魂を貪るもの
其の五 流転
1.生死

 『ヴィーグリーズ』の施設、『ナグルファル』の総帥室で寛いでいたランディ・ウェルザーズは己の全身に奇妙な感覚が走るのを感じていた。
 ――運命神(ノルン)か。
 ランディの目に憎悪が宿る。
「『スクルド』め。現状に満足いかず、『レーヴァテイン』を触媒にしおったか」
「いかがなされました?」
 傍らで書類を整理していたミリア・レインバックが、小首を傾げる。
 ランディはゆったりと葉巻のケースを取り出した。
「運命神の末妹が実体化した」
「!」
 その応えを聞いて、さすがのミリアの美しい顔も一瞬、唖然となる。
 『ヴィーグリーズ』の宿敵である運命神が『この世界』に現出したのだから、ミリアが驚くのも無理はない反応だった。
 だが、落ち着き払った総帥の態度を確認して、ミリアもすぐに顔色を戻した。
「間接関与では上手くいかぬことに業を煮やしたか、己の手で直接滅ぼそうという腹のようだな」
 葉巻に火を点けながら、ランディが唇の端を吊り上げる。
「だが、運命とは、目に見えぬからこそ、運命なのだ」
 目の前に堂々と現れた『それ』はすでに何者も惑わすことのできない、ただの力の奔流に過ぎない。
 実体を持てば、この世界へ干渉する物理的な力は強まる。
 だが、いかに強大な力であろうと、実体化した『それ』には、この世界の側からもまた干渉できるということだ。
 そのことを理解し、ミリアも喉を鳴らして笑った。
「運命でも焦ることがあるのですね」
「この世に永久不変のものなどありはしない。それだけのことだ」
 生まれ出で、朽ち果て、死に行く。
 栄え、枯れる。
 盛んになり、やがて衰える。
 生物も無生物も、すべてのものは常に変革し、新たな段階を迎えていく。
 世界を操るほど強大な力とはいえ、運命神だけが例外であるわけではないのだ。
 現に、ノルンの手足であったランディ自身は反旗を翻すに至っていた。
 さらに運命神は力の触媒ともいうべき『ユグドラシル』をも失い、世界を滅ぼす術を失いかけている。
 だからこそ、その代用として、魔界を浮上させるほどの魔力を持つ『レーヴァテイン』に目をつけたのだろう。
「万物流転」
 ミリアは左目にかかっている前髪を指で梳き、ランディの表情を上目遣いに見ながら笑いを収めた。
「わたくしは大好きな言葉ですわ。退屈しなくて済みますもの」
 夢魔たる彼女の仕草は妖艶で、何気ない一挙一動をするたびに色香が漂ってくる。
 だが今は、淫靡さよりも知的さが強く出た顔で、第一秘書としての機転の良さで総帥の考えを先回りした。
「計画も修正するのですのね?」
「ファーブニルとジークを退かせる」
「筆頭幹部殿にも?」
「そうだな。シギュンもここへ呼べ」
「御意のままに」
 深々と頭を下げ、ミリアは部屋を辞した。
 
 ちとせは、"神"たるスクルドを相手に苦戦を強いられていた。
 長距離から霊気球を放っても簡単に弾かれ、手にした神扇で接近戦を挑んでも軽くあしらわれる。
 しかも、スクルドは積極的には攻めてこないのだが、常に無表情なために思考をまったく読むことができない。
 思いもかけない方向から、予測できない攻撃を繰り出してくる。
 しかもスクルドの攻撃の威力は凄まじく、攻撃の範囲も広い。
 攻めながら、ちとせは逆に傷ついていく。
 だが、スクルドの狙いはちとせではなく、あくまで真冬であった。
 すでに大量の出血で立つこともおぼつかない真冬は、ほぼ防御一辺倒に追い込まれていた。
 真冬に放たれるスクルドの攻撃は、ちとせの攻撃の合間を縫って無造作に『レーヴァテイン』を振り、その衝撃波を飛ばすという単純なものだった。
 だが、その単純な攻撃方法ですら、今の真冬には耐え切ることが難しい。 
 衝撃波を受けるたびに吹き飛ばされ、傷口から残り少ない血液が溢れ出し、命を削られていくのだ。
 真冬が、それでも意識を保っていることは奇跡に近かった。
 何度目かの轟音とともに地面が割れる。
「きゃああっ!」
 ちとせが悲鳴を上げながら衝撃波の直撃を受けて吹き飛ばされる。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 真冬も霞む目で迫り来る衝撃波を捉えたが、脚が動かずに避けることができない。
 全身を衝撃が貫き、後方へ飛ばされ、地面へと無様に転がされた。
 起き上がろうとするが身体に力が入らない。
 いくら酸素を貪っても乱れた息は一向に落ち着く気配はなかった。
 全身から流れ出す血の感覚も薄れ、目の前を暗闇が覆っていく。
 ――死ぬのか。
 そう感じた次の瞬間、真冬は意識を奪おうとする暗闇に叫んだ。
 ――死ねない!
