魂を貪るもの
其の一 女教師
4.生徒

「シンマラ師、よもや日本に舞い戻っているとは思いませんでしたよ」
 女性の低い声が響き渡る。
 月の放つ銀の光に照らされて、ゆっくりと声の主が姿を現す。
 姿を見せた声の主は、顔立ちの美しい女性だった。
 年の頃は、ちとせより少し上、二十歳に届くか届かないかぐらいと思われる。
 背中まで届く、濡れたように光沢のある青い髪をしていて、前髪を分厚く水平に切り揃えている。
 背は高い。
 青基調の、まるで中世を謳った歌劇に出てくる欧州貴族のようなジャケットを身に付けている。
 服のカフスは大きく、裾も長い。
 襟元には白いリボンストールを巻き、白い手袋を嵌め、軍人のように肩章を付けていた。
 ボトムは細いシルエットの薄紫色のレザーパンツで、靴はロングブーツを履いている。
 そして、その右手には、巨大な騎兵槍(ランス)を握っていた。
「あれは……!」
 女性の持つ武器を見た悠樹が驚きの声を上げる。
「あの槍がどうかしたの?」
 ちとせが訝しげに悠樹を見る。
「あれはランスだよ。中世の騎士が使った馬上武器だね」
「馬上武器?」
「ランスは騎士が馬上の突撃のための武器だよ。いや、それ以外に使い道がないほどに重いし、馬無しで扱えるものじゃない。それを軽々と片手で……」
 細身の体でありながらも恐るべき腕力の持ち主であることがわかる。
 いや、常人ではないとわかった。
 ちとせもそれを理解し、女性を恐るべき相手だと感じた。
 真冬が緊張した面持ちで、その女性を睨みつける。
「ラーン。……私はもうシンマラではないよ。一介の教師だ」
 ラーンというのが、この異様な女性の名なのだろう。
 真冬にラーンと呼ばれた青い髪の女性は、水面のような静かな表情のまま冷たい視線を返す。
「詭弁ですね」
「そうでもないさ」
「それなら、『アレ』を渡してください。そうすれば、もう追いはしません」
「それはできんな」
「……」
「ラーン。キミが追わずとも、シルビアは許すまい」
 真冬の眼鏡が月光を反射して鈍く光った。
「お嬢ですか。確かにお嬢のあの気性では……」
「そういうことだ」
「やはり力ずくで奪うしかないようですね」
 ラーンが気合いを込めながら、胸の前でランスを振り回し始める。
 強大な闘気の風が巻き上がり、大気が震動した。
「センセ!」
 先程の黒服たちとは比べ物にならない威圧感を受け、ちとせと悠樹の顔に緊張が走る。
 真冬は二人を視線だけで振り返った。
 教師は微かに微笑んだが、瞳には哀しい光が宿っているのを二人の生徒は見逃さなかった。
「ちとせくんに悠樹くん、ホントにすまんな」
 そう言い残して、真冬はラーンに向かって駆けた。
 疾走。
 まさに風の速さだ。
 長く美しい髪が、後ろへとなびく。
 勢いの乗った拳をラーンの胸元を狙って繰り出す。
 しかし、ラーンはその攻撃を避けようとはせず、右手に握ったランスを軽々と振り回して、真冬の突撃を阻んだ。
「くっ!?」
 体勢を崩した真冬に向かって、ラーンがランスを回転させて、地面から天を裂くように振り上げる。
 真冬はバク転してそれを躱した。
「さすがに、やりますね」
 無表情に感嘆するラーンを不機嫌そうな視線で真冬が睨みつける。
「甘いぞ、ラーン」
「何?」
 真冬が指をパチンと鳴らす。
 ぼわっと音を立てて、ラーンの両手とランスを紅蓮の炎が包み込んだ。
「!」
 目を見開き、燃え盛る両手を庇いながら、ラーンは後ろに下がろうとする。
 しかし、そこへ、真冬が再び駆けた。
 跳躍して一気に間合いを詰め、ラーンの首を狙って、鋭い廻し蹴りを放つ。
 鋭い軌道から炎が尾を引いた強烈な蹴りが、ラーンの首に浴びせられた。
 吹っ飛ばされながら、蹴りの炸裂した首と、既に燃やされている両手から炎が吹き上がり、ラーンの全身を包み込む。
「炎を!?」
 ちとせも悠樹も、真冬の使った『炎』に驚きの声を上げる。
 自分たちも『風』を使役する『霊力(ちから)』を持ってはいたが、担任の教師にこのような力があったとは思いもよらなかった。
 しかも、その力は強い。
 ラーンという女性も、あれ程の炎を浴びてはただでは済むまい。
 そう思われた。
 しかし。
 姿が見えぬ程に炎に包まれながらも、ラーンは空中でふわりと体勢を立て直した。
「さすがです。どうやら腕は衰えていないようですね」
 炎は確実にラーンの身体を焼いているはずだ。
 それなのに、平然と炎を纏ったまま、話しかけてくる。
