魂を貪るもの
其の五 流転
2.撤退

 ファーブニルは、鈴音の頑健さに感嘆せざるを得ない。
 ジークは単純ではあったが、猛者中の猛者だ。
 鈴音は、そのジークと戦い、精根尽きているはずだ。
 だが、彼女はファーブニルの相手をして一歩も引かない。
 最強と謳われる退魔武術――天武夢幻流。
 その後継者。
 だが、それは肩書きにしか過ぎない。
 鈴音、という人間の本質が、強い。
 傷ついても傷ついても、倒れない。
 勝利を目指す戦車の如く、倒れない。
「驚嘆すべきタフさだな」
「正直に、しつこいって言っても良いんだぜ」
 大きく肩で息をしながらも、鈴音の不敵な眼光は衰えない。
 怒涛の攻めを行うための体力は残っていない。
 と、再び、地面が大きく揺れた。
 今までよりもさらに激しい揺れだった。
 そして、近い。
 荒れ狂った風が樹木の間を駆け巡り、血の匂いを運んできた。
「!」
 鈴音の顔色が変わった。
 血の匂いのためではない。
 それと同時に運ばれてきた巨大で邪悪な気配に身震いしたのだ。
 ファーブニルにもそれは感じられたのだろう。
 彼の老人の顔にも驚愕が浮かんでいる。
 そして――。
 微かな呻き声が聞こえた。
 地面に倒れていた巨漢が目を覚ました。
「ジーク」
「ファーブニル老よ。何なのだ、この妖気は」
 ジークが首の辺りを手で撫でながらゆっくりと身を起こす。
 それを見て、鈴音が舌打ちする。
「めんどくせぇヤツが目を醒ましちまいやがったか」
 ファーブニルだけでも強敵なのに、それにジークほどの使い手が加勢するとなれば、鈴音の苦戦は必至だ。
「安心しろ、戦う気はない。オレは敗れたのだからな。オレがおまえを阻むのは、次の機会となろう」
 ジークの言葉に嘘はないようだった。
 鈴音はわざとらしく肩を大きくすくめた。
「それは願ったり叶ったりだな。どうせなら、その爺さんを連れて帰ってくれると嬉しさ倍増なんだが」
 樹海の奥から近づいてくるおぞましい気を肌で感じながら、鈴音が言う。
「どうやら思ったより状況が悪いらしいんでね」
 彼女の顔には後悔の色が浮かんでいる。
 ――悠樹をすぐに追いかけるべきだったのかもしれない。
 ちとせたちの状況を知る術もないが、この妖気の邪悪さと強大さを勘案すると危険に晒されている可能性は非常に高い。
 真冬とシルビアとラーンの関係を考えれば、ファーブニルとは戦いたくないというのが鈴音の本音だが、状況はそれを許してはくれないようだ。
「悠長にはしてらんねぇぜ?」
 鈴音は自分の状況判断の甘さを呪いながら、これ以上ファーブニルが立ちはだかるならば強制突破するしかないと覚悟を決めた。
「あたしも、そしてたぶん、テメーらも」
「……かもしれぬ」
 得体の知れない不気味な妖気が迫って来ていることは事実だ。
 ファーブニルもそれを認めないわけにはいかない。
 そう思った矢先。
 懐で電子音が鳴り始めた。
 老人が不審そうな顔をして携帯通信機を取り出す。
「こちら、ファーブニル」
「……『ナ……ファル』より……ファー……ニル……」
 途切れ途切れに声が流れてきたが、モニターは電気的誤信号(グリッチ)に覆われていて相手を映し出していない。
 聞き取りにくいが声の主は女性だった。
 艶かしい響きを含んだ声は、シギュン・グラムのものではない。
 軟禁状態にあるシルビアでもラーンでもない。
 総帥秘書のミリア・レインバックだ。
「レインバックか」
「……音声……乱れ……モニター……映ら……?」
「樹海の影響だろう。少し待て、霊波を最大出力にしてみる」
 ファーブニルが通信機器のボタンを操作するが、モニターには相変わらず何も映らない。
「画像は無理だが、音声はどうだ?」
「良好とは言えませんけど」
 艶麗な響きを含んだ声が、微かな不満を告げる。
 それでも何を言っているかを判別できる程度には、音声が鮮明になった。
「これが限界だ。それで何の通信だ?」
「撤退命令ですわ」
 通信機の向こうで、ミリアは手短に答えた。
 ファーブニルが驚いたように通信機を見直す。
 もちろん、画面は電気的誤信号に覆われたままで、ミリア・レインバックの姿は確認できない。
 ――撤退とはどういうことだ。
 唖然としたように老人は尋ね返した。
「撤退だと?」
「封印より先に運命の糸が解けてしまいましたの」
「運命の糸?」
「その通り」
「まさか、先程からの異変は運命神(ノルン)が?」
「そちらで具現化していますわ、末妹のスクルドが。触媒は『レーヴァテイン』。まったく運命神の気まぐれにも困ったものね」
 言葉とは裏腹に、総帥秘書の口調はあまり困っているようには聞こえない。
 どこか愉悦を含んでいるようにも思える。
 もしかしたら本当に、この屈折した性格の持ち主は通信機の向こうで妖艶な笑みが浮かべているのかもしれない。
「計画変更ですわ。ファーブニル、ジークの両幹部とも速やかに『ナグルファル』へ帰還を」
 ミリアからの通信はそれで終わった。
 通信機をしまいながら、老人は呻く。
 ――運命神が具現しただと?
