魂を貪るもの
其のニ 禍々しき雷光
1.イタリア料理店
「というわけ」
ここは、猫ヶ崎高校からさほど離れてはいない場所にある『Suono delle campana』という名のイタリア料理店。
南イタリアに位置するシチリア島出身のシェフとその妻である日本人女性が二人だけでやっているため、大きな店ではないが、家庭的な雰囲気に溢れた明るい店だ。
最近開店したばかりだが、料理の評判も良く、繁盛しているようだった。
「何が、『というわけ』なんだか」
お盆を持った長身の女性が、ちとせに向かって肩をすくめる。
年の頃は二十歳前後、エプロンの上からでもわかるしなやかなプロポーションが健康的な色気を醸し出している。
長い髪の毛は邪魔にならないように首の後ろで纏め、背中に流している。
美しい顔立ちをしていて、勝気な瞳が印象的だ。
彼女の名は、鈴音。
この店のシェフの妻だ。
並外れた腕を持つ退魔師であり、天武夢幻流という無双の武術の使い手である。
また、実の姉を探し求めてこの猫ヶ崎に辿り着き、先の『猫ヶ崎隔離事件』において、ちとせたちとともに『ヴィーグリーズ』と戦い、元凶たる世界樹を制した女性でもあった。
「だって、ここが一番安全かなって。最強の人妻がいるしっ」
「だぁれが最強の人妻だ!」
「鈴音さんに決まってるじゃない。今ここにいる人妻は鈴音さんだけだしね☆」
ちとせのからかうような口調に、鈴音の顔が真っ赤に染まる。
怒っているのではなく、人妻と呼ばれるのが恥ずかしいのだろう。
鈴音は『WHERUZAS』との戦いを通して、命を懸けて実の姉と刃を交えたが、その結果、彼女の姉は姿を消し、その生死すら解からない状況になってしまった。
しかし、その代わりというわけではないが、最愛の伴侶、この店のシェフであるロックと結ばれることができた。
「で、ダンナさんは?」
「今、鍋とか食器とか片付けてる。もうすぐ来るよ」
「あの迷惑だったのでは?」
ちとせと話すのに夢中の鈴音に、真冬が神妙そうな顔で声をかける。
鈴音は笑顔で首を横に振った。
「ははっ、いや、そんなことないですよ」
「だが、このお店も営業が……」
「今夜は予約も入ってなかったし、気にしないでください。はい、ハーブティー。特別製のね」
鈴音が微笑みながら、真冬の前にハーブティーで満たされたティーカップを置く。
「それにちとせには大分世話になってるし、そうじゃなくてもケガ人を放っておくわけにはいかないしね」
「申し訳ない」
ハーブティーの香りが、頭を下げる真冬を包み込む。
その暖かな香りだけでも心身の疲れが取れていくような感じがする。
鈍い痛みの残っていた腹部からも、痛みが退いていく。
ちとせと悠樹の前にも、鈴音がハーブティーを順々に置いた。
そのやさしい香りにちとせが気づいて、鈴音に笑いかけた。
「姉さんに貰ったヤツでしょ」
「ああ、体力と気力を回復してくれる優れモンだな」
ちとせの姉、葵は神代神社で神職の代行者として両親不在の神社を取り仕切っている。
葵は類まれなる治癒術の使い手で、先の戦いのときも、負傷したちとせたちの回復役として大層な働きを見せた。
また、葵は治癒や解毒の効能のある秘薬や秘具に関しての造詣も深い。
このハーブも鈴音が葵に貰ったものだった。
ハーブティーに口をつけて、再びパスタにフォークを伸ばすちとせ。
はむはむっとパスタを食べるちとせを、鈴音が身を乗り出して覗き込む。
「ところで、ちとせ」
「何?」
「そのパスタなんだが……」
「うん、おいしいね、これ。猫もまっしぐらだね」
「ホントか? よっしゃっ!」
