魂を貪るもの
其の五 流転
6.懇願

 ラーン・エギルセルは極度に憔悴していた。
 肉体的なダメージはそれほど深刻ではなかったが、精神面での消耗が激しい。
 それでも彼女の精神は、彼女が意識を失うことを拒否していた。
「お嬢を助けてください」
 ラーンはもう一度、かつての師に言った。
 その口調には、自分たちを裏切った真冬への恨みも、憎しみも宿っていなかった。
 沈着冷静を絵に描いたような平板な声でもなかった。
 あるのは、懇願の響き。
 矜持も自尊心もない、ただひたすらの懇願だった。
 ラーン・エギルセルはシルビア・スカジィルを心底愛している。
 だが、運命神の手に堕ちたシルビアを救えるのは自分ではなく、今、自分を抱き抱えている師なのだという想いが純粋な懇願を生んだ。
 哀訴といっても良い。
 その悲痛な声は、真冬の心を切り裂くには十分過ぎる。
 かつての弟子が、自分を憎んでいるはずの弟子が、ラーン・エギルセルが、なりふりかまわずに助けを求めてきたという事実。
 真冬は身を賭してでも、その懇願の内容がなんであったとしても、それに応えなければならない。
 できる、できないではなく、やらなければならない。
 ましてや、ラーンはシルビアを救ってくれと言っているのだ。
 真冬の中に拒否などという選択肢はありようもなかった。
「ラーン」
 ラーンを抱き抱えたまま、真冬が問う。
「シルビアが、いったいどうしたのだ?」
「運命神が『ナグルファル』に現れたのです」
「スクルドか」
「そして、お嬢の心を(もてあそ)んで……」
 ラーンの唇は怒りで震えていた。
 ――私のせいだな。
 真冬が呻きながら俯く。
 スクルドがシルビアとラーンに接触したのは、真冬に『レーヴァテイン』の封印を解かせるためだと容易に推測できた。
「しかし、私ではお嬢を救うことができませんでした」
 ラーンの声が今にも消え入りそうなほど弱弱しい響きへと変わる。
 怒りと絶望が綯い交ぜになり、それは再び恩師への懇願となった。
「シンマラ師、あなたに頼るしかないのです」
 震える愛弟子を力強く抱きしめ、真冬が首を縦に振る。
 師の承諾の抱擁を受け、ラーンの不安定だった表情が、安らかなものへと変わった。
「……神代ちとせ」
 ラーンがふと、傍らに立っているちとせに気づいた。
 そして、恩師の温かみを感じながら、ちとせを見上げる。
「私を好きにしてくれてもかまわない」
「へっ?」
 ラーンの唐突の言葉を受けて、ちとせが目を丸くして間の抜けた声を上げる。
「私はお嬢と一緒に、おまえを散々痛めつけた。だから、私を憎んでくれて良い」
 ラーンはシルビアとともに師を追い求め、猫ヶ崎高校の屋上でちとせを強襲し、苛烈な拷問まで行なった。
 主導したのはシルビアだが、ラーンはそれを止めようとはしなかった。
 後に悠樹と戦った時には、敵であるちとせを痛めつけるのは当たり前の所業だとも言い切った。
 その彼女が穏やかな視線で、ちとせを見上げている。
「私を裁いてくれても良い。でも、お嬢だけは許して。シンマラ師にお嬢だけは救わせて」
「それって、何でも言うことを聞くって事?」
 ちとせが険悪な目つきでラーンを見下ろしながら尋ねる。
 そして、不機嫌そうにため息を吐いた。
 ラーンはその様子を見て、苦しそうに、だが、真正面から受け止めるように応じた。
 ちとせが自分に憎しみを持つのは当然であり、どのような態度を取られようとも、反論することさえ許されないと、思っているから。
「お嬢のことさえ許してくれるなら、殺されたって構わない」
「じゃあ、ラーン」
 ちとせが、にこり、ではなく、にやりと笑った。
「『お嬢だけは』って言わないでよ。『私のことも許して』って……むぅ、それも違うなぁ」
「へっ?」
 今度、間の抜けた声を出したのはラーンだった。