 ちとせが戦っている。
 ――死ねない!
 シルビアもラーンもまだ苦しんでいる。
 ――死ねない!
「死なせない」
 暗闇は嗤った。
「封印を解け」
 暗闇の声に慈愛など欠片もなかった。
「封印を解くまで汝に死はない」
 暗闇の中で声が脳内に響き続ける。
 死ぬ権利などない。
 死ぬことなど許しはしない。
 生殺与奪を決めるのは、"運命神"たる我なのだ。

 真冬は暗闇から引き摺り戻された。
 彼女を現世に引き戻したのは、幼い頃の自分と同じ顔をした死神だ。
「与えられるは苦痛のみ」
 そして、幼い頃の自分の姿と唯一違う金色の瞳が、自分を冷厳に見下している。
 死の暗黒よりも黒い髪が、不気味に風に舞っている。
 その化物を睨み返しながら、真冬は必死に酸素を貪る。
 ――死ねない!
 もう一度、そう自分に言い聞かせる。
 やらねばならないことは山ほどある。
 償わなければならないことは数え切れないほどある。
 目の前の怪物が何を思おうと関係ない。
 上半身を起こすことはできたが、それ以上は肉体がいうことをきかない。
 力の込められた指が、地面を削る。
 だが、真冬はあきらめない。
 スクルドは真冬の顔を覗き込むように覆い被さってきた。
 そして、息がかかるくらいに顔を近づけた。
「我を受け入れろ」
「断る」
 真冬ははっきりと答えた。
 身体がいうことをきかなくても、意思は自由だ。
 スクルドの金色の双眸が輝きを増した。
「我は運命ぞ」
「知るか」
「我は汝ぞ」
「いや、私の方が美人だな。おまえの造形はなっちゃいない」
 瀕死の真冬の軽口に対しても、スクルドは無表情のままだった。
 ただ、次に真冬に浴びせられたのは言葉ではなく、純然たる実力行使だった。
 スクルドの拳が真冬の鳩尾に叩き込まれる。
「かはっ!?」
 真冬の腹に左手をめり込ませたまま力を込め。五本の指で皮膚の上から内臓を鷲掴みにする。
「はっ、ぐっ、うぅっ!」
 凄まじい握力で腹を締め付けられて、真冬が呻き声を上げる。
 メリメリと軋んだ音が響き渡り、真冬のほっそりとした腹部がひしゃげてゆく。
「うっ、くっ!」
「……潰れろ」
 運命神の冷たい言葉が発せられると同時に、真冬は自分の体内で何かが潰れるのを感じた。
「がっ、はぁっ!?」
 真冬の口から熱い鮮血が溢れ出す。
 意識が飛び掛けるが、無理矢理に引き戻し、耐える。 
 スクルドが鷲掴みにしていた真冬の腹から手を引き抜き、再び顔を真冬の鼻先まで近づける。
「従え」
「断る」
 真冬は血の混じった唾をスクルドに吐きつけた。
 スクルドを睨みつける真冬の瞳に宿る闘志はいささかも揺らがない。
「ならば次の臓腑だ。臓腑すべて潰し、胎内を破壊し尽くそうぞ。その後は、骨を一本ずつ砕き、肉を少しずつ裂く」
 スクルドは頬にかかった真冬の赤い色の唾を拭おうともしない。
「それでも汝は死ねない。我が力で損傷を癒され、再び拷問を受けることとなる。我を受け入れるまで地獄を見るのだ」
 そう淡々と告げて、再びスクルドが真冬の腹へと左腕を伸ばす。
 真冬は動けない。
 彼女にとっての抵抗の証は、その鋭い視線だけだ。
 スクルドの指先が真冬の腹部に触れる寸前、スクルドの後方が眩く光った。
「?」
 スクルドが振り返る。
「このド変態!」
 怒声とともにスクルドの顔面に霊気の塊が直撃した。
「ちとせくん!」
 霊気を放ったのは、ちとせだった。
 スクルドが真冬を痛めつけている間に、彼女はスクルドの真後ろまで近づいていたのだ。
「喰らえぇ!」
 ちとせは間髪入れずに霊気の塊を次から次へと叩き込む。
 だが、至近距離から顔面に無数の霊気の塊を浴びながらも、スクルドは揺るがない。
 まるで痛みを感じている様子もなく、その己へ向かって乱れ飛ぶ霊気の中で無造作に左手をちとせに伸ばした。
「邪魔をするな」
「なっ!?」
 顔面に攻撃を食らいながら怯む様子もなく、避ける気配もなく、ただ何事もないように反撃してきたのだから、ちとせが青ざめるのも無理はない。
