魂を貪るもの
其の四 災いの杖
1.訓戒

 豪奢なソファに腰掛けたまま、『ヴィーグリーズ』の総帥、ランディ・ウェルザーズが、秘書のミリア・レインバックから報告書を受け取った。
 書類にざっと目を通し、ランディが口を開く。
「シルビアとラーンは、シンマラ捕縛に失敗したか」
「はい」
 ミリアの唇の端が微かに吊り上がる。
 それを視界の隅に捉え、ランディは長い息を吐きながら書類をデスクに投げ置いた。
 ミリアは気にした様子もなく、言葉を紡ぐ。
「今回の失敗も前回同様、不問でよろしいかと存じます。もともと成功率は低いものでしたし、筆頭幹部殿からも寛恕の口添えがございます」
「それは構わん。二人はどうしているか?」
「シルビア・スカジィルは重傷を負って昏睡状態ですが、命に別状はありません。どちらかといえば、ラーン・エギルセルの方が問題でしょう」
「ラーンが?」
「帰還直後から精神が不安定になっております。まあ、それでも、いつものシルビアほどではありませんが」
「当分は使い物にならぬか」
 ラーンは安静を言い渡されているものの、一見すれば常と変わらぬ冷静さを取り戻しているようにも見えなくもない。
 だが、時折本人も気づいていない集中力を欠いた挙動をすることもあった。
 それに自分の不手際から作戦が失敗したと気に病んでいる。
 少なくともシルビアがケガから回復するまでは、彼女を陣頭に立たせるわけにもいかないと思われた。
「しかし、『レーヴァテイン』の奪取に何ら支障のあるものではありませんわ。むしろ、シンマラも今回の件で守勢の辛さが身に応えたはずです」
 襲撃の失敗は、シンマラを燻り出すための布石になったとミリアは言うのだ。
「上手くすれば、『レーヴァテイン』の所在も掴めましょう」
「ラーンの暴走以外は、おまえの思惑通りと言うわけか」
 ランディは椅子に腰掛けたまま、デスクを挟んで正面に立つ美しい秘書を見上げた。
 アップにした金髪の左側だけを垂らした前髪の隙間で、ミリアの目が冷たい眼光を放つ。
 出撃を志願してきたのはシルビア自身だったが、ミリアはそのシルビアの行為がシンマラの周りに及ぼす影響まで織り込んでいた。
 はじめにシルビアとラーンの寛恕を申し出たのも、失敗が彼女の想定の内であったことを物語っている。
「いつもシルビアの抑え役のあの娘が、まさか暴走するとは思いませんでしたわ」
 彼女にとって唯一の誤算はラーンの暴走だけだった。
 普段の冷静沈着な彼女の態度を知っていれば、見境なく暴れられるなどとは考えられる結果ではなかった。
 それだけに、シギュン・グラムのフォローがなければ、『ヴィーグリーズ』としても今後動き辛くなるところだった。
「誰も予測できなかったことだ。仕方あるまい。シギュンもラーンの本質を見抜けなかったと言っておったわ」
「それでも、筆頭幹部殿はさすがですわ。結局ラーンの暴走を止めたのもあの方でしたし」
「やはり、『レーヴァテイン』の奪取作戦、引き継ぐのはシギュンしかおらぬようだ。あやつならば、失敗はすまい」
 ランディが、普段の淫靡さを消して冷たく光るミリアの瞳を覗き込む。
 彼女もシギュンの実力には心底服しているはずだが、賛同しかねるというように小首を傾げた。
「筆頭幹部殿に任せてもよろしいかとは存じますが……」
「歯切れが悪いな。おまえが行くか?」
「老人に恨まれましょう」
「ファーブニルか」
「あの老人は、シンマラが脱走した後のシルビアとラーンの保護者のようなものですもの。作戦を任せれば、きっと奮発しますわ」
 シルビアとラーンを利用してシンマラを追い詰め、さらに彼女たちの失敗を取り戻したいであろう老練なファーブニルを差し向ける。
 それがミリアの筋書きだった。
 愉悦と淫靡の色を双眸に戻して歪んだ笑みを浮かべる彼女を、視線だけで見上げてランディは葉巻を咥えた。
