魂を貪るもの
其の六 師弟
5.赤と青
シルビア・スカジィルは、まさに雷光と化していた。
全身の神経を駆け巡る脳電流の稲妻が、常人では考えられない伝達速度に達している。
そして、その反応速度に合わせて稲妻で強制収縮する筋肉が神速と剛力をシルビアに与えていた。
電撃を自由自在に操るシルビアの奥の手。
力が、力が沸騰している。
神経と血管が擦り切れるような音を立てている。
脳も、心臓も、恐ろしく興奮し、肉体は閃光と蒸気を撒き散らす。
同時に悲鳴も聞こえている。
神経が擦り切れる。
筋肉が軋む。
骨が叫ぶ。
この身体能力を極限まで高めるドーピングが長くはもたないことをシルビアは知っている。
そして、効果が切れた時には、恐ろしい代償が降りかかることも。
すべてを承知で、運命を滅ぼすために、いや、師を救うために発動したのだ。
「!」
スパークが飛び散るシルビアの視界の中で、黒髪の運命神が無表情のまま空間を滑るように間合いを詰めてくる。
静か過ぎる殺気とともに鋭い鉤爪の生えた爬虫類ものへと変貌している右腕をシルビアの左肩から胸部を狙って振り下ろす。
しかし、凶悪な爪がシルビアの姿に触れるよりも早く、女神の身体に後から衝撃が打ち込まれていた。
打ち込んだのは、目の前にいるはずのシルビア。
女神の目の前に存在しているのは、シルビアの残像だった。
愛剣フランベルジュによる目にも止まらぬ連続突きが女神の背中に五つの穴を穿つ。
衝撃に押された女神がシルビアの残像を突き抜けながら吹き飛ばされる。
空中で急停止し、振り返る女神。
背中を穿ったシルビアに向けて、左の鉤爪を振るい闇色の波動を飛ばす。
だが、その攻撃を受けたシルビアの姿は溶けるように消えた。
すでに残像。
女神の鼓膜を爆音が打った。
腹部に無数の打撃。
愛剣と拳脚でのラッシュを仕掛けているシルビアの姿が女神の黄金の瞳に映る。
だが、それもまた残像。
しかも、その数は無数。
女神の全身に散弾銃で撃たれたかのように無数の風穴が開く。
その穴すべてから闇色の液体を飛び散らせながら女神が仰け反る。
崩れかける女神が無感情の黄金の目が、ようやくシルビアの本体を捉えた。
他の残像が消えている。
女神は両腕を振るった。
闇の暴風が巻き起こる。
だが、シルビアはその暴風をこともなげに左手で打ち払った。
そして、跳躍。
突き抜けるように交差して女神の背後にシルビアが着地する。
赤毛の少女がゆっくりと振り返ると同時に、女神の胸の中央に大きな穴が開く。
闇色の液体が噴水のように吹き上がった。
だが、女神は崩れ落ちない。
相変わらずの無表情で、シルビアを振り返る。
そして、黄金の双眸が妖しく光ると胸の傷が見る見るとふさがっていく。
「バケモノめ」
シルビアが吐き捨てるように言う。
自分の唇の端から知らぬ間に血が滴っているのに気づいた。
舌打ちして血を拭う。
その右手の血管が沸騰している。
稲妻が駆け巡る度に痛みが走る。
――クソが、早くしねェとこっちの取立てが先に来ちまう。
「はやく倒れろってんだッ!」
痛みを無理やりに無視して、シルビアは身体中に電撃を張り巡らせる。
女神の貌には何事もなかったかのような無表情が張り付いている。
その神の変化しない貌こそは超人と化したシルビアの唯一の不安。
どれほど剣で刻んでも、女神の能面の如き無表情には何の変化もない。
どれほど電撃で焼いても、女神の肉体は恐るべき回復力を見せて朽ちることがない。
どれほど切り刻めば良いのか。
どれほど焼き尽くせばよいの。
細切れか。
消し炭か。
だが、シルビアの強化した肉体であっても、スクルドを粉々に砕くだけの力は得られていない。
それでも、攻め続ける。
必ず、無限とも思える女神の力も尽きると信じて、攻め続けるしかないのだ。
シルビアが白き光となって舞う。
永劫に続くかとも思われた戦いに一つの契機が訪れたのは、突然だった。
女神が、まるでゼンマイの切れた人形のように唐突に動きを止めたのだ。
「……何ということだ」
運命の女神は無表情のまま呟いていた。
そのあまりにも唐突な停止に、戦っていたシルビアが不審そうに間合いを離す。
肩で息をしながらシルビアがスクルドを睨みつける。
――どうしたんだ?
