
「正面だと!」
ファーブニルが驚嘆したように叫び、次いで再び魔力を両手に凝縮する。
「前進あるのみ!」
シルビアは怯まない。
さらなる加速。
疾風迅雷。
電光石火。
フランベルジュの刃が雷光を帯びて眩く輝く。
電撃を伴った渾身の一撃。
だが、ファーブニルは左手を軽く払っただけで、魔力で電撃と衝撃を拡散させた。
「!」
斬り下ろした剣を弾かれ、シルビアが舌打ちする。
反対の手に凝縮した魔力を、ファーブニルがシルビアへと向かって放つ。
しかし、シルビアは弾かれた勢いのまま、ファーブニルの頭上を飛び越えた。
衝撃波は、ゴシックドレスの一部を塵に変えたが、シルビアの身体は無傷。
その姿を追おうとした老人の目に映る青い影。
「ラーン!」
跳躍したシルビアの背後から飛び出したのは、ラーン。
ランスを構えた姿勢で突撃してくる。
再度魔力を凝縮させようとするファーブニルだったが、間に合わない。
ランスの切っ先がファーブニルの喉元へと吸い込まれるように向かう。
「ふむ、見事」
皮膚でピタリと止められたランスの切っ先から、その柄を握るラーンの顔へと視線を上げた。
老人は静かに息を吐き、ラーンの澄んだ瞳を見据える。
その視線は厳しい。
「だが、なぜ貫かぬ」
「老よ、勝負は決しました。降伏してください」
老人の険しい表情にも戸惑うことなく、ラーンは淡々と言った。
背後に跳んでいたシルビアが、ファーブニルの首筋にフランベルジュの刃を当てる。
ファーブニルは正面を向いたまま、視線だけを赤毛の少女へ巡らせた。
「シルビア、おまえも私に降伏を勧めるかね」
「ああ」
頷くシルビアの瞳もまた雷光の激しさで爛々と輝きながらも、ラーンと同じように澄んでいた。
老人はもう一度、大きく、そして、長く息を吐いた。
「……ラーン、シルビア、強くなったな」
赤い髪の少女と青い髪の少女の顔を見回した後、ラーンの遥か後方に立っている黒髪の女教師の顔を見る。
その表情からは険しさが取れていた。
「シンマラよ、おまえは教え子のもとに戻り、見事に成長させた。おまえも、おまえの教え子も素晴らしい」
「あなたの教え子でもある」
応えた真冬の声には、敬意と謝意が入り混じっていた。
「……教え子とともに生きてはくれませんか?」
降伏勧告、いや、想いをぶつける真冬に、老人は首を横に振った。
「降伏はできんよ」
ファーブニルは降伏などしない。
それくらいのことは、三人ともわかっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
ファーブニルもまた、彼女たちの心を理解していたが、降伏という選択肢は老人にはできないものだった。
「私はランディさまに忠誠を誓っている。私は私の役割を果たさねばならぬ」
穏やかな表情のまま、老人は言った。
「それらは我が生において、どうしても譲れぬものだ。ゆえに、おまえたちも、もはやためらうな。これから先、手を抜くは、私への侮辱と思え」
ファーブニルが両目をカッと見開く。
その姿が大きく震えた。
同時に膨大な魔力が爆発し、衝撃の波動が老人を中心にして巻き起こる。
「!」
ラーンとシルビアは後方へと弾き飛ばされた。
真冬は見た。
ファーブニルの法衣の袖が裂け、その肉体が膨張を始めたのを。
枯れ枝のような腕は大木のように太くなる。
頭に角が生え、口が大きく裂け、鋭い牙が姿を見せる。
翼が背から迫り出し、太い尾が足下へと伸び出た。
その姿は、全身が灰色の鱗に包まれた竜人。
「おまえたちの屍を踏み越える覚悟を見せよう。おまえたちも我が屍踏み越える覚悟を見せてみよ」