カポナータのパスタに対するちとせの感想に、鈴音がガッツポーズを取る。
「ん、もしかして、このパスタ、ロックさんじゃなくて鈴音さんが作ったの!?」
「ははっ、そうだぜ」
「鈴音さん、料理上手いんだね」
「ロックの教え方が上手いからな」
照れが出たのか、頬を微かに紅く染める鈴音。
ちょうどその瞬間、奥の厨房からシェフの格好をした青年が顔を見せた。
「鈴音サンが真面目に朝夕努力してるからですヨ」
「ロック!」
鈴音の顔の赤みが増す。
厨房から現れたのは鈴音の夫、ロックだった。
「ロックさん、ばんは」
「こんばんは」
「
ロックはちとせと悠樹に笑みを浮かべながら挨拶を返し、初対面の真冬に礼儀正しく頭を下げた。
「料理長のロックです」
「私は豊玉真冬と申します。猫ヶ崎高校で教鞭を執らせて頂いています」
真冬も挨拶を返して頭を深々と下げる。
「ちとせと悠樹の担任の先生だってさ」
鈴音が言い足し、ロックは笑顔のまま頷いた。
「そうですカ。ちとせサンと悠樹クンにはいろいろ世話になりましてネ。ゆっくりしていってくださいネ」
「ええ、申し訳ありませんが、お言葉に甘えさせて頂きます」
「では、鈴音サン。オレは明日の料理の仕込みがあるんで」
「悪いな、ロック」
鈴音がウィンクをすると、ロックは鈴音に片手を上げて応え、奥へと引っ込んだ。
「さてと」
夫の姿を見送り、鈴音は、ちとせたちのテーブルとは別の椅子を引っ張り出して腰掛けた。
脚を組み、背もたれに思い切り寄りかかりながら、ティーカップを手にする。
これ以上なくリラックスしているのだが、鈴音の目は刃のように鋭い。
ただ冷たい感じではなく、優しく、暖かい。
その独特の視線をちとせに向けている。
「本題といこうぜ」
「そだね」
鈴音の言葉に、ちとせが曖昧に頷いた。
ちとせは真冬をここに連れてきた時に、襲撃されてケガをしていることだけを話して核心部分は何も語っていなかった。
いつもなら言いたいことを言って、遠慮もなしに頼めることは頼んでしまうちとせなのだが、さすがに事情が事情なだけに切り出しにくい。
それを察して鈴音から切り出したわけだが。
「そっちの先生が襲われたんだよな?」
「そ」
「それで、神代神社じゃなくて、ここに連れてきたってことは、だ」
「うん」
「ちとせたちじゃ守りきれないぐらい危険な状態にあるってことか?」
「相手がね、悪いのよ。このままだとボクもひっじょ〜に危険になるかもしれないんで」
ちとせが乾いた笑みを浮かべる。
鈴音が不審そうに眉をひそめた。
「ちとせが?」
「センセを狙ってるのは『ヴィーグリーズ』なのよ」
「『ヴィーグリーズ』か」
鈴音の表情が厳しくなる。
北欧系の大企業『ヴィーグリーズ』の勢力は世界全土に及ぶ。
その実態は、人を超えたものや、人ならざる力を持ったもの、そして人でないものが、総帥ランディ・ウェルザーズの下に集った闇の勢力だった。
『猫ヶ崎隔離事件』で、鈴音も姉を追いながら、『ヴィーグリーズ』とは激闘を繰り広げた。
影使いヘルセフィアス、世界蛇ヨルムンガンド、総帥秘書ミリア・レインバック。
力量に差異はあったが、幹部級の連中は一筋縄ではいかない相手ばかりだった。
だが、鈴音が知る限り、ちとせがそれほどに恐れるであろう相手はただ一人。
「ボクは、シギュン・グラムに狙われてるからね」
まるで、ちとせの発したその名に魔力でもこもっているかのように、窓の外で夜風が凍りついた。
シギュン・グラム。
鈴音は直接には知らないが、幾度となく耳にした名だった。
「なるほどな。確か『ヴィーグリーズ』筆頭幹部"氷の魔狼"だったか」
