魂を貪るもの
其の七 浮上
3.変容

 ――翌日。
 朝が来なかった。
 否、朝という時間帯は来たが、日は昇らなかった。
 否、日が昇るという現象は起こっていたはずだが、太陽がその姿を見せることはなかった。
 暗黒の雲が空一面に広がって太陽を覆い隠し、地上を照らす光を奪っていた。
 地震が断続的に起こっている。
 時には大規模な、時には小規模な揺れが地を襲っている。
 大気が淀んでいる。
 冷たく、熱く、生暖かい空気が漂っている。
 呼吸が重い。
 この天変地異の影響がもっとも強く出ているのは、『ナグルファル』のあるこの場所だ。
 運命神の手によって奪われ、製作者である真冬の生き血を啜った『レーヴァテイン』は、夢魔ミリア・レインバックの謀略により、『ヴィーグリーズ』へと奪還された。
 今は、その莫大な魔力により、製作された本来の目的である『魔界(ムスペルヘイム)』浮上の動力源として稼動していている。
 『ナグルファル』の周囲には地割れがまるで蜘蛛の巣のように広がり、この『ヴィーグリーズ』の居城を持ち上げるように大地が隆起していた。
 紫煙を燻らせながら、"氷の魔狼"シギュン・グラムが足元の地割れを覗き込む。
 そこから『魔界』と呼ばれる異世界が垣間見える。
 普遍的無意識の暗黒面(ダークサイド)の集積地にして、悪魔や堕天使たちの故郷。
 地上を侵食する瘴気の源の地。
 弱肉強食が支配する暗黒の世界。
 『魔界』から吹き上がる死の色の濃い風が黄金の長い髪を揺らす。
 紺碧の鏡のような狂眼は、常人ならば吸い込んだだけで昏倒するような闇の瘴気などものともしない。
 古より伝承に登場し、畏れられてきた異形の地が、間もなく浮上する。
 だが、シギュンの心は躍らない。
 『ヴィーグリーズ』の悲願達成が目前に迫っているが、この魔狼は高揚感から遠い場所に己がいることを知っていた。
 『魔界』浮上よりも遥かに心惹かれる『遊び』を見つけてしまったからだ。
 "氷の魔狼"は煙草の煙を吐き、神降ろしを体得している少女の姿に想いを馳せる。
 彼女の師シンマラの因縁を抜きにしても、正義感の強い少女は必ずや『ヴィーグリーズ』の計画を頓挫させるために姿を現すだろう。
 そして、無謀であってもこのシギュン・グラムに挑んでくるはずだ。
 その少女の覚悟の心を喰らうことが、シギュンにとって最大の高揚感を得られる『遊び』となるのだ。
 しかし、執着は視野を狭め、膠着や停滞を生む。
 膠着や停滞は思考を硬直化させる。
 心奪われれば、弱さや隙が生じる。
 たかが二十歳にも満たぬ小娘へのこだわりが、"氷の魔狼"を死へと誘うかもしれない。
 常識的に考えれば、『遊び』で命を落とすなど、浅はかなことだろう。
 それでも、命懸けの執着でなければ楽しめない。
 対等の敵を持たずに生きてきた魔狼の心は磨耗している。
 目下を覗き込む彼女自身からは、『魔界』へ続く地割れよりも尚深い奈落を感じられた。
「早く阻止に来い」
 その呟きに反応したわけではあるまいが、地割れから瘴気が間欠泉のように吹き出した。
 漆黒の世界でも輝きの失われることがないシギュンの黄金の髪が乱れる。
 その何も映さない双眸が不快そうに微かに翳る。
「宴を待ちきれないか、有象無象(ワイルドハント)どもよ」
 『魔界』の瘴気が複数の獣や死者の形を取り、シギュンの前に現れていた。
 知性も覚悟もない無粋な魔物たち。
 『魔界』の瘴気が凝り固まった闇色の生命。
 邪気が舞い踊り、悪意が這いずり、シギュン・グラムを取り囲む。
「……私が待望しているのは、おまえたちのことではない」
 シギュンが紫煙を吐く。
 彼女の背後で、神をも喰らう魔の狼フェンリルの幻影が咆哮を上げた。
 同時に周囲へ白銀が煌き、草木が枯れ始める。
 その正体は絶対零度の冷気。
 半数の魔物が彫像のように凍りつき、大気も割れてしまうような氷の破砕音とともに砕け散った。