 真冬の臓腑を簡単に握り潰した左手に捕まれば、ちとせの身体も簡単に壊されてしまうだろう。
 腹を掴まれれば内臓を破壊され、手足を掴まれれば四肢を砕かれる。
 首を締め上げられれば、即死も考えられた。
「ちとせくん、逃げろ!」
 真冬が吐血しながら叫ぶ。
 ちとせも頭では逃げなければいけないと理解していた。
 だが、動けない。
 恐怖ではない。
 あまりにも常軌を逸したスクルドの動きに、ちとせは咄嗟に反応することができないでいたのだ。
 ちとせへ触れるか触れないかまでスクルドの魔手が迫る。
 ひゅっ。
 奇妙な音がした。
 轟、と音を立てて、スクルドの背後で突風が巻き起こった。
 その風を感じた瞬間、ちとせの金縛りが解けた。
 同時に、スクルドの左腕の肘から先が、ぼとりと地面に落ちた。
 迫り来る死神の左腕が消えた安堵感を味わうより先に、ちとせは後ろに跳んで間合いを広げた。
 その傍らには、いつの間にか一人の少年がいる。
「悠樹!」
「ちとせ、大丈夫か?」
 悠樹は両腕で真冬を抱えて立っていた。
 スクルドの左腕を断ったのは、悠樹の風だった。
 ちとせを救うと同時に真冬のもとへ飛び、助け出したのだ。
「おいしいわね」
 荒い息を吐きながら、ちとせが悠樹に笑いかける。
「それだけ言えるなら心配しないよ」
「心配してよ」
 不満そうにちとせが口を尖らせるが、視界の中にはスクルドを捉え続けている。
 悠樹も改めて、真冬を痛めつけ、ちとせを追い詰めていた相手に視線を戻した。
 紅の剣を握り、漆黒の鎧を纏った年端もいかぬ黒髪の少女。
 顔立ちこそ真冬に似ていたが、そこに人間らしさはなかった。
 左腕を切り落とされても表情一つ変えていない。
 そして、その傷口からも血の一滴も流れ落ちていなかった。
 その少女から発せられる不気味な雰囲気を十分に感じ取っている悠樹は、視界に入れた時から彼女をすでに人間だとは思っていない。
「『あれ』は何?」
 少女の無感情な顔を見ながら、悠樹がちとせにその正体を尋ねる。
「運命神だってさ」
「えっ?」
 さすがに悠樹も、すぐには理解できない。
 ちとせもその実、よくはわかってはいない。
 彼女は言葉を変えて答えた。
「ノルンだってさ」
「はぁ?」
 その答えにもまた、悠樹は、しっくりと来ないようであった。
 悠樹もノルンのことは知っている。
 北欧神話において、『ユグドラシル』の世話をしているウルド、ヴェルダンディ、スクルドの運命の女神三姉妹。
 先程の答えとそう変わった内容ではない。
 ちとせは、また答えた。
「スクルドだってさ」
「それって?」
 目の前の少女はどうやら運命の女神ノルンであり、その中でも末妹のスクルドであるらしいとわかったが、悠樹はさらにわかりやすい回答を求める。
 ちとせは根本的な答えを言った。
「わかりやすく言うと、敵だね」
「了解」
 悠樹は頷いた。
 そういう答えが、まどろっこしくない。
 しかし、この敵は神を名乗るだけはあって強大なようだった。
 年端もいかぬ少女の外見とは裏腹に、そのおぞましい妖気は対面しているだけで怖気を震わせるものがある。
 ちとせに合わせるように軽い調子で受け答えしている悠樹も鳥肌が立っているのを自覚していた。
 そして、ちとせも真冬ももはや戦える状態ではないのは明らかだった。
 悠樹がちとせに聞く。
「それで、もしかして、逃げれば良いのかな?」
「よ〜くわかってるじゃない」
 身体の痛みを押さえ込んで、ちとせは悠樹にウィンクをした。
「センセを頼むよ」
「ちとせは?」
「ボクは一目散ならダイジョブ」
 悠樹に真冬を託せるなら、ちとせも退却に集中できる。
 かなりのダメージが蓄積しているが、周りを気にせずに逃げるだけの力なら何とか残っていた。
 悠樹が大きく頷き、一言だけ付け加える。
「鈴音さんも拾っていくよ」
「わかってるよ」
 短いやり取りで二人は互いの意思を疎通させた。


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