魂を貪るもの
其の四 災いの杖
8.決着

 疾風の如く翔ける鈴音の手にした細雪から溢れ出た青い焔が、走る勢いに流されて長い尾を引く。
 細雪に力を吸い取られるがごとく、軽い疲労感が鈴音の身体を襲っている。
 ジークの肉体を斬りつけた時には、さらに霊気を奪われるということを考えると、鈴音も口では強気なことを言ったが、やはり長くは持ちそうにないことを認めないわけにはいかなかった。
 しかも、この戦法とてジークの肉体の器以上の霊気量を鈴音が有していなければ有効打とは成り得ず、ジークの剣の技量から考えれば、鈴音の優れた剣技を持ってしても細雪で斬りつけること自体が難しい。
 鈴音にとっては、どうにも分の悪い賭けでしかなかった。
 それでも鈴音は退かずに、ジークに向かって翔けた。
 鈴音の真正面からの突進を迎え撃つべく、ジークが大剣を水平に薙ぐ。
 大男の怪力で振るわれたその一撃は、とても受け止められる勢いではない。
 横や後ろに避けても、大剣が切り裂いた真空の刃が襲ってくる。
 下か、上か。
 鈴音は上に跳んだ。
 ジークはすぐに大剣を掲げて空中からの強襲に備えたが、鈴音は攻撃を放たずにそのまま彼の後ろに着地した。
 そこへ、ジークが振り返りざまに大剣を振り下ろしてくる。
 鈴音は半歩だけ移動して紙一重で攻撃を避け、ジークの一撃は地面を抉った。
 そして、霊気の出力を増加した細雪で鈴音がジークの厚い胸板へ鋭い剣撃を見舞う。
 今度は弾かれる感覚ではなく、肉に食い込む鈍い感触が伝わってきた。
 だが、細雪を握る鈴音の腕はそこで止まった。
「効かぬ!」
 やはり細雪の刃はジークの胸板を切り裂くには至らなかった。
 肉へは食い込んだものの、浅い。
 致命傷には程遠い。
「くああっ……」
 逆に細雪を伝わる霊気がジークの肉体へと吸収されて、強い脱力感が鈴音を苛む。
 動きの止まりかけた鈴音を捕えようとジークの太い腕が伸ばされるが、気を張って鈴音は意識を保つと後ろへと飛び退いた。
「はあぁぁっ!」
 そして、再び気合いを入れ直して細雪に霊気を流し込み、突進。
 今度は、横に薙いだ。
 ジークの脇腹に細雪が埋まる。
 しかし、今までと変わりなくジークの霊気を奪う特異体質が細雪を阻んだ。
 切れ味を奪われた刃を、鋼鉄の筋肉が食い止める。
「るあぁぁっ!」
 鈴音はそこで霊気を爆発させる。
 しかし、刃は動かない。
 細雪に鈴音が霊気を送り込むと同時に、ジークがその力を吸収していく。
 凄まじい脱力感が鈴音の身体を蝕み、目眩が襲ってくる。
「これほど吸収速度が早いのかよ!」
 ジークが倒れる気配はまったくない。
「ちぃっ!」
 鈴音は舌打ちした。
 彼には霊気を吸収する余裕が、たっぷりあるように見える。
 まだまだ切り結び続けなければならないようだ。
 すぐに霊気を刀に集中させる。
 そして、鋼鉄の腹筋へと何度も刀をぶつける。
 体勢を立て直したジークの反撃を躱し、刀を振り上げてジークの顎を打ち上げる。
 刀による鋭い斬撃も、ジークの防御力の前ではただの打撃に変わってしまう。
 とはいえ、顎への強烈な打撃にジークは呻いた。
 だが、ジークは崩れない。
 唇の端から血を流しつつ、ジークが鈴音を見下ろす。
 野獣のような獰猛な視線。
 その視線を睨み返して鈴音は、襲ってくる脱力感を押さえ込む。
 強烈な連続攻撃の代償が、彼女の身体を蝕んでいた。
 息が切れる。
 彼女としては、先程と同じように掴まれる前に間合いを離さねばならない。
