魂を貪るもの
其の三 軋轢
1.理解

 カツカツカツと靴音を立てて、ミリア・レインバックが『ヴィーグリーズ』の本拠、『ナグルファル』の廊下を優雅に歩いている。
 ラーン・エギルセルによるシンマラ捕縛は失敗し、シルビア・スカジィルの独断専行によるシンマラ追跡も成果はなかった。
 総帥ランディ・ウェルザーズと、筆頭幹部シギュン・グラム、先日日本に到着したばかりのファーブニル老人、そして、ランディの第一秘書であるミリア・レインバック。
 この四人で先程、報告会を行なった。
 プロジェクト『ムスペルヘイム』の成就のためには、『レーヴァテイン』の在り処を知っているシンマラの捕縛がどうしても必要だ。
 だが、ラーンの調査によれば、シンマラは、先の『ユグドラシル・プロジェクト』の邪魔者であり、同時に実行者へと仕立て上げた神降ろしの少女とその仲間とに合流した。
 このことで、その捕縛が困難となった。
 しかし、ランディは今まで捜索網を巧みに逃れていたシンマラの姿を確認できたことだけでも良しとしようと述べ、ミリアたちも各々頷いた。
 話がシルビアの独断専行の件になると、彼女の守り立て役であるファーブニル老は顔を青くしていたが、ランディはシルビアの罪は問わなかった。
 意外なことにシギュン・グラムは報告会の間、終始どこか物憂げに耳を傾けているだけだった。
 ミリアには、それが不思議でならない。
 誇り高き魔狼が、右腕の復讐を誓った神降ろしの少女の話にも表情一つ変えず、その少女に対して独断で攻勢をかけたシルビアを弾劾することもなかったからだ。

 ――筆頭幹部殿は変わられた。
 ミリアは、そう思わざるをえない。
 どこが、と、具体的にはわからない。
 しかし、この猫ヶ崎に来る前とは明らかに違うような気がした。
 何かが違うのだ。
 『ユグドラシル・プロジェクト』と『ムスペルヘイム・プロジェクト』の二つの計画を通して最終的に魔界を浮上させる。
 その壮大な計画を聞いた当時、シギュンは精力的な興味を見せていた。
「地獄を覗くのも一興だ」
 もうこの世界では私は楽しめない。
 過去にそう言って、彼女が奇妙な笑みの形に唇を歪めいたのを今でも鮮明に覚えている。
 その頃のシギュンと今の彼女では何かが違った。
 刃のように鋭い眼差しはあの頃と変わらなかったが、今は物思いに耽っていることが多いように思える。
 ミリアが思い当たるのは唯一つ。
「あの少女が原因かしら」
 神代ちとせ。
 シギュン・グラムから見れば、いや、ミリアから見てさえ、ただの小娘に過ぎない。
 だが、シギュンは右腕を奪われてから、その小娘に執着している。
 初めは確かに憎悪を小娘にぶつけ、屈辱を返すことを望んでいたようだった。
 しかし、今のシギュンは明らかに少女へ憎悪以外の何かを向けている。
 ミリアとは無縁の心理ではあるが、強い相手を望むというであれば、わからなくはない。
 欲望の形は無数にある。
 戦士のそれの一つは常に強者を求めることだろう。
 己を高みに持っていくために、より強い相手と戦うことを望む。
 だが、小娘はシギュンよりも、明らかに弱い。
 それに単に強い相手を望んでいるならば、裏世界最強といわれた"凍てつく炎"織田霧刃を姉に持つ織田鈴音もいる。
 霧刃自身は『ヴィーグリーズ』の拠点であった『ヴァルハラ』の崩壊に巻き込まれて生死不明になっているが、妹の鈴音は健在だった。
 その鈴音も抜きん出た力を持つ退魔師であり、『ヴァルハラ』崩壊前には霧刃を剣で征したとの情報も入っている。
 他にもランディ・ウェルザーズの分身体と刃を交えた影野迅雷という男もいるはずだ。
 しかし、そのどちらの猛者もシギュンの眼中にはないようだった。
 そこがミリアにはわからない。
 ミリアにとって、ちとせなどは、あまり興味の沸く相手ではなかった。
 対峙した時も、小生意気な小娘だと思っただけだった。
 それよりも、ちとせの傍らにいる少年、八神悠樹に関心を惹かれる。
 彼は、仲間になる振りをして自分を見事に騙した。
 ヘルセフィアスが自分に接近してくるように、自分が鈴音の姉、"凍てつく炎"織田霧刃のことを嫉妬し、ランディへ不満を抱いていると思わせるために鈴音を捕らえて拷問にかけた。
 それは裏切り者であるヘルセフィアスの粛清と、『ユグドラシル・プロジェクト』の一環としての演技だった。
 だが、その計画の中で霧刃への嫉妬だけは本物だった。
 それには計算も嘘もなかった。
 気に入らない。
 無性に気に入らなかった。
 だから、鈴音への拷問は凄惨を極めた。
 霧刃への憎しみを転写して、徹底的に痛めつけてやった。
 しかし、鈴音は八神悠樹によって救われた。
 それも、ミリアを出し抜くような形で。

