魂を貪るもの
其の三 軋轢
5.怒れる悪鬼
「シンマラ、キサマァァ!」
シルビア・スカジィルの怒号が鳴り響く中、真冬は渡り廊下から校舎内に駆け込んだ。
真冬は逃げたわけではない。
彼女は、ちとせを救うために走っていた。
シンマラが飛び降りて来たことから、ちとせがいるらしいのはこの棟の隣の棟の屋上だと推定できた。
今いるこの棟は真冬が先程までいた化学研究部の部室がある特別教室棟だ。
つまり、悠樹がいる。
それに、文化部の部室を中心とした棟で、その他には第二家庭科室や第二音楽室といった特別教室の予備教室しかない。
真冬の頭の中には、学校全学年の授業スケジュールが入っている。
「今日の午後に予備の特別教室使う授業を実施するクラスはなかったはずだ」
部活の時間でもなく、特別授業で移動してくる生徒もいない。
通常教室のないこの棟には生徒の数は少ないはずだ。
一般の生徒を巻き込むことを最小限に抑えられる。
シルビアはすぐに追ってくるだろう。
背を向けたままで戦えるほど容易な相手ではないのは、師として接してきた真冬自身が良く知っている。
それこそ全力で迎え撃たねばならない。
「ちとせくんを救うのは悠樹くんに任せるしかないな」
化学部の部室が見えたのと背中から熱気を感じたのは同時だった。
真冬が横へと飛ぶ。
頭の横を雷光球が通り過ぎていった。
「シルビア、人目もお構いなしか」
雷光球はそのまま廊下の突き当たりに炸裂して、爆風が真冬の黒髪を舞い上げる。
もはや、どう足掻いても目立ってしまう。
シルビアは完全に頭に血が上っているようだ。
騒ぎを起こすことも、まったく気にしていない。
真冬を捕えることしか頭にないのだろう。
「やはり、私は罪深い」
愛弟子にそういう人生を押し付けたことに自嘲する。
「だが、その責任を放棄するわけにはいかない」
化学部の部室から悠樹が飛び出してくるのが見えた。
他の教室に生徒はいないのか、それとも急な騒ぎに事態が飲み込めていないのか、廊下に出てくる気配はない。
今のシルビアに見境がないことを考えれば、不幸中の幸いだった。
「先生!?」
「悠樹くん、ちとせくんが襲われた」
「えっ?」
悠樹もさすがに意表を突かれたのか動きが止まる。
「隣の棟の屋上だ。だいぶ酷くやられているかも知れない」
真冬が後ろを振り返る。
悠樹に背を向けたまま、叫んだ。
「……頼む!」
重い声だった。
背を向けた恩師に悠樹が問う。
「先生は?」
「シルビアが……来る!」
悠樹の目も、パンキッシュな赤いツインテールの少女が怒りの形相で駆けてくる姿を捉えた。
怒気の滲んだ電撃を全身からばら撒きながらやってくるその姿は、まるで悪鬼のようだ。
その悪鬼が愛剣を振るって、刀身からが何本もの雷光を迸らせた。
真冬は拳に炎を纏い、そのことごとくを粉砕した。
爆風で髪の毛が舞う。
直撃は一本もなかったが、霊気の炎を貫通した電撃に腕が微かに痺れる。
戦闘幹部にまで伸し上がった愛弟子の力はすでに、研究者でしかなかった師の力を遥かに超えている。
「早く行くんだ!」
真冬は振り返らないまま、悠樹に向かって叫んだ。
悠樹は黙って頷き、全力で駆け出した。
「まさか、イキナリ逃げるとは思わナカッたぜ」
真冬に追いついたシルビアが、目を怒らせたまま再び対峙する姿勢を取った。
「神代ちとせがソンナに大事かい?」
アタシのことは捨てたくせに。
限りない嫉妬の炎がシルビアを狂わせる。
身体が黒い感情に震えて仕方がない。
「無駄だぜ、シンマラ。屋上にはラーンがいる」
「そうか。ラーンも来ているのか」
短気なシルビアの抑えとして、沈着冷静なラーンが同行しているのだと真冬にも予想がついた。
つまり、頭に血が上ったシルビアが、ラーンを振り切って飛び出してきたということだろう。