「まさか運命神が直々のお出ましとは、な」
「どうした、老よ?」
 ジークが不審そうに老人に問い質す。
 ファーブニルは長く息を吐き、巨漢の戦士を見上げた。
「本部からの撤退命令だ」
「何だと?」
「『レーヴァテイン』奪取に支障をきたす異変が起こっている。態勢を立て直さねばならん」
 老人の言葉が終わらないうちに、何度目かの震動が樹海を襲った。
 激しい揺れに、屈強なジークでさえ両足を踏ん張らねば立っていられない。
 満身創痍の鈴音も体勢を崩さないように懸命に堪えながら、老人と巨漢の二人組みを睨み続ける。
 ジークはもう手を出さないとは言ったが、鈴音も隙を見せるつもりはない。
 何やら通信が入ってからファーブニルも向かってくる様子はないが、油断はならない。
 それに樹海の奥から感じるおぞましい妖気は依然として膨張を続けている。
「ん?」
 鈴音は細雪の切っ先をファーブニルに向けたまま隙を伺っていたが、ふと邪悪な妖気に混じってよく知っている霊気が近づいてくるのに気づいた。
「ちとせの霊気だ。それに悠樹……」
 二人とも無事なようだ。
 ほっとした鈴音だったが、すぐに顔を強張らせた。
「真冬の霊気が弱ってる」
 一緒にいる他の二人に比べて真冬の霊気は今にも消えそうなほどに弱い。
 真冬の身に生命に係わる何かが起こっているのは間違いない。
「くそっ、まずったな」
 鈴音が突きの体勢を取り、足のバネを溜める。
 ファーブニルを渾身の一撃で蹴散らして、そのまま勢いに乗って駆け抜けるつもりだった。
「"凍てつく炎"の妹よ」
 その鈴音を止めるように、ファーブニルが声をかける。
「おまえの意向に沿ってというわけではないが、我々はこの場を撤退する」
 ファーブニルから発せられた意外な言葉に、鈴音は戸惑った。
 この老人は先程まで頑なに退くことを拒否してきたのだから。
「……今の通信が撤退命令ってことか?」
「左様。おまえの言った通りの悪い状況となったのだ。我々にとってな。無論、おまえたちにとっても、だ」
 老人が迫ってくる妖気の発せられている方向へと目をやる。
「鈴音さん!」
 ちとせの叫び声が聞こえた。
 彼女のいつもの調子からかけ離れた悲鳴に近い声音だ。
 かなり切羽詰っているようだ。
「ちとせ!」
 全力疾走してくるちとせの姿を確認して、駆け寄ろうとする鈴音。
 ちとせは頬を引き攣らせ、首を横に振った。
「嬉しいけど方向逆!」
「えっ?」
「お迎え不要ってこと!」
「はっ?」
「鈴音さん、逃げるってことです!」
 ちとせの後ろから風を纏って飛翔してきた悠樹が叫んだ。
 両腕で真冬を抱えている。
 一目見ただけで、真冬が瀕死の状態にあることがわかった。
 苦しそうな表情に歪んだ顔は、完全に血の気を失って蒼白になっている。
 白かったストレッチワイシャツの胸元を紅に染めているのは、唇から流れている幾筋もの血の跡から察するに恐らくは外傷のせいではなく、吐血だろう。
 内臓をひどくやられているに違いない。
「真冬は大丈夫なのか!?」
「大丈夫ではありませんが、先生はこのまま、ぼくが運びます。鈴音さんは、ちとせと逃げてください!」
 悠樹の声にも余裕はない。
 鈴音は即座に身を翻した。
 ファーブニルと目が合う。
「撤退するんなら早くするこった」
 鈴音が老人に忠告する。
 ちとせと悠樹の二人に余裕がない。
 それは状況が最悪であるということの証明なのだ。
 瞬時にそう判断した鈴音も妖気から逃れるように駆け出す。
 ファーブニルは追わなかった。
 撤退命令が出ている以上無理に追う必要がなかったこともあるが、樹海の奥から一陣の風が見覚えのある顔を運んできたことが老人をその場に留めさせていた。
「シンマラ」
 ファーブニルが悠樹の両腕に抱えられている真冬に顔を向ける。
 真冬はファーブニルの視線に気づき、弱弱しい動きで悠樹を見上げた。
 そして、この緊急時に何をバカなことを口走ろうとしているのだろうと自分でも思いながら、それを抑えることができなかった。
「……悠樹くん、降ろして欲しい」
「ダメです」
 真冬の顔を見ようともせずに悠樹は短く答えた。
 悠樹もファーブニルの視線が真冬に浴びせられていることには気づいていた。
 真冬が『ヴィーグリーズ』を去った後、ファーブニルがシルビアとラーンに情を注いできたことを悠樹は聞かされていない。
 だが、恩師と老人の間には因縁めいたものを感じていた。
 真冬は無駄だと知りながら再び口を開いた。
「止まることは?」
