魂を貪るもの
其の四 災いの杖
4.遊戯

「――シンマラ!」
 シルビアは自分の叫び声で、目を覚ました。
 青白い光が視界に入る。
 焦点が合ってくると、それが天井の蛍光灯だということがわかった。
 身を起こして周囲の状況を確認する。
「ここは――」
 ベッドに寝かされているらしかった。
 起き上がってみると鈍い痛みが走る両腕には包帯を巻かれている。
 ドレスは脱がされて下着姿にされていたが、全身を汗が濡らしていた。
 愛剣は手の中にはない。
「『ナグルファル』か?」
 シルビアは猫ヶ崎高校での出来事を思い出した。
 シンマラの教え子である神代ちとせを捕らえ拷問にかけた。
 そして、シンマラ自身を見つけて追い詰めたものの、彼女の仕掛けた粉塵爆発の罠に嵌まったのだ。
 その爆発に巻き込まれて意識を失い、『ナグルファル』に運ばれたのだろうとシルビアにも推測できる。
 ぎりぎりと歯軋りをして、シルビアは自分の迂闊さを呪った。
 あの程度の単純な罠に嵌まり、獲物を逃すなど戦闘のプロフェッショナルとして許されるものではなかった。
 ふと、ラーンの顔が脳裏に浮かんだ。
 彼女は自分を諌め続けていた。
 重傷を負った自分を『ナグルファル』に連れ戻ったのも彼女だろう。
 シンマラに裏切られた後、ラーンはシルビアにとって唯一全幅の信頼を寄せられる相手だった。
 ファーブニル老にも世話になっていたが、ラーンとの絆には遥かに及ばない。
 シンマラに引き取られた時から、ラーンは友人であり、家族であり、恋人であった。
「ラーン」
 この場に姿の見えない相棒の名を呼ぶ。
 必ず側にいるはずの友。
 決して裏切ったりしないと誓った恋人。
 だが、どこを見てもラーンの姿が見えず、部屋の中にいるのは自分だけだ。
「ラーンはどこだ?」
 ベッドの下にはスリッパが並べられていたが、衣服は用意されていない。
 かまわずにベッドから降り、この部屋を出ようとする。
 だが、ドアの前にまで歩を進めた途端、外に出ることは不可能だとわかった。
「結界障壁……」
 ドアを中心として部屋の壁に魔力が走っている。
「ちっ、幽閉するつもりか」
 視線を部屋の隅々にまで走らせるが、どこにも隙間は無いようだった。
 結界はかなり強力な力で形成されており、容易く脱出することはできそうもない。
「このまま大人しく部屋に閉じ込められてたまるか。ラーンを探すんだ。ラーンの無事さえ確認したら、牢獄にでもどこにでも入ってやるさ」
 シルビアは右腕に雷光を走らせる。
「結界を吹き飛ばしてやる」
「お待ちなさい」
 部屋に妖艶な声が響き渡った。
 シルビアの動きが止まる。
 同時にドアに、紫色のスーツに身を包んだ金髪の美女の姿が浮かび上がった。
 秘書ミリア・レインバック。
 淫靡さと残酷さと酷薄さのない交ぜになった妖女の双眸とシルビアの目が合う。
「レインバック!」
「まったく、目覚めた途端に何をしでかすつもりですの?」
 虚像のミリアが目を細くして赤毛の少女を見下す。
「まさか、そんな格好で出歩くつもり?」
「アタシの勝手だろ」
「まぁ、はしたない。風紀が乱れますわ」
「ホンモノの淫乱女が言えることかよ?」
 シルビアが柳眉を逆立てて、ミリアを睨みつける。
 妖艶な女秘書は喉で笑った。
「怖い顔ね。冗談はともかく、あなたがこの部屋から出ることは許可されていませんわ」
「許可だと?」
「あなた、自分の失態の大きさ理解できているんでしょうね?」
「……」
「シンマラの捕縛に失敗した挙句にそのざまですわよ? まったく少しは自省してもらいたいですわね」
 包帯の巻かれたシルビアの両腕を指差す。
 シルビアは唇を噛み締めた。
 そして、はっとした表情で、壁に映っているミリアの虚像を見上げる。
「ラーンは? まさか、ラーンがアタシの失態の責任まで被ったんじゃないだろうな!」
「ラーンもあなたと同じように軟禁させてもらっていますわ。あの娘もあの娘でいろいろとやらかしてくれたのでね」
「バカな! ラーンが何をしたって言うんだ!」
「あなたが気絶した後、大暴れしてくれましてね」
「な、に……!」
 シルビアが目を丸くする。
 ――ラーンが暴れた?