 シギュンの冷気の圧力に耐えられぬ程度の力量しか持たぬ魔物たちの最期。
 生き残った魔物たちが慄きと怒りの叫びを上げて、襲い掛かってくる。
 だが、それもまた、哀れな最期を逃れることは叶わない。
 その一匹の顔が無残にも握り潰され、どす黒い血を撒き散らせながら倒れ伏した。
 "氷の魔狼"の爪が踊り、魔物たちは次々と絶命させられていく。
 あるものは喉を貫かれ、あるものは胴を薙ぎ払われ、あるものは首を刎ねられた。
 黒地に白のストライプスーツが魔物たちの返り血を浴びるよりも早く、次の獲物を求めて魔狼の爪が振るわれる。
 一方的な殺戮。
 黄金色の毛並みをした狼が愉悦の一つも浮かべずに、紫煙だけを軌跡に引いて踊る。
 閃と血と煙。
 冷気の破片が舞い散る中で、一切の反撃を許さないその死の舞踏は、一種の幻想的な美しさを感じさせるものだった。
 煙草から大きな灰が落ちるのと、最後の一匹を冷気で粉々に砕いて仕留めるのとは同時であった。
 息一つ乱さず、美しい金髪も血に濡れることもなく、魔狼は虐殺を静かに終わらせた。
 シギュン・グラムから獣性と殺気が失せる。
 しかし、彼女によって彩られた白銀色の死の世界は凍りついたたままだ。
 価値のある生命ではなかった。
 価値のある殺戮でもなかった。
 価値のある存在ではなかった。
 右腕の義手にこびりついた魔物たちの黒い血を振り払い、わずかに俯きながらギリッと拳を握り締める。
 顔を上げずに、懐から新たな煙草を取り出し、口に咥えて火を点ける。
 そして、魔物たちの死体など目に入らぬかのような女帝の歩みで、『ナグルファル』へと戻っていった。

 猫ヶ崎市は先の世界樹による混乱に勝るとも劣らない状況に陥っていた。
 暗雲によって太陽の光を遮断されたことと、断続的な地震は人々の心を急速に疲労させていた。
 暖かな陽光はどこにもない。
 暗闇は視界を奪い、根本的に恐怖を抱かせる。
 薄ら寒い空気が不安を増大させ、大地の呻きのような震動が人々の心を侵食し続ける。
 風が強い。
 街に立ち並ぶ建造物と樹木を軋ませるほどの突風が吹き荒んでいる。
 吼える風の合間に、雷鳴が轟く。
 分厚い雲に覆われた暗黒の空に奔る稲妻だけが、陽光の代わりに世界を照らす光だった。
 巫女装束を纏った神代葵が憂いを帯びながらも明るい微笑みで佇んでいる。
 その隣にはロックが立っている。
 二人に向かい合うように、ちとせ、悠樹、鈴音の姿があった。
 ちとせは猫ヶ崎高校の制服の一つであるブレザーを着ている。
 白のブラウスのボタンを外して肌蹴けるように着崩した襟にリボンタイを緩く巻き、ボトムは短めにカスタムしたプリーツスカートに、黒のオーバーニーソックスを穿いている。
 悠樹も制服姿であり、白のワイシャツに、スラックスを身に着けていた。
 鈴音はいつもの通り、身体のラインを誇示するようなチャイナドレスを着ており、腰まで大胆に入った際どいスリットから美しい太腿を挑発的に覗かせている。
 もちろん、その腰には織田家の家宝『細雪』を納めた鉄の鞘を帯びることを忘れてはいない。
 そして、シンマラこと豊玉真冬、シルビア・スカジィル、ラーン・エギルセルも思い思いの服装で身を固めていた。
 真冬は白い七分袖のストレッチワイシャツに、黒いパンツ。
 ただ、その美しい顔にはトレードマークでもあった黒縁眼鏡は掛けられていなかった。
 シルビアの毒々しいゴシックロリータのドレスと愛剣フランベルジュという格好と鋭い目つき、ラーンのスカーフタイの軍服姿と重量武器である馬上槍の装備こそ変わりはなかったが、真冬とともにある今の二人には力強さが増しているように思われた。
 ちとせたちは猫ヶ崎の変容を受け、『魔界』浮上が間近であることを悟り、『ヴィーグリーズ』の本拠『ナグルファル』に乗り込むことを決意していた。
「私が見送るのは三度目ですね」
