魂を貪るもの
其の三 軋轢
6.狂える水龍
屋上の扉を開けた途端、雨音が耳を打った。
雨の匂いにまぎれて、血の香りが流れ込んでくる。
悠樹は焦燥感に駆られて、扉の外へと飛び出した。
水の鎖に吊るされたちとせの姿が目に入る。
雨ざらしにされた身体には痛々しい痣が刻まれ、項垂れている顔に生気はなく、半開きの唇から血が一筋流れ落ちている。
彼女が激しい暴行を受けたことを悠樹は一瞬で理解した。
「ちとせ!」
悠樹が呼びかけるが返事はなかった。
ただ胸部が動いていることから、呼吸はしているようだとわかった。
気を失っているのだろう。
その傍らに青い髪の女性が立っている。
ラーン・エギルセルだ。
彼女は雨を気にした風もなく、無表情のまま悠樹に顔を向けた。
悠樹はちとせに駆け寄りたい衝動を抑え、ラーンと対峙する。
「ラーン!」
「なるほど、シンマラ師はお嬢と交戦中というわけですね」
ラーンは水のように淀みのない冷たさを含んだ視線で悠樹を迎えた。
愛用の
「ちとせに何をした?」
「見ての通りのことを」
「拷問……か!」
「そうです。シンマラ師の居場所を吐かせようとしたのですが、まさかこのような手落ちになるとは思いもよりませんでしたよ」
大きく長いため息をつくラーン。
「やったのは、シルビアだね」
悠樹の問いかけに、ラーンは浅く頷いた。
シンマラこと真冬が姿を見せたことですべての歯車が狂った。
いや、その前に自分がシルビアにちとせを拷問することを容認したことがまずかったのか。
自分は抑えとしてシルビアに付けられたのだ。
だが、シルビアは暴走してしまった。
もっと強く押さえつけるべきだったのだ。
完全な失態だ。
自分はどのような罰を受けるのも構わない。
だが、お嬢が罰を受けるのは耐えられなかった。
「やったのはお嬢ですが、私も止めはしなかったし、心も痛みません。敵同士が痛めつけあうのは必然でしょう」
ラーンの声は淡々としており、事務的な口調だった。
「それに、この娘をまだ開放するつもりもありません」
「大事な保険というわけか」
悠樹の言葉を受けて、ラーンの眉がぴくりと動いた。
悠樹はラーンの考えを的確に言い当てている。
ちとせは真冬を捕えられなかった時の保険だった。
真冬をおびき出す人質として利用価値は高い。
だが、この場の悠樹に対しては効果が薄い。
真冬への人質としてちとせの命は保障されてしまっているからだ。
だから、悠樹は遠慮なく攻めてくるだろう。
人質の命を奪わずとも徐々に痛めつけながら交渉するというやり方もあるが、時間がかかりすぎる。
ちとせが責めに屈する気配を見せるとは思えないし、時間が経てば経つほど有利になるのは悠樹たちなのだ。
ラーンが片手で柄の部分を掴んで馬上槍を引き抜き、空気を裂くように鋭い先端を回転させる。
「そろそろ、お嬢の加勢に行かねばなりません、そこを退いてもらいましょうか」
「そう言われても、こちらとしてはキミを真冬先生のところに行かせるわけにはいかないし、何よりちとせを返してもらわないと困る」
馬上槍の先端を向けてくるラーンに、悠樹は額に指を当てて難しい顔をした。
「彼女はとっても大事なパートナーなんでね」
風が悠樹を包み込む。
前髪が烈風になびき、両足が微かに宙に浮いた。
ラーンの表情は変わらない。
「殿方のそういうセリフ、嫌いではないのですが」
強い向かい風に長い青髪を後方に流しながら、ラーンが馬上槍を肩に背負う。
腰を下げ、足で強く床を踏みしめた。
床に溜まった水がはねる。
「私は女性にしか興味がありませんので」
「それは残念だ。でも、デートには付き合ってもらうよ」
「見かけによらず強引ですね。ですが、私はお嬢一筋なのですよ」
踏みしめていた床が砕ける。
十分にバネは溜まっている。
「そういうわけで、お断りします!」
ラーンが前方へと飛んだ。
突きの体勢で、悠樹に襲い掛かる。
同時に悠樹を取り囲むように数本の水柱が上がり、退路を断つ。
右にも左にも後ろにも逃げられない。
唯一の逃げ口である上に逃げても、四方を囲む水柱を突破できずに、空中で追い討ちを受けることは明白だった。
悠樹はラーンの突撃を避けることを考えず、身体の前方に強風を巻き起こした。
「風の壁など無駄なこと!」
突進力で突っ切れると判断してラーンは勢いを緩めずに悠樹へと馬上槍による突撃を敢行する。
