魂を貪るもの
其の四 災いの杖
9.開封
悠樹と鈴音がファーブニルとジークを足止めしている間に、ちとせと真冬は猫ヶ崎樹海の奥深くにまで足を踏み入れていた。
悠樹たちと別れてからまだ三十分と経っていなかったが、ちとせには何時間も歩いているように感じられていた。
生い茂った数多の木々によって太陽の光は遮られ、時間の感覚が麻痺しているのだろう。
ちとせが額の汗を拭いながら前を行く真冬に問いかける。
「ふぅ、まだ奥ですか?」
目指すは、"災いの杖"『レーヴァテイン』だが、真冬にしか封印の場所はわからない。
ちとせには、真冬の後を付いていくことしかできない。
「うむ、間もなくだ。足下に気をつけたまえ」
真冬は振り返らずに答え、少しでも後のちとせが歩きやすいように邪魔な枝を押し退ける。
薄暗い上に、密集した霊樹によって霊感も上手く働かず、非常に歩きにくいのだ。
実際、前を歩く真冬は、木の枝や葉で傷ついたものか、肌の露出した部分に少なくないかすり傷を負っていた。
白かったストレッチワイシャツもところどころ泥に汚れ、解れている箇所もある。
その様子を見ながら、ちとせはほっと息を吐く。
――センセは、こんなに心遣いができる人なのに、それでも過ちを犯してしまう。
きっとシルビアもラーンも真冬が『ヴィーグリーズ』を裏切ったことを憎んでいるのではなく、心から信頼していた師が自分たちを連れて行ってくれなかったことを深く恨んでいるのだろう。
それが、たとえ師が弟子たちのことを想って下した苦渋の決断であっても。
しかしながら、ちとせもまた真冬が事情も話さずに、いや事情を聞いたとしても、忽然と自分だけ姿を消してしまったら恨むだろう。
シルビアには激しく痛めつけられたが、それでもちとせには、シルビアたちの気持ちも何となくわかることができた。
――やるせないってね。
ちとせはもう一度深く息を吐いた。
真冬が歩みを止めた。
「ん?」
ちとせが視線を上げる。
真冬の目の前は、霊木が少しだけ開けているようだった。
特に変わった雰囲気はない。
ちとせには、そう見えた。
だが、真冬が足を進める気配はない。
しばらく真っ直ぐに正面を見据えた後、長い睫毛を揺らして瞬いた。
「センセ?」
「ここだ」
「ここ、だ?」
ちとせは小首を傾げた。
何もない。
ただの樹木が開けた場所だ。
何の気配もない。
何の乱れもない。
ただの空間だ。
「ここだ」
真冬はもう一度言った。
「ここに、『レーヴァテイン』がある」
真正面を直視する真冬の視線には力強いものがあった。
だが、ちとせにはそこに封印があるとはわからなかった。
霊感が働いていないためか。
それとも、もともと真冬にしか感じられないのか。
「すぐに封印を解く」
真冬はちとせを振り返った。
緊張した面持ちだ。
「ちとせくん」
「はい?」
「キミがいてくれて助かる」
「センセ?」
真冬の唐突な言葉に、ちとせが目を丸くする。
真冬はあくまで真剣に続けた。
「『レーヴァテイン』には七重の封印を施してある」
「七重!?」
「そう、七重。簡単に言えば七つの鍵をかけてあるということだ」
強固な封印だ。
「悪いのだが少し時間がかかる」
「周りの見張りは任せてください。何が来ても追い払っちゃいますから」
ちとせがウィンクをすると、真冬は眩しそうに教え子の顔を見て深く頷いた。
そして、言葉を続けた。
「それから」
「それから?」
「封印を解くのに血を使う。もちろん、私のものだが」
「血ですか」
「もしもの時は、キミが『レーヴァテイン』を破壊してくれ」
「ボクが、ですか?」
『血を使う』と言う枕詞に不吉なものを感じつつ、ちとせが首を傾げる。