 鈴音がジークの懐から脱しようと、歯を食いしばって脚にバネを溜める。
 鈴音が地を蹴り、後ろに跳ぶ。
 着地する寸前、衝撃が彼女を襲った。
「くぅっ!?」
 左肩の衣服の布が千切れ跳び、血飛沫が上がる。
 ジークの放った真空刃だ。
 掠っただけだが、それでも鈴音は着地の体勢を崩しかけてしまうほどの衝撃を全身に受けた。
 鈴音が出血する左肩に目をやる。
 深くはないし、利き腕の傷でもない。
 しかし、この真空の刃は防御することも返すこともできない。
「まったく分が悪ぃったらありゃしねぇぜ」
 ジークの霊気を吸収するという特異体質のおかげで、鈴音の攻撃は有効打にはならない。
 だが、逆にジークの巨体から繰り出される攻撃は常に必殺の威力で鈴音を襲ってくる。
 まともに喰らえば、まさに一撃でお陀仏だろう。
 と、鈴音の耳に大気が裂ける音が飛び込んできた。
 目の前の空間が歪んでいる。
「やべぇ!」
 鈴音が横へと転がると同時に、彼女の後ろの大木が真っ二つに裂けた。
 見れば、ジークから大木に向かって一直線に地面が割れている。
「……厄介な野郎だぜ」
 舌打ちしつつ、鈴音が細雪に霊気を込め直す。
 疲労感がずっしりと身体に圧し掛かってくる。
 鈴音の頬を汗が伝わり、顎の先から滴る。
「でりゃぁあっ!」
 雄叫びとともに、三度目の疾走。
 ジークが今度は鈴音が近づく前に、大剣を数度振るい、いくつもの真空刃を巻き起こした。
 乱れ撃たれたそれらのすべてを見切り、間合いを一気に詰めたのはさすがに鈴音の技量であった。
「天武夢幻流・刀剣が奥義!」
 まさに、閃光の如く。
 銀色の矢となって、ジークへと鋭い突きを繰り出す。
虚空裂刺閃(こくうれっしせん)!」
「おおおおおぉぉぉっ!」
 受けるジークが雄叫びを上げる。
 鈴音が放ったのは、天武夢幻流奥義の一つであるところの渾身の突き。
 己の胸元に伸びてくる細雪を捌かんとジークが大剣を翳す。
 だが、それこそが、鈴音の狙いであった。
 彼女の突きは、ジークの大剣の腹へと正確に突き刺さった。
 ピシリという音を立てて、大剣の刃にひびが入る。
 大剣は無論、ジークの肉体の一部ではない。
 無論、霊気を奪う力は持っていない。
 そして、歴戦の代物だとしても、織田家の秘宝である最高の神刀・細雪によって放たれた一撃、しかも鈴音の莫大な霊気が込められた天武夢幻流の奥義の威力に耐えられようもない。
 次の瞬間には、大剣の刃部分が砕け散っていた。
 武器破壊。
 初めから鈴音はジークの大剣を破壊することを目的としていたのだ。
 強靭な防御力を誇るジークに高い攻撃力を維持させないために。
「フン!」
 ジークは動じずに、刃が砕け柄だけとなった大剣の残骸を鈴音に投げつける。
 鈴音はそれを躱しながら細雪で斬り込んだ。
 しかし、勢いが乗っていない。
 ジークは細雪の刃を素手で弾いた。
 舌打ちして、鈴音はまた後方へと下がった。
 ジークが徒手空拳をなった手のひらを握り、唸る。
「武器破壊か。やってくれるな」
「真空刃が厄介なんでね。封じさせてもらったわけよ」
「その刀ほどではないが業物だったのだぞ」
「そいつは悪いことをしたな」
「まあ、過ぎたことだ。オレの最高の武器は結局のところこの肉体なのだからな」
「……タフなのは認めるぜ」
「おまえもな」
「頑丈なのが取り柄でね」
