魂を貪るもの
其の七 浮上
6.戦士

 ジークという男が決して簡単に倒せる相手ではないことは、一度戦った鈴音自身が一番理解している。
 厚い大胸筋、盛り上がった三角筋、逞しく割れた腹筋。
 その他いたるところの筋肉の量、密度が、その肉体が凶器なのだと主張している。
 それに加えて、霊気を吸収してしまう特異体質。
 身体能力に頼った力も、霊気を駆使した技も、彼には通じない。
 風を使う悠樹や、雷を使うシルビア、水を使うラーンならば、その特殊な霊力(ちから)でジーク相手にも有利に戦闘を展開できたかもしれない。
 だが、鈴音にあるのは純粋な霊気と体技だけであり、前回は自身の瀕死の肉体を囮にして不意を突き、彼の関節を砕くことで、ようやく勝利を収めることができたのだ。
 ジークとの戦闘の相性は決して良くはない。
 猫ヶ崎樹海でジークを倒した後、ファーブニルから止めを刺さないのは甘いと評された鈴音だが、再戦の可能性をまったく考えていなかったわけではない。
 剣術系の技を主体としている鈴音は多用していないが、天武夢幻流には組討系の技もある。
 関節を砕く技が有効なのは樹海での戦いで証明済みであり、目や喉といった人体急所部位への攻撃も有効だろう。
 他にもジークに通じそうな技はある。
 天武夢幻流・組討が奥義・夢浮橋(ゆめのうきはし)
 練った波紋を連続して相手の体内に流しながら、拳で作り出した何重もの震動で抵抗力を殺いだ肉体を細胞から破壊する大技。
 霊気は通じなくともその震動打によって生まれる衝撃波は、筋肉の鎧を貫いて内臓に直接ダメージを与えることができるはずだ。
 何しろ、鈴音もその威力は身を以って知っている。
 実の姉である霧刃により放たれたその奥義を二度も浴び、一度目は戦闘不能にまで追い込まれている。
 鈴音がジークに勝っていると思われるのは、これらの技を巧みに駆使できるということと、そして素早さだろう。
 速さで翻弄して死角を突き、巧みな技で人体急所を攻め立てるのが基本戦法となる。
 だが、関節技にしろ、急所攻撃にしろ、衝撃打にしろ、それは単純な攻撃ではない。
 そして、相手に直接触れなければならない。
 ジークの肉体は細雪を通してさえ、恐るべき吸収能力を発揮する。
 直に触れなければならないリスクは高い。
「霊気を収束した『剣』を作らずに徒手空拳で来るか」
 意外だというような表情を浮かべるジーク。
 その規格外の筋肉から発せられる熱気が鈴音の肌を焼く。
「テメーの吸収容量を超えることは難しいってのは経験済みだからな。霊気の無駄遣いはやめたのさ」
 じりじりと間合いを詰めてくるジークを、不敵な笑みを浮かべて迎える。
 全身に霊気を漲らせているが、それは身体機能を高めるための補助的なもので、直接に攻撃を行なうためのものではない。
 目前まで迫った、ジークが足を止め、鈴音を凝視する。
 ――シュッ。
 風が啼いた。
 それは、ジークの豪腕が放たれた音。
 髪が舞う。
 頬の横を紙一重で通り過ぎた太い腕に手をかける。
 腰の安定を奪おうとする脱力感に耐え、掌握した豪腕の手首を捻り、ジークを背中から地面へと叩きつける。

 床が砕け、筋肉の鎧が軋んだ音が鈴音の耳にも聞こえたが油断はしない。
 否、油断などできる余裕はない。
 断続的に襲ってくる虚脱感に、視界がわずかに揺れる。
「ッ!」
 轟音が響いたのは、鈴音がその場を飛び退いた瞬間だった。
 大木のような脚が、今までいた場所を通り過ぎる。
 間合いを広げて着地した鈴音は、自分の腹部へと視線を落とした。
 チャイナドレスが裂け、摩擦で起きた煙が上がっている。
「くそっ、けっこう高い服だったのによ」
 鈴音が舌打ちして、ビリィッと破れかけの布地を裂く。
