魂を貪るもの
其の五 流転
5.藁

 自分に正直に生きるというのは、非常に魅力的な生き方だろう。
 だが、自分に飾りを付けないで生きていくのは難しい。
 飾りを付けないということは、なまの自分を曝け出すということだ。
 そして、なまの自分というものは傷つきやすい。
 誰だって傷つきたくはない。
 傷つきたくないし、誰かを傷つけたくない。
 誰かを傷つけたことで、自分が傷つきたくない。
 それに、誰にも見栄もあるし、意地もある。
 現状より高みを目指すためには、或いは欲するものを手に入れるためには、あえて自分を着飾る必要もあるだろう。
 だから、欺瞞で身を固める。
 ただし、欺瞞という飾りが、どんどん重さを増していき、その重さで、なまの自分を潰されてしまうこともあるだろう。
 何かの拍子に飾りがはずれてしまい、ひた隠しにしてきたなまの自分の愚かさ、身勝手さ、無力さと向き合わざるを得なくなり、自分を嫌悪することに陥ることもあるだろう。
 だが、それは、今より自分を成長させたい、今の自分と変わりたい、と思っているからこそ、だ。
 もしくは、誰かの役に立ちたいという心があるからだ。
 その純粋な想いがあるからこそ、葛藤し、苦しいのだ。
 至らない自分を許せないから、苦しいのだ。
 ――至らない自分、か。
 ラーン・エギルセルは朦朧とした意識の中で、困ったような恩師の顔を思い出していた。
 あれは恩師のもとでお嬢と出会ってから一年程経った頃のことだったろうか。

「シルビアのことは好きか?」
 恩師の唐突な物言いには慣れていた。
 彼女はいつも思いついたように喋りかけてくる。
 前後の会話と断絶した質問も多々あったし、質問自体が自己完結している部分が大半で言葉が足りない場合も多く、返答のために一瞬の思考が必要になる時もある。
 だが、その時のその問いには迷うことなどなかった。
 ――お嬢の激しさ、お嬢の情熱、そして、お嬢のわがまま、すべて私にとってかけがえのないものです。
「引き合わせて正解だったな」
 恩師は両目を閉じて、ほっと息を吐いた。
 彼女はどうやら私とお嬢の仲を案じていたらしい。
 それもわからなくもなかった。
 恩師ははじめ、お嬢と私が刺激しあうことを望んでいたが、傍目から見れば私はお嬢に振り回されっぱなしなのだから。
 私はお嬢の眩しさに圧倒され続けている。
 ――ただ、一つだけ、不安はあります。
「不安?」
 恩師は小首を傾げた。
 ――そうです。
「何が不安?」
 ――お嬢は私にとって太陽です。太陽なんです。
「飛躍的な言い方だね」
 ――(あなた)はいつもこういう喋りをします。
「ふむ、私はいつもそういう話し方か。しかし、理解を容易にする例えではあるな」
 恩師の苦笑まじりの目には優しさが揺れていた。
 ――人間は太陽の光を浴びて生きています。しかし、太陽は人間を必要としていません。お嬢は太陽のように私に多くのものを与えてくれています。しかし、私はお嬢の光を浴びているだけで、お嬢に何もしてあげられません。
 何もしてあげられない。
 その無力感と焦燥感がある。
 そして、恩師に言えないが、不安の底には嫉妬もあった。
 自分はお嬢に照らされているだけで、恩師のようにお嬢を照らし返すことができない。
「ラーン」
 少しだけ。
 少しだけ、自分の名を呼ぶ恩師の声音が低くなったように感じた。
「キミは何もできないわけではない。何をしていないわけでもない。キミがシルビアを愛しているように、シルビアはキミを愛しているよ。キミ以外の人間が"お嬢"などと呼ぶことを彼女は許しはしないよ。そう、たとえ私が呼ぼうとしてもね。それはシルビアがキミを認めているからだよ」
 恩師は付け加えた。
「だから、キミも自分自身を認めなさい。自分の中の悪性も、そして、自分の中の善性も。自分で自分を認めるということは思ったよりも難しいが、ね」
 自らの悪性を認めることには勇気がいる。
 だが、自らの善性を認めるのにも、同じくらいの勇気がいる。
 もしかすれば、悪性を認めた後で自らの善性を認めることは、自信が必要な分、さらに困難であるかもしれない。
「キミは愛されている。シルビアにも、そして、私にも、な」
 恩師は少しだけ気恥ずかしそうだった。