 ミリアは無意識のうちに爪を噛んでいた。
 苛立った時の彼女の悪癖だった。
 がりがりがりと、美しい顔をしながらも、不気味な音を立てて激しく爪を噛む。
 ばきんっ。
 ついに大きな音を立ててミリアの爪が割れた。
 そこで、ミリアの思考が止まった。
「なるほど。これね」
 割れた爪を奇妙な顔で見つめながら、シギュンの神代ちとせに対する想いが少しだけ理解できた。
 わたくしが風使いの少年への苛立ちが消えないように、筆頭幹部殿も降魔師の少女への興味が尽きないのだろう。
 心を離さない相手なのだ。
「でも、わたくしはやはり、筆頭幹部殿とは違うわ。それ以上は理解できない」
 ミリアが手を振ると割れた爪は何事もなかったように元の奇麗な姿を取り戻した。
 失った右腕を屈辱として再生させないシギュンと、すぐに美しさを取り戻したい自分。
 シギュン・グラムは神降ろしの少女に苛立ち以外の感情を持っているが、自分は風使いの少年へは警戒感と復讐心しか浮かばない。
 根本から違うのだから、理解できるわけがない。
 そして、正反対ともいえるからこそ、自分はシギュンに好意を抱いているのだと不思議な納得感が沸いた。
「正反対ね、本当に」
 ミリアは可笑しくなった。
「あの少女は筆頭幹部殿の獲物。そうなると、あの坊やはわたくしが仕留めてあげようかしら」
 復讐を兼ねた遊びにはちょうど良い。
 無論、自分が少年の相手をするとしても、プロジェクト進行中に機会があればの話だが。
「何にしろ、シンマラを追い詰めなければ、何も始まらないわね」
 追い詰めれば、降魔師の少女も、風使いの少年も、必ず姿を現す。
 だが。
 シンマラは、プロジェクトの成否を握る重要な存在ではあっても、個人的には狩るべき相手ではなかった。
「シルビアとラーンの獲物……といえるかどうか」
 シルビアは当然にそう思っているからこそ、独断専行まで行なったのだろう。
 それに早速次の出撃の許可まで求めてきている。
 シンマラの足取りを掴めるとは思えなかったが、シルビアの熱意を作戦に利用しない手はない。
「フフッ、とりあえずはお手並み拝見ね」
 シルビアが次の出撃でシンマラを捕えられれば良し、失敗したとしてもその後の波紋はミリアの思惑の中にあった。
 ミリアはこの状況を楽しんでいる。
 ――そうだ。
 せっかくの宴なのだ。
 プロジェクトの成就が前提にある。
 だが、宴は楽しまなければならない。