 引き締った腹部が露わになるが、気にしている暇はない。
 投げ捨てた布地を投げ捨てると同時に疾走する。
 宙を舞う布が床に落ちる前に、鈴音はジークの目の前に到達していた。
 そして、右ストレートを放つ。
 神速の突進から、神速の打撃。
 居合いを彷彿とさせるようなその攻撃を、しかし、ジークは防御すらしない。
 大胸筋で受け止められる。
 拳に伝わってくるのは分厚い感触。
 鈴音の放った加速に加速を重ねた打撃をいともたやすく防ぎ、反撃の蹴りを見舞ってくる。
 とっさに左腕を上げてジークの蹴り足を受け止めるが、巨漢の重厚な衝撃は防御を突き抜けて鈴音を襲った。
 鈴音は衝撃に逆らわずに床に転がった。
 そのままの慣性を利用して立ち上がり、前に出てきたジークへとそのまま回し蹴りを放つ。
 しかし、ジークの大きな手のひらは鈴音の蹴りを受け止めていた。
「捕まえたぞ」
 足首を掴んだジークが、鈴音の身体を思い切り振りかぶる。
 鈴音の全身を浮遊感が襲う。
 ジークの怪力で床に叩きつけられれば、大ダメージは逃れられない。
 しかし、鈴音に慌てた様子は微塵もない。
「捕まえられたんじゃない。捕まえてもらったのさ」
 振り上げられた鈴音の身体が捻じれる。
 そして、掴まれていない左脚から放たれたつま先蹴りが吸い込まれるようにジークの喉元に突き刺さった。
 呼吸器への痛烈な打撃を受け、さすがのジークの動きが止まる。
 緩んだ右足首の拘束から蹴りの反動で抜け出した鈴音の身体が空中で反転する。
 ジークの巨体が揺れる。
 右脚による二度目のつま先蹴りがジークの喉を抉っていた。
「ぐっ……」
 少量の吐血をして、ジークが両膝を着く。
「さすがに効いてるようだな」
 好機と見た鈴音が右の拳を固く握りしめる。
 狙いは無論、ジークの喉。
 渾身の一撃を加えれば、いかにジークとて呼吸困難で落ちるはず。
 霊気と闘気を混じり合わせた拳を放つ。
 地面が砕けるほどの踏み込み。
 激突音と破砕音が響き渡る。
「くっ、あっ……ッ!」
 鈴音の両目が大きく見開かれ、その唇から苦痛の声が漏れる。
 砕けたのはジークの喉ではなく、鈴音の右拳だった。
 彼女の拳を破壊したのは、ジークの額。
 鈴音の攻撃はとどめの一撃ではあったが、それは通算三度目の喉を狙った打撃。
 その攻撃を読んだジークが、ヘッドバッドを放ったのだ。
「決着を急いで固執しすぎたようだな」
 鈴音の砕けた右拳を左手で鷲掴みにし、ゆっくりと立ち上がるジーク。
 ジークの手の中で、鈴音の拳骨が軋んだ音を立てる。
「うっ、ぐうっ、……ぐああああああっ!」
 鈍い音が響き、血飛沫が飛んだ。
 鈴音の右拳は、粉砕されていた。
 五本の指は無残に折れ、手のひらも、手の甲も、ひしゃげてしまっていた。
 砕かれた右拳の痛みに呻き声を漏らす鈴音の腹に、ジークが深く踏み込んで突き上げ気味の一撃を叩き込む。
「かはっ!」
 鈴音の身体が衝撃で跳ね上がる。
 空気を吐き出した鈴音の腹に、さらにもう一撃が埋まった。
「がはっ……!」
 血の欠片を吐きながら身体をくの字に折った鈴音の背の上で、両腕を高々と振り上げるジーク。
 背中に振り下ろされるダブルハンマー。
 重厚な筋肉の両腕から繰り出された破壊力。
 鉄槌で殴られた以上の衝撃で地面に叩きつけられ、鈴音は意識が飛びそうになるのを必死に繋ぎ止めた。
 霞む視界に振り下ろされるジークの太い脚を捉え、どうにか床を転がって避ける。
 気力を振り絞って立ち上がるが、よろめく。
 腹の鈍痛と背中の激痛は筋肉と背骨と内臓への深刻なダメージを自覚させた。
 左手の甲で、唇の端から滴っている血を拭う。
 右手に目をやる。
 完全に骨が粉砕されている。
