なら魂を貪るもの
其の一 女教師
3.豊玉真冬

 がらがらがらっ。
 扉が開き、担任の豊玉真冬が教室に入って来た。
 黒縁眼鏡、白いストレッチワイシャツ、黒いパンツという格好は早朝と同じだったが、その上からいかにも化学担当教師らしく白衣を羽織っている。
 元々理知的で清潔感のある容貌をしているのだが、白衣がさらにそれらの印象を深めていた。
「おはよう」
「おはようございます、真冬先生」
「うむ、今日も皆元気そうで何よりだな。さて、さっそく、ホームルームを始めるとしようか」
 生徒たちのいつもと変わらぬ明るい挨拶に満足しながら、真冬は教壇に立った。
 出席を取り、先の『猫ヶ崎隔離事件』で破損した校舎の修復工事の日程についての記されたプリントを配る。
「校舎の工事は大分進んでいるが、まだ修復されていない場所もあるので気をつけるように。それから、今日から希望者には各授業の補習を行なうことになった。ここ最近、ごたごたしていたからな。希望者は後で職員室に来るように」
「うっお〜! 真冬先生と補習なら喜んで参戦だ!」
 男子生徒の大半が色めき立つ。
 真冬に憧れている一部の女子生徒も混じっている。
 大人の女性の色香が漂う真冬先生と補習をできるなら悔いはない。
 だが、しかし。
「ちなみに化学の補習はやらないぞ」
 真冬の理知的でありながらも悩ましい唇から発せられた一言が、ざわめく教室内を切り裂き、男子生徒たちの野望は儚い夢として消えた。
「なぜだ〜!」
 男子生徒の過半数と熱烈な真冬ファンの女子生徒数人が絶叫して、机の上に昏倒した。
 無念の討ち死に。
「まあ、そういうことだ。あと、昨日出した化学の課題レポートは、明日の帰りまでに提出するように。補習以上に学習効果はある課題のはずだ。以上だ」
 討ち死にした生徒たちが補習に期待しているものを学習効果だと勘違いしている真冬は、彼らの落胆の真の意味に気づいたふうもなく咳払いを一つして、その場を流した。
「それでは今日も一日、明るく元気よく過ごすように」

 日が落ち、闇が満ち始める。
 部活動が盛んなことで知られる猫ヶ崎高校だが、すでにほとんどの部活が活動の時間を終え、生徒たちの大半が帰路についている。
 だが、化学研究部の部室には、まだ煌々と明かりが灯っていた。
 実験で興味深い反応が出たため、化学研究部は帰宅が遅れており、部長の指示の下、片づけが行なわれていた。
 薬品を処理し、実験道具を洗浄して棚に仕舞う。
 どの生徒も慣れた手つきで一連の作業をこなしていく。
 化学研究部はかなりの人数がいるので、片付け作業もすぐに終了した。
 生徒たちが手持ち無沙汰で談笑し始めると、顧問を務める豊玉真冬が部室の出入り口に移動した。
「では、諸君。そろそろ部室を閉めるとしよう」
 毎日のお決まりの流れなのだろう。
 真冬の一言が発せられると、生徒たちもおしゃべりを止めて各々の荷物を手に立ち上がる。
「お疲れさまッス」
「お疲れですね〜」
「お疲れっ」
 そして、真冬に一礼しながら、生徒たちは部室をぞろぞろと出て行く。
「お疲れさまです、真冬先生」
 最後まで部室の中に残っていた悠樹が、真冬の横を通り過ぎる。
 彼はいつも真冬以外の面子の中では、決まったように最後に部室を出る。
 誰かの忘れ物がないかをチェックしているのだ。
 真冬や他の誰かに指示されているわけではなく、自らの判断で率先して行なっている。
 なかなか気づかいが細かい少年だと真冬は感心していた。
「うむ。悠樹くん、お疲れさま。……おっと、お迎えのようだぞ」
 部室の入り口の人影に気づいて、真冬が長く美しい黒髪を揺らしながら悠樹を顧みた。