「何ということだ」
スクルドが同じ言葉を無感情に繰り返す。
まったくの無表情で、声音にもまったく感情が含まれていないだけに不気味だった。
「何ということだ……『レーヴァテイン』が……何ということだ」
「『レーヴァテイン』?」
シルビアが首を傾げる。
串刺しにされた師の姿を思い出す。
「まさか、あのバカ、『レーヴァテイン』をぶっ壊しでもしたのか」
師の目的は『レーヴァテイン』の破壊だ。
だが、『レーヴァテイン』は師の命を繋ぐものだ。
――それでも、シンマラならば、やりかねない。
シルビアは大きく深いため息を吐いた。
だからこその、恩師なのだ。
軽く舌打ちをした後、鋭い眼光で女神を睨みつける。
無茶好きの恩師のもとに戻らねばならない。
「トドメをさしてやんぜッ!」
シルビアが全身に眩い電光を纏う。
もはや目の前の運命神は風前の灯以下の存在だった。
容易く打ち勝てる。
シルビアが疾走し、運命神を殴り飛ばす。
だが、途端に視界が揺らいだ。
「!」
目が霞み、視界が狭くなる。
筋肉が軋む。
寒気がする。
酩酊したように腰が定まらない。
脳みそが震える。
「クソッ、こんな時に……?」
――限界が来た。
額に手を当てる。
首を横に振る。
邪魔だ。
酩酊が邪魔だ。
邪魔だ。
寒気が邪魔だ。
だが、否定したところで、それが消えるわけではない。
「ぜはぁーッ、ぜはぁーッ」
カロリー消費の激しさに、疲労が一気に押し寄せてくる。
糖分が足りない。
塩分が足りない。
ミネラルが足りない。
何もかもが足りない。
肉体を強化する魔法は切れてしまったのだ。
「ぜぇーッ、ぜぇーッ、絶好の機会だってのにッ!」
女神を睨みつける。
運命の女神には、もう力を感じない。
だから、退くわけにはいかない。
シルビアは師の顔を思い浮かべ、苦痛の油汗を頬に垂らしながら笑った。
そして、跳ぶ。
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
あまりの激痛に意識が飛びかけるが耐える。
歯を食いしばりながら、女神を血走った目で女神を睨み続ける。
「『レーヴァテイン』が奪われた。我が力が弱まる」
スクルドが呟くように言う。
「だが、我は朽ちぬ」
氷よりも冷たい貌の女神の瞳孔が収縮した。
そして、何の感情も宿していなかった瞳が爬虫類のように縦に割れる。
「必ず、封印の解かれた『レーヴァテイン』を取り戻す」
女神の周りの空間が振動を始めた。
闇が崩れ、女神に吸い込まれていく。
「な、に……?」
スクルドの変貌にシルビアが中空で息を呑む。
「コノ空間を食ってやがる!?」
「分散していた力を戻す。汝らを処するには十分」
女神に圧倒的な迫力が戻る。
黄金の双眸がシルビアを捉える。
「!?」
そして、気がついた時には突き上げられたスクルドの拳が、空中から剣を振り下ろしながら落下してきたシルビアの鳩尾を抉っていた。
「がはぁっ!?」
シルビアの吐血が女神の白い顔と黒髪を赤く染め上げる。
女神は相変わらずの鉄面皮のまま、鳩尾を破砕されて悶え苦しむシルビアを地面に落とした。
赤い髪の少女は腹部を押さえて呻き声を上げながら咳き込み、吐血を繰り返す。
悶え苦しむシルビアの前にゆっくりと歩を進めた女神は少女の側頭部を容赦なく蹴りつける。
血飛沫が舞い、赤いツインテールが揺れる。
女神は無表情のまま、頭部への一撃で意識を混濁させたシルビアのツインテールを片手で掴み、無理やり持ち上げると、無造作に振り回す。
小柄な少女はまるで頭を回転軸にした風車のように何度も回転させられた後、厭きた人形を捨てるように投げ捨てられた。
闇に覆われた空中を舞うシルビアの上に転移した運命神が、赤毛の少女の背に両腕を振り下ろす。
「ふぐっ!?」
背を割る斧のような一撃を受けたシルビアは地面に叩きつけられた。
運命神が黄金の双眸を光らせる。
「電撃の使い手たる少女よ。神の電光で焼かれよ」
その右手から漆黒の稲妻が走り、地面に這いつくばっているシルビアの背中に轟音を立てて直撃した。
