魂を貪るもの
其の七 浮上
4.無茶
 

 『ヴィーグリーズ』の拠点、『ナグルファル』を見て、ちとせたちは息を呑んだ。
 かつて、世界樹ユグドラシルに飲み込まれた『ヴァルハラ』の変貌にも驚かされたが、今回はそれ以上の衝撃を受けることとなった。
 並の者では近づくことすら叶わないのではないか。
 そう思わせるに十分な隆起した大地の険しさがあり、其処彼処に広がる地割れからは漆黒の瘴気が立ち上り、周辺に毒素を撒き散らしていた。
 そして、周囲をうろつく妖魔や魔獣たち。
 此処こそが、『魔界』なのではないかと錯覚してしまってもおかしくない。
「どりゃぁ!」
 牙を剥いて襲い掛かってきた何体目かの魔獣に向かって、鈴音が気合いの声を上げながら細雪で一閃を放つ。
 手にしている細雪の聖なる青白い輝きは、天が暗雲に覆われても損なわれることはなく、いとも簡単に獅子を髣髴とさせる姿をした魔獣を切り裂いた。
 魔獣は断末魔を上げながら倒れ、その屍は溶けるように消えてしまう。
「ったく、バケモノどもめ、次から次へと……」
 ちとせやシルビアたちも敵を屠っているが、襲い来る相手をほとんど一撃で葬っている鈴音が倒している魔物の数は彼女らの比ではない。
 しかも、彼女は息一つ切らしていないのだ。
 改めて退魔師としての鈴音の強さを思い知らされる。
「瘴気が濃くなったせいでしょう」
 重い声で言う真冬。
 その表情には思い詰めたものが感じられた。
「『魔界』浮上が近いということです」
 『魔界』より漏れてくる瘴気が、この付近をより『魔界』に近い光景に変えている。
 その異変に吸い寄せられるように、闇の眷属たちが集まってきているのだ。
 あるものは瘴気より生まれ出で、あるものは闇から這い出でた。
「その通り、この地を中心として『魔界』は間もなく浮上する」
 虚ろな声が響き渡り、一行の前を遮るように魔方陣が地面に現れた。
 そこに瘴気が渦巻き、凝り固まる。
 それは、人の形を成した。
 法衣を纏った長髪の影。
 瘴気の固まって出来た男がゆっくりと目を見開き、その端正な顔立ちを歪めて嗤う。
 眼窩と口から黒い液体が溢れ、それは男の左肩に少女の姿をした人形を作り出した。
 その少女の人形も美しい姿かたちをしていたが、男と同じようにまるで髑髏のように不気味な表情でカタカタと嗤った。
「おまえは!」
 ちとせは目の前の男の顔に見覚えがあった。
 かつて、『ヴァルハラ』で、ちとせたちの前に立ちはだかった男。
「ヘルセフィアス!」
 凝り固まった瘴気は『ヴィーグリーズ』の幹部の一人、ヘルセフィアス・ニーブルヘイムの姿をしていた。
「ヘルセフィアス・ニーブルヘイムは『ヴィーグリーズ』に反逆し、処刑されたと聞いたが?」
 真冬の問いに、シルビアもラーンも頷いた。
「シギュン・グラムに殺されたはず」
 ちとせも真冬の言葉を肯定する。
 ヘルセフィアスは『世界樹』の力を手に入れんとして『ヴィーグリーズ』に反旗を翻したが、ちとせと悠樹の目の前で、シギュン・グラムによって氷結されて跡形もなく砕けて死んだはずだ。
「ヘルセフィアスは肉体と野望を粉々に砕かれ死んだ。粉々にな」
 ちとせたちに応える男の語尾は地の底から響いてくるように反響していた。
 その声に強烈な悪意が潜んでいる。
「私はヘルセフィアスと呼ばれた男の残留思念」
 漆黒の液体を眼と口から液体を流したまま、表情を憤怒へと変える。
 なまじ顔立ちが整った男だけに憎悪で歪んだ顔は不気味な迫力があった。
「私が手に入れられなかった世界など」
 そして、片手を上げる。
 その手のひらに闇が収束する。
「『魔界』の瘴気に食い尽されてしまうが良いのだッ!」
 怨念の込められた声が、大気を震わせる。
 底知れぬ憎悪の波動が肌を打つ。
 今までの魔獣たちのように余裕で勝てるような相手ではないと感じ、ちとせの顔に緊張が走る。
 鈴音もまた舌打ちし、かったるそうに前髪をかきあげる。