 順々に廻らせた視線をちとせに戻して、葵が言う。
 ちとせたちが『ヴィーグリーズ』の『ヴァルハラ』に乗り込んだ時も、運命神に捕らわれたシルビアを救うために罠の張り巡らされた空間に向かった時も、葵は常に留守を守ってきた。
 今回もまた彼女は神社を守るために、そして、万が一の時には体勢を立て直す基軸となるために、敵地での決死の戦いには参加しない。
 妹をはじめとする仲間たちを死地へ見送るのは断腸の思い。
 だが、彼女は戦いに赴かない勇気も決断も持ち合わせている。
 誰よりも姉のそういう強さを理解しているのは、妹のちとせ。
 だから、葵の微笑みに微笑みで応えることを忘れない。
「いってらっしゃい」
「いってくるよ、姉さん」
「いってきます、葵さん」
 ちとせの隣で悠樹も微笑みながら頷く。
 彼ももちろん、神代姉妹の心情を理解している。
「皆さんも、お気をつけて」
 葵が鈴音たちにも笑顔を向ける。
「ああ、葵もな」
 鈴音も葵に笑顔で頷いて、ロックに向き直った。
 ロックもまた残る。
 彼には霊気を操る術を持たない。
 銃の扱いこそこの場の誰よりも優れた力量を持っているが、それは悪魔や妖魔たちの前では単独では武力にはなりえない。
 ロックはそのことを、知っている。
 超常の力の前では自分が足手まといになることを、知っているのだ。
 最愛の妻に死を賭した戦いを強いることになるだろう彼の苦悩は、葵の心の苦しみに匹敵するものがある。
 彼は無力ではない。
 彼もまた葵と同様に、留守を守るための強さを持っている。
 待つ強さを、そして、信じる強さを持っている。
 夫の複雑な心中を察しながらも、鈴音はあえてさばさばとした態度を崩さない。
「ロック、葵を守ってやってくれ」
「鈴音サン、ちとせサンたちを守ってください」
 ロックもまた妻と同じような態度で応えた。
 相思相愛の新婚夫婦は抱き合わなかった。
 ただ優しげなお互いをいたわる視線を交わす。
 それだけで、お互いの想いを伝えるには十分だった。
 ロックが葵を守るということ。
 鈴音がちとせたちを守るということ。
 誰も欠けさせない。
 それが、お互いに自分たち自身を守る力の源泉となるのだ。
「師よ」
「シンマラ師」
 赤い髪の少女と青い髪の少女が、敬愛する師を見る。
 二人はちとせたちを眩しいと想っている。
 鈴音たちの言う『守るべき対象』に自分たちが含まれていることにも気づいている。
 真冬は弟子たちのそういった心中を理解していた。
 彼女たちの内面の変容は真冬にとっても好ましいことだ。
 そして、真冬自身も愛弟子たちとともにまた変わる。
 ――世界を変える。
 そのために『ヴィーグリーズ』で研究を行ない、愛弟子たちを育んだ。
 世界を自分の思い通りに改変しようとするだけでは、運命神と同じでしかない。
 変容は外界と内面、両側からでなければ意味はないのだ。
 世界とは自分の一部であり、自分とは世界の一部でもあるのだから。
 真冬――シンマラはどこまでも教師だった。
「私たちも行こう」
 真冬が愛弟子たちに愛しげな視線を返す。
 絆を見せられ、その光景を眩しいと想っている少女たちもまた、眩しい。
 そして、この少女たちを一層に輝かすためには、自分もまた輝かなければならない。
 真冬は葵にも鈴音夫妻にも負けぬ笑顔を浮かべた。
「共に、行こう」
 少しだけ格好をつけるような口調を意識して、その言葉を付け足す。
 シルビアとラーンは大きく頷いた。
 二人にとってもっとも力を得られる師の言葉だった。
 『ヴィーグリーズ』の恐ろしさは、所属していた彼女たちが一番よく知っている。
 総帥ランディ・ウェルザーズや"氷の魔狼"シギュン・グラムはもちろん恐ろしい相手だ。
 そして、ファーブニル老。
 シンマラが『ヴィーグリーズ』を去った後、シルビアたち二人の精神的な支柱になってくれた老人だ。
