魂を貪るもの
其の四 災いの杖
5.樹海

 日本で樹海としてもっとも有名なのは、青木ヶ原樹海だろう。
 広大な森が海のように広がり、遊歩道付近は森林浴を楽しむ観光地として人気が高い。
 一度入ったら二度と出られない、方位磁石が効かないなどの俗説があるが、どれも根拠には乏しい。
 しかしながら、遊歩道を離れれば深い森であるために足場も悪く、目立った目印もないために危険であることには変わりがない。
 猫ヶ崎樹海もまた、一度道のない森の奥深くに立ち入れば、密生した樹木のために昼でも薄暗く、視界が悪い。
 そして、青木ヶ原樹海とは違って、霊樹の立ち並ぶ猫ヶ崎樹海は、人間の霊感を狂わせ、方向感覚を喪失させる。
 一般人はもちろん、高い霊力を持つものでも、足を踏み入れるには少なくない危険を伴う魔境ともいえる場所だった。

 鈴音の表情に微かな緊張が走った。
「追っ手だな」
「えっ?」
 霊樹の形成する霊磁場で、ちとせの霊感はほとんど働いていない。
 それは、真冬も悠樹も同じようで、樹海の中に自分たち以外の異質の気配が入ったのに気づいたのは、鈴音一人だった。
「よくわかるね、鈴音さん。こんだけ霊気の流れが滅茶苦茶な場所で」
「んまあ、経験の差ってヤツだな。伊達に修羅場を潜ってきたわけじゃないぜ」
 前髪をかき上げ、鈴音はちとせたちに片目を瞑って見せた。
 百戦錬磨の退魔師として生き抜いてきた鈴音の研ぎ澄まされた感覚と豊富な経験値は、ちとせたちとは比べものにならない。
「だけど、思ったより気づかれるのが早かったね」
「どうやら封印に適当な場所に目星をつけて先回りしていたようだな。みすみす罠に嵌まったか」
 真冬が深い苦悩を示すように、美しい眉音を寄せ、ため息を吐く。
 『ヴィーグリーズ』は自分たちが動くことを前提として罠を張っていたに違いない。
「数撃ちゃ当たるってことね。ご苦労さんよね、まったく」
 ちとせもため息を吐いたが、こちらは呆れたような感じのする軽いものであった。
「まあ、実際に当たっちゃったわけだけどね。でも、封印は解かれてないだけ良いんじゃない?」
「そうだな。不幸中の幸いは、封印の正確な位置は私しか知らず、封印を解けるのも私だけということだが」
 そう言う真冬の声は重い。
 封印の位置と開封の方法を真冬しか知らないとはいえ、この樹海に『レーヴァテイン』が眠っていることを感づかれてしまったのは完全に失態だった。
 こちらの動きを想定していた以上の早さで捕捉され、『ヴィーグリーズ』の組織力の強大さを改めて思い知らされる。
 もし、この場で、『レーヴァテイン』の元に辿り着けない事態にでもなれば、次の機会を伺うことさえ困難になるだろう。
 一刻も早く、破壊しなければならない。
 だが、これ以上の追跡を許せば、下手をすると、『レーヴァテイン』を奪われる事態にまで発展しかねない。
 つまりは、この場に誰かが残って追跡者を迎え撃つしかない。
「さてっと」
 鈴音が腰に帯びている黒金の鞘に手をかける。
「あたしがここで足止めになってやるから、その間に頼むぜ」
「鈴音さん」
 真冬が鈴音を気づかうように声をかける。
 鈴音は憂いをまったく感じさせない笑顔で応じた。
「ははっ、このために付いて来たようなもんだから、気にしないでくれ」
「ぼくも残りますよ」
 悠樹が鈴音の横に並び、後方に視線を向ける。
 そこには霊樹が立ち並んでいるだけで、まだ敵の姿を捉えることはできない。
 追っ手が、どのような相手かもわからない。
 シルビア・スカジィルか、ラーン・エギルセルか、それともその両方か、まったく別の強敵か。
 いくら鈴音が退魔師としてずば抜けた強さを持っていても、たった一人ではどのような苦戦に陥るかもわからない。
「鈴音さんが負けるってのは考えられないけど、だからといって一人残していくわけにもいかないでしょう」
「おっと、悠樹が一緒なら心強いことこの上ないな」
 鈴音が癖である前髪をかき上げる動作をしてから、ちとせを顧みる。
「ちとせ、借りても良いか?」
「良いけど利子は高いよ」
「をいをい。いや、でも、悠樹なら高くても仕方がねぇか」
「勝手に貸し借りしないでください。それに利子って何ですか、まったく……」
 悠樹が肩をすくめて、ふぅっと息を吐く。
「ちとせ、先生を頼むよ」
「ダイジョブジョブ☆」
 ちとせは右手の親指を立て、ウィンクをして応えた。

