魂を貪るもの
其の七 浮上
1.同志

「私を過労死させる気ですか」
 神代葵の顔には発せられた言葉とは裏腹の嬉しそうな表情が浮かんでいる。
 実際、葵は疲労の極致にあった。
 だが、気分はこの上もなく晴れている。
 ちとせたちが運命神を打ち破ったのは、もう半日も前になるだろう。
 葵はちとせたちが帰還した時から、ケガ人の治療を無休で続けていた。
 瀕死の真冬に治癒術を施し、ラーン・エギルセルとシルビア・スカジィルの肉体を癒し、今は悠樹のケガの治療を行なっている。
「葵さん、冗談に聞こえませんよ。ぼくは大丈夫ですから、そろそろ休んでください」
「テンションが高くなって眠れません」
 葵は目の下に隈を作りながらも、眩しいほどの笑顔を悠樹に向ける。
「……遠足前の子どもですか」
 悠樹がため息を吐く。
 その傍らにいるちとせも頬が引き攣っている。
「姉さん、みんなが無事で嬉しいのはわかるけど」
「そうでしょそうでしょ。次はちとせを治してあげますから」
 いつもの姉なら、「肉体に備わった自然治癒力が低下しますから」と、安易に治癒術を施すことはないのだが、今日の葵は曰く『特別サービスデイ』らしい。
 妹たちが運命神の謀略を潜り抜け、シルビアを救い出したことが心底喜ばしいようで、常時精神テンションの高いちとせ以上に今日の葵はハイテンションになっているようだ。
 普段が真面目でおっとりとした天然系と認知されている女性なだけに、この彼女の変貌振りには妹のちとせや居候の悠樹もついていけないようだった。
「ボクはそんなに重いケガはしてないって。それより、センセはダイジョブなの?」
 真冬は奥に敷かれた布団に身体を横たえて、ラーンの介護を受けていた。
 運命神の罠によって全身を隅々まで痛めつけられ、『レーヴァテイン』によって右胸を貫かれた真冬は、まさに瀕死の重傷だった。
 治癒を受けて容態は安定していたが、葵の全霊の治癒術でも完治には至っていない。
「真冬先生は完治までは至っていないけれど、これ以上の治癒術は本人の体力の消耗度が酷くなるわ。大丈夫、今は安静にしているのが一番の治療よ」
「治癒術のプロの姉さんがそう言うなら、そうなんだろうけど」
「それにラーンさんが介護してくれているから、私がしゃしゃり出る必要はないわ」
 真冬の傍らにはラーンが付き添っている。
 かいがいしく師の世話をしているラーンの姿には、師への心からの敬愛が現れている。
 ラーンには治癒能力はなかったが、彼女の行為が治癒術以上に真冬の身にも心にも栄養になっていることを、葵は知っていた。
 それよりも、と、葵は高いテンションの中で、この場に姿の見えない赤毛の少女の顔を脳裏に浮かべた。
 葵としては彼女のことの方が気になっていた。

 にぎやかな治療が続いている神代家とは裏腹に、神社の境内は空気が冷たく感じるほどに静かだった。
 月が青白い顔を浮かべて、淡く輝いている。
 その月の光を受けて抜き身の刃のように、小柄な少女が一人立っていた。
 赤毛の少女――シルビア・スカジィル。
 月を睨みつけるように見上げている。
 その表情は硬い。
 ふと苦悶し、左胸に手を当てる。
 運命神から受けた傷は神代葵の治癒術によってほぼ癒されてはいたが、師とともに『レーヴァテイン』に串刺しにされた左胸の傷だけはまだ鮮烈な痛みを残している。
 しかし、シルビアの左胸には魔剣の傷による痛みとは別の痛みも感じられていた。
 その痛みこそが、シルビアを師のいる神代家ではなく、この場に立たせている。
「よっ……」
 背後からかけられた声に、シルビアの瞳孔がすぼまる。
 振り返ると、いつの間にか鈴音が立っていた。
「真冬の傍にいてやらなくていいのか?」
 シルビアは返事もせずに、刃のような視線を返す。
 鈴音は、その目つきに心当たりを覚え、苦笑した。
 そう、よく知っている目だ。
 かつての自分。
 姉を追い、姉以外のものが目に入らなかった自分が、この猫ヶ崎に来て、神代家の人々に助けられて戸惑っていた頃、自分は今のシルビアと同じ目をしていた。
「ちとせたちを痛めつけたことに対して、面目ない、か?」
「アタシは『ヴィーグリーズ』であったことを誇りに思ってる。神代ちとせたちを痛めつけたことも後悔してはいない」
「ちとせはああいう性格だ。打ち解けやすくしているつもりなんだろうがな」
 ちとせは過去のことは気にせず、暖かく迎え入れようとしている。