『ヴィーグリーズ』も、いたずらに騒ぎを大きくすることを好むはずもない。
シルビアの暴走に、ラーンが唇を噛んでいることは、間違いがない。
「誰であっても、ラーンに勝てるものか。ソレにシンマラ、オマエもアタシには勝てない」
敵意剥き出しのシルビアを真冬は無言で迎え撃つ。
今の彼女にとって勝敗自体は問題ではない。
自分の命で何もかもが片付くならば差し出しても良かった。
自分はそれだけのことをしてきたのだ。
その報いは甘んじて受ける。
だが、ここで死ぬわけにはいかない。
自分の命では何も解決しないのだ。
『ヴィーグリーズ』の野望を打ち砕き、ちとせや悠樹、そして自分を憎んでいるだろうシルビアとラーンを護るには戦い続けるしかない。
真冬が両腕に炎を宿す。
それを見たシルビアが見下したように笑う。
そして、雷光よりも速く斬り込んだ。
彼女の電撃は確かに強力だが、それ以上に真髄は剣術にある。
圧倒的な速さ。
神代神社では、葵を庇ったとはいえ、ちとせは為す術もなく背中を斬られている。
迎撃する真冬にとっては、ここが縦にも横にもそれほど空間の広くない廊下であることが唯一の救いだった。
いくら速くても真正面からの切り込みであれば、縦横無尽に動き回られるよりは対応に活路が見出せる。
もちろん、逆に真冬も逃げ場はない。
腕を振って、纏っていた炎を床へ走らせる。
「足止めなど無駄なコト!」
しかし、シルビアはそれを避けようともしなかった。
逆に加速し、真正面から灼熱の炎を突っ切った。
赤い髪や、漆黒のゴシックロリータのドレスの裾を焦がしながらも減速する様子はまったくない。
「勝利は一瞬、止まる必要などナイ!」
「何という無茶を」
真冬が二撃目を放とうとするが、シルビアの剣はそれよりも早く四度閃いた。
「うぐぅあっ!」
真冬の四肢が鮮血を吹き上げる。
昨日、ラーンによって刺し貫かれた両腕両足の傷口を寸分違わず切り裂かれていた。
「勝てナイって言ったぜ、シンマラ。ソノ身体じゃ尚更ね!」
シルビアは愛剣に付着した血を振り払い、跪く真冬を見下した。
ほとんど一瞬にして戦闘能力を奪われてしまった真冬が呻く。
「うっ、くっ、傷口を正確に……。ラーンか……」
「情報収集は基本だろ。そして、弱点を突くのもな。ソウ教えたのはアンタだッ!」
そう言ってシルビアが、真冬の腹を蹴りつける。
「かはっ!?」
「腹にも重いのを喰らったンだってナァ?」
床に転がった真冬に憎悪の視線を浴びせながら、再び蹴りを打ち込む。
蹴り飛ばされた真冬は、背中から壁に叩きつけられた。
「うぐっ、ごほっ……」
壁に寄りかかって咳き込む真冬の腹へ、さらに踵蹴りが加えられ、押し潰される。
「がっ、はっ……!」
双眸を大きく見開き、真冬が苦悶の吐息を吐く。
シルビアが覆い被さるようにして、ストレッチワイシャツの上から真冬の右胸を鷲掴みにした。
「うっ!」
苦痛と屈辱に歪む真冬の顔を覗き込み、燃えるような赤毛の悪鬼は喉で笑った。
「シンマラ」
屈折した視線でかつての師を射抜き、その胸を捏ね上げながら首筋に舌を這わせた。
身を捩る真冬の顎を掴んで正面を向かせ、シルビアが唇を無理矢理に重ねる。
予想外の出来事に、真冬の顔が驚愕に彩られる。
シルビアは真冬の口腔に舌を捻じ込み、師の舌を絡め取って味わうように犯した。
真冬がもがく。
その動きに気を悪くしたようにシルビアの眉間が歪む。
そして、ギュゥッと真冬の右胸を握り潰し、もぎ取らんばかりの勢いで乱暴に捻じり回した。
真冬が激痛に身体を仰け反らすが、唇を奪われているために悲鳴を上げるどころか息を吐くことすらままならない。
さらにシルビアは恩師の苦痛に搾り出された唾液を飲み込み、拳を固めて真冬の腹へと叩き込んだ。