 ちとせたちがその場を去り、しばらくしてから悠樹も遠くから近づいてくる気配を感じることができた。
 この霊樹が生い茂っている樹海の中でも、はっきりとした存在感を放っている霊気が一つ、そして、集中しなければ感じられないような微かな霊気が一つ。
「二人いるだろ」
「そうですね。しかし、一人は霊気を抑えようともしていない。気づいてくれといわんばかりですね」
「こりゃ、霊気の使い方も知らないただのバカか、知ってて隠そうともしない自信たっぷりのバカだな」
 鈴音が前髪をかき上げて、悠樹に目だけを向ける。
「前者なら楽な相手ですね」
 悠樹はそう口にしたが、そういう結果を期待しているわけではなかった。
 霊気の扱い方も知らない者が、真冬の追跡者に選ばれるわけがない。
「んま、そりゃ、ありえないな。敵はもう一人いて、それでいて霊気を抑えろという指示もしてないわけだからな」
「もう一人もバカという可能性は?」
「をいをい、悠樹、そうだったら面白過ぎるだろ」
「冗談です。追っ手の二人は相当の実力者と思って間違いないでしょう。どうやら、あの二人ではないようですけど」
「真冬の弟子二人か」
「そうです。ですけど、今回は、シルビアやラーンとは霊気の感じが違います」
 鈴音はシルビアともラーンとも直接の面識があるわけではないが、真冬との関係を知っていることもあり、余り二人の相手をしたくはなかった。
 人を守るために戦う天武夢幻流の使い手としては口惜しい限りだが、自分では二人を倒すことはできても救うことはできないだろう。
 その役目は、真冬に譲るしかない。
 今の鈴音できることは、仲間の盾になることだけだった。
 特に、"氷の魔狼"の牙からは、ちとせを守ってやらなければならない。
「シギュン・グラムってわけでもないか」
「そうなると一番厄介ですが、今回は違いますね。新手のようです」
 近づいてくるのは、シギュン・グラムのすべてを凍りつかせるような冷気ではない。
 まるで台風のような雰囲気の霊気と、風ひとつ吹いていない静かな林のような霊気だった。
 シルビアでもラーンでも、シギュンでもなかったが、一筋縄でいく相手ではなさそうだ。

