魂を貪るもの
其の六 師弟
4.制裁

「頑なに守ってきた封印を簡単に解くほど弟子との再会に感動したのかしらね」
 クスクスと笑いながら、ミリア・レインバックが真冬の右胸の傷口を狙ってハイヒールで踏みつける。
「うぐああぁぁっ!?」
 傷口を抉られ、真冬が絶叫を上げる。
 発狂するのではないかと思えるほどの絶望的な痛みに動かす力の残っていない四肢が痙攣する。
「普段はクールなのに肝心なところでは情熱で動くロマンチストなのは相変わらずのようね」
「あっ……うっ……」
「それにしても、運命神(ノルン)が油断して『レーヴァテイン』を手放したからこそよろしいですけれど、世界の破滅を天秤にかけるなんて、ね」
「くっ、はっ……」
「まあ、結果的にわたくしの漁夫の利になりましたし、個人的にもあなたのそういう性格嫌いではなくてよ」
 真冬の右胸をハイヒールで踏み潰しながら笑うミリア。
 夢魔(セイレーン)の甲高い笑い声は、賞賛と侮蔑を等量で含んだ複雑な色をしていた。
「それにその情熱がなければ、あのシルビアとラーンを『ヴィーグリーズ』の幹部にまで育て上げられなかったでしょうからね」
「……シルビアも……ラーンも……私の自慢の弟子だ……」
「フフッ、そうでしょうね。シルビアは運命神を圧倒しているわ」
 洗脳から開放されたシルビアは女神を相手にしてさえ有利に戦っているのが遠目にも確認できた。
 ミリアの視界の隅でシルビアの一撃がスクルドの腹を切り裂く。
 スクルドの腹の傷口から闇色の触手が溢れ出てシルビアを襲うが、そのことごとくを愛剣フランベルジュで細切れにしていく。
「そして、ラーンもね」
「シンマラ師!」
 ラーンが風を纏った悠樹に抱えられて、真冬とミリアの前に降り立ったのはその時だった。
「ミ、ミリア・レインバック!」
 血まみれの真冬の悲惨な姿、そして、『レーヴァテイン』を手にして真冬を踏みつけているミリア・レインバック。
 その光景を目にして、ラーンが信じられないというように首を横に振る。
 悠樹は視線こそ厳しいが大きなリアクションは取らなかった。
「シンマラ師に何を……!」
「何も」
 詰め寄ろうとするラーンを喉で笑いながらミリアは肩をすくめた。
「シンマラを痛めつけたのはシルビアよ。シンマラの胸をこの『レーヴァテイン』で貫いたのは運命神。そして、魔剣の封印を解いたのはシンマラ自身」
 真冬の鮮血に濡れた『レーヴァテイン』の切っ先をラーンに向ける。
 まるで腰が定まっておらず、ミリアがこの手の武器にまったく精通していないのは明らかだった。
 しかし、その脚で真冬を踏みつけているために、ラーンと悠樹は下手に動けない。
「わたくしは『レーヴァテイン』を身体から引き抜いてあげただけよ。もっとも、何かして欲しいというのなら」
 真冬の教え子二人を妖艶な眼差しを向けながら、真冬の右胸の傷を抉っていたハイヒールを上げる。
 胸を踏み潰していた圧迫の力がなくなり、ぐったりとする真冬。
 だが、ミリアは真冬を開放したわけではなかった。
「このまま嬲りものにしてもよろしくてよ?」
 そう言ってミリアはハイヒールを真冬の腹へと勢い良く落とした。
 メリッと音を立てて真冬の腹にミリアの靴底が埋まる。
「ぐうっ、あっ!?」
「シンマラ師ィッ!」
 瀕死の状態である真冬への苛烈な追い討ちにラーンが目を怒らせる。
 それをまるで意に介した様子もなく、ミリアはハイヒールで真冬の腹部をグリグリと抉る。
「肋骨を折ったのもシルビアよ」
「はっ、ぐっ、ああああっ!」
 ミリアはわざと肋骨の砕けた部分を狙って踏み潰しているようだった。
