魂を貪るもの
其の三 軋轢
2.覚悟

 翌早朝。
 神代神社はいつまた襲われるともわからないという理由から、ちとせたちは意識の戻った葵を連れて『Suono delle campana』へと移った。
「鈴音さん、大所帯で迷惑でしょ」
「ああ。朝っぱらから押しかけやがって、あたしの新婚生活をどうしてくれる」
 言葉とは裏腹に、鈴音はまったく怒っていない。
「ふふっ、でも、人数は多い方が楽しいよ」
 ちとせも全然困った様子はない。
 彼女たちにとっての挨拶のようなものだ。
「ちとせくん、お姉さんの様態はどうだ?」
 真冬が深刻な面持ちで、ちとせと悠樹に尋ねる。
「意識はしっかりしてるけど、自分で治癒するにしても、術を使えるようになるには、まだ時間がちょっとね」
 治癒術とて万能ではない。
 術者の気力と治癒される人間の体力がその効果を左右する。
 治癒術は肉体の新陳代謝を促進させることにより、傷を癒す効果を得る。
 肉体に一種の負荷をかけるといっても良く、治癒される側は体力を著しく消耗するのだ。
 体力がない状態で治癒を行なえば、逆に危険な状態にもなりかねない。
 それに治癒術は、肉体にもとから備わっている自然治癒力をも害する場合がある。
 ただ傷を治すだけならば単純なのだが、知識なしにむやみに扱えるものでもないのだ。
 治癒術自体は先天で使える人間が決まるが、葵が治癒術の使い手として一級の能力を有しているのも、その強い精神力と治癒術に対する造詣に帰するところが大きい。
 だが、今の葵の身体に刻まれたダメージは深く、精神的にも肉体的にも無理のできる状態ではない。
 安静にしていることが最良であるということを、一番理解しているのは、葵自身であろう。
「まあ、葵の看護はあたしとロックに任せなって」
 鈴音もロックも治癒術を扱うことはできないが、裏の世界で生きてきた分、実戦経験は豊富だ。
 薬草の知識や、怪我の治療にも慣れている。
 彼女たちに任せておけば間違いはない。
 ちとせもそれはわかっていた。
「ところで、学校はどうするんだ?」
 鈴音がちとせに聞いた。
 ちとせも悠樹も現役の高校生である。
 事態が事態なので、通常ならば授業を受ける受けない以前の問題だろう。
 だが、二人とも先の『ユグドラシル』事件の最中ですら英語の勉強をしていたので、鈴音もそこら辺を心得ての質問だった。
「行くよ」
 鈴音の予想通り、ちとせは即答した。
「『ヴィーグリーズ』も学校みたいな大勢の人目のつくところでは襲って来ないと思うし」
「先生、あんたはどうする?」
 『ヴィーグリーズ』とて、日のあたる場所で、自由に動けるわけではない。
 隠蔽工作をするにしても操作できる情報には限りがある。
 もし、人目ある場所で真冬の捕獲に失敗すれば、自分たちの正体を世間に晒すことになり、自分たちの首を絞めることになる。
 そんなことは百も承知だろう。
「確かにちとせの言う通り、行き帰りだけ気をつけりゃ、日中の学校はけっこう安全だと思うぜ」
 もちろん、だからといって学校にいれば百パーセント襲撃がないとは言い切れない。
 周到な結界でも張れば人目を避けることも不可能ではない。
 もっとも、それはどこにいても同じことで、百パーセント安全な場所というものはない。
 ただ今の真冬で満足のいく授業ができるかという問題はあった。
 教師は授業を行なわなければならない。
 そして授業を行なうならば、それは生徒の糧となる代物でなければならない。
 少なくとも、真冬にはそういう信念がある。
 それがなければ、今こうして、苦しんでなどいない。
 だが、真冬はもう逃げないと、昨夜誓ったのだ。
「私も学校へ行く」
 眼鏡の奥で瞼を閉じ、真冬が静かに言った。
「さっすが真冬センセだね」
 ちとせが真冬の顔を見上げて笑顔を浮かべた。
 昨夜のように弱々しい表情ではなく、ちとせが心から憧れるカッコイイ先生の顔に戻っている。
「ところで、ちとせくん」
 真冬がちとせに笑顔を返してきた。
「はい?」
 小首を傾げるちとせに、真冬が腕を組みながら少し悪戯っぽい視線を向ける。
「宿題のレポートはやったのか?」
「れ、れぽーと?」
 ちとせが焦った声を出す。
「化学のレポートだ。提出日は今日までだぞ」
「あ、あれ、そ、そういえば、そんなのがあったような気がする」