 指も動かない。
 左手でチャイナドレスの裾を引き裂き、切れ端を口に咥えた。
 露出が増えるが、その程度で闘志が揺るぐことなどはない。
 激痛に耐えながら、左手で右手の一本ずつ指を折り曲げ、拳の形を作った。
 そして、衣服の切れ端をバンテージ代わりにして巻き、無理やりに作った拳を固める。
 それを見たジークが言った。
「いくら固めようとも、砕けた拳ではオレには通用しない」
「さて、ね。それはどうかな」
 鈴音はわざとらしく軽い調子で笑った。
 無論、ジークの鋼の筋肉に損傷した拳で放つ打撃など効くはずがないことはわかっている。
 だが、進む理由はあっても、退く理由がない。
 鈴音は踏み込んだ。
 ジークは動かない。
 鈴音が砕けた右拳を引き絞る。
 だが、その右腕は途中で動きを止めた。
 代わりに唸りを上げたのは、無事な左拳。
 狙いは、左腕一本での正中線五連撃。
 しかし、それはジークに読まれていた。
 すべての打撃をガードしたジークの目が鈍く光る。
「使い物にならん拳を振り翳しても、フェイントにはならんぞ」
「くそっ」
 鈴音がジークとの距離を取ろうと右脚で前蹴りを放つ。
 だが、すでに大きなダメージを負っている鈴音の蹴りに鋭さはなく、その足首をジークに掴まれてしまった。
 霊気を吸い取られる脱力感が鈴音を襲い、その表情は明らかな苦痛に歪む。
 だが、歯を食いしばって、左脚で地面を蹴った。
 そして、掴まれている右脚を軸にして、左脚でジークの顎を狙った蹴りを放つ。
 だが、ジークはその動きを読んでいた。
「掴まれた脚を軸にしての空中蹴りか。その技はさっき見たな」
 ジークの右拳で作られたハンマーが、鈴音の蹴りが彼の顎へ突き刺さるより一瞬早くに振り下ろされる。
 鉄槌が叩きつけられたのは、鈴音の左膝。
 曲がらない方向への衝撃が、蹴りの動作で伸びきっていた膝を容易に砕いた。
「はっ、くっ、あっ……」
 そのまま鈴音は床に向かって落下したが、右足首はジークの左手に掴まれたままだった。
 ジークが力任せに鈴音の右足首を引っ張り上げると、ゴキリッという嫌な音が鳴った。
 骨が砕かれたのだろう。
「くあっ……ッ!」
 苦痛に表情を歪める鈴音を、ジークの容赦のない追撃が襲う。
 剛腕によって力任せに振り回され、投げ捨てられた。
 壁に背中から叩きつけられる。
 崩れ落ちそうになったが、気力だけで踏ん張りの効かない身体を支える。
 まさに、満身創痍。
 右拳は潰され、左膝を破壊され、右の足首も砕かれている。
 だが、鈴音の目は死んでいない。
 ジークが感嘆の唸り声を上げる。
「さすがだな。それだけのダメージを受けてさえ、まるで闘志が衰えないとは、な」
「ちとせたちを放っておいて、潔くするわけにもいかないのさ。それに、まだ左腕は無傷だし、『とっておきの技』も残ってる」
「『とっておきの技』?」
「見たけりゃ、テメーから、かかって来いよ。こちとら両脚を砕かれてんだからよ」
 額に苦痛によって滲み出た汗を浮かべながらも、鈴音はにやりと唇の端を吊り上げた。
 全身から青白い霊気が立ち上る。
 明らかな挑発。
「死中に活を見出すつもりか。……面白い。その誘いに乗ってやろう!」
 ジークも、笑った。
 両脚に傷を負った鈴音に対して遠方から攻撃を加え続ければ、確実に勝てるだろう。
 しかし、強者を求める彼の戦士としての矜持が、無用なリスクを避け、安全な勝利を掴むことを良しとしなかった。
「オレはおまえに一度敗れている。オレが得る勝利は、価値のあるものでなくてはならん」
 ジークの筋肉が血管を浮き出させながら隆起する。
 その両腕に闘気が、その両脚にバネが溜められていく。
「行くぞっ!」
 闘気の収束と筋肉の緊張が臨界に達し、ジークが吼えた。