 微かな驚きを表情に湛えている真冬に向かって、感情のこもっていないラーンの冷たい声が炎の中から響く。
「ですが、頭の回転は遅くなったようですね。それとも、その『炎』のように、あなたがあなた自身の肉体をベースにして研究して完成させ、私に与えてくれた『霊力(ちから)』をお忘れですか?」
「!」
 ラーンの言葉に顔色を変えた真冬が、その場を飛び退こうとする。
 しかし、それよりも速く、ラーンが地面にランスを突き立てる。
 瞬間、大地を割って水流が吹き上がり、水は槍となって真冬の四肢を貫いた。
 反動で外れた真冬の黒縁の眼鏡が、地面を跳ね、転がる。
「うくっ……」
 真冬は苦悶の表情でラーンを睨みつける。
 その視線の先ではラーンを包み込んでいた炎が、静かに消えていった。
 炎で焼かれていたはずのラーンは、手袋が微かに焦げている程度で、顔や衣装には炎で焦がされた痕は一つもなく、薄い『水』の膜が彼女に密着するように浮いているのが見えた。
「……水のヴェールか」
「その通り。私の能力を過小評価するとは、あなたにしては迂闊なことです」
 ラーンがランスを地面から引き抜く。
 水の槍に両腕と両脚を貫かれたまま、真冬の身体が持ち上げられ、つま先が宙に浮く。
「あっ……、くっ……」
 自らの体重で貫かれた傷口を抉られ、真冬の四肢を鮮血が伝う。
「かつての弟子の力がどれほど向上したか、師ならばその身で思い知るのも良いでしょう」
 無感情にそう言い放つと、ラーンはランスを反転させ、その柄を真冬に向けた。
「殺しはしません。ですが、気を失うまでは痛めつけさせていただきます」
 四肢の自由を奪われ、動くことのできない真冬の無防備な腹に、ランスの柄を打ち込んだ。
 鳩尾を深く抉られ、鉛の塊を打ち込まれたような重い痛みが真冬を襲う。
「かはぁっ!」
 肺の中の空気が無理やり押し出される。
 苦悶の表情を浮かべている真冬の鳩尾へ、ラーンが立て続けにランスの柄を突き立てる。
 ズンッと鈍い音を立てて、真冬の腹に渾身の一撃が減り込み、内臓を圧迫する。
「ごほっ……!」
 肺の中のなけなしの空気とともに血の混じった唾液が口から吐き出され、真冬の白いシャツの胸元へ真紅の染みが点々と飛び散る。
 真冬の視界がぼやけ、意識が飛びかける。
 もう一撃食らえば、真冬の意識は闇に落ちるだろう。
 ラーンは再び、ランスの標準を真冬の腹に定める。
 だが、凶器が真冬の身体に突き刺さる直前に、ラーンの視界が揺れた。
「がっ!?」
 頬に凄まじい衝撃。
「な、に……?」
「センセに何すんのよっ!」
「ちとせくん!?」
 真冬が目を見開く。
 ちとせだった。
 ちとせがラーンに飛び蹴りを食らわせたのだ。
 それもただの蹴りではない。
 ラーンの頬に突き刺さった足元から旋風が巻き起こっている。
「『ちとせ』……?」
 ラーンが視線だけを動かして、自分の頬を蹴りで抉っている少女の顔を捉える。
 だが、その視界はすぐに衝撃で凄まじい揺れを起こした。
 ちとせは空中でそのまま回転し、もう片方の脚でラーンの頭部を蹴り飛ばしたのだ。
「っ!」
 この蹴りにも風が纏わりついている。
 悠樹の風だ。
 ちとせの身体能力から繰り出された鋭い蹴りと、悠樹の風が融合し、強力な威力を生む。
 ラーンは堪らず吹き飛ばされ、土煙を上げて地面を転がった。
 真冬を戒めていた水の槍が消える。
 開放された真冬を悠樹が抱き抱え、その側にちとせが着地した。
「うくっ、悠樹くん……か?」
「真冬先生、何がなんだかわかりませんけど、ぼくたちも手伝いますよ」
「しかし……」
「傷ついている人を放っておいて良いなどとは教わっていませんよ」
 悠樹が反論しかける真冬の口を封じた。
 ちとせも悠樹に大きく頷いた。
 そして、真冬を視線だけで顧みる。
「それに真冬先生は、ボクたちの大切な先生だからね」
「良いこと言うじゃないか、ちとせくん」
 痛む腹を血の流れる片手で押さえながら、微笑みを浮かべる。
 ちとせの力強い言葉への嬉しさと安堵感が心に満ちて来る。
 真冬は、四肢を貫かれ、立っているのもやっとの痛ましい姿ではあったが、心には余裕ができた。
「どうやら、担任の教え方が良いようだな」
 ちとせに向かって面白そうに言った。
「いえいえ、生徒が優秀なんですよ。はい、センセ、眼鏡」
 ちとせも楽しそうに答えながら、戦いの最中に外れた黒縁の眼鏡を真冬に手渡す。
 二人の笑みを見比べて、悠樹もまた微笑みを浮かべた。

 三人の談笑を遮るように、土煙が噴水のように巻き上がった。