 真冬の残り少ない生命力が削られていくのを証明するように、口からは止め処なく血が吐き出されていく。
「ウフフッ、砕けた骨が内臓に突き刺さっちゃうかしらぁ?」
「はうっ、かっ、がはっ、ごぼっ!」
「やめろ!」
 ラーンがあまりにも酷い仕打ちに目を怒らせる。
 ミリアはそれを見て笑みを深め、とどめとばかりに真冬の鳩尾へ杭でも打ち込むようにハイヒールを落とした。
「がはっ!?」
 真冬が目を大きく見開く。
 ビクンッと身体を震わせて真冬の身体から力が抜ける。
「シンマラ師!」
 ラーンが怒りを抑えきれず、ランスを一閃する。
 その薙ぎ払いで巻き起こった衝撃でミリアの髪が揺れたが、彼女は平然と真冬を踏み潰し続けている。
「フフッ、ラーン。これはね、『ヴィーグリーズ』を裏切った制裁なのよ。本来は死を与えてしかるべきもの」
「……裏切りの制裁」
 真冬は確かに『ヴィーグリーズ』にとって裏切り者だ。
 『ヴィーグリーズ』側からすれば、制裁を受けても言い訳などできない立場なのだ。
「ここでシンマラを殺すのは簡単だけれど、それは、あなたにも、健気に運命神と戦ってるシルビアにも、酷というもの」
「手駒がなくなるのは避けたい。そういうことか」
 夢魔の続ける言葉に、悠樹が口を挟む。
「さすがに風使いの坊やは頭の回転が早いわね。ご褒美に、制裁はこの程度で済ませて、瀕死のシンマラを救う手助けをしてあげてもイイわ」
 ミリアは感心したように首を縦に振り、ハイヒールでの圧迫から真冬を開放した。
 だが、真冬の意識はすでに消えかかっており、弱弱しく開かれている瞳には霞がかかっている。
「手助け、ですって?」
 ラーンが歯軋りしながらミリアを睨みつける。
 当然、制裁と称して今の今まで死にかけている師を痛めつけていた夢魔の言葉などに信用は置けない。
「そう、手助けよ。その前に最後の確認をしておくけれど、ラーン、あなたは『ヴィーグリーズ』を裏切るのかしら?」
 ミリアの問いにラーンは、ハッとした表情になった。
 ラーンもシルビアも真冬についていくならば、『ヴィーグリーズ』を裏切ることになる。
 それは、目の前のミリア・レインバックだけではなく、総帥ランディ・ウェルザーズや"氷の魔狼"シギュン・グラムを敵に回すということだ。
 親身になってくれたファーブニル老人を敵に回すことでもあった。
 ラーンは『ヴィーグリーズ』の目的である、運命神の干渉を断ち切り、新たな世界を作り出すという思想には異議がない。
 過去はその思想のために戦ってきた。
 そして、手段は変わるだろうが、これからも運命神を倒ために戦うだろう。
 今現在ですら、シルビアはスクルドと刃を交えているのだ。
 ただ同じ目的を遂行するならば、師と恋人の傍にいたい。
 ラーンが彼ら『ヴィーグリーズ』を敵に回すのは、その個人的な感情でしかない。
 だが、これは自分に正直に生きるということに他ならない。
「『ヴィーグリーズ』と目的は変わらない。でも、裏切ることになる。私も、そして、きっとお嬢も」
 ラーンの顔は決意に満ちていた。
 脆さも危うさもない。
「止めはしませんわ。覚悟があるのなら」
 決別を告げられても、ミリアは瞳には愉悦が浮かんでいた。
「さて、約束通り、シンマラを救う手助けをしてあげますわ。しかし、わたくしも治癒術は使えない。ただ呪術は使うことができる」
「呪術?」
「そう、呪いよ。裏切り者ラーン・エギルセル、あなたにも制裁を受けてもらうということですわ」
「えっ?」
「"血で傷を癒し、肉で生を癒す。命を吸い、命を放て"」
 ミリアがすばやく呪文を唱え、ラーンと真冬を交互に指差した。
