魂を貪るもの
其の一 女教師
2.雷撃姫

 シギュン・グラムは、北欧系大企業『ヴィーグリーズ』の日本支社新拠点『ナグルファル』の廊下を闊歩していた。
 この『ナグルファル』は以前の拠点であった『ヴァルハラ』に比べ、外部への開放性が低い。
 周りを何重にも鋼鉄の壁で囲まれた要塞のような建造物だった。
 立地もまた『ヴァルハラ』のように超高層ビルとして街の中心部に聳え立っているのではなく、郊外の広大な敷地に悠々とその威容を構えている。
 この建造物に施された最新の技術に反して、周囲の自然は美しい。
 だが、内部には廊下には窓一つなく、そのような外の景色を見ることはできない。
 無機質で無表情な人工の壁が続いているだけだ。
 それも、彼女にはどうでも良い事だったが。
「疼く……」
 生命の証である紅の液体が通っていないはずの右腕の義手が疼くのだ。
 生身の右腕を奪った相手は、シギュンと同じ血なまぐさい『裏』の世界の住人ではなかった。
 しかも、二十歳にも満たぬ小娘。
「神代ちとせ」
 右腕の仇敵の名を口にすると、シギュンの黄金の髪が生き物のようにざわめいた。
 殺して、その血を啜らねば、屈辱が晴れることはない。
 そしてまた、その屈辱と矛盾するように、神代ちとせはシギュンにとって生を感じさせてくれる者だった。
 あの少女との戦いの中で、血が騒いだ。
 この『ナグルファル』と同じように無表情だった心に、拮抗した生死のやり取りが高揚感をもたらした。
 実力自体はシギュンが圧倒的だった。
 それにも関わらず、神代ちとせは二度もシギュンを退けた。
 シギュンの瞳が冷酷に揺れる。
 義手で拳を作り、硬く握り締めた。
 ギシギシと金属音が小さく響いた。
 と、シギュンが唐突に足を止めた。
 熱風がシギュンの長い髪を後ろになびかせる。
「……!」
 熱風の源は、巨大な電撃の塊だった。
 右前方から不意に、巨大な雷光球が飛来したのだ。
 だが、シギュンは面白くもなさそうに義手を雷光球に向かって差し出すと、事も無げに受け止めて、そのまま握り潰した。
 爆風がシギュンの長い月色の髪と黒地に白のストライプスーツの裾を巻き上げるが、彼女の表情は変わらない。
 鋼鉄の指が感電し、熱を帯びた煙を上げている。
「シギュン・グラム」
「シルビア・スカジィルか」
 シギュンが雷光球の放たれた方向を振り向くと、一人の少女が姿を現した。
 鮮やかな赤い色をした髪を頭の両側で縛り、気の強そうなつり上がり気味の目をしている。
 年の頃は、シギュンよりも若く、十代半ば以下に見えた。
 服装はいわゆる、ゴシックロリータと表現されるだろう格好をしている。
 レースのフリルがついた肩の露出した黒基調の毒々しいドレスを身に纏い、高いヒールのブーツを履いていた。
 ただ、その全身から発せられている雰囲気は荒々しく猛々しい。
 彼女の名は、シルビア・スカジィル。
 『ヴィーグリーズ』の最年少幹部であり、総帥ランディ・ウェルザーズの命令で、今までシギュンたちとは別行動を取っていた。
 組織内では、その実力は筆頭幹部のシギュンに次ぐとも言われている。
「変わった挨拶をしてくれるな、シルビア」
「ふん……」
 シルビアは薄く笑いながら、シギュンの義手に嘲るような視線を投げかける。
「どこの馬の骨とも知れぬ小娘に遅れを取ったそうじゃない」
「……」
「魔狼として欧州にその名を響かせたグラム家の姫ともあろう者が、地に堕ちたものね」
 シルビアは明らかにシギュンを挑発していた。
 だが、シギュンはまったく動じた様子はない。
「グラムの名など当の昔に私自身が喰い殺した。知らぬわけではあるまい」
 シギュンの生まれたグラム家はスウェーデンを本拠として、戦争、政変の裏で暗躍し、欧州の影の歴史を紡いできた。
 神話の魔物の力を自らの肉体に降ろす降魔の力を自由自在に操り、欧州各国を闇から貪る『魔狼の一族』として、グラム家は人々に恐れられていた。
 だが、数年前にシギュンが実父を殺害し、グラム家が中心となって形成していた闇勢力を解体したことにより、その名は突然として世界から消した。
 その時、シギュンは実父の心臓を食らい、血を啜って、"氷の魔狼"フェンリルを降臨させる力を手に入れたと言われている。
 父親殺し。
 闇の世界でも修羅と化した者だけが背負う業。
 シギュンは、氷点下の眼差しをシルビアに返し、左手で懐から煙草の箱を取り出した。