もしもの時とは、どのような時なのか。
「封印を強固にしたものだから、開封に使う血の量だけは尋常にというわけにもいかなくてな。意識を保てるように自分でも気をつけるつもりだが」
「意識を失うかも知れないほどの血の量を使うんですか?」
微かな動揺を大きな瞳に湛えながら、ちとせが問い返す。
「それでも死ぬほどじゃないよ。ただ量が量だけに、な」
努めて冷静に言いながら真冬は左の腕を前に差し出し、手首に右手を添えた。
「大丈夫だ。私には自殺願望はないし、苦痛が贖罪にはならないこともわかっているつもりだ。きっと私の贖罪というのは『生きること』だからな」
そして、微かな風の音が鳴った。
真冬の左手首に赤い線が走り、血がどくどくと大量に溢れ出す。
「センセ!」
「必要なことだ。まさに命懸けの封印というヤツだよ」
――必要なことだ。
真冬はもう一度そう呟いて、いくらか自嘲的に唇を歪める。
真冬は言った。
自殺願望はない。
苦痛は贖罪にはならない。
だがしかし、ちとせには真冬が自らに罰を与えているようにしか見えず、その表情を曇らせる。
それを見て取った真冬は弱弱しいが、微笑みを返した。
「意識がはっきりとしている間にもう一度言う。贖罪じゃない。これは戒めだ」
過去を忘れないように、そして、未来を見失わないようにするための。
シルビアとラーンを傷つけた痛みを忘れないための、そして、彼女たちと向き合うことを躊躇わないための。
――生きるための、自戒だ。
真冬の手首から流れ落ちている血液が、彼女の手前の地面を赤く染め上げていく。
森の中に漂う血の匂いに眉を寄せ、ちとせは恩師の顔から血の気が引いていくのを心配そうに凝視していた。
苦痛に滲んだ汗が真冬の額から流れ落ち、その唇から漏れる吐息は次第に荒くなっていく。
異変は、しばらくしてから起きた。
真冬の足下にできた小さくない血溜まりが沸騰したように泡立ち、奇怪に動き始める。
まるで液体でできた生き物のように伸縮し、大きく盛り上がった。
そして、竜巻のような姿へと変わる。
真冬はその血の旋風を見据え、唇だけを動かして声にならない何かを呟いている。
開封の言葉か何かなのだろう。
その様子に魅入っていたちとせだったが、はっとしたように視線を真冬から外して周囲に移す。
唐突に背中に悪寒を感じたのだ。
肌が粟立っている。
寒気の根源はすぐに見つかった。
中空に、半透明の人間の上半身が浮かび上がっている。
「死霊!」
ちとせが視線を厳しくして叫んだ。
数対の青白い死霊が、真冬の周囲に姿を現している。
この樹海で遭難して未練を残して死んだ者か。
それとも自殺した挙句に成仏できない魂か。
「こんなところで迷ってないで、神の世界に召されなさいっ!」
ちとせの唇から呪が紡がれ、大きく振った両手から神々しい霊気が放たれる。
「ウオオォォォオオオン!!」
怨念の込められた断末魔を上げて、一瞬にしてほとんどの死霊が消滅した。
ちとせは躊躇せずに残った死霊たちへ、短いスカートを翻して走り出した。
死霊たちの放つ怨念は止まるところがない。
――なぜ、私は死んだのか。
――なぜ、私は死ななければならなかったのか。
――おまえはなぜ、生きているのだ。
――なぜだ、なぜだ。
生者への羨望、怒り、憎しみ、恨み、あらゆる負の感情が、ちとせを取り囲む。
しかし、ちとせは哀れな死者の成れの果てに手加減などしない。
その手に霊気を込めて、死霊たちを次々と打ち払い、邪悪に染まった魂を浄化していく。
死霊の一部が、ちとせの頬に触れる。
「相変わらず冷たいな」
ちとせが身震いする。