「私も至らない人間だ。フフッ、そう、欠陥だらけだな。炊事も洗濯もできんし、キミたちにも迷惑をかけてばかりいる。生活不能者というヤツかな。私のような悪性の塊ですら、キミやシルビアのことを想っていると心が救われる。キミの言い方を借りれば、キミは十二分に太陽になっているよ」
 恩師と出逢った時のことは鮮明に覚えている。
 両親と死に別れ、子の無かった本家に入った後、養父母の跡を継いだ。
 両親も、養父母も、私を認めてくれることはなかった。
 恩師に引き取られたのは、その後だった。
 恩師(このひと)は、出会い頭から生きることに希望を持てなかった私という存在を生まれて初めて認めてくれた。
 そして、その後もずっと認めてくれてきた。
 そう、ずっと認めてくれていた。
 姿を消すまで。
 恩師が姿を消した時、お嬢さえもいなくなってしまうと恐れた。
 お嬢の愛を失うのが怖かった。
 私の言葉で、お嬢を止めることもできた。
 私の言葉で、お嬢を説得することもできた。
 でも、私がしたことは、私を認めてくれた大事な恩師を貶めることだった。
 ――師は私たちを捨てたのよ。
 そう言い続けることで、私は苦しくなかった。
 師が姿を消したことで、お嬢は悩み苦しんでいた。
 私は壊れたお嬢の側にいるだけで良かった。
 お嬢の壊れた部分には私が必要なのだと、安心できた。
 だから、お嬢の前に恩師が姿を現し、恩師がお嬢を傷つけるのを見た時、私は自分に歯止めが利かなくなった。
 お嬢を苦しめている恩師を許さないことが、私がお嬢を失わないで済む方法だと思い続けた。
 それが崩れた。
 そして、私は自分の正体に気づいた。
 欺瞞で固めた衣装の中にあるなまの自分を見せつけられた。
 悪性の自分を認めざるを得なかった。
 それは自分に苦しみをもたらしたが、思ったより容易だった。
 ただ、かつて恩師が言ったような自己の悪性の中にある善性を認められない。
 苦しかった。
 今まで逃げてきた苦しみが一挙に押し寄せてきたかのようだった。
 あまりに苦しくて、このまま闇に沈んでしまいたいという誘惑があった。
 だが、意識も肉体もそれを拒否していた。
 ――お嬢!
 お嬢の顔。
 お嬢の声。
 お嬢の雷。
 お嬢を想えば想うほど、朦朧とした意識も散々嬲られた身体さえも休むことを受け入れない。
 ――お嬢!
 溶岩を注入されたように熱くなっている肉体で地べたを這いつくばりながら進む。
 視界は真っ白く、どこにいるのかさえわからない。
 それでも、向かうべき先はわかっている。
 ――お嬢、もう少しの辛抱よ。私の命に代えてでも……。

 豊玉真冬は誰かに呼ばれたような気がして、目を覚ました。
 しかし、目は開けたものの、意識も視界も霞んでいる。
 柔らかく温かいものが身を包んでいる。
 どうやら布団に寝かされているようだと真冬は気づいた。
 さらに意識がはっきりしてくると、ポニーテールの少女が心配そうな眼差しを向けて、自分の顔を覗き込んでいるのが見えた。
「ちとせくん、か……?」
 ――私を呼んでいたのは、ちとせくんか?
 傍にいるのは彼女だけのようだが、真冬には違うように感じられた。
「良かった、目覚めたんですね。猫ヶ崎樹海から戻る途中で意識を失っちゃったから心配してたんですよ」
「……猫ヶ崎樹海……私は運命神に痛めつけられて……うくっ……」
 上半身を起こそうとした途端、腹部に鈍痛が走り、眉を寄せる。
「ごほっ、ごほっ……」
 咳が溢れ出る。
 真冬はスクルドに内臓を潰されたのを思い出した。
 彼女の予想に反して咳に吐血は混じっていなかったが、全身を脱力感に襲われ、起き上がるのを断念させられる。
「ダメですよ、センセ。姉さんに治癒術は施してもらったけど、まだ安静にしてないと」
「……そうか、葵さんが治療をしてくれたのか」
 真冬がゆっくりと息を整えるが、ふと微かに驚いたような顔をして、周りに目をやる。
「……気のせいか」
「センセ?」
「いや、ここは、……鈴音さんのところではないね」
 何かを打ち消すように首を振った後、真冬は改めて首をめぐらした。
 障子張りの戸に、畳の香り、和室のようだ。
 ロックと鈴音の店ではないだろうことは予想がついた。
「神代家ですよ」
「キミの家か」
 ちとせが頷く。
「『レーヴァテイン』が運命神の手に渡った今、鈴音さんのところに隠れていても仕方がないし、神代神社ならいつでも強力な結界も張れるし、守りには適していると思って」