 だが、二人はすでにかの老人を敵に回す覚悟をすでに決めていた。
 『ヴィーグリーズ』を抜けたのは師を愛するがゆえで、その方針に異を唱えるためではない。
 だから、『ヴィーグリーズ』と真っ向から戦わずに逃げるという選択肢もある。
 それでも、あえて戦う。
 かの老人もそれを望んでいることを二人は解っているから、だ。
 自分たちの変わらぬ信念と変わった内面をぶつける。
 それが礼儀であり、けじめなのだ。
 ミリア・レインバックの遊び半分に加えられた制裁では『ヴィーグリーズ』との決別にはなっても、ファーブニルとの決別にはなりようがない。
 真冬にとっても、ファーブニルは弟子たちを預かってくれた恩人だ。
 だからこそ、退けない。
 一度は見捨ててしまった弟子たちを迎えるだけの覚悟と器量があることをファーブニルに見せなければならない。
 そして、真冬に『レーヴァテイン』を製作者の責任を持って破壊するという目的もある。
 この世を危機に陥らせる研究など何の意味もないのだ。
 真冬は過去を真に清算するための強い決意を弟子たちと共有するように頷き合った。

 ちとせは両手を腰に当てて一同を見回した。
 胸を張って深呼吸をする。
 姉に返していた微笑みが、不敵なものへと変わる。
 ――シギュン・グラム。
 心の中で、美しい黄金の髪をした"氷の魔狼"に呼びかける。
 必ず、あの女降魔師は自分の前に立ちはだかるだろう。
 恐ろしいことこの上ない敵。
 神さえ喰らう魔獣フェンリルの力が恐ろしいのではない。
 同じ神降ろしを行なえる身だからこそわかる。
 魔獣フェンリルの力さえ喰らい尽くす、シギュン・グラム自身の器が恐ろしいのだ。
 己が身をかわいく思うならば、どこまでも逃げるのが賢い選択肢。
 "氷の魔狼"とて神ではない。
 世界の果てまでは追って来ない。
 いや、きっと怯えを見せて逃げてしまえば、"氷の魔狼"はその時点でちとせに興味を失い、追ってはこないだろう。
 一度背を向けて逃げさえすれば、ちとせは喰われずに済む。
 だが、逃げない。
 喰らわれることになろうとも、逃げない。
 それはプライドではない。
 "氷の魔狼"と戦うことが愉しみというわけでも、もちろんなかった。
 今逃げれば、『魔界』が浮上し、罪のない人々が苦しむことになる。
 そして、『レーヴァテイン』を破壊するために戦うであろう恩師や友人を見捨てるということだ。
 そのようなことができるわけがない。
 恐怖を乗り越えて戦わねばならない。
 混乱に陥っている猫ヶ崎を救うために。
 『魔界』浮上を阻止し、『ヴィーグリーズ』の野望を挫くために。
 敬愛する教師である真冬たちが未来を手に入れるのを手伝うために。
 もちろん、自分のためでもある。
 一度逃げた後では、たとえシギュン・グラムの牙を避けることができたとしても、もはや何者とも戦えない。
 恐ろしさに呑まれて、前に進む気力を失ってしまう。
 だから、逃げるわけには、いかない。
 ――そんなにボクを喰らいたいなら、胸焼けするまで喰らわせてあげる。
 背筋に流れる冷たい汗を不敵な笑みで吹き飛ばす。
「んじゃ、気張って行こっか」
 自分自身を奮い立たせるように声を張り上げる。
 神代神社に背を向ける。
 一歩を力強く、踏み出す。
 瞬間、突風が舞った。
 ちとせの長いポニーテールとミニのプリーツスカートがはためく。
 スカートの裾とオーバーニーソックスの間から覗く健康的な太股の面積が広がり、危うく下着が見えそうになる。
「……ちょっ、風つよッ!?」
 頬を桜色に染めたちとせが慌ててミニスカートを抑える。
「んもう、決まらないなぁ」
 天変地異による突風に『決め』を台無しにされ、ちとせは決まり悪そうに照れ笑いを浮かべた。


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