魂を貪るもの
其の三 軋轢
7.盾

「シギュン・グラム!!」
 ちとせをシギュンの凍りつく獰猛さを宿した視線が捉える。
 "氷の魔狼"は何も言わない。
 ただその奈落の底よりも冷え切った何の色もない虚ろな瞳で射抜いてくるだけだ。
 全身の震えを抑えるようにちとせは拳を握り締めた。
 今の満身創痍の身でシギュンに勝てる見込みはない。
 戦えば確実に殺されるだろう。
 だが、シギュン・グラムはちとせへ挑むような素振りを見せず、ラーン・エギルセルへと視線を移した。
「失態だな、ラーン」
 ラーンはすでに正気に返っていた。
 その顔からは血の気が完全に引いている。
 シルビアの目付けとならねばならなかったのに、自分自身が我を忘れて信じられない愚行を犯してしまった。
 己の犯した失態の重大さが、正気を取り戻したラーンを追い詰めていた。
「シ、シギュンさま」
 真正面からシギュンの氷の視線を受け止めることさえできずに俯くと、倒れているシルビアの姿が視界に入った。
 お嬢……。
 私は取り返しのつかない失態を犯してしまった。
 ならば、お嬢の失態もすべて私が引き受ける。
 お嬢だけは、お嬢だけは、私が守ってみせる。
 たとえ、自分の肉体がシギュン・グラムの魔爪に引き裂かれようとも、お嬢を見捨てることはできない。
 私は、いつでもお嬢の盾になる。
 私は、お嬢を心底愛しているのだから。
 決意に唇を噛み締める。
「すべては私の責任です。この身にどのような罰でも受ける所存。ですが、お嬢は……」
「今回の罪は問われないようにはからってやる」
 顔面蒼白で言い訳を始めたラーンをシギュンが遮る。
「おまえの本質を見抜けなかった私にも責任はあるからな。さっさとシルビアを連れて退け」
 "氷の魔狼"の言葉を受け、この場での処刑さえも覚悟していたラーンが意外そうな面持ちで顔を上げた。
「しかし……」
「邪魔だと言っているのだ。暴走して脳の回転が鈍ったか?」
 シンマラこと豊玉真冬の捕縛は失敗に終わった。
 いつまでも留まっていれば、『ヴィーグリーズ』の後々の行動にまで影響が出る。
 一刻も早く、この場から去らねばならないのだ。
 シギュンが再び鋭く虚ろな双眸を、ちとせたちに向ける。
 それに、もし、自分がラーンやシルビアに手を出せば、シンマラや神代ちとせが黙っているとは思えない。
 そういう判断もシギュンにはあった。
 特にシンマラは『ヴィーグリーズ』を裏切りはしたが、弟子に対する未練がありありと窺える。
「理解できるなら、さっさと退け」
 ラーンも今の状況の悪さを理解できないほどの馬鹿ではない。
 理解できるからこそ、顔面蒼白になっていたのだから。
「……申し訳ありません」
 本来の聡明さを取り戻したラーンがシギュンに頭を下げる。
 そして、いまだに気を失っているシルビアを抱き抱えた。
「シンマラ師、見苦しいところをお見せしてしまいましたね」
 地面から吹き出た水が渦巻き、真冬の愛弟子二人を包み込む。
 その水流の壁の隙間から、ラーンが真冬を力なく睨みつける。
「しかし、あなたはお嬢を捨てた上に、その身体にまで傷をつけた。私はあなたとは違う。お嬢を裏切ったりはしません。絶対に……」
 水の柱が天まで届く。
 ばしゃあっと音を立てて大量の水が地面に広がった時には、二人の姿は消えていた。

「……雨も上がったか」
 ラーンたちのいた場所を凝視していた真冬の視界を紫煙が遮る。
 シギュンの言う通り、黒い雲が空けて日が差してきた。
 光を反射して輝く凍りついた水龍だったものの破片を踏み潰し、真冬に向かってシギュンが言う。
「まったく、おまえの弟子は、どれも世話をかけてくれるな」
 彼女の物言いには、右腕の仇である神代ちとせはもちろん、同じ『ヴィーグリーズ』の幹部であるシルビアやラーンも含んでいるのは間違いない。
「シギュン・グラム」
 真冬はシギュンの狂える両眼を真正面から見据えた。
 その後ろには傷ついたちとせと悠樹の姿があった。
 獰猛さを秘めながら氷の輝きを放つ"氷の魔狼"の両眼から、二人の姿を身を挺して遮る。
「私の生徒は誰もおまえに食わせはしない」
「それは……愉しみなことだ」
 紫煙を吐き、嘲るように言うシギュンの狂眼はしかし、真冬を映してはいなかった。
 その細い指で挟んだ煙草が凍結して粉々に砕け散る。
「せいぜい、盾になってやるのだな。ラーンの言うような裏切り者でないなら、な」
 シギュン・グラムは、ゆっくりと身を翻した。
 凍った大気に、豪奢で冷やかな金髪が流れる。
「神代ちとせ。決着は今度の機会にしてやる。今はせいぜい治療に専念することだ」
 振り返らぬままに、彼女が見定めた最高の獲物の名を呼ぶ。
 瞬間、冷気がちとせの頬を嬲った。
 ちとせは傷ついた身体を奮い立たせようとしたが、体力の消耗が激しく、足元が定まらない。
 それでも悠樹の肩を借りて、シギュンの背中を睨みつけた。
「シギュン・グラム」
 そして、自分を狙う敵の名を呼び返す。
 刻まれた恐怖は消えない。
 それでもシギュンへ声をかけずにはいられなかった。
「センセがボクの盾っていうなら、ボクもまたセンセの盾ってことよ」
 "氷の魔狼"は振り返ることなく、獣性の宿った目を閉じ、深く頷いた。
 微かな笑みの形に唇が歪む。
 邪悪で、そして美しい笑みだった。
「相変わらずの甘ちゃんだな」
 シギュンはそう言い残し、ゆっくりと歩き出した。
 ちとせの言葉など、シギュンからすれば弱者が傷を舐め合うような甘い理想の言葉でしかない。
 だが、神代ちとせは実行するだろう。
 そして、それを満身創痍でありながら、あえてこの"氷の魔狼"シギュン・グラムに言い放った。
 今はその意気を確認しただけで満足だった。
 颯爽と去る。
 彼女を遮るものは何もない。
 魔狼の行く手を遮るものなど、自ら盾を任ずる愚か者しかいはしない。