 しかし、ちとせの手が神扇に伸びる前に、そして、鈴音が細雪を抜くよりも先に、今まで後方にいた真冬が一行の一歩前に出た。
「ちとせくん、下がっていたまえ」
「センセ?」
「キミと鈴音さんにはこの先もがんばってもらわないといけないのでね。この程度の男の相手は私がやらねばならない」
 真冬の表情は硬い。
 構えを取った真冬を見て、ヘルセフィアスの表情が怒りから嘲笑へと変わる。
「誰かと思えば、おまえは裏切り者のシンマラではないか」
「裏切り者はおまえも一緒だろう」
 『裏切り者』という言葉にも真冬は動じない。
 逆にヘルセフィアスの顔が再び、怒りへと染まった。
「確かに私は『ヴィーグリーズ』を裏切った。野望があったからだ。だが、だからこそ、許せぬな、シンマラ。裏切りをした私は処刑された。だが、同じ裏切り者の貴様は処刑されずに生きている」
 真冬は自分の弱さゆえに『ヴィーグリーズ』を裏切り、弟子を裏切った。
 ヘルセフィアスははじめから裏切るつもりで『ヴィーグリーズ』の幹部となり、己の欲望のために組織を裏切った。
 二人とも裏切り者であったが、その結末は相反している。
 真冬は裏切りに繋がった弱さを克服して弟子を取り戻し、ヘルセフィアスは裏切って手に入れた力に溺れて命をも失ったのだ。
「許セヌ、許セヌ、許セヌ、許セヌ」
 肩の少女人形が壊れたように同じ言葉を繰り返し、ヘルセフィアスが全身をわなわなと震わせる。
 自分は、実力はあるのに機会に恵まれないだけと言い訳をして起こりもしない奇跡を待っているだけの凡庸な者たちとは、違う。
 自ら野望を叶えるために行動を起こし、自らが機会を作り出したのだ。
 だが、失敗した。
 すべては水泡に帰した。
 野望を阻んだ『ヴィーグリーズ』が許せない。
 自分の命を奪った"氷の魔狼"が許せない。
 逃避という後ろ向きの行動を取りながらも生き残っている目の前の女が許せない。
 何もかもが許せない。
 今、ヘルセフィアスを突き動かしているのは、すべてに対する憎しみだった。
「そうだ。許せぬのだ、シンマラ!」
 湧き上がってくる憎悪を抑え切れなくなったのだろう。
 闇を手に張り付かせたまま、ヘルセフィアスが真冬に躍りかかった。
「センセ!」
 ちとせも鈴音も真冬の援護に入ろうとしたが、ヘルセフィアスの背から邪悪な黒い霧が広がり、視界を遮断する。
 周囲を闇に包まれ、真冬は教え子たちとの連携を阻まれた。
 しかし、初めから一人で相手をする覚悟で前に出ていた真冬に動揺はない。
 対するヘルセフィアスの目は血走っていた。
 かつての絶大な魔力としたたかな奸智を有していた面影は薄い。
 憎悪だけが今の彼を彩っている。
「消し去ってやろう。すべて消し去らねば私の苦痛は癒えぬ。貴様らも、あの魔狼も何もかもッ! 何もかもなァッ!」
「よく喋る。舌を噛むぞ」
 真冬は冷静だった。
 ヘルセフィアスの突進は素早かったが、見切れない速度ではなかった。
 鋭い蹴りでヘルセフィアスの顔を打ち抜く。
 黒い血飛沫が上がる。
 蹴りはヘルセフィアスの口を潰すように打ち込まれていた。
 だが、――効いていない。
 復讐の残留思念は、その程度では動きを止めなかった。
 口から黒い血を吹きながら、ヘルセフィアスが憤怒の表情のままで右腕を振り上げる。
 少女人形がケタケタと嗤う。
「効カヌ、効カヌ」
「そうだ。効かぬ。効かぬ。効かぬぞ、シンマラ。大人しく我が瘴気に沈めッ!」
「舌を噛むといったはずだ」
 尋常ではないヘルセフィアスの耐久力に舌打ちをしつつも、真冬に動揺はない。
「オオオオオオオオッ!」
 気合いの吼え声と共に身体を捻る。
 脚に紅蓮の炎が迸る。
 真冬の蹴りが再び、ヘルセフィアスの口を打ち抜く。
 それは全身の回転と炎の威力を加えた、先程の蹴りより遥かに強烈な一撃だった。
 ヘルセフィアスの口内で爆発が起こる。
 衝撃で口の周囲が引き千切れ、頬が裂ける。
 しかし。
「!?」
 ――それでも止まらない。
 頭部を破壊されて怯まない。