 彼女が扱う水のように静かだったあのラーンが暴走したというのか。
 理解できない。
 長年の付き合いになるシルビアにとっても、あのラーンが取り乱すという姿は想像できなかった。
「あのラーンが暴走なんかするもんか!」
「それが、したのよ。あなたの気絶した姿を目の当たりにしてね。『恋人』が傷つけられて逆上したといったところかしら」
「そ、そんな……あのラーンが……」
 シルビアは目の前が昏くなる思いがした。
「あの沈着冷静なラーンが人目のつく場所で暴走するとは誤算でしたわ。筆頭幹部殿がフォローに入ってくれなければ、危うく今後のプロジェクトに支障をきたすところでしたわよ」
「ア、アタシのせいだ。アタシのせいで……」
 ラーンが自分のせいで失態を犯したという事実にかなりのショックを受けたようで、シルビアの顔からは血が完全に引いていた。
 よろめきながら後ろに下がり、ベッドに力なく腰を落す。
 そこに激情のままに荒れ狂う赤毛の悪魔の面影はない。
 打ちのめされた弱い少女が一人いるだけだった。
 ――意外と脆いですわね。
 ベッドに座り込む少女を視線で追いながら、ミリアが軽く息を吐く。
 シルビアは、愛するシンマラに捨てられ、自分に尽くしてくれているラーンを自らの手で追い込んでしまった。
 そして、理解者であるファーブニル老人も側にいない。
 まったく人間とは不自由な生き物だ。
 どれほどの孤独を抱えていようとも、交わらずには生きていけない。
 男女という二人の魂と血と肉が交じり合って新たな一つの命が生まれるのだから、人が人を求めるのは生命の営みの根底から流れている本能でもあるのだろう。
 そして、相手と自分への肯定する愛という名の衝動を求めて、人は人と惹かれ合う。
 初めから独りで生まれ、独りで成長した夢魔セイレーンたるミリア・レインバックにとって、人間の孤独ほど滑稽でありながらも魅力的なものはなかった。
 それゆえに彼女は人間の心を貪って来た。
 だが、今のシルビアはまるでミリアの餌の対象にはならなかった。
 少女は相変わらず俯いたまま、顔を強張らせて放心したように「……アタシの……アタシのせいだ」と呟き続けている。
「そう、あなたのせいよ、シルビア・スカジィル。もっと自分の立場を自覚するのね」
 ミリアの言葉が、シルビアの胸に突き刺さる。
 自己嫌悪で胸が締め付けられる。
 突然、彼女の虚ろな目から熱いものが溢れ出して来た。
 後悔の嗚咽が部屋の中に響き渡る。
 涙を隠すこともなかった。
「役に立たない上に、涙まで流すなんて恥ずかしくないのかしらね」
 シルビアは俯いたまま、涙を流し続けていた。
「……そうよ。……アタシは……役立たず……アタシは……」
 シルビアが唇を噛み締める。
 ――このまま、レインバックに嬲り殺されるのも楽かもしれない。
 ただ無力感だけが今の彼女を支配していた。
 ミリアの絡みつくような視線がシルビアの全身を嘗め回す。
「まったく、壊れるのは勝手だけれど……」
 虚像のミリアが小声で呟き、軽く息を吐いた。
 俯いているシルビアを見下しつつ、左目にかかっている前髪を指で漉く。
 ――もう少し張り合いがないと面白くもないわね。
 簡単に壊れるようでは意味がない。
 壊す過程こそが面白いのだから。
「あなたといい、ラーンといい、シンマラの教え子は不良品ばかりだわ。そうね、『ヴィーグリーズ』に弓引く、あの神代ちとせも含めてあげても良いわね」
 ミリアは今までより一層甲高い声で笑った。
 その耳障りな悪意の中に、かつての師の名を聞いて、シルビアの肩が大きく震えた。
「所詮、『カエルの子はカエル』ですわね。シンマラも大人しくわたくしたちのために研究だけしていれば良かったものを」
 ミリアの嘲笑が、シルビアの鼓膜の奥で弾け、頭蓋に木霊し、脳に突き刺さる。
 シルビアは俯いたまま、肩を震わせた。
 その拳が固く握り締められ、震えが大きくなっていく。
「あなたもシンマラなんかを師に選んだのが運の尽きね」
「……するな」
 赤毛が大きく揺れた。
 シルビアが視線を上げる。
「シンマラ師を侮辱するな!」
 その双眸は溢れ出続けている涙に濡れて真っ赤に染まっていたが、これ以上ないほどの怒りを灯していた。
 歯軋りしながら、握り締めた拳から血を流す。
「それ以上侮辱するな!」
 血を吐くような怒声を上げるシルビア。
 額に青筋を浮かべ、激情のまま虚像のミリアを睨みつける。
 ミリアは唇の端を微かに歪めた。
 それにしても、と思う。