 鈴音は迫り来るジークを睨みつけながらそうは言ったものの、霊気の消耗から来る疲労感は身体と意識を蝕んでいた。
 ――ヒットアンドウェイもそろそろ限界だな。
 数度目の仕切り直しの間に、鈴音は自分の身体が限界に近いことを悟っていた。
 呼吸をするたびに肩が大きく揺れる。
 目眩がする。
 脚がふらつく。
 ジークの技量を甘く見ていたわけではないが、霊気を爆発的に放出させながら戦うことは鈴音の予想を超えて過酷だった。
 それに加えて細雪に霊気を集中しても、左肩の傷への治癒のために自然に霊気が回ってしまっている。
 結果、霊気の消耗が今以上に増えてしまうのはわかっている。
「ヤツの武器もなくなったところだし、大技で一気に決めたいところだが」
 鈴音は唇の端を吊り上げた。
「……覇天神命斬(はてんしんめいざん)でいくべきか。しっかし、相性が悪いのが難だよな」
 鈴音は自問する。
 覇天神命斬。
 天武夢幻流の最終奥義であり、鈴音の持つ技の中でも威力は最高を誇る。
 その威力は細雪を継承する前の自らの霊気で形成した霊剣を以ってしても、強靭な肉体を持つベルセルクの集団を壊滅させ、鈴音の姉であり世界最高の退魔師と呼ばれた"凍てつく炎"織田霧刃をも打ち破った。
 まさに、破壊力は絶大。
 だが、そのあまりの威力のために鈴音自身への反動も大きい。
 この技でジークの器の限界を超えられれば鈴音の勝利になるが、もしジークが覇天神命斬に耐え切れば疲弊した鈴音に勝ち目はなくなる。
 そして何より、覇天神命斬は細雪に全霊気を込めて一気に解き放つ技であり、霊気を吸収してしまうジークにどこまで通じるかわからないのだ。
「思案のしどころってか」
「どうした、武器破壊までしておいて一休みか?」
 動きの止まっている鈴音に向かってジークが両腕を広げる。
「オレの肉体の容量を超えた力を見せてくれるんじゃなかったのか?」
 まったくの無防備に見えるが、彼をそうさせるのは決して慢心ではない。
 鈴音の実力を目にして尚、必殺の攻撃を誘っているのだ。
「そういうテメーは、大っぴらに待ち狙いかい」
「ああ、おまえの攻撃をこの肉体で耐え抜いてやろうというのだ」
「イイ度胸だ。気に入ったぜ」
 鈴音が大きく息を吐き、呼吸を整える。
 その目に鋭い光が宿る。
「あたしの最高の技、見せてやるよ!」
 鈴音が細雪を逆手に握り直して腰を捻り、覇天神命斬の構えを取る。
「はあああああぁぁぁぁ……」
 大地の息吹をその両脚で感じ、霊気の高まりに大気が震える。
 鈴音の全身から立ち昇る青白い霊気が天を貫く。
 そして、すべての力を細雪の刀身に注ぎ込む。
「ぬうおおぉぉっ!」
 ジークも全身に力を漲らせる。
 鈴音の渾身の一撃を受けきれば、勝利は確実。
 だが、彼の大剣は失われている。
 頼れるのはまさに、自分の肉体だけだ。
 耐え切ってみせる。
 過信ではない。
 それは、歴戦からの自信。
「天武夢幻流最終奥義!」
 細雪の刀身が眩いほどに青白く発光する。
「覇天神命斬!」
 鈴音が逆手に握った細雪を振り抜き、その刀身から物理的な圧力を伴った莫大な霊気が一気に解き放たれる。
 大気を引き裂きながら突き進み、ジークの身体へと直撃する。
 自らの長身すらも超える巨大な霊気の刃を全身で受けながら、ジークは咆哮を上げた。
「ぬううううあああぁぁぁぁっ!」
 爆裂音とともに閃光が迸り、砂煙が舞う。
 鈴音の前方の地面が、覇天神命斬の軌道に沿って大きく抉れている。
 それだけでもこの最終奥義の凄まじい威力を物語っていた。