言葉通りの力強さで、馬上槍の切っ先を悠樹の胸元へと迫らせる。
「!」
だが、悠樹の胸に馬上槍が届くかどうかのところで、ラーンは異変を感じた。
馬上槍の先端が急激な浮力を生じる。
悠樹の巻き起こしていた強風が一気に上昇気流となって、この超重量武器を押し上げた。
突進の軌道を反らされた槍先は悠樹の肩をわずかに抉るだけに留まった。
逆に馬上槍を崩し、がら空きになっているラーンの胴へと悠樹のカウンターの拳が突き刺さる。
「がっ!」
突進力がそのまま己へと返り、ラーンが血の混じった空気を口から吐き出す。
しかし、悠樹の反撃もそこまでだった。
ラーンが腹に埋まっている悠樹の手をがっしりと掴んだからだ。
そして、恐ろしい力で悠樹の腕を捻り上げる。
「うぐああああっ!」
腕を折られそうになり、悠樹はラーンに蹴りを入れ、その反動で抜け出した。
そこへ、馬上槍が横薙ぎに振るわれるが、悠樹は空中で風を纏い、旋回すると間合いを取り直した。
負傷した肩から血が溢れ出し、悠樹が傷口を手で押さえて具合を確かめる。
ラーンも口元の血を拭い、馬上槍を構え直す。
両者ともそのまま相手を睨みつける。
ラーンとしては一刻も早く、この状況を打開したかったが悠樹の実力がそれを許さない。
「参りましたね」
「……まったくだ」
悠樹もまた、ちとせの安全を確保したかったが、ラーンにはまったく隙が無かった。
焦った方が負ける。
双方、それを理解しつつ、お互いに焦らないわけにはいかなかった。
二人の沈黙を打ち破ったのは、突如鳴り響いた凄まじい爆発音だった。
「なっ……?」
校舎が激しく揺れる。
悠樹はラーンを見て、ラーンは悠樹を見た。
お互いの視線が交わる。
どちらも意図していない。
同時に視線を外す。
「何だ!?」
悠樹が叫ぶ。
見ればこの校舎の一階の窓硝子が割れ、黒煙が上がっている。
「爆発?」
「家庭科室……」
悠樹が爆発の中心らしき教室を確認して愕然とした。
真冬がシルビア・スカジィルを迎え撃っているのは、家庭科室付近のはずだ。
――無事なのだろうか。
「お、お嬢……!」
ラーンの震えた声が悠樹の耳に入ってきた。
シルビアを見つけたのだろう。
真冬も一緒にいるかもしれないと思い、悠樹が彼女の視線の先に目を向ける。
シルビアの姿はすぐに発見できた。
爆発で吹き飛ばされたのか、全身から煙を上げている。
咄嗟に両腕で顔を庇ったのだろうか、顔は無傷に等しかったが両腕には酷い火傷を負っている。
赤毛も炎で焼けてところどころ縮れ、ドレスも焦げついている。
しかし、ドレスは戦闘にも耐えられるような特殊な素材でできているのか、両腕以外に目立った外傷はないようだった。
意識は無いようだ。
吹き飛ばされた衝撃で気を失っているのだろう。
「先生!」
倒れているシルビアの近くに真冬が立っているのを見つけ、悠樹が安堵のため息を吐く。
全身から血を流しているようだが、どれも四肢に受けた斬傷によるものらしく、爆発による怪我はないようだった。
真冬がシルビアに何らかの攻撃を行ない、爆発に巻き込むことによって撃退したのかもしれない。
血が足らなくなったのか、真冬が額を押さえて荒い息をつきつつ、その場に膝を折る。
悠樹が恐ろしいほどの殺気を感じたのは、ちょうどその時だった。
「シ、シンマラァァ!」
爆発現場を見下ろしていたラーンの怒声が屋上に響き渡る。
悠樹はラーンを振り返って唖然とした。
今の今まで冷静沈着だった彼女が、ブルブルと大きく身体を揺らしながら目を怒らせている。
そして、その全身から発せられる凄まじい怒気が大気を震撼させていた。
「よくもよくも……お嬢を!」
空が崩れた。
いや、崩れたのは、シルビアの一撃で不安定になっていたラーンの結界だ。
崩壊した結界が大量の水となってラーンの周りへと降り注ぐ。
ちとせを戒めていた水の鎖も四散した。
ラーンの霊気が完全に守勢から攻勢に転じる。
「ちとせ!」
悠樹が戒めを解かれて崩れ落ちたちとせのもとへ駆け寄り、抱き抱えた。
満身創痍に痛めつけられているが、命に別状はなさそうだった。
「ちとせ!」
悠樹がもう一度、ちとせの名を呼ぶ。
それに応えるかのように少女が微かに目を開けた。
「うっ、……悠樹…?」
「大丈夫?」
「助けに……来るのが……遅い……」