その強さは、ちとせたちから聞いた限りでは、桁違い。
実際に刃を交えたちとせと悠樹は二度も、瀕死に追い込まれている。
それも、二体一で、だ。
一対一なら確実に殺されているだろう。
そういう事情だから、ちとせの顔が引きつるのもよくわかる。
「そゆわけ。『ヴィーグリーズ』が相手だと、シギュンも出てくる可能性も高いから、ボクと悠樹だけじゃセンセを守りきれる自信がないのよ」
ちとせは、強い。
肉体的にも、精神的にも。
いつも余裕を失わない。
だが、今回は相手が悪すぎた。
「ところで、そっちの先生は何で『ヴィーグリーズ』に狙われているんだ?」
鈴音が真冬に顔を向けながら、当然の質問を発する。
普通の教師が『ヴィーグリーズ』に狙われる理由はないからだ。
真冬が指で眼鏡の縁を押し上げ、深く息を吐いた。
眼鏡が微かに光り、真冬の表情を隠す。
「私は『ヴィーグリーズ』に所属して、『シンマラ』という名で、ある研究をやらされて……いや、進んでやっていたのです」
「『ヴィーグリーズ』の……」
一瞬だけ鈴音は困惑したような表情を浮かべたものの、すぐに頭の中の困惑を追い出した。
鈴音は姉との因縁もあって、当然『ヴィーグリーズ』に良い感情を持っていない。
しかし、真冬はちとせや悠樹の学業の師だ。
そして、二人は何の抵抗もなく、己の担任を守ろうとしている。
不信感よりも、その事実が勝った。
鈴音の浮かべた複雑な表情に後ろめたさを覚え、そのすぐ後に変わった鈴音の真摯な瞳に感謝をしつつ、真冬は話を続けた。
「私は、『ヴィーグリーズ』が、この猫ヶ崎に進出してくる前に脱走したのです」
「じゃあ、狙われてる理由は、先生がしてたっていう研究と関係があるの?」
真冬は軽く首を縦に振りつつも、ちとせの勢いを制するように片手を上げる。
「まず、順を追って話そう。キミたちは『ヴィーグリーズ』について、どれくらいのことを知っている?」
真冬が眼鏡の縁を押し上げると、静かにレンズが光った。
「ランディ・ウェルザーズを総帥とする大企業。裏では悪魔と契約している。それくらいかな?」
「ぼくもその程度ですね」
ちとせの話した内容に、悠樹と鈴音も頷いた。
「あたしも、それくらいかな。これでも裏社会には詳しいつもりだけど、『ヴィーグリーズ』のことは良く知らねぇな」
世界規模の勢力を誇り、その構成員の三分の一は人外だとも言われているが、裏社会で認知されている邪悪と言い切れる活動の形跡は少ない。
しかし、それは、無論、邪悪な活動が皆無というわけでもなく、他の裏組織や秘密結社に比してという相対評価に過ぎない。
時としては、悪魔の力を駆使し、暗殺や政変に携わり、残酷な手段を厭うということもなく、闇の中で蠢動し続けてきた謎の組織。
その活動には、『ヴィーグリーズ』と戦ったちとせたち三人にも、わからないことが多い。
先の事件で『世界樹の力』を手にしようとしたのは、反乱分子のヘルセフィアス個人だったし、シギュン・グラムに至っては、ちとせと刃を交える前に、『ヴィーグリーズ』に世界を支配するだけの力があることを暗に示しつつ、そのために活動しているのではないと言い切った。
「なるほど。なら、まず、『ヴィーグリーズ』の成り立ちから話さねばならないか」
真冬は三人の顔を見回した後、ゆっくりとハーブティーを啜った。
ラーン・エギルセルは闇の中を悠然と闊歩していた。
シンマラを連れ帰るのには失敗したが、手掛かりは掴んだ。
次は万全を期す。
そう思いながら、『ヴィーグリーズ』の新拠点『ナグルファル』を目指す。
「ラーン!」
不意に甲高い声に呼び止められ、声の元へ視線を移す。