 相手は残留思念とはいえ、頭部への攻撃は有効だと思っていた。
 だが、効いていない。
「効カヌ、効カヌ」
 少女人形の不気味な笑い声が響き渡り、ヘルセフィアスの右腕が勢いを殺すことなく振り下ろされる。
 鈍い音が響き渡った。
 真冬の両目が大きく見開かれる。
「かっ、はっ……ッ!」
 ヘルセフィアスの闇色の拳が、腹に深々と埋まっている。
 腹から上ってくる鈍痛。
 真冬の口から衝撃で肺から押し出された息がこぼれ出る。
 ヘルセフィアスが激しく損傷している頬を吊り上げて笑った。
「骨の髄まで喰らってやろう」
「喰ラエ、喰ラエ。アハハハハハッ!」
 少女人形の哄笑が響き渡る中、笑いの形に歪んでいたヘルセフィアスの頬がさらに裂ける。
 その裂け目は胸元まで広がり、ヘルセフィアスの顔全体が巨大な『口』へと変化する。
 もはや人間の形態を残してはいない。
 鋭い牙の並んだ巨大な『口』が涎のように黒い液体を垂らしながら、ゆっくりと開かれる。
 巨大な『口』に相応しい巨大な『舌』が、じゅるりと黒い液体を舐める。
 右腕を真冬の腹から引き抜く。
 真冬は倒れこそしなかったが、咳き込んだ拍子に血の混じった唾液が飛び散った。
 そこへ、ヘルセフィアスの『口』が迫る。
 真冬は逃げなかった。
 逃げられなかったのではない。
 明確な意思を持ってその場を動かなかった。
 唇の端から血を滴らせながらも、真冬の眼光が激しさを増す。
 そして、ためらいなく、大きく開いたヘルセフィアスの『口』に右拳を叩き込んだ。
「右腕ヲ盾ニスルツモリ?」
 少女人形がヘルセフィアスの言葉を代わりに発する。
「無駄ヨ、コノママ食イ千切ルダケ」
 人形を通して嘲笑の思念を真冬にぶつけて、ヘルセフィアスが『口』を閉じる。
 牙が真冬の右腕の肉を裂き、骨に突き刺さる。
 右腕を激痛に襲われながらも、真冬は表情を歪めることはなかった。
 口の中の吐血の残滓を地面へと吐き捨てる。
「舌を噛むと言ったぞ。何度もな」
「何ヲ……?」
 ヘルセフィアスの『口』の内部から眩い紅蓮の光が漏れ、周囲の闇を照らす。
 それは真冬の炎。
 紅蓮の光に瞬時遅れて、膨大な熱がヘルセフィアスの体内に溢れ出す。
 そして、爆発音。
「ッ!」
 ヘルセフィアスの身体のいたるところからから炎が噴き出し、その全身が紅蓮に包まれた。
 少女人形もヘルセフィアスから噴き上がった炎に焼かれ、趣味の悪い笑いを浮かべたまま炭化する。
 絶叫すら上げる間もなく、ヘルセフィアスの身体はゆっくりと仰向けに倒れた。
 その姿を構築していた瘴気は灰のように崩れ落ちるのを認めた真冬が腹部に手を当てながら、片膝を着く。
 同時に周囲を包んでいた闇が四散した。

「センセ!」
 視界を遮っていた闇が消え、右腕から血を流して地面に片膝を着いている真冬の姿がちとせたちの目に入る。
 彼女たちを安心させるように真冬が腹に当てていた手を上げる。
「少しは格好付いたかな?」
「無茶し過ぎです」
 ちとせが不満そうに文句を言う。
 ラーンは片眉を跳ね上げ、シルビアはちとせ以上に不機嫌な顔をしている。
「無理すんなよ、先生。今起きてる事態の責任感じてるんだろうがな」
 そう言ったのは鈴音。
「戦力はいっぱいいるんだぜ」
 真冬は自分が『魔界』浮上のきっかけを作った責任を感じていると同時に、この一行の中で一番戦力にならないことを理解している。
 だからこそ、『ナグルファル』付近で屠ってきた魔物たちとは実力で一線を画するだろうヘルセフィアスの残留思念が現れた時に、単独で前へ出たのだろう。
 それを察してちとせは文句を言い、鈴音は一人で背負うなと忠告したのだ。
「申し訳ない」
 真冬は指で眼鏡の縁を押し上げようとして、もう眼鏡を掛けていないことに気づいた。
 ふぅっとため息を吐く。
「……いささか冷静さを欠いていたようだ」
「センセ、姉さんにもらった治癒の勾玉があります。右腕を治療しないと」
 ちとせが懐から、淡く輝く勾玉を取り出す。