 同時に全身の筋肉が躍動し、その巨体を砲弾へと変えた。
 鈴音が左拳を胸の前に突き出すように構えた。
 ジークの意識は、その左腕に集中されていた。
 鈴音の『とっておきの技』は左腕による渾身のカウンターであろうと、ジークは考えていたのだ。
 その予想通り、ジークの突進に合わせて鈴音の左腕が動いた。
 ジークに狼狽はない。
 鈴音の身体を左腕ごと砕こうと、その太い右腕が引き絞られる。
 だが、ジークはそこで自分の考えが外れたことを知るはめになった。
 鈴音の左腕は後ろに引かれ、その反対に振り子のように繰り出されたのは砕けているはずの右拳。
 しかも、足首の破壊されている右脚の力強い踏み込みを伴って。

 鈴音が砕けている右の拳に霊気の渦を纏わせて、ジークの分厚い腹筋へとボディアッパーを打ち込む。
 鋼の肉体との衝突と、震動打の反動が、粉砕骨折している鈴音の右拳を完全に潰す。
 バンテージ代わりに拳を固めていた衣服の切れ端がズタズタに裂け、粉砕骨折している五本の指が捻じれ曲がる。
 それでも、鈴音は構わずに右拳へ霊気を収束する。
 ジークの肉体へ流し込む波紋を生み出す。
 それは、渾身の一撃にして、同時にすべてを破壊する振動を伴う千撃。
 筋肉の壁の抵抗を無効にし、内臓へ直接ダメージを刻み込む。
「天武夢幻流・組討が奥義・夢浮橋ッ!」
 ジークの肉体に鳩尾から蜘蛛の巣のように広がる霊気の波紋が走るのを、鈴音は確かに見た。
 だが、鈴音も満身創痍。
 奥義の反動は容赦なく、鈴音の身体へ負担を強いた。
 波紋を生み出した右拳は反動で手の甲から骨が皮膚を突き破り、砕けた状態で踏み込んだ右足首と踏ん張った左膝からも鮮血が吹き出した。
 満身創痍の全身が悲鳴を上げるが、鈴音は引かずに波紋と振動をジークの肉体へと流し込み続ける。
 ついに、ジークの巨体が、ぐらりと揺れた。
 勝機。
 鈴音は全身に走る激痛に免じてそれを見逃すほど、自分の身体にやさしい生き方はしてきていない。
 歯を食いしばり、ジークの後ろに回り込んで背骨に右肘を叩き込む。
 肘が突き刺さったジークの背中から再び全身に青白い霊気の波紋が広がり、破壊の振動は巨漢の肉体の隅々にまで浸透していく。
 鈴音もまた奥義の反動によって全身に走る激痛に目を血走らせたが、唇を噛みしめて意識を保たせた。
 そして、鋼の肉体を粉砕された男の首に腕をかけ、後頭部から床へと叩き落とした。
 衝撃で床に大きなクレーターが生まれ、その中心に倒れたジークの全身から血が吹き出した。
 ジークは地面に大の字に横たわったまま、視線だけで鈴音を見上げた。
「また、オレの負けのようだ」
 全身を内部から破壊され、ジークの誇る膨大な筋肉に亀裂が入っている。
 彼は指一本動かすこともできないようだった。
 それでも苦痛の色を微塵も出さずに、鈴音へ賞賛の言葉を送る。
「素晴らしい技だ。だが、まさか、唯一無事な左腕を使わないで、砕けた拳と両脚を酷使してのカウンターとは、な」
「……それくらいやらなきゃ、意表を突けないからな。ま、もっとも、前回はともかく、今回の勝ちは、テメーがあたしの勝負を真っ向から受けてくれたおかげだよ」
「真っ向勝負でなければ、勝利したとしてもオレにとって意味のあるものにならない」
 ジークの表情には、悔恨の念も、屈辱の憤怒もない。
 鈴音は巨漢の戦士の人格に心地好い潔さを感じたが、立ち止っている時間はない。
「悪いが、あたしは行かせてもらうぜ。急いでるんでね」
「待て。おまえに返すものがある」
 背を向けようとする鈴音をジークが止めた。
 振り返った鈴音が怪訝そうに首を傾げる。
「……返す、もの?」
「ぬぅぅううん……ッ!」