 その土砂の中で、ラーンが立ち上がり、頭部に片手を当てて首を左右に振る。
 首の関節が鈍い音を立てる。
 そして、自分を蹴り飛ばした少女に視線を向け、唇の端から流れる血を拭った。
 ちとせの真冬に向けていた極上の笑顔が凍りつく。
 背中に冷たい感触が駆け抜けていた。
「『ちとせ』ですか。なるほど……もしや、『神代ちとせ』ですか?」
 ラーンの口から紡がれる声には、相変わらず感情が乏しい。
「何でボクの名前を!?」
 ちとせが自分の名前を呼ばれたことに驚愕の声を上げる。
「そう、やはり、『神代ちとせ』ですか。まさか、シンマラ師の教え子とは思いませんでしたが……」
 こめかみを手で擦りながら、ラーンがちとせを舐め上げるように見つめる。
「あなたの蹴り、なかなか効きました。どうやら、シギュンさまを追い詰めたという力、偶然ではないようですね」
「シギュン!?」
 自分の名前を呼ばれた時よりも、さらに大きな衝撃が、ちとせの全身に電流を流されたように駆け抜けた。
 シギュン・グラム。
 それはちとせにとって禁断の、災厄の名前だ。
「私はラーン・エギルセル。『ヴィーグリーズ』の幹部です」
「『ヴィーグリーズ』!」
 三度目の衝撃がちとせの身体に走った。
 『ヴィーグリーズ』との接触は、その筆頭幹部であるシギュン・グラムとの接触だ。
 だが、ラーンの次の言葉はその衝撃を打ち消し、もっと大きな衝撃でちとせを包み込んだ。
「そちらの女性、シンマラ師……、あなたの先生も『ヴィーグリーズ』ですよ。そして、私の師、つまりは先生でもあるのですけど」
「センセが!?」
 ちとせは思わず、真冬を振り返る。
 真冬を抱き支えている悠樹も、驚いた表情で担任の教師を見ていた。
「今は私にその資格はない」
 俯いて真冬が、黒縁の眼鏡をかけ直す。
「私は……、捨てたのだ」
 その声に張りはない。
 教え子には知られたくなかったのだろう。
 いや、ラーンが接触してきた今、真冬もちとせたちに隠し通すことは無理だと判断していたには違いない。
 ただ、自分の口から言うべきことだったという想いがある。
「そうですね。今はもはや、あなたは『裏切り者』。ですから、私は追ってきたのです」
 真冬のことを示しながら、ちとせに向かって応えるラーンは真冬の視線など気にもかけていないようだった。
「んじゃ、先生はもう、『ヴィーグリーズ』じゃないってことじゃない。それなら問題ないわ」
 ちとせが軽い調子で言った。
 悠樹も大きく頷く。
「ちとせくん、悠樹くん」
 今度は真冬が驚いた表情で、ちとせと悠樹の顔を順々に見た。
「シギュンさまとシンマラ師が認めた器ですか」
 静かに呟き、ラーンが頬を撫でる。
 先程の奇襲の蹴りも確かに効いた。
 だが、今のちとせの言葉は、その蹴り以上に、ちとせたちを倒すことを『一筋縄ではいかない』とラーンに感じさせていた。
「どうやら、あなたたち全員を同時に相手にしては分が悪いようです」
 ラーンがゆっくりと一歩後ろに下がった。
 月の光に溶け、半身が闇に消える。
「ここは一旦退かせてもらいますが、シンマラ師、私から、……いいえ、私たちから逃れることができるとは思わないでください」
 ラーンは真冬に向かってそう言い、さらに一歩下がった。
 真冬はラーンを無言で睨みつけているが、その眼差しに力強さはない。
「そして、神代ちとせと、風使いの少年よ」
 悠樹とちとせにラーンの視線が向く。
「私の任務にシギュンさまは関係ありません。ですが、あなたたちが『先生』を庇い立てするならば、また刃を合わせることになるでしょう」
 ラーンは完全に闇の中へと消えた。

 月を雲が遮り、辺りが暗くなった。
「ちとせくん、悠樹くん」
「先生……」
「話さねばならんことが、いろいろできてしまったな」
「真冬先生、さっきもちとせが言いましたけど……」
 悠樹がよろめいた真冬を支えた。
 雲が流れ、再び月光が降り注ぐ。
 その淡い光に照らし出された悠樹の顔には優しげな笑みが浮かんでいる。
「先生は、ぼくたちの大切な先生ですから、何でも相談してください」
 真冬は目を丸くした。
 ちとせを振り返ったが、彼女の顔にも真冬を慕う明るい笑みが浮かんでいた。
 真冬は嘆息した。
「……良いこと言うじゃないか、本当に」
「教え子が優秀だからね☆」
「……いや、やっぱり、担任が優秀なんだろう」
 ちとせの即答を聞き、少し間を置いてから、真冬が心底うれしそうに微笑んだ。
 ただ、その表情には微かな自嘲が含まれていた。


>> BACK   >> INDEX   >> NEXT