魂を貪るもの
其の四 災いの杖
7.道

 目の前に現れた巨人は、かつて悠樹が戦った世界蛇ヨルムンガンドには及ばないものの、それでも十分に巨大であった。
 頭部にあたる部分には目や鼻、口といった顔を構成する部品こそなかったが、人間と同じように四肢を持っているところが、蛇の姿をした世界蛇よりも逆に巨大さを実感させる。
 だが、悠樹は怯まなかった。
 この巨人は威容ではあったが、命の息吹が感じられない。
 意志のない相手はいくら巨大でも恐れるに足らない。
 悠樹はそう思っている。
 むしろ造られた巨人よりも、老人ファーブニルこそ警戒すべき相手だろう。
 対峙した時の洞察力、余裕は老獪さを感じさせた。
 そして、目の前の巨人を作り上げるほどの術の使い手でもあるのだ。
 といって、この場に残って老人の相手をすることは、悠樹にとって正解の選択肢だった。
 鈴音はすでに戦いを繰り広げているが、どうやらその相手のジークもまたかなりの強敵らしい。
 鈴音といえども二対一では、敗北するか、そうでなくても二人のどちらかに真冬の追跡を許していたに違いない。
「巨人だけに集中してはいけない」
 悠樹は巨人の脇に立つファーブニルを視界の端に捉えながら、老人の目的を再認識する。
 ファーブニルはあくまでも真冬の追跡者なのだ。
 巨人は強大な戦力だけではなく、囮にさえなりうる。
 老人と巨人の動向を同時に、そして、精密に把握するためには、できる限り、鈴音の戦いには意識を向けないようにしなければならない。
 鈴音は悠樹よりも格段に強い。
 だが、仲間だ。
 意識しないようにするのは難しいが、少なくとも鈴音が優勢なうちは、それも悠樹にはできないことではない。
 ――冷静沈着。
 仲間は時折、彼をそう評する。
 確かに悠樹は理性の量が多いが、普段の彼はそれほど冷静には見えない。
 飄々としていて頭の回転は速いが、しばしばちとせたちに振り回されることもある。
 だが、危機に陥るとそれは一変する。
 危機に陥れば陥るほど、頭が冷たく冴えてくる。
 集中力が高まり、周りが良く見え、最善の判断を取ることができるようになる。
 それこそ、怖いほどに。
 自分でも疎ましくなるほどに理性の量が多くなる。
 自分はそういう生れ性なのだと、彼は自分でもそう思い、そして納得させている。
 しかし、彼のその冷静さの源は、彼自身も心の奥底では気づいていたが、ちとせがいるということだった。
 彼女の無鉄砲さが、悠樹を冷静にさせるのだ。
 それは誰かが冷静でなければならないというような義務感のたぐいではない。
 自分が勢いで動かなくても、ちとせが動いてくれる。
 安心感。
 あるいは、同調感。
 知らず知らずに、想いを体現してくれる相手の存在が、彼に冷静さをもたらしていた。
 その対象は他の仲間――例えば鈴音にも当てはまった。
 鈴音もまた激情で動くことが多い。
 悠樹にとってちとせも鈴音も、自分の心の奥底に滾る想いをより強く体現してくれる存在だった。
 心を映し出す鏡。
 一種の分身ともいうべきものだった。
 だから、悠樹は彼女たちについていける。
 だから、彼女たちを冷静にサポートすることができるのだ。
 だからこそ、危機的な状況で取り乱すことなく、混乱することもなく、状況を判断する力を発揮できる。