 だが、それは、シルビアにとって、理解はできても納得はできないものだった。
「別に憐れんでるわけじゃないんだぜ」
「知ってる」
 シルビアは不愉快そうに、鈴音から視線を反らした。
 ちとせの明朗さや柔軟さは時として重荷になることもある。
 猫ヶ崎高校がシルビアたちに襲撃された時も、自分のせいだといって謝罪しようとする真冬に謝らせようとしなかったと聞いた。
 結局、葵が仲介に入って、ちとせに真冬の謝罪を受けさせた。
 だが、今回は葵もまたシルビアに襲撃された事実がある。
 葵としても仲介はしにくいだろう。
 こじれているわけではないが、わだかまりは消えない。
 特にシルビアのような性格の少女は、心を開いた人間以外には素直になりきれない部分がある。
 理解ができるからこそ、逆に意識してしまう。
 ――不器用だな。
 シルビアを過去の自分に重ねて見えている鈴音には、赤毛の少女の気持ちがよくわかった。
「しゃぁねぇな」
 鈴音は前髪をかきあげた。
 そして、 隠し持っていたタオルをシルビアに向かって放り投げた。
 不意を突かれたシルビアのツインテールがタオルを被されて姿を消す。
「何しやがる!?」
 タオルを乱暴に毟り取って怒声を上げるシルビアの目の前に、これまた隠し持っていた日本酒の一升瓶を突き出す鈴音。
 シルビアは目を丸くした。
 目の前の女が何を考えているのかさっぱりわからない。
「打ち解けるには一緒に飯食うか、裸の付き合いが一番ってことさ」
 こういう立ち回りは全部、あまり性には合っていない。
 無理やりすぎる感もある。
 ちとせの毒だな。
 こいつ(シルビア)にも回してやる。
 ちとせの柔軟さを受け入れられるようにしてやる。
 神代家へ居候した先輩として手を差し伸べて、今の自分のように変えてやる。
 そうすれば、今より少しは楽に生きられるさ。
 シルビアには愛する人(真冬とラーン)が傍らにいる。
 肩の力を抜いても問題はない。
 いや、抜かせてやる。
 昔の自分に向かって今の自分がそう言っているようで、鈴音は妙な可笑しさを覚えた。
「裸?」
 シルビアはきょとんとしている。
 鈴音が露天風呂のある方角を指差した。
「風呂だよ、風呂」
「風呂!?」
「風呂入りながら一緒に酒でも飲みゃ、みんな友だちよ」
「ちょっ……」
 何を言っているのだとばかりに眉を吊り上げるシルビアにかまわず、鈴音は赤毛の少女の腕を掴んだ。
「ちとせも連れて行く。葵もな。真冬は無理だろうが、ラーンは大丈夫だろう。ははっ、悠樹はもちろん真冬の世話に残すか」
 ぐいぐいと鈴音に引き摺られるように引っ張られるシルビアは大きな動揺と、微かな怒り、そして、苦笑の混じった複雑な表情で、ため息を吐いた。
 だが、決して悪い気はしていなかった。

 『ナグルファル』――『ヴィーグリーズ』の拠点の総帥室に、ランディ・ウェルザーズはいた。
 台座に横たえられているのは、ミリア・レインバックの手で真冬から強奪された『レーヴァテイン』。
 その刀身には真冬の血が乾いた赤黒い染みに彩られたままだったが、脈打つように赤い色をした魔力が溢れ出している。
 『レーヴァテイン』の柄を握り、感じられる膨大な力に満足したように、魔王は唇の端を吊り上げた。
「シンマラの最高傑作『レーヴァテイン』」
 『魔界(ムスペルヘイム)』浮上の鍵となる。
 現世へ介入しようとした運命神の一角は崩れたが、完全に滅びたわけではない。
 二度と女神の手の上では踊らぬ。
 そのためにはこの世界を再構築しなければならない。
 運命に喰らわれるのではない。
 運命を喰らうのだ。
 そのためには多少の犠牲は致し方ない。
 だが、その犠牲を厭うものがいる。
 天と地を闇に染めるのを恐れるものがいる。
 命が失われることに怒りを覚えるものがいる。
 それこそが、『ムスペルヘイム・プロジェクト』最大の障害となる。
「我ら最後の障害は、かの少女たちとなろう」
 "氷の魔狼"シギュン・グラムの右腕を奪い、世界を滅ぼすはずだったユグドラシルの機能を停止させ、"終焉の魔龍"ニーズホッグを討ち、運命の女神さえも退けたものたち。
 降魔師の少女、風使いの少年、"凍てつく炎"の妹は必ずや立ちはだかるだろう。
 無論、シンマラやシルビア、ラーンも共に来るに違いない。
 運命の女神との戦いで満身創痍に陥った彼女たちを処刑しなかったのは、もちろんミリアの独断ではない。