 ジークの気合いの声とともに肉体が淡く輝きだし、亀裂の入っている肉厚な胸板に光が集中していく。
 やがて、眩いばかりの光の球が大の字に倒れているジークの胸の上に生まれた。
 鈴音が光球に自分の霊気と同じ波動を感じ、目を見張る。
「これは……あたしの……霊気……?」
「オレがおまえから吸収した霊気で残っているものを塊にして放出したものだ。触れれば、おまえの身体へ戻るはずだ」
「おまえ、どうして、あたしに……?」
 思いもかけないジークの行動に鈴音は目を丸くした。
「オレがおまえに負わせた傷はオレの戦士としての誇りであり、オレがおまえから奪った霊気を返すのはオレの戦士としての感謝だ」
 戦いこそが、ジークのすべてだった。
 鈴音との戦いに敗れはしても、彼の中にあるのは、激闘の充実感と強敵への感謝。
 彼はどこまでも純粋に、戦士だった。
 鈴音は、目の前に浮きながら煌々と輝く霊気球へと一瞬の躊躇もなく、両手を伸ばした。
 すると、霊気球は両手に吸い込まれるように消え、鈴音の全身を青白い輝きが駆け巡った。
「これは……」
 鈴音は自分の右手のひらを見つめた。
 完全に砕けていた右の拳の痛みが引いていくのがわかる。
 左膝と右足首の激痛も和らぎ始めていた。
 霊気が戻ったことで肉体の治癒力も促進されているのだろう。
「完全に治癒するには時間がかかりそうだが、動くには十分だな」
「まるで、霊気球の受け入れを躊躇わなかったな。万が一にもオレの罠かもしれないとは考えなかったのか?」
「おまえに罠ほど似合わないもんは無いぜ。二度も拳を交えたんだぜ。おまえが信頼できる(おとこ)かどうかぐらいはわかっているつもりさ」
 こともなげに答える鈴音に、ジークは苦笑した。
「……オレの琴線に触れるイイ女へ、感謝をもう一つ示そう」
 ジークは視線を隅にある扉へと向けた。
「ここは、地下の鍛錬場だ。あの階段を上がったところで通路は左右に分かれている。左の通路を行けば、突き当たりに上階へ続く階段がある。だが、右の通路を抜ければ、エントランスホールに戻れる」
「エントランスホール……!」
 鈴音が、はっとした表情になる。
 エントランスホールには、この場に来る前に手放してしまった鈴音の大切なものがあるはずだ。
「レインバックが持ち去っていなければ、おまえの刀はそこにあるだろう」
「……礼を言うよ。だけど、エントランスホールか。真冬たちは戦っているかな?」
 鈴音が思い出したように言う。
 ミリア・レインバックの策略で、鈴音たちはエントランスホールから無理やりに転送されて『相応の相手』に振り分けられたのだ。
 ちとせと悠樹は『相応の相手』がいる別の場所に飛ばされている可能性が高いが、真冬たちは『相応の相手』であるファーブニルとすでに戦い始めていた。
 鈴音が『相応の相手』であるジークとともにこの地下闘技場に飛ばされたことから、ミリア・レインバックが特別ステージを用意している可能性はある。
 だが、そうでなければ、そのままエントランスホールで戦い続けているはずだ。
「もしも、ファーブニルたちが戦っていたら、おまえはどうするつもりなのだ?」
 聞かずとも答えは分かっているというような表情と口調で、ジークが鈴音に尋ねる。
 鈴音は首を横に振った。
「どうもしないさ。いや、どうもできない、かな」
「そうか。ならば、もはやオレのすべきことは何もないようだ」
「じゃあ、行くぜ」
 答えに満足したかのように大きく頷いたジークに、鈴音は背を向けた。
 その背に、ジークが激励を送る。
「負けるなよ、正義の味方」
 鈴音は振り返らずに左腕を横に伸ばし、親指を立てた。


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