 万が一にも誰も彼の想いを、そして行動を表してくれるものがいなくなれば、彼は冷静であるよりも、きっとちとせのようにその場の勢いで動くだろう。
 今のところそういう機会は皆無であり、だからこそ彼が冷静さをなくすのは冷静である必要性のまったくない、自然体でいられる日常のちょっとしたハプニングに対してくらいなのかもしれない。
「鈴音さんは強い。大丈夫」
 悠樹はそう自分に言い聞かせる。
 そして、隣で戦っている鈴音の姿を意識から追い出す。
 思考を透明にして、気合いを込める。
 大量の風が悠樹の周りに舞った。
 彼の目に映っているのは、老人ファーブニルと、その下僕たる巨人スクリューミルのみ。

 ファーブニルは目の前の少年から発せられる風に感嘆しながら、シンマラの追跡が頓挫したことを認めないわけにはいかなかった。
 老人は、伴ってきた若い戦士とは違って、戦いそのものを目的としているわけではない。
 シンマラの捕縛、そして出来得ることならば、『レーヴァテイン』を入手すること。
 それが最大の目的なのだ。
 だが、風使いの少年の双眸は、スクリューミルの威容を前にしても、彼の仲間である"凍てつく炎"の妹が苦戦に陥っても、自分から外れることがない。
 どうやら彼は予想以上の強敵で、スクリューミルにこの場を任せて横を通り抜けるというわけにもいきそうになかった。
 ――あの瞬間湯沸かし器のシルビアにもこの少年の集中力を煎じて飲ませてやりたいものだ。
 ファーブニルは心の中だけでそう呟いた。
「もはや全力で戦うしかあるまい」
 老人が指を鳴らすと、スクリューミルが吼えた。
 その巨大な腕が、悠樹に向かって打ち下ろされる。
 それが戦いの始まりだった。

 あまりにも巨大な腕。
 まともに喰らえば、一溜まりもない。
 ぺしゃんこに叩き潰されてしまうだろう。
 だが、悠樹は横へと飛んで避けた。
 地面が叩き割られる音とともに震動が衝撃となって大地を駆ける。
 足下から吹き上がる風圧に、悠樹がよろめく。
 ファーブニルが手を翳すと、悠樹の足もとの地面が割れて数本の蔦のようなものが地面から飛び出した。
 その先端が収束して、鋭利な槍となって悠樹を襲う。
 しかし、悠樹が纏う風が膨張して、槍の軌道を反らし、あるいは弾いた。
 そして、悠樹は風を纏ったまま飛び上がり、腕を振り下ろして無防備になっているスクリューミルの腹部へと体当たりを敢行する。
 砲弾のような一撃。
 だがその見た目に似合わぬ悠樹の荒々しい攻撃を受けても、スクリューミルは僅かにその巨体を揺らしただけだった。
 効いているのか、わからない。
 何しろ相手は樹木でできた巨人なのだ。
 悲鳴も上げることなく、ただ機械的に腕を振り上げる。
 悠樹はそれを躱して、後ろに下がるように着地した。
「参ったな」
 反応がない相手というのは、非常に戦いにくい。
 しかも、相手は人間ではない。
 痛みも恐怖も感じないロボットのようなものだ。
 それに素材が樹木だけに耐久力は高そうだ。
「壊すのも骨が折れそうだし」
 炎で燃やすことは可能だと思われたが、悠樹は真冬のように炎を生み出す力はない。
 雷を起こすことはできたが、鬱蒼とした森の中で、これほどの巨大な相手を燃やす無神経さは持ち合わせていなかった。
 森全体に火が回れば、大惨事になるのは目に見えてわかっている。
 ――どうするか?