「!」
衝撃に真冬の両目が大きく見開かれる。
背中を廊下の壁に押し付けられているために衝撃を逃がすことができず、直接に内臓を痛めつけられるような苦痛とダメージが腹部へと刻み込まれる。
「んん!」
シルビアが再び、苦悶に身体を震わせる真冬の腹へと拳を叩き込んだ。
衝撃で真冬の口から自らの口内へと吐き出された唾液を貪りながら、シルビアは狂ったように真冬の腹へと何発もの拳を浴びせる。
暴虐を浴びて身を捩る真冬の動きが段々と鈍くなってきたのに気づき、シルビアの瞳に愉悦が宿った。
そして、突き上げるような渾身の一撃を真冬に見舞う。
真冬の喉が大きく
吐血。
シルビアと真冬の唇の間から鮮血が溢れ、滴り落ちる。
真冬の吐血を飲み干し、その口内の血も舌で舐め取ったところで、シルビアはようやく唇を放した。
「シンマラ、キスが下手になったナァ?」
「ごほっ、ごほっ……」
咳き込んで、真冬が力なく崩れ落ちかける。
シルビアは許さなかった。
愛剣の柄を真冬の太腿の間に押し当てる。
「はっ、くぅっ!」
「昔は、アタシがドンナに求めても、キス止まりだったよな。だが、今日はソウはいかナイぜェッ!」
ググッと力を込めて、真冬のズボンの股間部分を剣の柄で抉るように嬲る。
「くっ、あああっ……!」
真冬は両手を伸ばして必死に柄を退けようとするが、シルビアは容易にそれを許さない。
逆にさらに力強く押し込まれ、股間がメリメリと軋んだ音を立てる。
局部を乱暴に磨り潰される痛みに耐えかね、真冬は絶叫を上げて身を悶えさせた。
「ぐぅっ、うぐぁあああっ……」
「アタシとラーン以外の女は抱いたのかい? 一度も抱イテくれナカったってのに。ソレトモご無沙汰?」
煽るように目を細めてシルビアが、かつての師であり、姉であり、恋人であった女性に問い質す。
苦痛の声を上げるだけで答えられずにいる真冬の側頭部をシルビアが思い切り殴りつける。
「あぐぅっ!」
真冬は無様に床を転がった。
シルビアの愛剣に電撃が迸る。
両手を床につき、どうにかして上半身を起こした真冬はゆっくりと迫ってくるシルビアを見上げた。
目が霞むが、倒れるわけにはいかない。
「まだだ……」
「まだァ? まだ痛めつけられ足りナイってワケ?」
真冬は答えない。
代わりに屈せぬ意志を表わすように、床についた手に炎が宿る。
シルビアは屈折した冷笑を浮かべた。
「足りナクて当たり前ダ。コレからじっくりたっぷり嬲りに嬲って、アタシを裏切った報いを……」
こめかみに青筋を立てて、剣を振り上げる。
「受けさせてやるんだから!」
フランベルジュが狂った光を宿した。
刃に這った雷光がバチバチと音を立てる。
瞬間。
真冬が手をついていた床から炎が巻き上がり、紅蓮が二人の間を遮断した。
「!」
シルビアの視界を紅が包み込む。
「あきらめの悪い!」
シルビアが舌打ちし、紅蓮の炎を愛剣で横に薙ぐ。
彼女の視界を遮っていた障壁は容易に切り裂かれたが、跪いていた真冬の姿は消えていた。
焦げくさい匂いが充満している床には、炎で焼けた痕がはっきりと刻まれている。
火災報知機の警報が今更のように鳴り響き始めた。
耳障りな音を聞きながら、シルビアが不機嫌そうに呟く。
「シンマラめ、逃げ癖がついてやがる」
点々と床に滴り落ちた血が彼女の行方を雄弁に物語っている。
あの傷で逃げ切れるわけもない。
血の痕は、廊下の先の教室へと続いている。
『
「ホーム・エコノミクス? ……家政学かよ。ハン、よりによって一番縁のナイところに」
シルビアが嘲笑う。
音を立てて、乱暴に扉を開く。
黒い物体が視界に飛び込んできた。
シルビアは雷光の如き速度でフランベルジュを振り上げて、飛来物を両断した。
一瞬、目の前が白に包まれ、すぐに暗転した。
「ッ……!」