ギョロリとした目に穏やかな色を湛えたまま、竜人と化したファーブニルは咆哮を上げた。
次の瞬間、真冬の視界がすべて漆黒に染まった。
その正体は、竜人の大きく開けられた顎から放たれた
「!」
真冬が慌ててその場から離れる。
竜人の漆黒の吐息が直撃した床が、振動とともに崩れる。
辛うじて衝撃波の吐息を避けた真冬が愛弟子の姿を確認する。
シルビアとラーンはファーブニルを挟んでお互いの対角線上の位置で身構えている。
三方から囲んだ形でこそあるが、有利とはいえない。
だが、三人には怯みはない。
シルビアとラーンが声を掛け合うことをせずとも、瞬刻の遅れもなく同時に間合いを詰める。
ファーブニルが鋭い牙を見せて笑った。
そして、シルビアに向かって駆ける。
その速さは、すでに老人のものではなく、獰猛で素早い動き。
竜の飛翔に、シルビアは戦慄した。
フランベルジュで迎え撃つように斬りかかるが、ファーブニルは右手で剣を受け止めた。
ファーブニルの腕は、頑健な鱗に包まれた竜のものなのだ。
剣の刀身を握り、引き寄せる。
「んなっ!」
驚愕の声を上げるシルビアへファーブニルの拳が突き出される。
ヘビー級ボクサーを遥かに上回る強烈な拳撃を鳩尾に打ち込まれ、シルビアがごふりと鮮血を吐き出しながら吹き飛ばされる。
「お嬢!」
パートナーの惨状に悲痛な叫び声を上げながらラーンがランスを唸らせる。
だが、ファーブニルは、すでにラーンへと向き直っている。
「遅いぞ、ラーン!」
ランスが身を反らしたファーブニルの竜の鱗を弾いたが、致命傷には程遠い。
逆にカウンターで放たれた竜の爪が、ラーンの左肩を貫いていた。
肩を抉る激痛に呻くラーンだが、倒れはしない。
歯を食いしばって、ファーブニルの腕を掴んだ。
「お嬢!」
視線をシルビアに向ける。
シルビアはすでに立ち上がっている。
その左手のひらに眩いばかりの光を放つ巨大な雷光球を認め、ファーブニルが唸った。
「……その身をわざと私に貫かせたか」
「日本のことわざで言えば、『肉を切らせて骨を断つ』です」
苦痛に顔を歪めながらも、ラーンの唇は笑みを刻んだ。
「ラーン!」
シルビアの手から雷光球が放たれ、ファーブニルを襲う。
だが、竜人は左手で、その雷光球の直撃を受け止めた。
「なっ!」
「ラーンよ、覚悟は見上げたものだったが、残念だったな」
そのまま、雷光球を右の腕で貫いているラーンへと叩きつける。
「きゃああああっ!」
シルビアが渾身で放った雷光球の電撃がラーンの全身を焼き廻った。
全身からブスブスと黒い煙が上がる。
目が虚ろになる。
左肩を貫いていたファーブニルの爪が引き抜かれ、ラーンは床へと崩れ落ちた。
「そ、そんな……」
自分の放った雷光球で、ラーンが焼かれたのを見て、呆然とするシルビア。
ファーブニルが隙を見せたシルビアへ向かって飛翔しようとする。
だが、その動きが唐突に止まった。
「行かせない」
脚を掴まれている。
掴んでいるのは、むろん、青い髪の少女。
ラーンは全身から黒煙を上らせ、左肩を朱に染めながらも、必死にファーブニルにしがみついていた。
そして、大声を張り上げる。
「お嬢、いつまでも、ぼーっとしてないでッ!」
その声で、シルビアは我に返った。
そして、稲妻の速度で走り出した。
「ラーン、悪かったな。集中力が足りなくて」
「余所見は許してあげる。だから、早く!」
二人とも雷撃の失敗は口にしない。
ラーンはシルビアの雷光球に焼かれたことを、シルビアはラーンを雷光球で焼いてしまったことを、悔やまない。