彼らは生者の温もりが欲しくて襲ってくるのだ。
だが、彼らは死んでいるから温かさを得ることはできず、彼らに殺された者にも温かさなど残りはしない。
そして、殺した死者も殺された死者も永遠に温もりを求めてさまよう。
本来なら、明るく死者を送り出すのが神道の巫女の役割なのだが、負の連鎖を打ち破るには襲ってくる死者を倒すしかないのだ。
「未練たらたらじゃ、幸せになれないよ、まったく。さっさと生まれ変わりに逝きなさい。キミたちの相手をするのはすっごく疲れるんだから」
最後の一体に霊気をぶつけて四散させた後、息を整えながらちとせが小さく呟く。
不機嫌そうな声だった。
死霊の相手は疲れる。
それは精神的な話だろう。
その証拠に、ちとせの目にはやさしさと哀しさが入り混じっている。
大きく息を吐き、ちとせが顔を上げる。
一瞬だけ見せていた慈悲深い巫女の顔は、すでにそこにはない。
瞳にも明るい色が戻っている。
そして、すぐに視線を恩師へと戻した。
真冬の額には大量の汗が浮かんでおり、立っているのも辛い状態なのが一目でわかる。
血液が変化した紅の竜巻は、真冬の身長以上に成長していた。
真冬が血の流れ続けている左手の手のひらを竜巻へと向ける。
すると突然、紅蓮の竜巻が霧散した。
そして、今度は漆黒の風が竜巻のあった場所を舞う。
硝子の割れるような音が響き渡る。
同時に、何かが出現した。
禍々しい紅い光を放ち、辺りを照らす。
その姿がはっきりと浮かび上がる。
それは、『剣』の形をしていた。
刀身の部分に鎖が幾重にも巻かれ、その柄の部分に鍵穴の開いた枷がかかっている。
「開封の儀式は終了した。最後の封印たる魔力を抑える鎖もすぐに解ける。それでお別れだな、私の最高最悪の傑作……」
目の前に現れた『剣』に語りかけるように真冬が呟く。
これこそ、『災いの杖』。
作り手たる真冬に、そしてこの世界に災いをもたらす魔の杖。
「『レーヴァテイン』――」
自らが技術の粋を結集して作り上げた紅の剣、災いの魔の杖を目の前にして真冬はその名を小さく唱えた。
その声には何の感情も込められていない。
しばらく、それを見つめていたが、真冬は意を決したように血に染まっていない右手を伸ばした。
しかし、その手に『レーヴァテイン』を握ることはできなかった。
出血のためではなかった。
手に取る前に、奪われたのだ。
真冬とちとせは驚愕に目を見開いた。
剣を奪い取ったのは、少女だった。
シルビアでも、ラーンでもない。
見知った顔ではなかった。
真冬から感情を抜き取り、幼くしたら、あるいはこうなるのではないか。
『それ』は、そう思わせる容貌をしていた。
冷たく輝く長い黒髪、氷の彫像のように整った美貌、凍りついたような白い肌。
幼さの漂う容貌には不釣合いな無骨な漆黒の甲冑を身に付けている。
常識で考えれば、その鎧の重さで少女は潰れてしまうだろう。
だが、現に少女は甲冑を身に付けて立っている。
『彼女』が人間ではないことを暗に示していた。
そして、もっとも特異なのは、その両目の瞳。
黄金の輝き。
両目の瞳は、妖しく金色に光り輝いていた。
ちとせには、その黄金眼には見覚えがあった。
シャロル・シャラレイ。
かつて、『運命』に従って『
そして、最後には自らの意志で世界を救うために『運命』に反旗を翻した占い師。
だが、この少女は、シャロルとは違う。
シャロルから感じられた苦悩を微塵も感じ取れない。
蝋人形のような美貌を微かに歪めて、少女は笑った。
「――我はスクルド」
形の良い唇が動き、何の感情も含まれていない平板な声が紡がれた。
「運命の女神が一柱にして、すべてを滅ぼす存在なり」