魂を貪るもの
其の五 流転
3.幻影

 シルビア・スカジィルはベッドに腰掛け、額に右手を当てて俯いていた。
 顔の上半分は手のひらに隠されて表情は窺い知れない。
 ただその口元は引き攣ったように歪んでいた。
「……チクショウ……チクショウ……」
 呻くような声が漏れるたびに、悔しげに肩が震える。
 息が荒くなり、身体中を雷光が駆け巡る。
「アタシは役立たずじゃない。アタシは役立たずなんかじゃない」
 額に当てた手の指を動かし、くしゃり、と髪を弄る。
 バチバチッと電撃が弾ける。
 そして、また口元が歪み、肩が震え、抑えきれぬ感情に雷光が暴れる。
 彼女はずっとそれを繰り返している。
 怒りと無念さとそれを否定しようとして否定できない葛藤のために、立ち上がることができない。
 ただ怒りに震え、そして自分の不甲斐なさを憎悪し、しかしそれを認められずに苦しんでいた。
 静かに、しかし、荒々しく雷光が部屋中を駆け巡る。
「シルビア」
 突然、誰かに名を呼ばれ、シルビアは驚きのあまり顔を上げた。
 目の前に一人の少女が唐突に現れていた。
 黒い髪をした幼い少女だった。
 確かに今まで自分一人しか存在していなかった。
 部屋には結界が施されたままだ。
 通常は出入りなどできるはずがない。
 何より今の今までシルビアの感情に任せた電撃が部屋中に放たれていたのだ。
 だが、その黒髪の少女は平然とシルビアの前に立っていた。
「シルビア、シルビア、シルビア」
 少女がまるで確認でもするようにシルビアの名を繰り返した。
 自分の名を連呼する少女を誰何するでもなく、シルビアは不思議そうな表情で少女の顔を見つめた。
 黒髪の少女は美しい顔立ちをしていた。
 その眉目秀麗な容姿には、どこかシルビアに懐かさを感じさせる面影がある。
 少女はシルビアへとゆっくりと手を差し出した。
「シルビア、手を取れ」
 少女の艶かしい唇が動いた。
 甘く、毒々しく、そして、艶かしい紅を帯びた唇。
 シルビアはその唇の動きに魅入られた。
「我が手を取れ」
 とろけるような吐息とともに紡がれる一語一語が、脳内に直接響く。
「我が手を取れ、シルビア」
「オマエはいったい……」
 誘惑するようにもう一度名を呼ばれ、シルビアがようやく誰何の言葉を口にする。
 そこで初めて、少女がいつの間にか大人の女性へと変貌していることに気づいた。
 シルビアは、その『顔』を知っていた。
「我が名を、否、……私の名を知りたいか?」
 黒髪の女性の問いにシルビアは微かに首を横に振った。
 その女性の名を尋ねる必要などありはしない。
 それは求めて止まない名なのだ。
 憎んで止まない名なのだ。
 愛して止まない名なのだ。
「シンマラ」
 シルビアの唇から呟くように零れ落ちた名を聞いて、黒髪の運命神は嗤った。
 完璧な造形をわずかに歪めた虚ろな笑み。
 感情のない笑みだった。
 だが、シルビアにはそうは見えていない。
 ――愛する恩師が微笑んでくれた。
 赤い髪の少女の表情が、見る見ると歓喜の色を帯びる。
 それだけで、それだけで良かった。
 シルビアのシンマラへの憎悪は敬愛の裏返しでしかない。
 愛しているから憎かった。
 微笑んでくれない師が憎かった。
 自分を見捨てた師が憎かった。
 だが、師は微笑んでくれた。
 見捨てられてはいなかった。
 シルビアはそう思った。
 目の前の師が幻影でも構わない。
 夢でも構わない。
 それこそが、シルビア・スカジィルが求めていたものなのだから。
「シ、シンマラ……師、……シンマラ師」
 シルビアにはっきりと『シンマラ』と呼ばれ、黒髪の女性の双眸が黄金色に妖しく輝いた。
「迎えに来たよ、シルビア。さあ、手を」
 『シンマラ』の差し出している右手へ、シルビアもまた右手を差し出した。
 そして、『シンマラ』の手のひらをゆっくりと握り締める。
 自然と力が込められる。
 幻影でも夢でもない感触。
 ――嬉しかった。
「シンマラ師」