「悠樹くんたちは?」
「悠樹も、鈴音さんも無事ですよ。悠樹は居間で姉さんの治癒を受けてます。鈴音さんはロックさんに報告しにお店に戻りました。……って、ああ〜っ!?」
 ちとせが突然何かに気づいたように大声を上げる。
「どうした?」
「セ、センセの車、樹海に置いてきちゃいました」
 真冬が目を丸くする。
 そして、ガバッと上半身を起こした。
「センセ、もしかして、怒っちゃいました!?」
「ごほっ、そうじゃ、ない」
 咳と痛みを無理矢理にでも押さえ込むように口元と腹部に手を当て立ち上がる。
「ちょっ、センセ、無理しちゃダメですって!」
 ちとせが慌てて真冬の行動を制しようとするが、真冬は首を横に振り、ちとせの手を押し退けた。
「呼んでるんだ」
「えっ!?」
「私を呼んでいる。私だけに聞こえるのか。しかし、この声は……、うぐっ……、ごほっ、ごほっ!」
 激しく咳き込んだ拍子に、真冬の足下が揺れる。
「センセ!?」
 ちとせが抱き抱えなければ、その場に崩れ落ちていただろう。
「セ、センセ……」
「……ちとせくん」
 真冬が己を地面に崩そうとする重力と、虚脱感と、痛みを拒否するために、困った表情のちとせに必死にしがみつく。
 真冬の顔色は青白かったが、その瞳には鬼気迫るものがあった。
「悪いが私を外へ連れて行ってくれ」
「何を言ってるんです。立ってもいられない状態なんですよ、ダメに決まってるじゃないですか」
「すぐ、そこまでで良いんだ。すぐそこまで、で。頼む」
 そういうと真冬はまた激しく咳き込んだ。
 ちとせの肩を掴む真冬の手には、ほとんど力が入っていない。
 教え子に支えられていながらもガクガクと震える膝は今にも折れそうだ。
 しかし、今の真冬を布団に無理矢理押し戻すことはできそうにない。
 きっと何度でも起き上がるだろう。
 それこそ、無駄に体力を消耗して治りかけの傷が悪化するかもしれない。
 ちとせは根負けしたように、ため息を吐いた。
「わかりましたよ、もう。ただし、玄関までですよ?」
「すまないな。ありがとう」
 姉に見つかったら怒られるだろうと思いながら、ちとせは真冬に肩を貸したまま、障子戸に手をかけた。
 ちとせが障子の向こうの空気が微妙に変わったことに気づいたのは、その時だった。
 ずるり、ずるり、と、何かを引き摺るような音がする。
 そして、乱れた呼吸音。
 明らかに障子の向こうに人がいるようだ。
 だが、その気配は、葵でも、悠樹でも、鈴音でも、ロックでもない。
 ちとせが躊躇している間に、障子戸へ真冬の手が伸ばされていた。
 びっくりしたようにちとせが真冬の顔を覗き込む。
 しかし、真冬はちとせを見ようともしていなかった。
 彼女の手がちとせの手よりも先に戸を開ける。
 そして、その先に視線を移した真冬とちとせの両目が驚きに大きく見開かれた。
 障子戸の向こうの床には、少女がうつ伏せに倒れていたからだ。
 真冬もちとせも少女の顔を見知っていた。
 特に真冬は忘れるはずもない。
「ラーン!?」
 悲鳴のように教え子の名を叫び、真冬はちとせの支えを放れた。
 そして、倒れているラーンの横へと崩れるように両膝をついた。
「ラーン!」
 もう一度、青い髪の少女の名を叫んだ。
「シンマラ師……」
 ラーンはわずかに首をもたげ、真冬の顔を見上げた。
「ラーン、これはいったい?」
 真冬は自分の怪我の痛みも忘れて、ラーンを抱き抱える。
 手にぐっしょりと濡れた感触が伝わる。
 元教え子である少女の顔や首筋は自分のものであろう汗と涎と涙によって濡れ光り、乱れた衣服は多量に含まれた水分によって変色していた。
 目には苦痛と色情とそれに抗う意志が浮かんでいる。
 そのことから、少女がひどく消耗しているのは苦痛と悦楽を強制され、それを受け入れなかった証拠に違いがないと、真冬は判断した。
「誰がこんな酷いことを……」
「……シンマラ師……逢うことが……できた……」
 恩師に抱かれた愛弟子の憔悴しきった顔に微かな安堵の色が浮かぶが、それはすぐに縋るように搾り出された声の中に消えた。
「お、お嬢を、……お嬢を助けてください」


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