 鈴音が片膝をついて、息を荒げる。
 疲労困憊。
 その頬を汗が流れ落ちる。
 口は閉じることなく、必死に呼吸を整えようと空気を貪っている。
 だが、砂煙の中に影を認め、鈴音の口から悪態が零れた。
「くっ、くそっ、タフにもほどがあるってんだよ、はぁ……はぁ……」
 無論、影の正体はジークだった。
 覇天神命斬の霊気による攻撃力のすべてを吸収し、緩衝された威力にも耐え切った。
 鈴音の最高の技をもってしても、ジークの牙城は崩れなかった。
「凄まじい技だった。さすがに霊気を無効化しても、突き抜けてきた衝撃は効いたよ」
 ジークは雄大な胸板を手で払うように叩いた。
「だが、オレを倒すまでには至らなかった」
 未だ砂煙が立ち昇る中をジークは、ゆっくりとゆっくりと歩を進める。
 抉れた地面を歩きながら、鈴音へと一歩一歩近づいていく。
 鈴音は荒く息を吐きながら、その姿を見つめていた。
 目が霞み、視界が揺れる。
 頭を振って視点を合わせる。
 ジークはもう手の届く距離まで来ていた。
 鈴音は動かない。
 ジークが目の前に来ても動かなかった。
「動く力も残っていないのか。だが、放置するわけにもいかん。悪いが、決めさせてもらうぞ」
 ジークの言葉とともに突き出された分厚い拳が、鈴音の腹に深々と埋まった。
 突き刺さった衝撃に大きく目を見開いた鈴音の身体がくの字に折れる。
「がはっ!」
 右の拳は引き抜かれたが、すぐにまた左の拳を先の衝撃で陥没している腹部に打ち込まれた。
「ごふっ!」
 鈴音の口から真っ赤な血が吐き出される。
 ただのボディブロウではない。
 ジークの特異体質から放たれるそれは、体力だけでなく、残り少ない霊気をも吸い取っていく。
 まさに直接命を削られるに等しい打撃。
 鈴音の目から意志の光が失われ、その手に握られていた細雪が地面に落ちて転がる。
 そして、意識が飛んでいるのか完全に無防備な状態で、立ちながらもゆらゆらと身体を揺らしていた。
「せめて苦痛は長引かせん。これで終わりにしてやる」
 ジークが鈴音へそう告げ、右の拳に力を込める。
 そして、巨漢から渾身の一撃が放たれる。
 だが、――空振り。
「何ッ!?」
 刹那、意識がないと思われていた鈴音が身を低くして、ジークの繰り出した拳を躱わしていた。
 その目は死んでいない。
 鋭い眼光がジークを射抜く。
「るああああああああぁぁっ!」
 そして、裂帛の気合いとともにジークの伸びきった腕の肘へ向かって蹴りを叩き込む。
 ジークの右腕の肘関節が砕け、上腕が曲がるはずのない方向へとひしゃげる。
「バカな、オレの鋼鉄の肉体を武器なしで!?」
「伸びきった硬いところほどボキッといきやすいのさ、人間の身体ってのは」
 鈴音は間髪入れずにジークの折れた右腕を掴む。
 霊気を吸い取られ、鈴音の顔が脱力感に歪む。
 だが、放さない。
 ジークが左の拳を繰り出す。
 それは鈴音の読みの範疇だった。
 ジークの右腕を極めたまま身を捻って左の一撃を避け、その手首を掴む。
 そして、捕えたジークの両腕を逆交差させて肩に担ぐ体勢へと入った。
 その一連の動きはまさに一瞬。
「天武夢幻流・雲隠(くもがくれ)
 鈴音が両腕を極めて、十字背負い投げを放つ。
 両腕を封じられた受身の取れぬ状態で、ジークが脳天から地面へと激突する。
 ――轟音。
 地面が激震し、巨漢の叩きつけられた地面が陥没する。
 真っ赤な血が大地へと広がった。