「がっ!?」
稲妻の衝撃を食らったシルビアの身体が逆に反れ、口から鮮血の混じった悲鳴が吐き出される。
シルビアは項垂れ、地に倒れ伏すが、その身体はすぐに跳ね上がらされた。
「ぐあああああああああぁぁ!」
漆黒の稲妻は一撃で終わりではなかったのだ。
次々とスクルドの右手から稲妻が放たれ、シルビアの背中に炸裂する。
嵐のように黒い稲妻が降り注ぎ、閃光が弾けるたびにシルビアの口から絶叫が迸る。
電撃の使い手であり、電撃に対する耐性も高いはずのシルビアの命を、運命神は自身の力を誇示するようにわざわざ電撃で削っていく。
「ふぐっ、がっ、うぐっ、ああああっ!」
神の稲妻による無慈悲な蹂躙が終わった時には、無残に破れたゴシック・ロリータのドレスから覗くシルビアの背からは濛々と煙が上がっていた。
焼け爛れた背中は、見るだけでシルビアへのダメージが深刻であることを伝えてくる。
「うぐああああ!?」
熱を持った痛みを発し続けているシルビアの背に更なる激痛が加えられる。
運命神がシルビアの背を踏みにじったのだ。
さらに運命神はシルビアのわき腹に蹴りを加えた。
「くあっ……」
衝撃で仰向けになったシルビアは大の字になって闇色の地面に無残に転がる。
女神は無表情無感情のまま、少女の豊かとはいえない左胸を踏みつける。
「ッ!?」
「汝、惨たらしく死すべし」
「ああっ、あああああああっ!」
女神によってシルビアの少年のように薄い左胸は容赦なく踏み潰され、血管が悲鳴を上げ、筋肉が倒壊する。
止血のために自らの電撃で焼いた火傷から血が滲み出す。
女神は、このままシルビアの心臓を踏み潰す気なのだろう。
命を磨り潰される痛みに、シルビアの視界が再び霞み始める。
その視界が青く染まった。
――青く?
シルビアの途切れかけていた思考に疑問が浮かぶ。
血なら、赤い。
だが、視界を塞いだ色は、青。
見覚えのある、青。
忘れようはずもない、青。
その青が揺れる。
それは、青い、髪。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
雄叫びが木霊した。
シルビアの視界で青髪が揺れた後、光が弾けた。
次いで、激震。
そして、神が吹き飛ばされる。
錐もみ回転しながら飛んでいく。
「お嬢!」
透明感のある声が、シルビアを労わる。
シルビアの顔から運命神に強制されていた死相が消える。
「ラーン!」
ラーン・エギルセルが立っていた。
纏っている軍礼装に似た服はボロボロに裂け、満身創痍の様子だったが、その瞳は力強くシルビアに向けられている。
「お嬢、待たせたわね」
「ラーン、ソノ身体は……?」
「シンマラ師を救うためよ。気にすべきものではないわ」
「無茶しやがって」
シルビアは左胸に手を当て、愛剣を杖代わりにしながら立ち上がった。
よろめくシルビアをラーンが支える。
「お嬢だって、人のこと言えないでしょ」
「……師のためさ。気にすべきものではないわってな」
ラーンの口調を真似るシルビア。
二人は顔を見合わせて笑った。
険の取れた心の底からの笑顔。
年相応で魅力的な少女の笑顔。
「ラーン、ソレでシンマラ師は?」
ラーンの態度にシンマラの無事を確信しながら、シルビアが憂いもなく問いかける。
「八神悠樹が見てくれている」
「八神悠樹。風使いか」
「彼に任せておけば心配ないわ」
「神代ちとせも一緒か?」
「いいえ、神代ちとせと"凍てつく炎"の妹は闇に飲み込まれて生死不明よ」
「死にはしないだろうよ。ナンせ、神代ちとせもシンマラの教え子だ」
「確かに、ね」
「ラーン、アタシたちはスクルドを
「もちろんよ、お嬢」
二人はお互いに武器を握っている手とは逆の手を重ねる。
「たとえ傷ついていようとも」
「手を取り合えば」
二人が握った手に力を込める。
「恐れるものなど」
「何もない!」
最愛の相棒と頷き合う。
お互いの力がお互いの力になる。
「さあ、行くぞ!」
「運命神!」
シルビア・スカジィルとラーン・エギルセルは一筋の迷もなく、運命神へと正面から突っ込んだ。