 器用に左手だけで箱から一本の煙草を口に運び、咥える。
 そして、まだ雷撃による熱の残る義手の手のひらをシルビアに向けた。
「この義手は屈辱だ。だが、それだけではない。貴様ごときには解かるまいがな」
 奪われた右腕の屈辱。
 それと同時に、神代ちとせという『対峙しえる敵』に出会えたことの証でもあった。
 少し前の、ちとせとの二度目の戦いを経験する前のシギュンならば、シルビアの挑発に乗っていたかもしれない。
 だが、死闘の末、ちとせという右腕の仇敵の『強さ』を知った今は、シルビアの行為など腹を立てるほどのものではなかった。
「シルビア。貴様こそ、愛しのシンマラさまの行方は掴めていないのだろう。毎夜、ラーンに慰めてもらっているそうじゃないか」
 シギュンの発した言葉にシルビアの表情が見る間に真っ赤に染まり、パンキッシュな紅のツインテールが怒りに激しく震える。
「嘲るなら自分の無能を嘲っているのだな」
「キサマァ!」
 怒声を上げて、シルビアがシギュンに向かって電撃の塊を放った。
 だが、シギュンは身体を半歩だけずらして、その雷光球を見切って躱す。
 シルビアの雷光球は、シギュンの咥えた煙草の先端を焦がしたに過ぎなかった。
「マッチの代わりくらいにはなる」
 シギュンの瞳が残酷な色を帯び、シルビアの右手が腰の剣へと伸びる。
 二人の周囲の空気が、一瞬で冷却され、凍りつき、ひびが入った。
 シギュンの全身から放たれる冷気と、シルビアに帯電する電撃から発せられる熱気が、攻撃的に絡み合う。
 だが、シギュンの殺気を含んだ強烈な冷気は、シルビアを無意識に一歩引かせていた。
 シルビアは己のその行為に気づき、屈辱に舌打ちする。
「血気盛んなことよの」
 二人の間にしわがれた声が割って入った。
「誰だ!?」
 シルビアが声の主を振り向くのを見て、シギュンは見下したように唇を歪めた。
 そして、シルビアから視線を動かさずに声の主の名を呼ぶ。
「ファーブニルか」
「久しいですな、シギュンさま」
 ファーブニルと呼ばれた男は老人だった。
 後ろに撫でつけられた白髪に、痩せた頬、尖った鼻という容貌で、猛禽類のような鋭い瞳をしている。
 シギュンは紫煙を吐いた。
「シルビアのお守りは貴様の役割のはずだ」
「すまぬことをしましたな。私に免じて許してやってくだされ」
 穏やかに頭を下げる老人に可否は言わず、シギュンは煙草を義手で握り締めた。
 そして、義手に冷気を収束して煙草を粉々に砕く。
 義手を開いて煙草の破片を舞い散らせ、シギュンは冷気を収めた。
「待て、シギュン! アタシはまだ退く気など……」
「シルビア、いい加減にせよ。『ナグルファル』に来たばかりで、ランディさまの怒りを買いたいか」
 まだ噛みつこうとするシルビアを制して、後ろに下がらせるファーブニル。
 シルビアは両腕を帯電させたまま、怒りの視線でシギュンを睨みつけるが、手を出すには至らなかった。
 今、この場でシギュンに仕掛ければ、ファーブニルはシギュンに加勢するだろう。
 退き下がるしかない。
 怒りに肩を震わせるシルビアを無関心に一瞥しただけで、シギュンはゆっくりと歩き始めた。
 ファーブニルが再び、頭を下げるが、それには視線すら送らない。
 まるでその場に自分以外の人物などいないように、凛とした女帝の歩みで足を進める。
 今、その餓えた瞳に映す価値のある相手は、神代ちとせ以外にはいない。
 初めから、シルビアなど眼中にはない。
 先程も、神代ちとせに感じた『高揚感』をまったく感じなかった。
 ただ力が強いだけで、凄みも、覚悟もない。
 シギュンの興味の対象には成りえなかった。

「ファーブニル、よくも邪魔をしてくれたわね!」
 シギュンの姿が消えると、シルビアは身体に電撃を纏ったまま、ファーブニルに詰め寄った。
 今にも腰の得物を抜き放ち、老人を細切れにしそうな勢いだ。
 彼女の怒気に呼応するように電撃が大気を灼くが、白髪の老人は動じることなく落ち着き払ってる。
「シルビア、おまえではシギュンさまには勝てんよ」
「何だと!」
 あっさりとシギュン・グラムの勝利を断言するファーブニルに、シルビアの目がさらなる怒りに燃える。
 全身に纏わりつく電撃がスパークして、壁や床に焦げ痕を刻んだ。
 ファーブニルの表情は変わらない。
「雷の力だけは、シギュンさまのフェンリルにも匹敵するものがあるかも知れんな。だが、おまえ自身もわかっておろう」