 ――「シンマラ『師』を侮辱するな!」とは、ね。
 やはり、この赤毛の少女は、いくらシンマラを嫌って見せかけても、憧憬を捨てきれずにいるのだ。
 この矛盾とも言うべき感情を内包してこそ、人間なのだ。
「裏切り者を侮辱して何が悪いのかしら?」
 わざとらしく、ミリアが肩をすくめる。
 さすがに、シルビアは言葉に詰まった。
「シンマラを侮辱することで、ア、アタシとラーンを侮辱するな。……そう言ったんだ!」
 そう言い直して、虚像のミリアから不機嫌そうに顔を反らす。
 視線を戻すことなく、シルビアがミリアへと声だけを向ける。
「一つだけ答えろ」
「何かしら?」
「ラーンは無事なんだろうな?」
「ええ、無事ですわよ。但し、休養が必要な状態よ」
「その言葉を信じて、この部屋から出ないでいてやる。だから、ラーンに手を出すなよ。もし、手を出したら八つ裂きにしてやるからな」
「けっこうな返答ですわ。そうやってギラついている方が、泣いているより幾分かマシね」
 見下す視線のまま、ミリアがシルビアに挑発めいた言葉を向ける。
 それは、この夢魔の本音だった。
 激情に燃える少女であってこそ、シルビアは壊す価値がある。
 弱弱しく朽ち果てていくだけの人間など嬲り殺しても面白くもない。
「もともとあなたにもラーンにも処罰はなくてよ。軟禁だってあなたたちの戦傷を癒すためなのですからね。部屋を出ようとするあなたの思慮が足りないのですわ」
「うるさい。さっさと失せろ!」
 粗暴で短気に戻った赤毛の少女は、ミリアの辛辣な言葉に耐えかねて、額に青筋を浮かべて怒声を上げた。
「それでは、ごきげんよう」
 小馬鹿にしたような視線をシルビアに浴びせつつ、ミリアは口元には満足そうな妖艶な笑みを浮かべながら姿を消した。
「レインバックのクソアマが馬鹿にしやがってッ!」
 シルビアが目を怒らせたまま、ベッドの足を蹴る。
 ギシギシと音を立てるベッドを睨みつけた。
 ギュッと両目を閉じる。
 歯軋りが収まらない。
 拳が震える。
 シルビアはもう一度、「クソッ!」と叫んだ。
 だが、今度のそれは、ミリアに向けられた罵声ではない。
「シンマラ『師』だと……」
 思わず叫んでしまった。
 シンマラに裏切られて以来、かつての師には憎悪だけがあると思っていた。
 いや、思い込んでいた。
 だが、ミリアの放ったシンマラへの侮辱の言葉を聞いて、頭に血が上るのを抑え切れなかった。
 自分こそが、シンマラを誰よりも憎んでいるはずなのに。
 殺してやりたいと思っているはずなのに。
 ――それなのにッ!
「チクショウッ!」
 怒声とともにシルビアの包帯の巻かれた拳が、ベッドに突き刺さる。
 憎んでいるはずのシンマラを馬鹿にされて、後悔に打ちのめされていた自分の心に火が点いたという事実が、許せなかった。
 柔らかな羽毛が部屋中に舞い、シルビアの表情を隠したが、その頬は再び熱い雫で濡れていた。

 シルビアへの通信を切り、ミリア・レインバックはゆっくりとソファに腰を下ろした。
 その後ろでは、シギュン・グラムが煙草を片手に、柱へ背を預けて立っている。
 紫煙を吐きながらシギュンが、ミリアへと鋭い眼差しを向けた。
「随分と優しくなったものだな。カウンセラーにでもなるつもりか?」
「まさか」
 ミリアは肩をすくめて見せた。
「今回の失態の責任が自分にあると認識させるのは当然でしょう?」
「ああ。だが、そのまま打ちのめして弄ぶだけと思ったのだが、やる気まで出させてやるとはな」
「あの娘ったら意外に脆くて。あのまま嬲って使いものにならなくなっても面白くないと思い直しただけのこと。だから少し発破をかけてみましたの」
「おまえも気まぐれな女だ」
「それに、あのまま嬲っても、筆頭幹部殿がお止めになったでしょう?」
「さあな」
「フフッ、それにしても、『シンマラ師を侮辱するな!』ですって」
 心底面白そうに、ミリアが笑う。
 シギュンは大きく紫煙を吐き、ミリアの腰掛けるソファにゆっくりと歩み寄った。
 そして、金色の髪の秘書の肩越しに腕を伸ばし、テーブルの上の灰皿で煙草の火を潰し消す。
「言わせたのはおまえだろう」
「言ったのはあの娘ですわ」
 ミリアは首だけでシギュンを振り返り、艶やかな眼差しを向けた。
「相変わらずの悪趣味だな」
「心を貪るのが、夢魔ですもの」
 ミリア・レインバックは平然と答えた。


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