両目に激痛。
異物が目を直撃したのだろう。
瞼を開けることができない。
暗闇の中で、フランベルジュの一閃によって破れた紙袋とその中身と推測される砂のようなものが、床に落ちる音が耳に響いた。
「ナンだ、これは……」
視界を塞がれたが、シルビアは慌てなかった。
舌打ちしながら、両目の周囲を指で撫でる。
ざらついた感触。
指先を舐め、ペッと唾を床に吐く。
「小麦粉か」
家庭科室にあった唯一の目を晦ませるための道具といったところだろう。
有毒というわけでもない。
「粉っぽい目潰しだ」
そう呟くと、躊躇なく家庭科室へと踏み込んだ。
この程度の小細工で、本命の獲物を逃すほど、シルビアは甘くない。
もし今、真冬が動いたとしても、すぐに追撃できるだけの自信も能力もあるのだ。
「視覚を潰したのは褒めてヤるぜ」
四方から何かが飛んでくる。
だが、シルビアはこともなげに、そのすべてを斬り落とした。
耳に、先程と同じ紙袋のようなものが落ちた音と砂のようなものが落ちた音、そして、ガラスが割れる音や重い金属音が聞こえてきた。
この家庭科室にある小麦粉や機材を投げつけてきているのだろう。
「でも、アタシには電場がアルんだぜ。忘れたのか?」
電場、または電界。
デンキウナギやデンキナマズといった発電魚は微弱な電流を発生させ、これを展開し、周囲の様子を探知している。
シルビアは電撃を操る『
視覚を奪われようとも、精神を集中すれば、電場を展開し、レーダーのように索敵を行なうこともできるのだ。
「出て来いよ。部屋の隅で震えてるなんてのはアンタには似合わないッ!」
叫ぶが、返事の代わりに感知したのは、数個の飛来物。
それをいとも容易く斬り落としながら周囲を探知するが、真冬の気配は捉えられない。
面倒なことだ。
このまま家庭科室の奥まで侵入すれば、背後から逃げられる可能性もある。
真冬が出てくるか、視覚が回復するまで踏み止まるしかないが、シルビアは気の長い方ではない。
「早く出て来い。コンナちゃちな目晦ましナンざ無駄だぜ!」
電場を展開するという細かい作業も、本来の好みではない。
込み上げて来る衝動を抑えきれなくなってきていた。
「出て来ないってンなら、コノ部屋ごと吹き飛ばしてやってもイインだぜッ!?」
金切り声が響き渡るが、返事はない。
苛立ちに歯を噛み鳴らす。
「……時間稼ぎか。それとも、さすがにコレ以上は騒ぎを大きくできナイとでも思ってンのか。とんだ的外れだぜ」
シルビアが舌打ちして、こめかみに青筋が立つ。
――もう我慢できない。
最高の獲物はこの空間にいるのだ。
被害が拡大しようが知ったことじゃない。
シンマラさえ捕えて帰れば、ラーンも他の『ヴィーグリーズ』の幹部連とて文句は言うまい。
――そうだ。
出てこないなら、出て来たくなるように燻り出してやれば良いのだ。
「……吹き飛ばしてやる!」
シルビアが愛剣を振り翳す。
怒気とともに禍々しい雷光が刃に収束していく。
同時にまた何かが飛んできた。
シルビアは、やはり即座に反応した。
フランベルジュが一閃する。
紙袋が裂ける音。
途端、シルビアは周りに高熱が走るのを感じた。
見えぬ目の先で中空に舞う何かが発火したのだ。
そこでようやく気づいた。
この家庭科室に、小麦粉が大量に舞っているだろうことに。
そして、視覚を奪われてからの一連の飛来物はすべて罠だったということに。
鋭すぎる反応を利用して、飛来物を攻撃させることが、真冬の目的だったのだ。
シルビアを苛立たせ、強力な雷撃を使わせることが、目的だったのだ。
頭に血が上っていて、注意力が散漫になっていた。
「粉塵……! しまっ……!」
シルビアは全身が紅蓮の閃光に包まれただろうことを悟りながら、高熱と衝撃によって意識を失った。