 真冬はちとせの返答を聞いて、両目を瞑った。
 その口元は微かに綻んでいる。
「センセの力になってくれれば、それで良いよ。キミもシルビアもまとめて……えっと、許す許さないじゃないんだけど、まぁ、とにかく、許して欲しいって言うんなら許してあげるけど」
「しかし……」
「ありがとう。ちとせくん」
 反論しかけたラーンを真冬が遮った。
 閉じていた目が開かれ、その細い指がラーンの唇に当てられる。
 そして、真冬は愛弟子に視線を合わせて首を横に振った。
 ラーンは言葉を封じられて戸惑った様子だったが、やがて小さく頷いた。
「……ありがとう、神代ちとせ」
 弱弱しくも芯の通った透明な微笑を浮かべるラーン。
 彼女を抱いている真冬も優しく微笑んでいるのを確認し、ちとせもまた満足そうに微笑んだ。

 ラーン・エギルセルが神代家で保護されてから一夜が経った。
 もっともわだかまりを抱いて良いちとせが彼女を受け入れた以上、他の人間が彼女を拒絶する理由も必要もなかった。
 葵も何も言わずにいつものように鷹揚な態度を示したし、一戦交えたはずの悠樹もいつものように優しく微笑んで迎え入れた。
 鈴音はその場にこそいなかったが、彼女が反発することはないだろうと誰もが思っている。
 一番緊張していたのは、ラーンと、そして、彼女に負い目のある真冬だったかもしれない。
 受け入れられるとすぐに、ラーンは葵の手で治療を受けることになった。
 そして、真冬は一晩中、一睡もせずにそれに付き合った。
 葵はスクルドに潰された内臓が完治していない真冬に休むように言ったが、真冬は頑なに首を横に振った。
 そして、治癒を施す葵の傍らで、時折精神が不安定になる愛弟子の手を握り続け、励まし続けた。
 そのかいもあってか、ラーンは日が昇る頃には落ち着きを取り戻した。
 彼女が安らかな寝息を立て始めると、真冬と葵は別室に移った。
 今度は真冬の治療である。
 真冬が布団の上にワイシャツの前を肌蹴て座ると、すぐに葵が彼女の引き締った腹部に手を翳した。
 真冬の顔には疲労の翳が濃い。
 徹夜のせいだけではない隈が目の下にできている。
 充血した目も腹部の途切れることのない痛みによるところが大きいに違いない。
 その赤い目で、真冬は自分の腹部に翳された葵の淡く光る手を見詰めていた。
 葵の手から発せられる淡い光が腹部に降り注ぎ、温かさとともに痛みが消えていくのを真冬は確かに感じていた。
 やがて鈍い痛みが完全に消え、葵がゆっくりと手を引いた。
「これでほぼ完治しましたよ」
「ありがとうございます。徹夜明けなのに」
 真冬が頭を下げ、ワイシャツのボタンを掛けていく。
 葵は軽くため息を吐いた。
「本当はもっと時間をかけて治さなければ、肉体へ自然に備わった治癒力が落ちてしまって、良くないのですけれど」
「無理を言ってしまって申し訳ありません。しかし、時間が惜しいのです」
 真冬がもう一度、葵へ頭を下げる。
「気持ちがはやるのはわかりますが、あてはあるのですか」
「あてはありません。しかし、必ずスクルドはシルビアを使って私を(おび)き出すでしょう」
 運命神の狙いはシルビアやラーンの命でも、ましてや、彼女たちの意志を奪って部下にすることでもなく、あくまでも真冬に『レーヴァテイン』の封印を完全に解かせることだ。
 こちらから接近できることができずとも、必ず、スクルドから接触してくるだろう。
「ラーンさんの回復にはまだ時間がかかります。傷の具合はそれほどでもありませんが、体力が落ちていますから」
「それでもラーンは連れて行きます。連れて行かないわけにはいかないのです」
 『今度』は、愛弟子を置いていくことを許されない。
 ラーンに負担をかけることになっても、それが真冬にとっての償いの一つだからだ。
「ちとせは連れて行きますか?」