「けっこう元気だね」
「元気じゃない……って」
そう反論しながらも身体中を襲う激痛に耐え、ちとせがウィンクをする。
悠樹は安心したように大きく息を吐いた。
「立てる?」
「がんばればね。もしかしてヤバイ?」
「実はだいぶまずい状況だったりする」
悠樹がラーンを視線で示した。
ちとせは息を呑んだ。
ラーンの両眼が禍々しさを帯びた真っ赤な色に染まり、全身から止め処なく邪気が溢れ出ている。
「生きて……生きて帰れると思うなぁァァァ!」
ラーンの周りに数本の竜巻のように収束していた水の柱が絡み合い、一つとなって一本の巨大な水柱となって吹き上がった。
それは見る見るうちに巨大な龍の姿へと変わった。
「水の龍!」
「殺してやる、殺してやる! 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!」
「ど〜いう力なのよ!」
ちょっとやそっとのことでは動揺しないちとせの顔にも焦りの色が浮かぶ。
それほどに強大で、常軌を逸した力だった。
「あ、ありえないでしょ、これ?」
「いや、これはマジでヤバイかも」
目を白黒させているちとせを支えながら、悠樹も自分の頬が引き攣るのを感じていた。
圧倒的な力。
ラーンから放たれているそれはまさに、姿形の通り、龍そのものを連想させるほどの強大な力だった。
「殺してやるぞ、シンマラァァッ!」
しかし、叫ぶラーンの目には悠樹のこともちとせのこともすでに映っていないようだ。
いや、この猫ヶ崎高校の大校舎すら視界から消えている。
傷ついたシルビアと、シルビアに傷をつけた元の師の二人だけが、ラーンの神経に認識されているようだった。
その証拠に、ラーンは、すぐ傍らにいる悠樹もちとせも完全に無視して、屋上から飛び降りた。
「ラーン!」
ちとせたちも慌てて、その後を追う。
悠樹がちとせを抱き寄せ風で身を包み込む。
そして、二人も急ぎ、屋上から降下した。
「シルビア……」
気を失っているシルビアの近くに膝をつき、真冬は荒い息を吐いた。
フランベルジュに切り裂かれた四肢からの出血は止まってはいない。
気を張って明滅する意識を保ち、倒れているシルビアの様子を伺う。
両腕には深い火傷を負っていたが、それ以外に爆発による傷はないようだった。
突然の爆発と吹き飛ばされた衝撃で意識を失ったのだろうが、命に別状はなさそうだ。
シルビアには、何が起こったかもわからなかっただろう。
爆発は、ガスによるものではなかった。
「小麦粉での粉塵爆発。一か八かだったが……」
真冬が手にした反撃の手段は、家庭科室に常備されている小麦粉だった。
粉塵爆発は、空気中に浮遊した可燃性の粉塵に発火して起こる。
大気に飛散した粉塵は十分な酸素と結びつき、燃焼反応に過敏になってしまう。
もっとも代表的なのは、炭鉱での石炭の粉末が引き起こす炭塵爆発だろう。
だが、小麦粉などの日常的に使用しているものでも、一定の濃度で大気中に浮遊していれば火花などで引火し、大爆発を引き起こすことがあるのだ。
追い詰められた真冬が家庭科室にあった小麦粉を教室に撒き散らしていたのは、目晦ましのためではなかったのだ。
「シルビア。罠の警戒を怠るほどの私のことを……」
真冬は俯いた。
戦闘に手馴れたシルビア相手には、粉塵爆発の罠など分の悪い賭けでしかなかった。
しかし、自分への憎しみがシルビアの思考を鈍らせ、彼女の怒りの電撃が爆発を呼び込んだのだ。
結果的にシルビアの戦闘力を奪うことはできたが、真冬の心中は複雑だった。
「シンマラ!」
かつての名を呼ばれ、真冬は顔を上げた。
シルビアは未だ気を失っている。
それに声は後ろから聞こえてきた。
「ラーンか」
振り返った真冬の瞳が微かに揺れる。
視界に捉えたのは、確かに見知ったラーンの顔ではあった。
だが、その美しい顔が強烈な殺気に歪んでいる。
「シ、ン、マ、ラ、お、お嬢に何をした……お嬢に何をした……シ、シンマラ……お嬢に……お嬢に……!」
わなわなと唇を震わせ、邪気に満ちた視線を真冬に浴びせる。
返答など期待していない。
何をしたか、などと問うことに意味などない。
今のラーンには真冬を殺すことしか頭になかった。
真冬は愕然としていた。
このようなラーンの狂態を見たのは初めてだった。