 邪悪な響きを伴った呪文だった。
 真冬の身体が淡い赤色の光に包まれる。
 ラーンの身体もまた同じ赤い光に包まれた。
 そして、二人の身体を繋ぐように光が伸び、絡み合った。
「な、何をした?」
「生命をもって生命を癒す呪いを施したのですわ」
「生命で生命を癒す呪い?」
「原理は霊気を他者に分け与えるのと同じ。ただし、これは相手の苦痛と傷を引き受け、癒す呪い」
 ミリアの双眸が細く引き締められる。
 残酷な愉悦を含みながら、呪術の説明に聞き入っているラーンの表情を愉しむように見つめている。
「瀕死のシンマラの傷、苦しみ、あなたが受けると願いなさい。ラーン、あなたが引き受けた分だけ、彼女は癒される」
「それが私への制裁というわけですか」
 真冬は瀕死の状態だ。
 シルビアの電撃で焼かれ、肋骨を砕かれ、内臓にも深刻なダメージを受けているはずだ。
 しかも、『レーヴァテイン』で右胸を貫かれている。
 真冬が死の危険から遠ざかるまでの何分の一かであっても、その傷や苦痛を引き受ければ、ラーンもただではすまないだろう。
「その通りですわ。特別にシルビアへの制裁分も上乗せしておきましたわ。シンマラの味わった倍の苦痛をその身で味わうのね」
「倍の苦痛を……」
 その身に引き受けなければならない壮絶な苦痛を想像して唾を飲み込むラーンを見て、ミリアは喉で笑った。
 ミリアの言うように真冬を瀕死の状態から救うための手段であっても、あくまで『ヴィーグリーズ』を裏切ると宣言したラーンへの制裁なのだ。
「あとは好きになさい。わたくしは『レーヴァテイン』を頂いていくわ。フフッ、あなたたちが運命神に勝てたなら、刃を交えることもあるでしょう」
 ――あとは好きになさい。
 ミリアがもう一度ラーンに呟く。
 師を救いたければ、裏切りの代償をその身で受ければ良い。
 苦痛を恐れるならば、師を見捨てれば良い。
 ラーン自身が選べば良いのだ。
 もちろん、ミリアにはラーンがどちらを選択するかはわかっていた。
 ロマンチストの師匠が育てたロマンチストの弟子は、その身を捧げて師を救うに決まっているのだ。
 そして、悠樹は瀕死の真冬とこれから重傷に陥るだろうラーンの二人を置いてまでミリアを追いかけては来ない。
 ミリアは自分がこの場を安全に去ることができることを確信していた。
 そして、手駒は多いに越したことはないが、ラーンたちが運命の女神に負けるならば、『ヴィーグリーズ』が運命神と戦うだけのこと。
 ラーンたちが勝てるならば、世界に干渉する運命神の力はさらに弱まることになる。
 運命神を圧倒するシルビアも、裏切り者として制裁を覚悟したラーンも、絆を信じて瀕死に陥ったシンマラも、ミリアにとっては"愉快"であった。
 『レーヴァテイン』をその手で奪い、ラーンとシルビアの裏切りを確定させた彼女にとっては、もはやこの場にとどまっていることは、"愉快さ"以上の意味はないのだ。
 『ムスペルヘイム・プロジェクト』の遂行のためには、この演劇を最後まで見届けることなく、去らねばならない。
 この夢魔を形作っているものは、悦楽主義だけではない。
 狡猾さもあってこその、ミリア・レインバックなのだ。
「それでは、ごきげんよう」
 ミリアが後ろへと下がり、慇懃無礼に頭を下げた。
 そして、闇の中に姿を消した。
 妖艶で狡猾な香りだけを残して。

 ミリアの予想通り、ラーンも悠樹も彼女の後を追おうとはしなかった。
 ラーンは真冬を救うために制裁を受け入れる覚悟をしており、また運命神の末妹と激戦を演じているシルビアを置いてなど行けるはずもなかった。