「やほ。悠樹、一緒に帰ろ☆」
 ちとせが入口から首だけを出して、顔を見せた。
「あれ、ちとせ。まだ残ってたの?」
「朝寝坊しちゃったからね。ちょっと基礎トレとかを長くやってたのよ」
 悠樹へのちとせの答えに、真冬が心底感心したように頷く。
「ちとせくんは部活に熱心だな」
「好きですから」
「なるほど、良い答えだ」
 それが当然の理由であるように答えるちとせに真冬は微笑み、悠樹にも同じように尋ねた。
「悠樹くんは化学が好きかね?」
「ええ、面白いですよ」
「うむ、それもイイ答えだな」
 真冬は深く頷いた。
 そして、思い出したように扉に手をかける。
「さあ、もう夜も遅い。おしゃべりはこれくらいにしておこうか。閉めるぞ」

 外へ出ると、夜空に白い月が顔を見せていた。
 美しい満月だった。
 化学研究部の部員たちの姿が遠くに見える。
 悠樹たちが外に出ると、こちらに向かって手を振ってきた。
 三人が出てくるのを待っていたのだろう。
「悠樹く〜ん、お疲れ!」
「先生、最後の点検ご苦労!」
「神代さん、悠樹くんを襲っちゃダメよ〜ん!」
「八神くん、ちとせに襲われちゃダメよ〜ん!」
「じゃあ、また明日!」
 元気な別れの挨拶が飛んできた。
 悠樹とちとせが手を振り返すと、部員たちもまたそれに手を振り返してから去って行く。
 化学研究部の部員がいなくなると、静寂が訪れた。
 グラウンドに目をやるが、そこも電灯の明かりが地面を照らしているだけで生徒たちの姿はなかった。
 校舎の窓にはまだ電気がまばらに点いているが、生徒ではなく教師たちだろう。
「月か」
 夜空から青白い光を注ぐ満月を見上げ、ぽつりと真冬が呟く。
「センセ?」
「いや、月がなかなか綺麗だな、と」
 真冬が白衣のポケットから鍵を取り出し、部室のドアを閉めた。
「良し」
 ドアを揺り動かしてロックがきちんとかかったことを確認し、鍵を仕舞う。
「さて、お疲れだな。悠樹くん、ちとせくん」
「んじゃ、さよなら、真冬センセ」
「ああ、それじゃ、また明日」
 ちとせと悠樹が一礼する。
 真冬が頷き、二人を送り出そうとした。
 その瞬間だった。
 無数の足音と、野太い声が静寂を打ち破った。
「見つけたぞ!」
 闇の中から這い出てきた十人近い男たちが、満月の淡い光に姿を照らし出される。
 学校の関係者ではないのは、見てすぐにわかった。
 全身から荒々しい雰囲気を発しているからだ。
 猫ヶ崎高校の関係者に、このような凶悪な人間はいようはずもない。
 どうやら、全員外国人のようだった。
 一様に体格がよく、ダークスーツを着込んでいる。
 男たちは、化学部の部室がある校舎棟を背にしたちとせたちを半円に囲い込んだ。
「ちょっと、何?」
 男たちの殺気に満ちた様子に、ちとせの表情を硬くする。
 悠樹もいつでも動けるように全身の筋肉へ緊張を走らせる。
 学校への侵入者たちが一般市民ではないのは明らかだったが、ちとせたちも普通の高校生ではない。
 霊的な力を操る術を持ち、武術も習得している。
 先日、猫ヶ崎市を襲った怪異な事件にも関わり、街を混乱に陥れた勢力とも戦った。
 いざとなれば、その特異な力で対抗できる。
「逃げられぬぞ、シンマラ」
 その中の一人が、ちとせたちに向かって声を張り上げた。
「シンマラ?」
 ちとせは訝しげに首を傾げた。
 この場にいるのは、自分と悠樹と、そして真冬だけだ。
 『シンマラ』などという人間はいない。
 自分はもちろん違うし、悠樹も違う。
 と、すれば。
「すまんな、ちとせくん」
 月の光を反射して真冬の眼鏡が光った。
 その反射光で、真冬の表情がわかりにくいものとなる。
 艶やかな長い黒髪が、夜風に流れる。