「ダメです」
 悠樹はにべもない。
「重いだろう?」
 真冬は悠樹がわざと冷淡に反応していることを理解している。
 それでも尚食い下がったが、喉を逆流してきた熱い血液に器官が刺激され、咳き込んでしまう。
「ごほごほっ……」
 血の欠片が唇を濡らすが、真冬には拭う力も残っていない。
「先生、内臓をやられてるんです。喋ってもダメですよ」
 悠樹がそこで初めて真冬の顔を見た。
 そして、首を横に振った。
 線の細い少年に見えるが、その腕は意外と逞しい。
 飛翔による衝撃や震動ができるかぎり真冬に及ばないように優しく抱き抱えている。
 真冬はあきらめて口を閉じた。
 そして、無言のままファーブニルをもう一度見る。
 老人は真冬をじっと凝視したままで、追おうとはしない。
 ジークも真冬の存在には気付いていたが、動こうとはしなかった。
「おじいさんたちも、ささっと逃げた方が良いよ!」
 全力疾走しているちとせが振り返りながらファーブニルに叫んだ。
「鈴音さん、遠目から援護ぐらいなら何とかなるよ。それとも引き返す?」
「大丈夫だ。あたしより元気だよ、あいつらは」
 鈴音も老人を振り返った。
「あんたが気にしてた神代ちとせはこういうヤツさ」
 ちとせは一瞬不審な顔をしたが、すぐに鈴音を追い越す勢いを取り戻した。
 悠樹と真冬の姿はもう見えない。
「……なるほどな。神代ちとせか」
 百聞は一見にしかずとはよく言ったものだと老人は思った。
 切羽詰った状況で、自分より敵の心配をも忘れない少女。
 きっとシギュン・グラムが気に入ったのは、そういう魂の色だろう。
 "氷の魔狼"の『空虚』と少女の『魂魄』は、月と太陽の如く同等で、そして正反対の気高さを持っている。
 『レーヴァテイン』奪取は失敗したが、神代ちとせという少女を一瞬とはいえ自分の両目で見ることができた。
 "凍てつく炎"の妹や風使いの少年と刃を交えたことで、その戦力を実感することもできた。
 それに、直接話すことはできなかったがシンマラの姿も確認することができた。
 それらのどれもが、ファーブニルにとっては大きな成果と言えた。
「さあ、ジーク、我らも引き上げようぞ。ぐずぐずはしておられぬ。運命に食われてはたまらんからな」
 ファーブニルがジークを促すように歩き始めた。
 彼の歩いた軌跡に淡い光が生まれ、ジークもその光に沿って歩き始める。
 歩を進めるに従って二人の姿は、徐々に光に包まれていく。
 やがて、光が辺りを満たした。
 瞬刻の後、光が消えた時には、老魔術師と巨漢の戦士の姿も樹海から消えていた。

「逃げたか」
 追っていた気配のすべてが樹海から消えたことを感じて、黒髪の運命神はゆっくりと進めていた歩を止めた。
 そして、無表情のまま、右手に握った『レーヴァテイン』を地面に突き刺す。
 黒髪の少女の双眸が『レーヴァテイン』の刃部分に向けられる。
 『レーヴァテイン』に施された封印の鎖の施錠が生き物のように蠢いていた。
 少女は唇を滑らかに動かし始めた。
 彼女を囲むようにして地面に禍々しい赤い妖気が走り、その力は少女の右手に収束した。
 『レーヴァテイン』に手のひらを向けると、鼓膜を破るような轟音と共に真紅の閃光が迸った。
 赤い光が晴れると、少女の突き出した右手から先の地面が扇状に大きく抉られ、そこには樹木の一本も残っていなかった。
 『レーヴァテイン』だけが無傷で地面に突き刺さっている。
 真冬の施した封印の鎖も健在だった。
「やはり術者でなくては解けぬ」
 少女は無感情に呟き、肘から先がない自らの左腕に目をやる。
 腕の断面から血管が伸びた。
 それは複雑に絡み合いながら量を増やして、腕の形を形成していく。
 完全に左腕が修復されると、手のひらの開閉を何度か繰り返して不自由のないことを確かめる。
「捕らえるには餌がいる」
 運命神の唇が、笑みの形に歪んだ。
 無表情に与えられた形だけの笑みは、人外の不気味さを漂わせていた。
「餌はスルトの手許か」
 黄金色の両目が妖しく輝き、唇が再び滑らかに動き出す。
 人間には発音できない不可思議な言葉が紡がれ、風もないのに漆黒の髪が舞い上がった。
 同時に運命神の身体が金色に光り始める。
 ゆらゆらとその姿が揺れながら、半透明になっていく。
 そして、透けた運命神の身体を包む不可思議な光は、黄金の帯のように空へと伸びていった。


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