 森に漂っていた樹木の香りは、血の匂いに消された。
 大の字になって転がるジークを見下ろしつつ、鈴音が荒い息を整えながら細雪を拾って黒金の鞘に納めた。
 それは戦いの決着がついたことを意味していた。
「先程の凄まじい技を、最終奥義を、囮に使ったのか……?」
 ジークが朦朧とした意識のまま、鈴音へと話しかける。
「そういうつもりはなかったんだがな。斬撃と霊気だけじゃ倒しきれないと思ってからは、まあ、多少は演技したけどな。あたしも大分、ちとせに毒されてきたかな」
「奥義の後に、オレの攻撃を受けたのは油断を誘うためか」
 鈴音が微かに唇を歪めて応える。
「攻撃を受けたのはわざとだが、あたしが力尽きかけてんのは事実だぜ。だから、決死のカウンターと極め投げの両方ともテメー自身の勢いを利用させてもらったよ。天武夢幻流は筋力に頼らない体捌きと先読みが極意なんでね」
 ジークの放った拳の威力は、そのままジークへと還された。
 鈴音の霊気で砕けぬ肉体も、己の破壊力によって砕かれた。
 ジークは大の字に倒れたまま、目を瞑った。
「……何て女だ。敵でさえなければ、惚れてたかもな」
「悪いがお断りだぜ」
 鈴音が前髪をかき上げる。
「おまえはイイ男だが、こっちにはもっとイイ男の夫がいるんでね」
 ジークの両目は閉じられていたが、そっぽを向いた鈴音の頬は微かに赤い。
「フッ、残念だ……」
 ジークは屈託なく笑いながら、意識を暗闇に落とした。

 悠樹とファーブニルの操る巨人スクリューミルとの死闘もまた続いていた。
 悠樹は自らの風の勢いで引き裂かれた身体の傷の具合を確かめる。
 両腕の傷が一番酷いようで、ワイシャツの袖がぼろぼろに裂けて白い布に血が滲んで赤く染まっているが、動かせないほどではない。
 治癒に霊気を回しながら戦えば、まだ十分力を出すことができる。
 悠樹は冷静にそう分析し、スクリューミルへと再び目を向ける。
 スクリューミルの割れた胸部から見える『e』のアルファベット。
 胸部に隠されて見えないが、あの文字には続きがあるようだった。
 それに気づいた悠樹は、一つの確信を持っていた。
 ――我が魔力、ここに『真理』を生まん。
 スクリューミルを生み出すためにファーブニルの唱えた呪文こそが、その確信をもたらしていた。
 造られし巨人であるスクリューミル。
 その命は仮初のもの。
 魔力で生んだ仮初の『真理』こそが、巨人の命だった。
 そして、その秘密を暴くために、悠樹は跳んだ。
「スクリューミル、叩き落せ」
 ファーブニルがスクリューミルへと命令を発する。
 胸に風穴の開いた巨人はまったくその動きを止める様子もなく、どれほどのダメージを受けているのかも疑わしい。
 悠樹は空中で旋回して巨人が振り回す両腕をすり抜け、烈風を放つ。
 直撃した風は巨人の肌を形成する樹木の一部を剥ぎ取っただけで、巨体を揺るがせることなく四散した。
「スクリューミルは痛みも恐怖も感じん。その程度では牽制にすらならん」
 老人はそう言いつつも、この少年が無駄なことをするような人間ではないことを理解している。
「どのような手も打たせはせぬ」
 ファーブニルの両目が用心深く少年の動きを追う。
 地面から生えた無数の触手が、悠樹を取り囲んだ。
 今度もスクリューミルの巨体が悠樹の前に立ちはだかる。
 また突撃で抜けられる可能性はあるが、それでもかまわないとファーブニルは思っているようだ。