 悠樹もまたラーンの覚悟は察していたし、真冬やシルビアを放って行くわけにもいかず、ちとせや鈴音の安否も確認するためにもこの空間に残るしかなかった。
 ミリアに言わせればロマンチストということになるのだろうが、心を殺してミリアを追って『レーヴァテイン』を取り戻したとしても、その間に仲間を失えば後悔するに決まっているのだ。
「八神悠樹」
 ラーンが傍らの少年に声をかける。
「このようなこと言えた義理ではありませんが」
「なんだい?」
「……見守っていてください」
 ――私は師とお嬢の役に立ちたい。
 たとえ、命を賭けても。
 たとえ、狡猾な夢魔によって用意された悪夢の中であっても。
「できるなら代わりたいくらいさ」
 ラーンの身代わりになりたいというのは、悠樹の本音であった。
 彼女は今から自分で願って地獄を見るのだ。
「せめて、ぼくは先生に霊気を送ろう」
「ありがとう」
 ラーンが悠樹に微笑んだ。
 水のように美しく、透明感のある微笑。
 ちとせの太陽のような笑みとは違うが、魅力的だと悠樹は思った。
「シンマラ師、私の生命を受け取ってください」
 倒れている恩師へと両腕を広げる。
 二人を繋ぐ光の輝きが強くなる。
 ラーンは低く呻いた。
「くぁっ、ああっ……ごふっ……!」
 吐血が口から溢れ出る。
 そして、ラーンの両膝が崩れる。
 ランスを杖代わりに何とか倒れるのだけは避けたが、その顔は蒼白になり、額には汗が滲んでいる。
 身に着けた衣服の右胸の辺りが見る見る深紅に染まっていく。
 次いで全身の其処彼処にも赤い染みが広がり始める。
「ああああああああっ!?」
 精神を直接焼かれるような激痛。
 意識が白くなり始める。
 しかし、ぼやける視界に映る恩師は死の影が濃いまま横たわっている。
 ――足りない。
 ラーンは唇を噛み締めた。
 この程度の痛みでは、師を救えない。
「ラーン!」
 見る見る消耗していくラーンを悠樹が支えようとする。
「八神悠樹、私ではなく、師を……!」
 しかし、ラーンは血に染まりながらも、悠樹に首を横に振った。
 彼女の両目には静かながらも有無を言わせぬ迫力を持った光が宿っている。
「はやく、シンマラ師に霊気を送ってください。私は、まだ大丈夫です」
 悠樹はラーンの決意に敬意を覚えながら、瀕死の真冬の腕を取り、手を握った。
 血液を大量に失った恩師の顔は蒼白だった。
 しかし、右胸の傷はミリアの置き土産が効果を発揮しているのか、ゆっくりと塞がり始めている。
 ラーンの負担を思うと、それを代わりに引き受けられない悠樹は無念で仕方がなかった。
 だが、嘆いてはいられない。
 治癒術を使えず、ミリアの呪いを受けなかった身で、真冬を救うには霊気を送るしか手立てはない。
 運命神との戦いはシルビアが有利に進めているようだが、相手は何しろ"神"だ。
 最終的にどう転ぶかはわからない。
 霊気の消耗は勝敗を左右しかねないが、しかし、真冬を放っておけるはずがない。
 悠樹にとって、答えなど初めから一つしかないのだ。
「はああぁぁ……」
 悠樹から青白い霊気が立ち上る。
 同時にそのそよ風のようにやさしい霊気が悠樹の腕から真冬の身体へと流し込まれていく。
「はあああぁぁっ!」
 ラーンもまた気合いの声を上げた。
 傷は痛い。
 呼吸も苦しい。
 だが、本当に痛く、苦しいのは、師を失うことだ。
 ――耐えられる。
 ラーンはさらに真冬の傷を引き受けることを願った。
 暗闇の世界に深紅の鮮血が舞った。


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