「……おっと、お出ましのようだぜ」
 鈴音の視線の先に人影が二つ現れる。
 一人は、見上げるような雄大な肉体を持つ若い大男。
 短く刈った頭髪の彫りの深い顔を支える首は太く、肩幅も異様なほどに広い。
 小山のように盛り上がった両肩から生えた丸太のような左右の腕は筋肉の瘤で膨らみ、大胸筋は下手な打撃など跳ね返してしまいそうなほどに分厚い。
 筋肉の塊のような男というのが、陳腐だが的確な表現だった。
 もう一人は、精悍な若い男とは対照的な枯れ木のような老人だった。
 法衣に身を包んでいるので体格は分からないが、身長は若い男よりもかなり低く、袖から見える腕は強風が吹けば折れてしまいそうなほどに細い。
 霊気を隠そうともしていなかったのは若い男で、油断ならぬ湖面のような静かな霊気の持ち主は老人であった。
「お初にお目にかかる。私は『ヴィーグリーズ』の幹部、ファーブニル」
 老人――ファーブニルが、悠樹と鈴音に向けてしわがれた声を発する。
「オレは、ジーク」
 若い男――ジークもまた、二人へとその暴力的な霊気と、その発達した筋肉から発せられる膨大な熱の混じった闘気を向ける。
 鈴音がその攻撃的な霊気をものともせずに正面から受け止め、美しい形の唇を嘲るように歪めた。
 こういう時の鈴音の表情は、日本刀の刃のように鋭く、仲間である悠樹も背筋に冷たいものが走るのを感じずにはいられない。
「よぅ、テメー。霊気の抑え方も知らないのか。追って来てるのバレバレだったぜ」
「フン、抑える必要などない。正面から粉砕する。それがオレのやり方だ」
 ジークは鈴音の挑発には乗らない。
 だがしかし、彼の興味はすでに鈴音にだけへと向けられていた。
 己の巨体を前にして怯む様子もまったくないこの女退魔師と戦いたいという欲求は抑えようもないほどに膨れ上がっている。
「おまえが、鈴音だな?」
「あァ?」
 出会ったばかりであるのに名前を呼ばれて、鈴音の顔が怪訝に歪む。
 野性的な筋肉に緊張を漲らせて、ジークが大剣を頭上に翳した。
「オレと戦え、"凍てつく炎"の妹よ。オレはおまえと剣を交わしてみたいのだ」
「……いきなりのご指名とは恐れ入ったね」
 己に向けられたジークの闘気の圧迫感が鋭さを増していくのを肌で感じ、鈴音の顔つきが嘲るようなものから真剣なものへと変わる。
「悠樹、悪いがそっちのジジイは頼むぜ。どうやらこっちのバカも片手間に相手できる相手じゃないようなんでな」
 緊張した面持ちでジークを睨みつけながら、鈴音が黒金の鞘から伝家の御神刀『細雪』の青白く光る刀身を抜き放つ。
 そして、お互いへと得物の切っ先を向け、鈴音とジークの二人はゆっくりと間合いを計り始めた。
 その様子を尻目で見ながら、悠樹が全身に風を纏って戦いに入る態勢を取る。
 ファーブニルは悠樹から流れてくる突風を受けて、低く唸った。
「私の狙いはシンマラ――キミたちの言うところの豊玉真冬でな。キミたちの相手をしている暇はないのだが」
「困りましたね。こちらは、そういうわけにはいかないんです」
「ふむ、そうなると、こちらも困るな。ここでシンマラに逃げられるといろいろと面倒なのでね」
「では、あきらめて帰ってください。それが一番楽ですよ」
「それはできんよ。しかし、無理に通るには、キミを倒さねばならんなということか」
「ははっ、そうはいきませんね」
「まったく、キミのような人間を相手にするのが一番しんどい」
「……?」
「キミは強い相手を恐れない。そして、弱い相手を侮らない。そういうタイプだ。目を見ればわかる」
「……光栄な評価ですね。ですが、そういう評価を下すあなたこそが油断がならない」
「そうかね」
 ファーブニルは、右手を胸の前に突き出した。
 老人の目の前に、森の中に漂う『力』が収束していく。
 風が運んでくる森の香りが、微かに揺れ始めたのを悠樹は感じた。
 震動はだんだんと大きくなり、付近の樹木が蠢き始め、木々が老人の前に寄り集まっていく。
 無数の樹木の枝も幹も根も捩れ、お互いに絡み合い、そして、一つの大きな形を造り上げていく。
 それは、見る間に見上げるほどに大きく成長していた。
「我が魔力、ここに真理を生まん」
 周囲に密生していた木々が失われ、広い空間が生じる。
 そして、無数の霊樹が集まってできた巨人が、そこに生まれていた。
「スクリューミル」
 ファーブニル老人が静かに巨人の名を呼んだ。


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