 だが、風に守られているはずの悠樹が、あの突撃の後には血を流していた。
 強烈な風の力を身に纏って行なう突撃は自らの身体をも切り刻むのだろう。
 そして、悠樹がスクリューミルの巨体を完全に壊すには、何度も先程の突撃級の攻撃を繰り出さねばならないはずだった。
「少年が突撃をしなければ串刺しにすれば良い。突撃を敢行するならば風の力に耐えられなくなるまで追い詰めて自滅させれば良い」
 難しく考える必要はないのだというように、老人は落ち着き払っていた。
 ファーブニルが悠樹を指差すと同時に、触手が一斉に悠樹に向かって推進する。
 悠樹は巧みにそれらを避けながら、再び烈風をスクリューミルへと放った。
 胸部の部品がバラバラと崩れ落ちる。
 しかし、その程度の攻撃で巨人が倒れるはずもない。
 スクリューミルが両腕を振り上げる。
「『emeth』」
 悠樹が呟く。
 彼の視線は、風によって剥ぎ取られたスクリューミルの胸部に注がれていた。
 涼やかにして静かな風の視線が正確に、巨人の胸に刻まれた小さな文字を読み取っている。
「『emeth』即ち、『真理』」
 巨人の胸に刻まれた文字は、『emeth』という単語だった。
 『emeth』の意味は、ヘブライ語で『真理』。
 ファーブニルが、創造の神として、巨人を形作る木々に『真理』を与えた。
 ファーブニルが魔力で生み出したこの『真理』こそが、巨人に与えられた仮初の生命なのだ。
「主人の命令に忠実な痛みも恐怖も知らない仮初の生命体」
 スクリューミルの両腕の攻撃を避けながらも、彼の視線は巨人の胸部から外れることはない。
「ゴーレムの一種か」
 ゴーレム。
 ユダヤ教伝承に登場する泥人形であり、ファンタジー創作物ではメジャーな怪物だろう。
 悠樹もそれを知っていた。
 そして、その倒し方も知っていた。
「『emeth』即ち、『真理』。『meth』即ち、『死』」
 スクリューミルの胸部に刻まれたヘブライ語。
 『真理』こそが、巨人の動力源。
 その動力源を立てば、不死身の巨人も終焉を迎えることになる。
「ゴーレムを倒すには、頭の『e』を削って、『emeth』を『meth』、つまりは『真理』を『死』に変えれば良い」
 八神悠樹がなぜそのようなことを知っているかといえば、それは彼がユダヤ伝承に格別詳しいというわけでもなく、単純にファンタジー小説や漫画、ゲームの知識に過ぎなかった。
 だから根拠としては甚だ心許ない。
 それでも彼の直感は、『真理』を『死』に変えるという方法がスクリューミルを倒す手段として有効だと告げていた。
 伝承を知っているものには単純極まりなく、逆に勘繰りから躊躇をもたらしかねない方法だが、悠樹は伝承に引っ掛けた罠の可能性は低いと踏んでいた。
 胸部に隠された小さなヘブライ語の羅列は戦闘中に激しく動き回っている間では、よほどのことではない限り見つけることはできない。
 いくらファーブニルが老獪だとしても、罠にしては手が込み過ぎている。
「何にせよ、やってみるしかないってね」
 悠樹がスクリューミルの胸部に注いでいた視線を細くして、身に纏う風の量を増やした。
 その瞳が青白く染まる。
 集中力の高まった彼の双眸は透明で美しい。
「風使いの少年の雰囲気が変わったか」
 ファーブニルも悠樹の視線がスクリューミルを動かしている魔力の源を捉えていることに気づき、その表情が厳しくなる。
「気づいたか。さすがだ。だが……」
 老人が両手を天に掲げる。