師として接してきた時からラーンは常に冷静沈着で取り乱すことがなかった。
使役する水の力と合い混じって、彼女は静かで冷たい印象だった。
ともすれば感情がないのではないかとさえ思えるほどに、理知的かつ客観的に振る舞える娘だった。
そのラーンが感情を露わにし、怒りで前後不覚に陥っている。
「よくもお嬢を……お嬢を……こんな目に……。シンマラ、殺してやる……殺してやる!」
正気を失っているラーンの双眸が紅の輝きを放った。
彼女の身体に纏わりついていた大量の水が、空高く舞い上がる。
そして、水は再び、巨大な龍の態を成した。
「先生!」
ちとせを肩で支えながら悠樹が真冬の側に降り立つ。
真冬はラーンの狂乱の姿を見て平静を失いかけていたが、悠樹とちとせの姿を確認して我を取り戻した。
「ちとせくん、大丈夫なのか」
一目見ただけでも、ちとせが衰弱しているのがわかった。
ブレザーとブラウスは見るも無惨に引き裂かれ、露出した肌も傷と痣に彩られている。
高校生らしからぬ豊かな胸を包むブラジャーは焼け焦げ、プリーツスカートの裂け目から見えるショーツには股間をブーツで激しく踏み躙られたと思われる靴跡が残っていた。
どれほどの生き地獄を味わったのか。
「大分やられたけど死ぬほどじゃないですよ、センセ」
だが、ちとせは全身に走る激痛をものともせずに、真冬を安心させるためにウィンクをした。
そして、隣の悠樹を小突く。
「ていうか、悠樹、上着貸してよ。ボクの下着姿は高いぞ」
「あっ、ゴメンゴメン。でも、濡れたままじゃ風邪引くよ」
「雨の中で下着だけでいても、風邪引くわよ」
悠樹がブレザーの上着を脱いで、ちとせの肩にかけてやる。
「さあ、ラーンをどうにかしないとね」
とは言ったものの、さすがのちとせもラーンが作り上げた水の巨龍を見て困惑せざるを得ない。
圧倒的な威圧感を与えながら、それが動き出す。
「ガァァァァッ!」
水龍が咆哮を上げながら舞い、その巨体が掠った校舎の一部が崩れ落ちる。
真っ直ぐに真冬を目掛け、水でできた巨龍が突進してきた。
真冬が発することができる炎でどうにかなる水の量ではない。
間一髪、身を躱すが、激しい動きに四肢の傷から血が吹き出す。
着地に失敗して地面を転がる。
「先生!」
風を纏った悠樹が助け起こす。
「悠樹くん。すまない」
目標に突進を避けられた水龍は暴れ狂いながら、校舎を再び破壊して瓦礫を撒き散らした。
「うわっ、好き勝手やってくれちゃって」
学び舎を破壊されて、怒りを露わにしてちとせが歯軋りする。
ここは彼女や悠樹にとって大切な場所であり、大切な友人もいる。
真冬にとっても安息の場所だった。
だが、ラーンが作り出した水龍はそのようなことには一切構わず、猫ヶ崎高校に甚大な被害を与えていく。
シルビアを傷つけられたことで、怒りが心頭に達し、彼女は完全に自分を見失っている。
どうにかして、止めなければならない。
そうでなければ、真冬を八つ裂きにするまで被害は無限に広がっていくだろう。
だが、ちとせも激しい拷問を受け、身体が自由に動かない。
悠樹も真冬を助けるので手一杯だ。
「ラーン、もう止めろ!」
真冬が叫ぶ。
だが、ラーンの耳には届かない。
それが声音であることだけを認識し、ラーンが真冬を睨みつける。
「殺す。殺してやる。殺してやる!」
殺気を宿した狂眼を光らせて、手を振るう。
「ガアアアァァァッ!」
水龍が再び咆哮した。
だが、水龍はそのまま動きを止めた。
そして、その巨体が急速に凍りついていく。
「え?」
ちとせたちが目を見張る中、破壊を欲しい侭にしていた巨龍は一瞬にして氷像となった。
その全身にひびが入り粉々に砕け散り、破片が大気を舞い、冷たい光を放ちながら煌く。
鋭い冷気が、辺りを覆っている。
ちとせは、全身が凍るような息苦しさを覚えた。
この感覚は、忘れもしない。
ちとせが、冷気の出所に目を向ける。
「ラーン、私はおまえのことを買っていたのだが、な」
紫煙とともに言葉が紡がれた。
冷たい月色の輝きを放つ長い髪が、極寒の冷気になびく。
機械の義手が袖から垣間見えた。
「まさか、シルビア以上の愚か者だとは思ってもみなかったよ」
そこに凛然と立つのは、すらりとしたモデルのような長身を黒地のストライプスーツに身を包んだ一人の女性。
"氷の魔狼"シギュン・グラム。