 昨日はあれほどごたごたしていて、レポートのことなどすっかり忘れていた。
 やる時間などあるはずがない。
 真冬はそれをわかっていて、あえて言ったのだ。
 カッコイイ先生であるために。
 そう振舞う必要があった。
 だが。
「ぼくはちゃんとやったよ」
 うろたえているちとせの横で、悠樹が静かに言った。
「ええ!?」
 ちとせが大声を上げて悠樹の顔を見返す。
 真冬も驚いた表情を浮かべている。
 悠樹はレポートの紙を取り出して、ひらひらと振った。
 文章がぎっしり詰まっている。
 どうやら本当にやってあるようだ。
「ぼくは化学研究部ですからね」
「そ、それはそうだけどさ」
 理由にならない理由を答えられ、ちとせが困惑した表情で頭を抱えた。
「あっ、悠樹、そういえば……」
 そのやり取りを見ていた鈴音が思い出したように悠樹に尋ねる。
「あたしのバイクはどうした?」
「あははっ、そっちは神社に忘れました」
 笑いながら頭を掻く悠樹。
「あははっ、じゃねぇって」
「とりあえず、キーは持って来てますから返しときますね」
 ポケットからバイクのキーを取り出して鈴音に渡す。
 どうやら本当に忘れていたわけではなく、葵を抱えてきたために置いて来ざるを得なかったようだ。
 それでもその場のノリでとぼけた調子に振舞うところに悠樹の良さがある。
 特に鈴音は彼のそういうところを気に入っており、ちとせと一緒にいると悪ノリの持ち味が出るとも感じていた。
 真冬もまた敏感に教え子の気遣いを感じ取っている。
「さあ、そろそろ行かないと遅れてしまうぞ」
「うあ〜、レポートどうしよ〜!」
「まっ、ちとせのレポートはさて置き、葵のことは任せておきな」
「だ〜う〜、さて置かないで欲しいけど、姉さんのことはお願いね」
 頭を抱えながらも、鈴音に葵を頼んで、ちとせは愛用のスポーツバッグを手にした。
「早く行って、授業の前にあっちで書かなきゃ」
「がんばってね」
 悠樹が笑顔で、ちとせの肩をポンポンッと手で叩いて励ます。
 しかし、その口調は完全に他人事だ。
 ちとせが恨めしそうに悠樹に悠樹を振り返る。
「応援するくらいなら、見せてよ」
「ダメ」
 笑顔のまま拒否し、レポートを鞄に仕舞う悠樹。
 にべもない。
「ケチ」
「ダメなもんはダメだって。んじゃ、鈴音さん、いってきますね」
 悠樹は物欲しそうなちとせを尻目に鈴音に軽く頭を下げ、玄関に向かって歩き出した。
「ああっ、ちょっと、待ってよ!」
 ちとせも鈴音に目だけで挨拶して、慌てて悠樹の後を追う。
 鈴音は前髪をかき上げ、ため息を吐いた。
「元気だな、あいつらは」
「フフッ、私も置いていかれないようにしないと」
 真冬も二人に続いて自分の鞄を手にして鈴音に頭を下げた。
「いってきます。かな」
「『かな』は余計だぜ」
「過去から逃げ出してからは、ずっと独り身だったものでね。どうも慣れないな」
「すぐに慣れるさ。それこそ、あいつらと一緒ならね」
 気恥ずかしそうに苦笑する真冬に、鈴音がウィンクで答えた。
「なるほど。それでは、今度こそ」
 真冬は深呼吸して、もう一度、鈴音を正面から見た。
 どうも肩に力が入りすぎている。
 真冬も鈴音もお互いに吹き出しそうになるのを何とか耐える。
「いってきます」
「ああ、いってらっしゃい。気をつけてな」
 鈴音が親指を立てて、真冬を送り出した。

 シギュン・グラムは一人、蒸留酒(スピリッツ)をオン・ザ・ロックで傾けていた。
 氷の入ったオールド・ファッションド・グラスに注がれた無色の液体は、透明で美しかった。
 コンコンとドアがノックされ、外から抑揚のない声がかけられた。
「お呼びでしょうか」
「来たか、ラーン。入れ」
 "氷の魔狼"はソファに腰掛けたまま、ドアに視線だけを向けた。
 青き髪のラーン・エギルセルがドアを開け、部屋に入ってくる。
 その顔は水面のように無表情だった。
「飲むか?」
 シギュンがテーブルの上に置かれた蒸留酒のボトルを示す。
 アクアビット。
 ラテン語の『生命の水(アクアウィータエ)』を語源とする北欧の蒸留酒だ。
 ふと、ラーンは思い出した。
 ミリア・レインバックもまた、葡萄酒(ワイン)よりも、この蒸留酒を好んで飲んでいるはずだ。
 生命を貪る"氷の魔狼"や夢魔が、『生命の水』を愛飲していることに多少の皮肉を感じつつ、ラーンは首を横に振った。
「出撃前ですので」