「おまえは遊戯が過ぎるな」
「御意。夢魔は現しか楽しめませんので」
 悪びれた風も見せず、ミリアはランディの葉巻に火を灯し、彼の耳元で囁くように言った。
 甘い息がランディの耳にかかる。
「よかろう。せっかく今まで私を縛りつけていた運命の糸が切れたのだ。遊戯に耽るのも悪くはない」
 ランディも愉悦に口元を吊り上げながら、紫煙を昇らせた。

「申し訳ありません、老」
「ラーンよ、はじめから無理な作戦であったのだ」
 ベッドの上で思いつめた表情のラーンを見ながら、ファーブニルは深いため息を吐いた。
 ラーンにもシルビアにも作戦失敗に対する正式な罰はなかった。
 シルビアは意識不明の昏睡状態が続いており、ラーンも精神が不安定という名目でミリア・レインバックから安静を言い渡されている。
 二人とも事実上、軟禁されているようなものだった。
 少なくともラーンはそう受け止めていた。
 ――自分さえ、しっかりしていれば。
 猫ヶ崎高校ではシンマラに見栄を切ったものの、『ナグルファル』へ帰還した後は、軟禁により余暇ができてしまい、その何もできない時間がラーンを苦しめていた。
 暴走と失敗でボロボロになった心に後悔が波のように押し寄せ、彼女の心を打ちのめしているのだ。
「しかし、無理な作戦を推し進めたのは、私とお嬢です」
 ラーンが俯いて唇を噛む。
 責任感の強い若人は過ちや挫折の原因のすべてが自分にあると錯覚して、自らで自らを責め立てる。
 その終わりなき責め苦から抜け出すには、多大な時間と暗闇から這い上がるための光明を要するのだ。
 己で己を許さねばならないからだ。
 簡単に許せるのならばそれこそ、はじめから悩みなどしない。
 自縄自縛なのだ。
 ファーブニル老人もそれを良く知っていたが、放っておくこともできなかった。
「正確には作戦を嘆願したのはシルビアだけであろう」
「私とお嬢は一蓮托生です」
「それはわかっておる」
 ファーブニルは、己の白い髭をしごいた。
「先の作戦を許可したのは『ヴィーグリーズ』の方針だ。だから、おまえが気に病む必要はないのだ」
 老人は、自らを追い込もうとするラーンに対して諭すような口調で、パートナーであるシルビアや許可を与えた『ヴィーグリーズ』上層部の責任でもあることを自覚させる。
 一人ではどうにもならないことだということをわからせなければ、苦悩の袋小路からは抜け出ることはできないからだ。
 だが、それもすぐには、どうにもならない。
 ラーンが虚ろな目でファーブニルに尋ねる。
「シンマラ師の捜索には誰が後任に?」
「私だよ」
「老に、ですか?」
 意外だというように首を傾げるラーンを見て、ファーブニルが苦笑する。
「この老体には荷が重いと思うか。これでも我が身体は、おまえたちよりも『魔界』に近いのだがのう」
「いいえ、老が作戦を引き継ぐことに不服はありません。ただ、てっきり、シギュンさまに指揮権が委ねられるかと……」
 慌てて取り繕うラーンの姿は、冷静さや苦悩といった心の仮面が外れて歳相応に見えた。
 幹部であること。
 裏切り者の弟子であること。
 そして、愛するシルビアを守るという使命を自分に課していること。
 それらの立場から開放された本来の彼女は、どれほど魅力的な存在なのだろうか。
 そう思わせるほどに、ラーンがファーブニルに零した表情は美しく可愛らしかった。
 この少女の基本を作ったのは、他ならぬシンマラなのだ。
 そして、この少女を苦しめているのもまたシンマラなのだ。
 そう思うと二人の少女の面倒を見てきたファーブニルは複雑な気分にならざるをえない。
「ラーン、シンマラが憎いか?」
 唐突とも思える老人の言葉に、ラーンは言葉に詰まった。
 シンマラのことを憎いと思っているのは、裏切って尚、シルビアの心を放さない恩師へのただ嫉妬なのではないか。