 シギュンの姿が消えた途端、その背を睨みつけていたちとせの顔から緊張感が抜ける。
 そして、悠樹の耳元に息を吹きかけるように囁く。
「悠樹……」
 肩を貸していた悠樹が怪訝そうな面持ちで、ちとせの顔を見る。
 ちとせは安堵と苦痛の混じった複雑な微笑みを浮かべた。
「おやすみ」
 敬礼しながら、そう一言発し、ちとせが崩れ落ちる。
「ちとせ!」
 悠樹は慌てて腕を伸ばし、倒れかけるちとせを抱き止めた。
 彼女の身体はシルビアによる苛烈な拷問で散々に痛めつけられているのだ。
 今まで意識を保っていたのも、ちとせの意志の強さがあってこそといえる。
 シギュン・グラムと向き合う緊張感から解放されて、苦痛と疲労がぶり返してきたのだろう。
 倒れるのも無理はない。
「ちとせくん!」
 ちとせの異変に真冬も顔面を蒼白にして駆け寄った。
「大丈夫です。気を失っただけですから」
「しかし……」
「ええ、早く治療しないと。ちとせはもちろん、先生の傷も浅くはないでしょう」
「私は大丈夫だ」
 シルビアの愛剣フランベルジュによって切り裂かれた真冬の四肢からは血が止め処なく流れ落ちている。
 フランベルジュは炎のように波打った刀身で、斬りつけた相手の肉を引き裂き、止血や治療をしにくい傷を刻むため、『死よりも苦痛を与える剣』などとも呼ばれている。
 だが、教え子の安否を目の前にした彼女には、傷の痛みなどどうでも良いもののようだった。
 悠樹は真冬のそういった態度に敬愛を感じながら、恩師の心配げな眼差しに静かに答える。
「とにかく、この場を離れましょう」
「だが……」
 学校の惨状に眉を曇らせる真冬に、悠樹は簡単に言った。
「いろいろと面倒ですよ、先生。大丈夫です、見たところですが被害は建物だけのようですし」
 悠樹の言う通り、真冬の仕掛けた粉塵爆発の罠もラーンの生み出した水龍も奇跡的に生徒たちを巻き込んではいないようだった。
 損害が校舎や施設だけに留まっているのは不幸中の幸いといえる。
「もっとも、ぼくたちがいないので騒ぎになっているかもしれないですけど」
 確かに、真冬たちがこの場に残っていても何の益もない。
 逆にこの惨事についての詰問を受けることになるだろう。
「冷静だな、悠樹くんは」
「冷静に見えますか」
「少なくとも慌てているようには見えないな」
 悠樹は少し困ったような顔をした。
 どうして自分はこういう性分なのだろう。
 慌てていないわけではない。
 だからといって、周りが見えなくなるほど混乱することは、これからもないような気がする。
「どうした、悠樹くん?」
「いいえ、何でもありません」
 怪訝そうな表情で覗き込んでくる真冬に、悠樹は軽くため息を吐いてから首を横に振った。
 とにかく、今は冷静であることが仇になることはない。
 それどころか、十分に役に立っている。
 そう思えば、こういう生まれ性なのだと、自分をそう納得させるのに時間は要さない。
 悠樹は抱き抱えていたちとせを背負い直し、真冬を促した。
「さあ、急ぎましょう。そろそろラーンの水龍が鎮まったことに皆気づいたみたいですから」
「……そう、だな」
 真冬は喧騒が聞こえ始めた校舎に目をやり、深く頷いた。
 この学び舎に及ぼした被害を考えれば、私の罪は万死に値する。
 私の人生は罪だらけだ。
 『ヴィーグリーズ』のこと。
 シルビアとラーンのこと。
 ちとせくんや悠樹くんのこと。
 そして、この学校のこと。
 償わなければならない罪が多すぎる。
 それでも、必ず『ヴィーグリーズ』と、いや、自分の過去と決着をつけ、この場所に戻ってきて罪を償おう。
 真冬は後ろ髪惹かれながらも、愛する猫ヶ崎高校を後にした。


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