 ソファに座る様子さえないが、シギュンも無理には勧めなかった。
「シルビアはどうしている?」
「それは……お聞きになるまでもないでしょう」
 先の神代神社への襲撃に対する独断専行は罪に問われなかった。
 そして、シルビアの性格上、汚名は返上せねば気が済むはずもなく、昨晩、ランディからの再出撃の許可も取り付けている。
「私が戻ればすぐにでも、一緒に出るつもりです」
 シギュン・グラムに呼ばれさえしなければ、すでにラーンとシルビアは行動を開始しているはずだった。
 今、シルビアは準備を終えて、ラーンが戻ってくるのを待っている。
 ラーンとしても、この場を早々に切り上げたかったが、それは顔には出さずにいた。
 シギュンが懐から煙草を取り出し、マッチで火を点けて口に運ぶ。
 大量に吸い込んだ煙を吐いてから言葉を紡いだ。
「『猫ヶ崎高校』で神代ちとせを待ち伏せし、捕らえた上で拷問にでも掛け、シンマラの居場所を吐かせる。そのつもりか?」
「少なくとも、お嬢はその気です。今のところ、シンマラ師の行方の手掛かりは彼女だけです。もちろん、彼女が姿を見せるかはわかりませんが、『猫ヶ崎高校』を見張るのが最良の手段と判断したものです。師自身が姿を現す可能性は低いでしょうから」
「悪くはない。だが、甘いな」
「……甘い、ですか」
「シルビアに派手にはやらせるなよ。あの赤毛はキレると限度を知らんからな」
「……私も全力でサポートに当たります」
 シギュンの辛辣な言葉を受けて、ラーンの視線が厳しくなる。
「シルビアをバカにするなと、そう思っているのだろう?」
 白皙の美貌を欠片も崩すことなく、シギュン・グラムがラーンへと確認するように言う。
「お嬢とて分別はあります」
 ラーンの口調がやや荒くなる。
「……シギュンさま、シンマラ師だけではなく、『神代ちとせ』も頂きますよ」
 相手が筆頭幹部であるということもあって、ラーンもシギュン・グラムに対しては、それなりの敬意を持って接しているつもりだ。
 だが、愛するシルビアを侮辱され、挑発的になる自分を抑えられなかった。
「私はおまえのことは買っているのだ」
 一方のシギュンはラーンの態度に気分を害されたという様子はない。
 虚ろでありながら鋭い狂眼でラーンを見ながら、紫煙を吐く。
「シルビアを抑えられるのは、おまえだけだということを忘れるな」
 シギュンはシルビアの情緒の不安定さを危ぶんでいる。
「そのおまえが、シンマラが姿を見せる可能性は低いなどと思っていると、取り返しのつかないことになる」
 はっとしたようにラーンの顔色が変わった。
 お嬢にも分別はある。
 そう言ったものの、それは実のところ、神代ちとせを相手にした場合だけなのだ。
 シンマラ師には昨夜の戦いによるダメージも残っているはずだ。
 それに神代神社が襲撃されたことで警戒心も高まっているだろう。
 神代ちとせですら姿を現すかわからない状況で、シンマラが姿を見せる可能性はさらに低い。
 ラーンは頭の片隅で、そう決めつけていた。
 シンマラ師を求めながら、シンマラ師が来ないことを願っていたのか。
 だが、もし、シンマラ師が現れれば、シルビアは感情のままに暴走するだろう。
 それを止められるのは、一緒に出撃するラーンしかいないのだ。
 シギュン・グラムから改めて指摘され、ラーンは自分の認識の甘さを思い知らされた。
「私の獲物にちょっかいを出そうが、シンマラの捕縛に全力を傾けようが一向に構わん」
 シルビアにすれば、シンマラの行方を探ると同時に、ちとせを襲うことがシギュンに対するあてつけでもあるのだ。
 しかし、シギュン・グラムにとってはどうでも良いのだ。
 元々、彼女の頭の中では、ちとせとシルビアでは比べ物になっていないのだから。
 だから、今回の作戦の成否よりも、『ムスペルヘイム』計画全体への影響を考慮できた。
「だが、目立つ場所では決して手を出させるな。騒がれれば計画自体に響きかねん」
 あえて、ラーンをこの場に呼んだのは彼女に覚悟を再認識させるためだった。
 シギュンは紫煙を吐き、もう一度念を押すように言った。
「だから、ラーン、おまえがコントロールしろ」
「……心しておきましょう」
 今度はラーンも不服そうな態度は見せず、深々と頭を下げた。


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