 地面から今までの倍以上に及ぶ大量の触手の槍が吹き上がった。
「決着の時間だよ、少年」
「ええ、決着の時間です」
 地面から生えた触手という触手が乱舞し、悠樹へと襲い掛かる。
 しかし、悠樹の脳裏には巨人の胸部に刻まれた文字の、それも先頭部分である『e』だけが映し出されていた。
 無数の触手の攻撃を、まるであらかじめ極められたルートをなぞるように、すり抜けていく。
「ここに来て、さらに加速とは」
 悠樹の高速飛翔に、老人が舌を巻く。
 ――だがしかし。
「やらせはせぬ!」
 老人が両手を合わせる。
 同時に巨人の両脇より触手の槍が、悠樹を狙って推進する。
 今度はスクリューミルに追い込むだけではなく、全方位からの串刺しを狙った完全な包囲網。
 悠樹はそこで突然直角に下降した。
「!?」
 予想外の悠樹の動きに、ファーブニルの対処が一瞬遅れる。
 その隙に悠樹は大旋回し、触手の網に囲まれたスクリューミルに背を向けた。
 その青白い目が老人を凝視していた。
 目標、ファーブニル。
「うぬっ!?」
 巨人へと突っ込むとばかり思っていた悠樹が、全速で自分へと向かってくることに、ファーブニルも慌てざるを得ない。
 急いで悠樹の後方から触手を伸ばして捕えようとする。
 そして、自らも両手に魔力を溜めて迎え撃つ体勢を取った。
 轟音を立てて悠樹が飛翔してくる。
 その目はどこまでも冷たく、どこまでも精確に、どこまでも冷静に光り輝いていた。
 暴風の如き、そよ風。
 矛盾した表現を体現した少年が迫り来る。
「ぬああぁぁっ!」
 目の前まで接近した風使いに、ファーブニルが集中した魔力の洗礼を浴びせようと両腕を振り翳した。
 しかし、そこで、再び、悠樹の動きにファーブニルは硬直を余儀なくされた。
「急上昇!?」
 悠樹がファーブニルに到達する直前で急上昇したのだ。
 そして、次の瞬間、老人の目に飛び込んできたのは大量の触手。
「いかん!」
 無様に自ら放った触手に串刺しにされる前に、ファーブニルは自らの硬直を解くのに成功した。
 だが、触手は雨霰の如く降り注ぎ、回避するファーブニルの周りに次々に突き刺さる。
 砂埃が舞い、老人の視界は完全に奪われた。
「しまった。これが狙いか」
 老人は呻いたが、すでに遅い。
 悠樹はスクリューミルへと再び向かっていた。
 その目は相変わらずの集中力を有していたが、身体のあちらこちらに血が滲んでいる。
 先程の突撃時の怪我に加えて、高速移動からの二度の急激な方向転換によって身体に負担がかかり、全身が軋んでいた。
 それでも速度を落さない。
 いや逆に、さらにその速さを増す。
 ファーブニルが次の手を打つ前に、スクリューミルを倒さねばならない。
「オオオオオオオォォォッ!」
 スクリューミルが吠え、悠樹を叩き落そうと両腕を振り回す。
 だが、巨人の緩慢な動きは、悠樹にまるで追いつけない。
 悠樹が身に纏った風を右腕に集約する。
 そして、スクリューミルの胸部へ向かって、全力で右腕を振った。
「烈風ッ!」
 渦巻く風が大気を揺らして、巨人に直撃した。
 それは正確に、スクリューミルの仮初の生命の源である単語の先頭にある『e』を削り取った。
 『emeth』は『meth』となり、『真理』は『死』を意味する言葉へと変わった。
 ――彼は死せり。
 巨人は瞬く間に崩れ落ちた。


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