 シンマラがシルビアに重傷を負わせた時は、それこそ殺しても飽き足らないと思った。
 だが、心が静まった今、シンマラのことを考えても、やはりシルビアのように激昂することはない。
 それどころか、シルビアのことを抜きでシンマラのことを考えると憎悪が生まれない。
 そして、彼女に逢えば、彼女を『師』と呼んでしまっている自分がいる。
 ――私は無意識にシンマラ師を慕っているのだろうか。ただお嬢を取られたくないだけなのかもしれない。
 ラーンは動揺を覚えたが、ファーブニルには平静を装って答えた。
「先ほども言いましたが、私はお嬢と一蓮托生です。私はお嬢がシンマラ師と戦うというのならその剣となり、その盾となるだけです」
「そう、か」
 ラーンの答えにファーブニルはゆっくりと頷いた。
 彼にはラーンが動揺していることがわかったが、何も言わなかった。
「とにかく、今はゆっくりと休むが良い。シルビアにも休息は必要であろう」
 ファーブニルはラーンの肩に毛布をかけてやる。
「申し訳ありません、老。ご迷惑ばかりをおかけして」
「年寄りは若者に迷惑をかけられるのが楽しみなのだよ」
 そう言い残し、ファーブニルは立ち上がって部屋を立ち去る。
 ラーンの視線が背中に突き刺さるのを感じたが振り返らずに、ドアを閉めた。
 廊下に出た後、ファーブニルは深く長い息を吐いた。
「シンマラよ、はやまったのう」
 そして、静かにそう呟いた。

 シルビアとラーンの手から逃れたちとせたちもまた、休息を取っていた。
 もちろん、彼女たちを暖かく迎え、かくまうのは、ロックと鈴音が経営するイタリア料理店、『Suono delle campana』である。
 ちとせは命に別状のないものの、懸命の介抱を受けている。
 彼女の介抱を買って出たのは、姉の葵だった。
 ちとせたちが学校に行っている間に葵は意識を取り戻し、容態を回復させていた。
 回復術を得意としているだけに、自身の自然治癒や生命力にも優れたものがあるようだった。
 ちとせたちが重傷を負って戻って来た時には、取り乱すことなく毅然とした態度で治療の支度を整え、それからずっと重傷の妹を付きっきりで看護している。
 真冬は彼女に申し訳なくて仕方がなかったが、葵は文句一つ言わなかった。
 ちとせとはタイプが違うものの、彼女も強い、と思わざるをえない。
 真冬は両腕の包帯の具合を確かめ、ワイシャツに袖を通した。
 店内に足を向けると、悠樹が端の席に着いており、ロックがコーヒーを入れていた。
 営業状態にないので、客の姿はない。
 鈴音も葵を手伝って、ちとせの看護に当たっているのでこの場にはいなかった。
「先生も、どうぞ」
 ロックが椅子を引いて席を勧める。
「どうも」
 真冬が頭を下げて席に着く。
 温かいコーヒーが注がれたカップが目の前に置かれる。
「ありがとうございます」
「オレには鈴音サンのような霊力(ちから)はない。キミたちにできるのはこれくらいだネ」
 ロックが申し訳なさそうに言うのを聞いて、真冬は大きく首を横に振った。
「とんでもない。迷惑をおかけしているのは、こちらですから」
「あまり自分を卑下しないでください。女性は自尊心を失ってはいけません」
 真冬の肩をロックが励ますように軽く叩いた。
 真冬が見上げた先にはロックの優しさを湛えた青い目があった。
「じゃあ、オレはこの辺で。あまり他の女性と仲良くすると、妻に怒られるのでネ」
 彼は悪戯っ子のように笑って、厨房へと戻っていった。
 濃厚なコーヒーの香りが漂っている店内には、真冬と悠樹の師弟だけが残された。
「先生」
「ん?」
「冷めますよ」
「そうだな」
 温かなコーヒーを口に運ぶ。
 ちょうど良いほろ苦さが舌に広がる。
 ――おいしい。
 素直にそう思ったが、悠樹の行動を見て真冬は目を見張った。