 ファーブニルが、聞き分けのない子供を諭すように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今、おまえはシギュンさまの冷気に一歩引いた上、私の声に振り向いてしまったではないか。シギュンさまは一瞬たりとも、おまえから目を離さなかったのに、だ」
 シギュン・グラムほどの熟練者が、相手の視線が自分から外れるなどという絶好の好機を見逃すはずがない。
「シギュンさまが本気ならば、おまえは死んでおったよ」
「くっ……!」
 ファーブニルという第三者の目から痛恨の事実を突かれ、シルビアは歯噛みをするしかなかった。
 反論の言葉が見つからず、老人に背を向けて激しくツーテールを揺らしながら大股で歩き始める。
「どこへ行く?」
 ファーブニルがその背に声を投げかけると、凄まじい形相でファーブニルを振り返った。
「決まっている。シンマラの捜索よっ!」
 歩を進める度にシルビアの肢体から稲妻が飛び散る。
 その雷撃が通路の壁を砕く。
 ファーブニルは、シルビアを見送り、「やれやれ……」とため息を吐いた。
 シルビアももう少し冷静さを持てば、それこそシギュン・グラムにも劣らないであろうに、と思いながら。

「筆頭幹部殿」
 シギュンは横から声をかけられ、その悠然とした歩を止めた。
「レインバックか」
 声をかけてきたのは、ミリア・レインバック。
 『ヴィーグリーズ』の総帥ランディ・ウェルザーズの秘書だ。
 シギュンと同じく豪奢な金髪の持ち主で、アップにした髪の左側だけ前髪をたらしている。
 服は、水色のスーツに黒いタイツ、ハイヒール。
 淫らな色を称えた双眸には、シギュンとは違った形の狂気が宿っているように見え、その全身から同性をも魅了する妖艶な雰囲気を発していた。
「シルビアとファーブニルに会った」
「ええ、どうやらシンマラがこの街にいるようですわ。灯台下暗しですわね」
「確かにな」
「今はラーンが追っているらしいですけれど」
 ミリアが垂らしている左前髪を手で払いながら、シギュンに応える。
「シンマラか……」
 シギュンも肩にかかった金髪を後ろに流した。
 ミリアとシギュンの黄金の髪は、ともに冷ややかな美しさを持っており、二人が並んでいるだけで黄金の淡い輝きが周囲を照らしているように錯覚させる。
「筆頭幹部殿」
「何だ?」
「シルビアには気をつけた方がよろしくてよ。先を越されぬように、ね」
「この私が、シルビアごときに何の先を越されると?」
 怪訝そうに首を傾げ、ミリアに詰め寄るシギュン。
 険しい視線でミリアがシギュンの義手を示す。
「その右腕の敵討ちのことですわ」
 美しい筆頭幹部シギュン・グラムの見栄えを唯一の損なう機械の腕。
 そう、ミリアは思っている。
 魔術で生身の腕を再生するように何度も進言しているが、シギュンがそれを受け入れることはなかった。
「シンマラが逃げ込んでいるというのが、筆頭幹部殿がご執心の小娘の学校らしいですわ」
「……なるほど」
「シルビアも邪魔者には手加減はしないでしょう。筆頭幹部殿に屈辱を刻んだ相手なら尚更ですわ。あの娘、あなたに対抗心剥き出しですからね」
 話を続けるミリアを見ながら、シギュンは無言で紫煙を吐いた。
「筆頭幹部殿の獲物、めちゃくちゃにされなければよろしいのですけど。キレると歯止めがきかないんですもの、あの娘」
 追うものの行方を知るためなら、シルビアならどのような残酷なこともやってのけるだろう。
 行方を知っていようが、知っていまいが、怪しいと思った者は拷問などにかけられてもおかしくはない。
 『ヴィーグリーズ』内からその残酷さを恐れられるミリアが危惧するほどに、シルビアの気性は荒々しく、激しい。
 だが。
「私の右腕を奪った少女は……」
 シギュンは唇だけを笑みの形に変えた。
「私が見初めた獲物だぞ。レインバック」
 このシギュン・グラムに傷をつけたほどの相手。
 そして、この氷の魔狼が狩る価値のある獲物。
 そう容易く討ち取れるものか。
 ミリアは静かに唾を飲み込んだ。
 シギュンの酷薄な笑みはすでに消えている。
 冷酷な瞳だけが、獰猛な渇きの癒しを求めて、紫煙の中に浮かんでいる。


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