 真冬はちとせと悠樹を庇うように前に出た。
 男たちが真冬に気圧されたように一歩後ろに下がり、包囲網がわずかに広がる。
「捨てた名で呼ばれるのは愉快ではないものだな。それともこの不快さは、あの娘たちへの私の未練か、自分の愚かさへの罪悪感か……」
 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
 真冬の霊気が徐々に大きくなっていくのをちとせは感じていた。
 猫ヶ崎市には、地形のせいか、異能力者が多いのだが、担任の教師が霊気を操ることができるとは、ちとせは今の今まで知らなかった。
「センセ?」
「危ないから、下がっていなさい」
 月が雲に隠れ、真冬の顔に表情が戻る。
 眼鏡の奥で光る目つきが鋭いものに変わっていた。
 すでに全身には、霊気が駆け巡っている。
「悠樹くん、ちとせくんを頼むよ」
 真冬はそう言い残すと、真正面に立つ男に向かって走り出した。
 男も拳を振り上げてそれを迎え撃つ。
「シンマラ、戦闘幹部ではないおまえに我々を倒すことは……」
「できるさ」
 真冬と男が交差する。
「ぐぅっ……!」
 苦痛の声を漏らして吹き飛んだのは男の方だ。
 だが、周りの黒服たちは倒れた仲間を見向きもせず、真冬に襲い掛かってきた。
 一人の顎を肘撃で砕き、もう一人の男の腹に蹴りを叩き込む。
 さらに四人目、五人目と、鋭い拳脚で次々と黒服たちをのしてしまった。
「真冬先生、強っ!?」
 いつでも助力できるように後ろで構えていたちとせが驚愕しながら、真冬の動きを観戦している。
 悠樹も驚いた目で担任の女教師の姿を追っていた。
 黒服の男たちは真冬に一撃も入れられずに駆逐されていく
 そして、最後にナイフを構えて突進してきた黒服の側頭部に、真冬の廻し蹴りが決まった。
 黒服が崩れ落ち、真冬が大きく息を吐いた。
 パンパンッと手を叩き、衣服の乱れを確認する。
「ちとせくんも悠樹くんも、ケガはないか?」
「は、はい」
「うむ、キミたちも武術をやっているとは聞いているが、大切な生徒だからな」
 真冬が、無事を確かめるようにちとせを引き寄せ、軽く抱きしめる。
 艶かしい唇から漏れた吐息が、ちとせの唇に触れる。
 甘い匂いがする吐息だ。
 ちとせは思わず赤面した。
 攻めは得意だが、受けは苦手だ。
「それにしても、この黒服たちって……センセ、一体何を?」
 恥ずかしそうに目を背けたちとせが、倒れている黒服たちを示す。
「巻き込んでしまって、すまんな」
 真冬はそっとちとせから離れ、憂鬱そうに息を吐いた。
「しかし、遅かれ早かれということもあるな。特にキミたちには」
「はい?」
「この男たちは……、むっ?」
 真冬がちとせを引き寄せる。
 鋭い眼差しが遠くを見つめている。
 視線の先には月光の届かない闇があった。
 真冬の凛とした表情に、ちとせは赤面しながら教師の行為に驚きの声を上げる。
「センセ、心の準備が!?」
 動揺しているちとせをよそに、悠樹は静かな視線を真冬が見つめている闇に向けている。
「まだ、いますね」
 そして、静かに呟いた。
「さすがだ。悠樹くん」
 真冬は悠樹に頷き、ちとせから離れた。
「出てきたらどうだ?」
 正面の闇に向かって、できるだけ平静を装って真冬が声をかける。
 真冬の知っている気配だ。
 とても、よく知っている。
 水のように透明で静かで淀みのない、霊気。
 目前の闇が、細波が立ったように揺れた。
 月の光の下に人影が、ゆっくりとした動きで現れた。


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