 しかし、答えを得る前に悠樹は思考を中断させられた。
 足下から再びファーブニルの放った蔦が襲ってきたためだ。
 慌てて宙を舞う。
 その悠樹を無数の蔦が追跡する。
「逃がさんよ」
 ファーブニルの目が鈍く光る。
 蔦の追尾は熾烈であった。
 右から左から、上から下から、いや前からも後ろからも、襲ってくる。
 死角のない全方位攻撃。
 風を利用して、それを避け、弾き、追撃を逃れようとする悠樹の対応能力と感覚は、やはり鋭い冷静さを伴っている。
 その悠樹を常に休ませずに包囲し続けるように蔦を操るファーブニルもまた、優れた空間への意識を持っていると言わざるを得ない。
 一斉に襲い掛かる数多の蔦の槍を、身に纏った風を球状のバリアのように膨張させて弾き飛ばす。
 何本かの蔦はズタズタに弾けて力を失い、消滅する。
 だが、悠樹が反撃に転じようとしてもファーブニルは残った蔦をうまく使って時間を稼ぎ、新たな蔦を生み出してそれを容易には許さない。
「これじゃあ切りがないな」
 まず、空間と時間だ。
 もう一度、仕切り直さないことにはどうにもならない。
 どこかへ避難して、一瞬だけでも息を整え、戦術を練る思考時間がいる。
 悠樹は右腕に風の力を集中する。
 そして、渦巻く烈風を数本の蔦が合わさってできた巨大な槍を目掛けて放つ。
 蔦の塊が吹き飛んでできた道へと全力で飛んだ。
 上下左右、そして後ろから執拗に蔦の槍が悠樹を取り囲む。
 前しかない。
「罠か?」
 だが、前だ。
 この追尾を振り切るには、前だ。
「前だ!」
 加速する。
 だが、視界が黒く染まる。
 スクリューミル。
 目の前に、巨人スクリューミルが立ちはだかり、両腕を振り上げている。
 やはり、罠か。
 悠樹は減速しない。
 そして、さらに加速する。
 先程行なったスクリューミルへの体当たりなどの比では無いほどの加速と突進力で突き進む。
 スクリューミルの両腕は空振りした。
 だが、目の前には巨体がそびえたままだ。
「行き止まりだよ、少年」
 ファーブニルの声は重い。
 老人が操る蔦の追尾は激しさを増している。
 悠樹が減速すれば、彼の全身を鋭利な槍が貫くだろう。
 減速しなければ、スクリューミルの巨体と衝突するしかない。
「道は開くものですよ、ご老体。それが進む道であろうと、逃げ道であろうとね」
 悠樹の声は軽かった。
 彼の周りの風はすべてを切り裂いて突き進む。
 あまりの風の刃の鋭さと膨大な風の量に、それを纏う悠樹の身体もただでは済まない。
 両腕から血の霧が舞う。
 己の身体をも切り裂きながら、大気が裂き、空間が裂き、一条の光となって突き進む。
 スクリューミルの腹部に衝突する。
 巨人の身体が揺らめいた。
 凄まじい衝撃に悠樹も意識が飛びかける。
 だが、貫く。
 風の刃で巨人の身体を構成する樹木を斬り砕き、貫く。
 悠樹は巨人の背後に突き抜け、そのまま蔦の追尾をも振り切ってようやく地面へと着地した。
 両腕から血が流れている。
 頬にも一筋の裂傷が走り、血が滴り落ちる。
 悠樹が振り返る。
 巨人の身体には、ぽっかりと大きな穴を開いていた。
「見事だ。だが、それでもスクリューミルは倒れんよ」
 ファーブニルは悠樹の風の力と集中力に再び感嘆しながらも、慌てることなく、ずっしりと落ち着いた口調でそう言った。
 老人の言葉通り、巨人は倒れない。
 腹の穴を中心に亀裂が走り、胸部の一部が崩れ落ちるが、全身の崩壊には程遠い。
 頭部を勇気に向け、腕を伸ばしてくる。
 悠樹は再び風を纏って、ボロボロとスクリューミルの胸部の破片が崩れ落ちる中を舞う。
 攻撃を避けながら悠樹は、破片が剥がれ落ちたスクリューミルの胸部に奇妙な箇所があることに気づいた。
「『e』?」
 巨人の欠けた胸部に、アルファベットの『e』らしきものが見える。
 しかも、それは『e』だけでなく、剥がれ落ちていない部分に隠れて文字が続いているようであった。
「なるほど、『e』か。『我が魔力、ここに真理を生まん』だったな」
 悠樹は老人がスクリューミルを生み出した時の言葉を思い出した。
 そして、静かに頬から滴る血を拭った。


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