 悠樹はコーヒーに、ドボドボと大量の砂糖を入れている。
 それこそ、山のように。
「い、入れすぎじゃないか?」
「甘党なので」
「そ、そうか……」
 元の味もわかったものではないだろう。
 真冬はそう思わなくもなかったが、悠樹は平然とした顔でどろどろのコーヒーを口に運んだ。
 そして、ほっと息を吐くと、真冬を正面から見据えた。
「さて、これからどうしましょう」
 いつもと変わらぬ静かな様子で言う悠樹に、真冬は困ったように指で頭を掻いた。
「実のところ、私には何の施策もないのだ。守勢であることの厳しさは実感できたがな」
「確かに学校まで襲撃されるとは思いませんでした」
「ああ、私も甘く見ていたようだ。だが、こちらから『ヴィーグリーズ』に乗り込むわけにもいかないだろう」
「そこで、なんですが」
「ん?」
「先生、『レーヴァテイン』って、破壊できないんですか?」
 悠樹の一言に真冬の思考が止まった。
 きょとんとした表情で、教え子の顔を見る。
「破……壊……?」
「そうです。危険なものなら、壊してしまえば使いようもないでしょう。破壊してしまえば、『魔界』浮上の憂いだけは除けます。シルビアとラーンにとっては関係ないかもしれませんが、『ヴィーグリーズ』としての計画には齟齬が生じるでしょう」
「『レーヴァテイン』を破壊」
 真冬が繰り返す。
 そして、額に指を当てた。
「思いつきもしなかったな。アレの製作者としては」
 真冬が苦笑する。
 『ヴィーグリーズ』を逃げ出しながらも、自分が作り出した作品に対する未練、それが思考を硬直させていたと自身を嘲る。
 もちろん、それは真冬の自虐でしかない。
 彼女はランディ・ウェルザーズを恐れた。
 『魔界』を浮上させるわけにはいかない。
 だが、魔王スルトの化身を倒せる力はなかったし、その手から逃げることが精一杯の抵抗だった。
 そして、もしもの時も考えていた。
 『レーヴァテイン』を奪われる間際まで追い詰められた時には、魔王スルトと刺し違える覚悟もしていた。
 だから、彼女は頭の隅で、『レーヴァテイン』に秘められた魔力は、魔王スルトと戦うための切り札になるとも考えていた。
 それが、『壊す』という選択肢を自然と頭から抜け落ちさせていたに過ぎない。
「じゃあ、壊すことはできるんですね?」
「できなくはないだろう」
 真冬が眼鏡の縁を指で押し上げる。
「しかし、壊すにもリスクは当然ある。封印を解かねばならんな」
「封印ですか」
「壊すことは思いつかなかったが、封印することは思いついた。それだけのことだよ」
 封印しておけば、『ヴィーグリーズ』の手に落ちることを容易にはしない。
 真冬は自分自身で思っているほどの愚か者では決してない。
「封印を解くまでに在り処を知られる危険性、それに壊す前に奪われる危険性、少なくともこの二つの可能性は考えねばならないだろう」
「先生は反対でしょうか」
「いや、やはり壊してしまおう。キミの言う通り、『レーヴァテイン』さえなければ、『魔界』の浮上だけは防げる」
 『魔界』の浮上は何としても防がねばならないが、他にも真冬にはやるべきことがある。
 元愛弟子二人との決着を必ずつけ、シギュン・グラムの牙からちとせを守らねばならない。
 魔王スルトと刺し違えるわけにもいかないのだ。
 最大の脅威を取り除き、背水を背水ではなくしなければならない。
 そのために『レーヴァテイン』を壊せない理由はない。
「もちろん、襲撃は視野に入れなければならない」
「まあ、守っていても同じですからね」
「キミは何でも軽く言ってくれるな」
「あっ、一応断っておきますけど、わざとですよ」
「知っているよ。……ありがとう」
 真冬は悠樹に微笑み、目を閉じてコーヒーを味わった。


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