魂を貪るもの
其のニ 禍々しき雷光
5.決意

 シルビア・スカジィルという名の憎悪の雷雨が去り、神代神社に静寂が戻った。
 ちとせは、ほっと息を吐いた。
 素直に夜の冷えた空気が美味しい。
 背中の傷は酷く痛んだが、それ以上にシルビアの撒き散らしていた憎悪から解放された安堵感が全身を支配している。
 だが、いつまでも安穏としていられる状況ではない。
 すでに悠樹が、姉を抱き起こしているのが見えた。
「悠樹!」
「葵さんなら大丈夫。意識を失っているけど、命に別状はないと思うよ」
 そう言いながらも、悠樹は眉をひそめた。
「まあ、傷自体は大丈夫とはいえないけどね。肩からの出血は酷いし、吐血の痕跡もあるし」
「早く手当てしないと。とりあえず、寝室に運ぼう」
「ちとせの傷は?」
 ちとせの背中に両肩から交差するように斜めに刻まれた痛々しい血の十字架が悠樹の目に入った。
 深手とは思われないが、斬られたというよりは抉られたようにも見える痛々しさがあり、放っておいても良さそうな傷ではない。
「ちょっと痛むけどね、姉さんを介抱する方が先よ」
 ちとせの額には汗が浮かんでいる。
 眉根も寄せられており、苦悶の表情にならないように苦心しているのは明白で、「ちょっと痛む」どころではなく、激痛に苛まれているはずだ。
「了解」
 悠樹は気づかないフリをして頷いた。
 こういう時のちとせには逆らっても無駄だとわかっている。
 彼女にとって自分以外に傷ついている人間がいる場合、自分がいくら傷ついていても目の前の怪我人を助けることが優先されるのだ。
 ましてや今、ちとせの目の前で傷ついているのは、敬愛して止まない己の姉であるわけだから、尚更だった。
 それに葵が重傷なのも事実なので、悠樹も唯々諾々とちとせと協力して葵を寝室へと運ぶことにしたのは言うまでもない。

「だっ、どっ、きゃあ!?」
 ちとせが奇声を上げて飛び上がった。
「染みる染みる! もっと、やさしくやってよね!」
 ちとせが目に涙を溜めて後ろを振り返る。
「無理無理」
 悠樹が消毒液を染みこませたガーゼを摘まんだピンセットを左右に振った。
 ちとせは悠樹に背中の斬傷の手当てを受けているところだった。
 傷を受けた箇所が背中のため、ちとせは上着を脱いで、斬撃によってベルトの背中部分が千切れたブラジャーの肩紐を外したなかなか際どい格好をしている。
 両手で下着の前面を押さえているものの、消毒液が傷口に染み込む痛みに飛び上がった瞬間、危うく手を放しそうになり、慌てて両手に力を込めた。
「無理でも、染みないようにしてよ」
「う〜ん、そんなこと言われても。……やっぱ無理なものは無理。我慢我慢」
 ちょいちょいと指で薬を傷に塗り込む。
「あうあっ、あうあっ、あうあっ!」
 再び、ちとせが奇声を上げる。
 いくら霊気を傷口に回して治癒力を高めてはいるものの、そうそう簡単に治るものではない。
 治癒術に長けた者がいれば、体力と引き換えに新陳代謝を高めて傷口を塞ぐのは容易だが、ちとせにも悠樹にも治癒術の才能はない。
 生命を司るともいえる治癒の術だけは、いくら修行を重ねても才能がなければ、ほとんど使役することも不可能という先天の能力だった。
 その治癒術を唯一使えるのが、ちとせの姉の葵だったが、今の彼女はちとせ以上に重傷であり、意識も戻っていない。
「あとは包帯を巻いてっと。これで大丈夫だとは思うけど」
「ありがと。んじゃ、役得はここまで☆」
 包帯を巻いた肢体の上から新しいブラウスを着直して、悠樹にウィンクをするちとせ。
 同居している幼なじみ相手とはいえ、男性の前に素肌を晒すのだから、気恥ずかしさを伴うはずなのだが、相手が悠樹だとちとせもガードが甘くなる。
 悠樹に甲斐性がないと思っているわけではなく、理性というものの量が多いということを理解しているのだ。
 これは姉の葵にしても、悠樹と同居していても何の不安を持っていないことから、神代姉妹共通の認識だろう。
 ちとせの両親や悠樹の家族にもいえることかもしれない。
「役得って言われても、治療は治療」
 悠樹はそう答えたが、ちとせのスタイルは抜群に良い。
 毎日欠かさず行なっている短距離走のトレーニングで絞っているだけあってウエストは引き締っている一方で、胸は十代後半という年齢でありながら深い谷間ができるほどに豊かなのだ。
 要するに、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるスタイルをしており、健康的な色香を感じずにはいられない。
 いくら理性が強いといっても、悠樹も年頃の少女の半裸に近い身体に触れれば、やはり意識してしまうところはあるのだろう。
 涼やかな表情で応答しながらも、頬が微かに上気している。
 そんな悠樹の表情を横目で見ながら、ちとせは満足そうに頷き、リボンを手に取って髪の毛をロングテールに結った。
 そして、テーブルの上に置いてある携帯電話に手を伸ばした。
「とりあえず、鈴音さんに連絡入れとこっか。センセも心配してるだろうし」
「シルビアのことは?」
「言うわ。黙ってるわけにもいかないしね」
 ただでさえ気落ちしている真冬に追い討ちをかけるようで気が引けるが、言わないわけにはいかない。
 シルビアは真冬を狙っているし、『ヴィーグリーズ』の幹部でもあるわけだから、これからも決して関わらずにはいられないのだ。
 さすがに今夜また襲撃があるとは思えないが、備えはしておかねばならない。