 ランディも承知したことだ。
 それは決して温情などではない。
 ランディにとっては『レーヴァテイン』の奪取こそが至上の目的であり、彼女たちを生かしたのは女神へのとどめを刺す役割を与えるために過ぎなかった。
 だが、女神を倒した彼女たちが今度は『魔界』浮上を阻止するためにランディたちに牙を向けてくるのは確実だろう。
 そのこともまたランディは承知している。
 "獄炎の魔王"スルトの化身は、魔剣を手に握ったままゆっくりと振り返った。
 そこには一人の老人が片膝を着いている。
「ファーブニルよ、私はあえておまえに問う」
 魔剣に漆黒の炎が迸る。
 騎士に位を与える王のように、魔王は老人の肩に剣を置いた。
 激しい炎も鋭い刀身もファーブニルを傷つけることはない。
 ランディの双眸が老人を悠然と見下ろしている。
「シルビアたちを討てるか?」
 シルビアとラーンはシンマラが裏切った後、ファーブニルが後見して来た。
 老人はシンマラ以外の幹部ではもっとも二人と親しい存在だったのだ。
「ランディさま」
 老人は畏まった声で総帥の名を呼んだ。
 その目は穏やかであった。
「我が理想は、この世界を変えること。シンマラ――豊玉真冬の名に縋るかつての同志もまた、今でも世界を変えようとしているでしょう。手段が違うだけで目的は同じ。正義の前に立ちはだかるのは、悪ではありませぬ。正義に敵対するのは、その正義とは違う正義」
「ファーブニルよ」
「はい」
「おまえほどこの組織に忠誠を尽くしているものはおらんだろうな」
 この邪悪な組織に身を置いて尚、正義を口にする。
 そして、その正義のために私情を切り捨てることができる。
 それだけでも貴重な男だ。
「シギュンさまがおられましょう」
「シギュン・グラムは、私にも組織にも忠誠など誓っておらんよ。あの女を飼えるものなどいない」
 気高く美しい、魔の狼。
 シギュン・グラムは何者にも屈しない。
 運命を操る女神にも、魔王たるこのランディ・ウェルザーズにも。
 慇懃な態度を取っていても、誰にも跪かない。
 面従腹背では、ない。
 彼女は命令に従う。
 従わないのであれば、平然と意見を述べる。
 だが、彼女のその様態は真の姿ではない。
 彼女は矜持高き"氷の魔狼"なのだ。
 『ムスペルヘイム・プロジェクト』という『ヴィーグリーズ』の悲願さえも一興に過ぎない彼女の狂眼に漂うのは、右腕の仇だけだ。
 ――神代ちとせ。
 魔狼はその狂眼で、少女の強さを見ているのか。
 その虚ろな眼差しで、少女の弱さを見ているのか。
 "氷の魔狼"シギュン・グラム唯一の執着。
 ランディは魔狼の執着を利用するつもりも、獲物を横取りするつもりもない。
 彼女たちは運命ではなく、己の意志で惹かれ合う。
 そして、自分たちの選択で喰らい合うだろうことは、ランディの思惑の中にあった。
「ミリア・レインバックも、私の手足となって動くことに不満はないだろう。だが、同時に枯渇した心を潤そうとする性癖は抑え切れない」
 ミリア・レインバックは残忍で狡猾な性格だが、有能で従順であった。
 彼女は枯渇ゆえにランディの用意した『ムスペルヘイム・プロジェクト』というゲームを心底愉しんでいる。
 シギュンもミリアも、シンマラのように離反することはないだろう。
 ファーブニルの言葉で言えば、光を称するものたちの正義に対抗すべき正義を掲げていたいものたちだ。
 彼女たちは、闇の側に居たい存在なのだ。
 光の下では生きていけない。
 いや、光の下に出れば、周りを暗黒に染め、闇に変容させてしまう。
 光を求め、光を喰らう。
「すべてのものたちが、世界を変えるために喰らい合う」
 喰らい、喰らわれ、やがて強靭な世界が生まれる。
 宇宙の意思も運命神も手の出せぬ強者の世界が。
 『レーヴァテイン』から溢れる魔力を感じながら、ランディ・ウェルザーズの双眸に黒い炎が揺らめいた。
「私もかつての同志をも喰らってみせましょう」
 理想を持つものとして、他者の理想を喰らう。
 シルビアもラーンも、それを覚悟して『ヴィーグリーズ』を去った。
 ならば、こちらも全力を尽くすのが礼儀だ。
 ファーブニルの同意に、ランディは深く頷き返した。
「これより、『魔界(ムスペルヘイム)』を浮上させる」


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