 シルビア・スカジィルは『ナグルファル』の地下に作られた鍛錬場にいた。
 企業という建前を持つ『ヴィーグリーズ』では異端の場所だろう。
 窓の一つもなく、無骨な雰囲気で彩られ、冷ややかな空気が漂っている。
 シルビアは一人そこで演舞を行なっていた。
 愛剣を振るうたびに、空気が鋭い鳴き声を上げる。
 ――シンマラ!
 師であり、最愛の人であり、そして憎くて仕方のない女の名。
 剣風を通じて、シルビアは叫び続けていた。
 ――シンマラ! シンマラ! シンマラ!
 まもなく再会できる。
 そう思うと、憎悪と歓喜に捻れた心が打ち震える。
 ぴりぴりと電撃が剣の刃を伝わる。
 気持ちが昂ぶり、興奮がシルビアの目の前にシンマラの幻影を浮かばせる。
「シンマラ!」
 力強い踏み込みから、突きを繰り出す。
 電光石火。
 切っ先から迸った電撃がシンマラの幻を貫き、遥か前方の壁をも焼いていた。
 大きく息を吐いて剣を納め、弾んだ息を整えながら額の汗を拭う。
「お嬢」
 ふと、後ろから声がかかった。
 真紅のツインテールを揺らしながら、振り返る。
「ラーン!」
「剣術の鍛錬なんて珍しいわね」
「鍛錬って程じゃない。いろいろと発散させたかっただけ」
 ぎらついた瞳をラーン・エギルセルに向けるシルビア・スカジィル。
 いてもたってもいられないのだ。
 ――シンマラをこの手で!
 そう思うと剣を手にせずにはいられなかった。
 ラーンにもシルビアの情緒の不安定さはわかっている。
「そういえば、教え子さんたちの方はどうだったの?」
「潰し甲斐はあるよ」
 シルビアの目が凶悪に光った。
 憎しみの宿ったシルビアの目は悪鬼のようだった。
「ラーン、明日、出撃するぞ」
「明日?」
「『猫ヶ崎高校』だ。今度はちゃんとランディさまの許可は取った」
「……シンマラ師が来るとは思えないわ」
「わかっているさ。神代ちとせを狩るンだ。シンマラの居場所を吐かせてやる」
「でも、その神代ちとせも来ないかも」
「ソレでもイイ。シンマラの手掛かりがあるのに、じっとしているとおかしくなりそうなんだよ」
「お嬢」
 お嬢は昔と変わってしまった。
 心が捻れてしまった。
 シンマラ師がいた頃は、残忍さは持っていたものの、純粋だった。
 愛剣を禍々しいフランベルジュに変えたのも、毒々しいゴシック・ドレスを好むようになったのも、シンマラ師が『ヴィーグリーズ』を、いや、私たちを裏切ってからだ。
「ラーン。オマエはアタシを裏切るな」
 シルビアの細い腕がラーンの首に絡み付いてきた。
 背の低いシルビアが見上げるようにラーンの顔を覗き込む。
 冷たくも、哀しい、そして、燃えるような呪詛の宿った瞳がラーンを見つめている。
 裏切るな。
 裏切れば、殺す。
 シルビアの激しい光を宿す双眸がそう言っていた。
 ラーンは心の中だけで笑った。
 ――私がお嬢を裏切るはずがない。
 お嬢のためなら何でもできる。
 シンマラ師のことは心から尊敬していたが、お嬢のように心が捻れるまで愛してはいなかった。
 もちろん、自分たちを捨てた師に憎しみと執着がないわけではない。
 だが、裏切られた時も、再会した時も、殺したいほど激しく憎いとは思わなかった。
 ただお嬢の心の痛みを察すると、憎しみが無尽蔵に湧き上がって来る。
 私が深く愛してやまないのは、お嬢なのだ。
 私が心の捻れるまで愛しているのは、お嬢なのだ。
「私はお嬢を愛しているのよ」
 ラーンがシルビアと唇を重ねる。
 シルビアも拒まない。
 むしろ、積極的に、ラーンの唾液を味わった。
 シルビアがラーンの豊かな胸へと手を伸ばし、欲望のままに揉みしだき始める。
 それに呼応するようにラーンもシルビアのスカートの中へと手を潜り込ませた。
 双方の口から喘ぎ声が漏れる。
 お互いに貪り、お互いを強く抱きしめた。


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