「ちとせくんも悠樹くんも、できれば、置いていきたい」
「できれば、ですね?」
「できれば、です」
「できますか?」
「できないでしょう」
 葵が微笑みながら小首を傾げるさまを見て、真冬が苦笑して答える。
 いまさらちとせを置いていくことなどできようはずもない。
 そして、ちとせを連れて行くならば、悠樹を置いていく理由もない。
「でも、あの子たちなら先生の負担にはならないと思いますよ」
「負担なんてとんでもない」
 真冬にとって彼女たちが負担などになるはずがなかった。
「本当はちとせくんたちが居てくれるだけで心強いのです。ただシルビアと面と向かった時、私はきっと周りにかまう余裕がなくなるでしょう。また自分の弱さを知られるのだと思うと、それが恐ろしいのです」
「それでも、あなたは逃げないで過去と対峙しようとしている」
「今まで逃げてきた人生の負債です」
「いいえ、今まで逃げていたとしても、もう逃げるのを止めて正面から向かい合っているのですから、それだけで尊敬に値します」
「……葵さん」
「私はあなたがちとせの担任で本当に良かったと思っています。そして、今後も教鞭を執って欲しいとも思っています」
「感謝します」
「ふふっ、我ながら差し出がましい物言いですね。ごめんなさい」
「いいえ、私にとってこれほどうれしい言葉はありません」
 目頭が熱くなるのを真冬は必死に耐えながら、葵の顔を見た。
 そして、改めて思う。
 運命神の仕掛けた罠で、朽ちてはいけない。
 シルビアを正気に戻し、逃げずに、しかも自分も生きて返ってこなければならない。
 ――運命がそれを許すと思うか?
「くっ?」
 唐突に真冬の頭に閃光が走った。
 眩暈を感じ、額に手を当て、呻き声を上げる。
「先生?」
 葵が慌てて声をかける。
 ――先生?
 ――先生、先生、先生先生先生先生先生先生先生先生先生!
 ――そのような呼び方をさせるな。汝を師と呼んでいた少女が嘆くぞ。
 強烈な力を持った声が、真冬の脳に直接語りかけていた。
 この圧倒的な妖気と感情のまったくない声には覚えがあった。
「お、おまえは……スクルドか?」
 真冬が頭痛を押さえ込んで顔を上げる。
 運命神からのアプローチならば、耐え、そして、その真意を見なければならない。
 虚ろな視線がさまよい、布団の先で止まった。
 虹彩が収縮する。
「シ、ルビア……」
 そこには黒髪の運命神と赤い髪の少女の姿が浮かび上がっていた。
 その半透明な姿は、明らかに映像であったが、真冬は自分の心拍数が急激に上がるのを感じずに入られなかった。
 愛弟子が鎖に吊るされた姿で拘束されている。
 運命の女神スクルドはゴシックドレスに包まれたシルビアの淡く膨らんだ左胸を片手で覆い、もう片方の手で『レーヴァテイン』をシルビアの首筋に当てている。
 そして、無表情でありながら艶かしい視線を真冬のいる方向へ向けながら、見せつけるようにしてシルビアの唇を貪っている。
 シルビアは身体にこそ傷はなかったが、反抗する意志はまるでないようで、身体を捩ることさえなく、スクルドの良いようにされていた。
 スクルドが唇を放すと、シルビアは項垂れ、その唇から大量の唾液が流れ落ちた。
「我が結界のうちへ汝を招待し、愛弟子との"運命の再会"、楽しませてやろうぞ。シンマラ師?」
 幼い頃の真冬の姿をした運命神の無感情に皮肉を含ませた声が、今度は真冬の脳の中だけではなく、実際の音を持って響き渡った。
「現刻より汝らの居座る異郷の神が門前に我が結界内へのゲートを開いたままとする。弟子に会いたくなったら、いつでも好きな時に来るが良い」
 一方的にそう告げると、スクルドとシルビアの幻影は消え去った。


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