「ああ、大丈夫だ。任せとけって。んじゃ、ちとせたちも気をつけてな」
 受話器を置き、鈴音は真冬へ視線を戻した。
 ちとせからの知らせを受けてから、真冬は明らかに気落ちしていた。
 シルビア・スカジィルが神代神社を襲撃し、ちとせとその姉の葵を傷つけたとの話を受けたのが、やはり衝撃的だったのだろう。
 『ヴィーグリーズ』は、ちとせとも因縁が深いが、シルビアは真冬を狙っている。
 現に彼女が神代神社を襲撃した目的は、ちとせを襲うことではなく、真冬の居場所を掴むことだった。
 ちとせたちと一緒にいたということをラーン・エギルセルから聞いたのだろうということは予測できた。
 だが、シルビアの情報収集力の早さと執拗さは、予想以上のようだ。
 真冬は項垂れていた。
 ここに居続ければ、目の前にいる鈴音という女性にも、彼女の夫にも必ず迷惑がかかる。
 聞いた話では新婚だというではないか。
 これ以上厄介になることはできない。
 決意を持って顔を上げ、真冬は鈴音を正面から見た。
「先生、そんなに暗い顔すんなよ」
 鈴音が真冬の心情を察して、ことさら明るく声をかけた。
「出て行こうと思ってんだろうけど、そいつはダメだぜ。あたしがちとせに殴られる」
「しかし」
「あたしもね。あんたの気持ちは良くわかるよ」
 この街に来た時は、自分も同じように独りだったと鈴音は言った。
 そして、偶然にも神代家で世話になることになり、ちとせたちを巻き込むことを恐れて神代家を出たが、それは間違いだった。
 ちとせたちに心配をかけ、必死に鈴音を探させることになり、彼女たちを無用な危険に晒すだけの行為だった。
 だから、切羽詰っている時に助けてくれる人間がいるのなら、思い詰めて自分自身だけでどうにかしようとせず、差し伸べられた手の温もりに身を任せるのも良いことだと言った。
「それに、ちとせのためにも先生の力は必要だと思うぜ」
 鈴音は前髪をかきあげた。
「『ヴィーグリーズ』に狙われてるのは、ちとせも一緒だしな。力を合わせたほうが切り抜けやすいとだろうよ」
「しかし、私がここにいては、あなたや旦那さんに迷惑が……」
「あたしもロックもちとせを見捨てる気はないし、先生がここを去っても危険度は変わんねぇよ。だから、先生はゆっくり羽を休めなって」
「あなたは、なぜそこまで?」
 真冬の問いを受けて、鈴音は再び前髪をかきあげた。
 理でも、利でもない。
 情だと鈴音は思う。
 人としての、情。
「ちとせには恩があるからね。行き倒れのあたしを助けてくれて、力にもなってくれた」
 もっとも、と鈴音は付け加える。
「んまぁ、それは建前で、恩がなくても助けるけどな。先生もそうだろ?」
 鈴音がもう一度前髪をかきあげながら、少し照れくさそうな表情をした。
 普段はこういうことは恥ずかしくて言えない。
 そのためにあるのが、建前だからだ。
 しかし、真冬のために今は本音を言わねばならなかった。
 困っている人間がいたら助ける。
 それだけのことじゃないか、と鈴音は言う。
「それも、……そうですね」
 真冬は深く頷いた。
 簡単なことだ。
 真冬は生徒にいつもそれを教え、生徒は真冬にいつもそれを習った。
 ただ置かれている状況が日常から飛躍しているだけだ。
 基本的なことは何も変わらない。
「皆、お互い様なのさ」
 鈴音と話しているうちに、真冬はやや落ち着きを取り戻していた。
 そして、思う。
「迷惑をかけるということを理由にして、私はまた逃げようとしていたのか」
 今度は逃げるわけにはいかない。
 シルビアやラーンから逃げるわけにはいかない。
 立ち向かうべき過去であり、現在であり、未来であった。
 そして、ちとせも"氷の魔狼"シギュン・グラムという困難な敵に立ち向かわなければならない。
 生徒の力になれずに、何が教師だ。
 ちとせや悠樹の力になれるのは、『ヴィーグリーズ』に所属していた私なのだ。
 この子たちの未来を守りたい。
 ランディ・ウェルザーズという一個の恣意(しい)によって台無しにはさせない。
 シギュン・グラムという"氷の魔狼"に未来を喰らわせはしない。
 そして、シルビア・スカジィルとラーン・エギルセルを止めるのも、自分の役割だ。
 それは報いでも償いでもない。
 けじめだ。
 その想いは真冬に勇気を与えた。
「改めて」
 先程とは違う決意を秘めた表情で、真冬が頭を下げる。
「ご迷惑をかけますが」
「構わないって」
 真冬からここを出て行く気配が消えたのを察して、鈴音はやさしい微笑みで応えた。


>> BACK   >> INDEX   >> NEXT