「シルビア」
「アタシを見捨てないで、シンマラ師。アタシのただ一人の師匠。そうだ、ラーンも待ってる。だから、また三人で……」
「迎えに来たと言っただろう」
 『シンマラ』は、シルビアを抱き寄せ、耳元で甘く囁いた。
「見捨てはしないよ、キミもラーンも私の大切な教え子なんだから」
「ああっ――」
 シルビアの口から嗚咽が漏れた。
 『シンマラ』がシルビアの背を撫でると、赤い髪が小刻みに揺れた。
 シルビアの目から涙が溢れ出した。
「愛してるんだ。たまらなく愛しているんだ」
「知っているよ」
 『シンマラ』はその艶麗な唇を、シルビアの唇に重ねた。
 流れる涙とともにシルビアの瞳から意志の光が引いていく。
 やがて、シルビアの瞳がただの空虚となると、『シンマラ』は唇を放した。
「私も愛しているよ、シルビア。私の愛玩としてね」
 鏡のように自分の顔を映し出すだけとなった赤い髪の少女の瞳を見て、『シンマラ』は黄金の双眸を細めた。

 ラーン・エギルセルもまた軟禁されている部屋でベッドの上に腰掛けていた。
 彼女は何をするでもなく、ただ無機質な壁を見つめていた。
 目は虚ろで、表情にも生気がない。
 差し入れられた食事は手付かずのままテーブルの上に残されていた。
 ――私は何をしたいのだろう。
 そう考える。
 思考は止まっている。
 ――お嬢のためなら何でもできる。
 そうは思う。
 だが、思考は進まない。
 シンマラ師をシルビアに差し出せば、シルビアは喜ぶだろう。
 だが、ラーンは知っている。
 ラーンがシルビアを愛しているように、シルビアはシンマラ師を愛している、と。
 では、自分はシンマラという人間を愛しているのだろうか。
 知りたくない答えは、簡単に解けた。
 ――自分は間違いなくシンマラ師という人間を慕っている。
 証拠はある。
 いつまでもシンマラを師と呼び続けていることだ。
「お嬢には何度も、シンマラをもう師と呼ぶなと言われているのに」
 それでも、シルビアの言うことならば、ほとんどそのすべてを受け入れてきたラーンには不思議なほどに、シンマラを師と呼ぶことだけは続けていた。
 ――お嬢のシンマラ師への想いを隠れ蓑にして、自分もまたシンマラ師への断ち切れぬ想いを持ち続けているからに他ならない。
 そう気づいてしまった。
「私は捨てられたくなかったのだ」
 捨てられたくなかったから、自分はシルビアほどシンマラ師を愛していないと言い聞かせてきたのだ。
「お嬢のことは心底愛している」
 それは真実だった。
「自分は心底愛しているお嬢を利用して、シンマラ師を繋ぎ止めようとしている」
 ――それでいて、シンマラ師のことは愛していないなどと、それは虚偽でしかないではないか。
 ラーンの頬を涙が伝った。
「しかも、自分はシンマラ師を仮想の敵にすることで、お嬢の愛をも独占し続けようとしている」
 皆に愛して欲しい。
 それがために、自分の気持ちを偽っているのではないか。
 涙は止まらない。
「自分は卑劣な女なのだ」
 思考が動き出せば、ラーンの中に溢れ出てくるのは自己嫌悪ばかりだった。
「苦しむことはないよ、ラーン」
 突然響いた声に、ラーンがビクリと肩を大きく震わせる。
 そして、首をめぐらせ、驚きに両目を大きく見開いた。
 声の主は見間違えるはずもない黒髪の女性。
「……シンマラ……師?」
「自分を偽っていたのはキミだけじゃない」
 ――私が一番罪深い。
 『シンマラ』は微かに嗤った。
 その優しげにラーンを見つめる双眸の奥で、微かに黄金の炎が揺らめく。
「だから、キミたちに償いたくて戻ってきた」
「キミ、たち……?」
 ラーンは、『シンマラ』の脇にいつの間にか、小柄な影が付き従っているのに気づいた。
 そこにいるのは、愛して止まない赤毛の少女。
「お嬢!」
「行こう、ラーン」
 赤毛の少女はいつものように毒々しいゴシックドレスを身に纏い、凶悪なフランベルジュを収めた鞘を腰に吊るしている。