 治癒術を使うことができないちとせたちのために、葵が精製した治癒の勾玉だ。
 出発前に五つ、ちとせへと手渡されていた。
「それは貴重なものだろう。私の腕には霊気を廻らせておけば、治癒も進む。戦いに支障はないさ」
 真冬の右腕は軽い傷とは言えないが、激痛も出血も戦いに耐えられない程ではない。
 それは責任感からではなく、冷却させた脳で客観的に判断したものだった。
「シンマラ」
 シルビアが真冬に手を貸して立ち上がらせる。
「猪突猛進なんてアンタらしくもないぜ」
「すまないな。格好付けたくて、先走ってしまった」
「……猪突猛進はお嬢の専売特許ですよ」
 ラーンが真顔で言う。
 シルビアは露骨に顔をしかめた。
 確かに短気で猪突猛進なのは、シルビアだった。
 それはシルビア自身も重々承知しているし、ラーンも真冬も良く知っていることだ。
 ラーンは今あえてそれを指摘した。
 やはり今の状況に負い目を感じているシルビアが師と同じことをしないように釘を刺したのだろう。
 そしてまた、やはり同じ考えを抱きそうになっていた自分を戒めるためでもあった。
 二人は真冬と同じ気持ちでいたのだ。
 たまたま真冬の行動が先になっただけだ。
 鈴音の言葉でラーンはそれに気づいたため、真冬とシルビア、そして、自分自身にも再度意識させたのだろう。
「ラーン、風使いに似てきたんじゃないのか」
「そうかしら」
 ラーンはとぼけたように応えた。
「そういう反応をするところがだよ」
「そう、かもね」
 否定せずに頷くラーンを見ながら、シルビアが不機嫌そうに肩をすくめた。
 師弟のやり取りを見守っていた鈴音が、にやりと笑う。
 三人が突出することはもう心配しなくても大丈夫だろうと判断したからだ。
 そして、ふと思いついたように、ちとせに顔を向ける。
「そうだ。ちとせにも言っとかねぇとな」
「えっ?」
「あたしも別にとっておきの戦力ってわけじゃないってことを覚えとけよ」
 ちとせは困ったような表情を浮かべ、助けを求めるように悠樹へ視線を反らした。
 一行の中で鈴音の力はずば抜けている。
 この戦いにおける切り札。
 ちとせはそう無意識に位置づけていた。
 "氷の魔狼"シギュン・グラムとの戦いをちとせは避けられない。
 ならば、自分が傷ついても、鈴音を"氷の魔狼"の先にまで無傷で進ませたい。
 そう思っていたのは、事実だった。
「避けられない戦いはある。それ以外は皆で戦えば良い」
 悠樹はちとせに応えた。
 真冬たち三人に対する言葉でもあった。
 鈴音は悠樹の答えに満足を覚えた。
 皆で戦う。
 それは当たり前の前提。
 誰も欠けさせるつもりはないのだから。

「思ったより面白い展開になりませんでしたわね」
 『ナグルファル』の中枢部のモニターで、ヘルセフィアスの残留思念が真冬に敗れたところを見ていたミリア・レインバックがため息を吐く。
 『魔界』から溢れ出る瘴気を利用した呪術でヘルセフィアスの残留思念を実体化させたのは彼女だった。
 だが、本人の死に際が悪かったためか憎悪だけが肥大化して、かつての魔力も奸智もない存在に成り下がってしまっていた。
 真冬が一人で戦うと前に出た時には、裏切り同士というキャスティングに期待を抱いたのだが、結果的にはあまり楽しめなかった。
 『ナグルファル』の正面玄関まで辿り着いたちとせたち一行を確認して、左の前髪だけが垂れる黄金の髪の下で、淫靡な光を湛える瞳が妖しく輝く。
 『魔界』浮上は間近だが、ちとせたちに焦った様子は見られない。
 この『ナグルファル』攻略に奇策は用いて来ないようだ。
「避けられない戦いはある。それ以外は皆で戦えば良い」
 モニターの中で風使いの少年はそう言った。
 しかし、それは逆に言えば――。
「皆で戦えるのは、避けられない戦い以外」
 ミリア・レインバックがヘルセフィアスの少女人形よりも凶悪で美しく淫らで知的な表情で嗤った。
 遊戯は始まったばかりなのだ。


>> BACK   >> INDEX   >> NEXT