失敗した後に呆然としたシルビアの行動だけを問題にした。
「本当に強くなったな、ラーン」
ファーブニルが足元のラーンを見下ろす。
「老よ、以前にも言ったはずです。私は、お嬢の剣であり、盾なのです」
「ラーン、アタシもオマエの剣であり、盾さ!」
赤い髪の少女の甲高い声が響き渡り、ラーンを見下ろしていたファーブニルが顔を上げる。
「シルビア、おまえも真の意味で強くなった」
ファーブニルの双眸には感嘆が浮かんでいた。
シルビアのフランベルジュがその顔に躊躇なく振り下ろされる。
「だが、私もそう簡単に負けてやるわけにはいかぬ」
ファーブニルは左腕でフランベルジュを弾き、右拳の一撃でシルビアの頬を打った。
意識を刈り取られ、崩れ落ちかけるシルビアの顎へ、ファーブニルの剛腕が唸りを上げる。
全身がバラバラになったかのような衝撃にシルビアは吹き飛ばされ、壁に背中から叩きつけられた。
「ぐぁ……」
壁に沿いながら崩れ落ちそうになるのをどうにか、震える両脚で支える。
口の中の血を吐き捨て、無理やりに壁に寄り掛かっている身体を引きはがす。
雷光のごとき視線でファーブニルを睨みつける。
「お嬢!」
シルビアの安否を気遣うラーンの頭をファーブニルが鷲掴み、持ち上げる。
そして、腹を殴りつける。
「かはぁっ!」
竜の腕力で放たれた拳が、ラーンの腹へと深々と食い込む。
「ぐぁっ、はぐっ!」
悶えるラーンの腹へ、続けざまに二撃、三撃と砲弾の威力の拳が叩き込まれる。
胃を打撃で破られる地獄の苦しみに身を震わせ、咳き込みながら血を吐き出したラーンをファーブニルが投げ捨てる。
だが、床に転がった彼女もまたよろめきながらも、すぐに立ち上がった。
片手でランスを杖代わりに床に突き刺し、もう一方の手で唇から滴る血を拭い、ファーブニルを睨みつける。
激痛に苛まれているはずだが、その目は波を刻まぬ湖面のように澄んでいる。
そこに湛えられているのは、揺らぎない不屈の闘志。
苦戦の中でも二人の少女の眼光は衰えない。
ファーブニルは、彼女たちの師である黒髪の女教師へと視線を移した。
真冬は両手のひらに炎を宿したまま、静かに佇んでいた。
その炎は紅蓮ではない。
青白い炎。
真冬の両手で輝くのは、紅蓮の炎を遥かに凌ぐ高熱の火焔。
その両目には愛弟子二人にあった眼光はない。
光のない瞳が静かにファーブニルを凝視している。
愛弟子たちが刃を交えている間も、ただ静かに見ていたのだろう。
だが、そこにあるのは無関心ではない。
静かなる集中力。
ひたすらに、霊気を高めている。
愛弟子やファーブニルに比べて、圧倒的に貧弱な己の身体能力をカバーすべく、気力を溜めている。
その目はファーブニルを凝視しながらも、その視界からファーブニルの姿さえ消し去っている。
瞑想の域に達するほどの、集中。
真冬の両手の炎が、完全な白い焔と化した。
「超高熱の白き焔か。よかろう、おまえのそれほどまでに熱き想い、見事、私に刻んでみよ」
「ファーブニル」
真冬が、眼光の消えていた瞳へ、静かな、そして、激しい炎を灯した。
「あなたにじっくりと私の覚悟を見せたい。だが、その考えとは相反して急いでもいる」
両手の炎を右手のひらへと収束させる。
「実のところ、どちらの想いも中途半端にしか選べていない。やはり、私は進歩のない愚か者だな」
「……シンマラよ、おまえは愚か者などではないさ。一時は道を間違えたかもしれぬが、再び正道に戻ってきた。今のおまえの想いも行動も間違ってなどおらぬよ」
ファーブニルは穏やかな声でそう言って、真冬へ向かって飛翔した。