 ただ闇雲に周囲へと撒き散らしていた怒気がない。
「お嬢?」
「この偽りに満ちた世界を滅ぼそうよ、ラーン。アタシたち三人で」
「お嬢と『シンマラ師』と私の三人?」
「そうだよ、ラーン。昔のように三人で」
「昔のように……」
「さあ、行こう、ラーン」
 甘い声で言うシルビア。
「シンマラ師が導いてくれる」
 ラーンは突然立ち上がった。
 シルビアの手を取って自分の後ろへと引き、『シンマラ』とシルビアの間に割り込んだ。
 そして、『シンマラ』へと叫んだ。
「おまえは誰だ!」
 『シンマラ』は優しげに微笑んだまま、小首を傾げた。
「おまえはシンマラ師じゃない!」
 ラーンが大きく首を横に振る。
 そして、後ろに下がらせたシルビアを庇うように両手を広げる。
 その指先の中空に水流が巻き起こった。
「しっかりして、お嬢!」
 必死に後ろへ声を飛ばすが、シルビアからの返事はない。
 『シンマラ』から注意を反らさずに、ちらりとシルビアへと目をやる。
「お嬢、目を覚まして!」
 赤毛の少女の意志の光を宿さない瞳と視線が合った。
 何の反応もない。
 ラーンが歯噛みをして、目の前の『シンマラ』を睨みつける。
「シンマラ師は、自分で思考し、行動することを教えてくれた。だからこそ、私たちの『師』なのよ。絶対にお嬢を操り人形のように扱いはしない!」
「……人間は玩具の分際で些細なことにこだわりよる」
 『シンマラ』の顔から優しさが消えた。
 否、その顔には怒りも悲しみもない。
 何の感情もない。
 黄金の双眸だけが妖しく輝き、ラーンを照らしている。
「理性など我が与えた本能を包む衣装でしかないというのに」
「偽者め!」
 本性を顕わにした『シンマラ』に怒気を向け、ラーンが指先で宙に沸き出でた水流を巻き取りる。
 そして、水流を纏った両手を前に突き出そうとする。
 だが、彼女の両腕は後ろから絡め取られ、自由を奪われた。
 ラーンを羽交い絞めにしているのは、彼女が後ろに下がらせた最愛の少女の細い腕だった。
「……お嬢!」
 ラーンの悲痛な叫びにも、シルビアは表情を変えることなかった。
 動きを封じられて身を捩っている青い髪の少女の腹へ向かって、『シンマラ』が突き上げるような拳を見舞う。
 ――ドボォッ!
 鈍い音を立てて、ラーンの鳩尾に深々と『シンマラ』の拳が埋まる。
「あっ……」
 内臓まで到達する強烈な衝撃を受け、ラーンの両目が大きく見開かれ、苦痛を表すように虹彩が収縮する。
 肺の中の空気を押し出された唇の端から涎がツーッと流れ落ちる。
「……うっ……くっ……」
 ガクガクッと全身を痙攣させながらラーンは項垂れて崩れ、羽交い絞めにしているシルビアに体重を預けた。
「逆らわなければ苦しまずに済んだものを。我に逆らうその理性を吹き飛ばすほどの苛烈なる苦痛と際限なき悦楽を身に刻んでやろう」
 『シンマラ』の声が無感情に部屋の中に響き渡った。
 まるでそれに反応したかのように、シルビアが意志のない顔でラーンの唇から垂れている涎を舌で舐め上げる。
 そして、光のない瞳のままで幾分か切なそうに眉を寄せるとラーンの唇に舌を捻じ込む。
「……うっ……あっ……お嬢……」
 激しく口内を犯され、ラーンの消え入りそうな声が部屋に響く。
 シルビアは止まらない。
 再びラーンとディープキスを交わす。
 同時に両手をそれぞれラーンの胸と下腹部に伸ばし、巧みな手つきで嬲り始める。
「お、お嬢……目を覚まして……」
「抵抗するな、ラーン。自分を偽るのは止めたのだろう?」
 『シンマラ』――運命神が無表情に嗤った。
 そして、『シンマラ』もラーンの身体へと腕を伸す。
 計四本の腕と二つの唇に肉体を貪られ、ラーンは切なさに魂が抜けていく感覚を覚えた。
 ――お嬢!
 乾かぬ頬に熱いものが新たに流れるのを感じながら、ラーンの意識は霧散した。


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