パンキッシュな真紅のツインテールを夜風に揺らせながら、顔に幼さの残る少女が壁に背を預けて立っていた。
「お嬢」
ラーンの良く知っている顔だった。
シルビア・スカジィル。
ラーンの所属する組織『ヴィーグリーズ』の最年少幹部。
「シンマラは見つかった?」
激しい視線で聞いてくる赤い髪の少女。
「ええ」
頷くラーンに、シルビアの目が驚喜に輝く。
まだ幼さの残る容貌に、大人の狡猾的な妖しさが加わる。
「ホント!?」
「シンマラ師はお元気そうでしたよ」
「あんな裏切り者、もう先生じゃないっ!」
「……お嬢」
「ラーン、アイツをいつまでも師なんて呼ぶんじゃないよ!」
シルビアが憎悪のこもった声で、ラーンに激しい言葉をぶつける。
『ヴィーグリーズ』に入ったのはラーンが半年ほど先だったが、気が合った二人は互いに切磋琢磨を続け、ともに頭角を現し幹部の地位に就いていた。
今では、シルビア・スカジィルが"赤き雷光"、ラーン・エギルセルが"青き清流"の二つ名で呼ばれている。
この二人の師が、シンマラこと豊玉真冬であった。
ラーンもシルビアも強く美しいシンマラのことを慕っていた。
だからこそ、裏切ったことが、憎い。
特にシルビアはシンマラのことを心の底から愛していた。
その憎悪は自分とは比べ物にならないだろうと、ラーンは常々思っていたが、今日のシルビアはその激しさが狂気を帯びているようにも思える。
「機嫌が悪いようね。何かあったの、お嬢?」
ラーンが同僚の顔から、年上の女性の顔へと表情を変える。
シンマラがいなくなった後、ラーンがシルビアの姉であり、恋人であった。
「シギュンにバカにされた。だから、必ずアタシの手でシンマラを捕らえるのよ!」
シルビアが目を潤ませながら、金切り声で叫び、その身体に電撃が身体中を駆け巡った。
「シギュンさまか」
厄介なことだとラーンが表情を曇らせる。
シンマラを見つけたが、神代ちとせが関わっているならば、シギュン・グラムにも報告しなければならない。
今、それをシルビアに話すのは気が引ける。
しかし、もう、シルビアにシンマラを発見したと言ってしまった。
「お嬢。確かにシンマラ師……、いや、シンマラは見つかったけど、今すぐ連れ戻すのは少々難しいわ」
「ソレはどういうこと?」
「シギュンさまに報告をせねばならんことができたの」
「シギュン・グラムに?」
ラーンの予想通り、シルビアは露骨に不快な顔をしてみせた。
「シンマラの『教え子』に邪魔をされたわ。その『教え子』というのが、シギュンさまの右腕を奪った少女なのよ」
「へぇ……」
シルビアの表情は不愉快を顕したままだったが、その瞳の奥に興味の光が宿る。
「事の成り行きをシギュンさまに黙っているわけにはいかないでしょう」
「ラーン、『ナグルファル』へは一人で戻りな。アタシは、ソイツらに挨拶してくるよ。シンマラがいるなら尚更だ」
そう言ってシルビアは壁から預けていた背を離し、立ち上がった。
ラーンは目を丸くし、続いて困惑したように眉を寄せた。
そして、シルビアを止めようと手を伸ばす。
「シンマラ師はもう、猫ヶ崎高校にはいないわ。それに今は報告を先に……」
ラーンの声を遮り、シルビアを囲むようにバチバチと電撃が迸った。
「アタシは行かせてもらうよ!」
シルビアはそっぽを向いている。
感情が昂ぶって冷静さを欠いているのは明白だった。
「お嬢!」
叫ぶラーンの目の前で雷光が弾け、シルビアの肩にかけようとしていた手を退いた。
小さな爆発が起こり、一瞬、夜が白く染まる。
眩い光が消え後には、シルビアの姿はすでに闇の中へと消えていた。