なら魂を貪るもの
其の一 女教師
1.白い朝
神代神社の朝は早い。
神代家の次女である神代ちとせが、陸上部の朝練のために早く家を出るからだ。
その食事を作る長女の神代葵の朝はもっと早い。
大学の神道学科を卒業して飲食の資格も得ている彼女は、神代家の家事の一切を仕切りながら、神社の巫女として奉職し、特別に神職の代行も務めている。
本来の神主であるはずの父は、母と揃って旅行中で、今家にいるのは、この神代家の娘二人と居候の八神悠樹だけだ。
この三人の中では、悠樹が起きるのが一番遅い。
彼の所属する化学実験部には、朝練がないのだ。
その代わり、実験の関係で、夜遅くまで部室に残っていることもある。
それでも、三人は朝食と夕食はできる限り一緒に取ることにしている。
食事の時間は大切な団欒の時間だからだ。
「ふわあっ……」
悠樹は、あくびをしながら、寝室から廊下へと出た。
すでに寝巻として使っているスウェットから、ワイシャツにスラックスという猫ヶ崎高校の制服に着替えている。
朝食を取った後に、学校指定の青基調のストライプタイを締め、上着のブレザーを着れば、いつでも登校できる。
悠樹はタオルを持って洗面所に向かった。
彼が起きる頃には、朝食の支度は終わっており、ちとせが日課にしている早朝トレーニングから帰ってくる。
洗面所に入るタイミングが悪いと、ちとせが着替えている場合があるので、気をつけなくてはならない。
「あれ?」
リビングのテーブルにちとせが突っ伏しているのが目に入った。
珍しいことに彼女はまだ、寝間着姿で、いつもポニーテールにしている長い髪も下ろしたままだ。
どうやら今日は、日課にしている早朝トレーニングには行かなかったようだ。
「おはよう、ちとせ」
「あ〜う〜、悠樹。おはよ〜」
目だけを上に向けて、死にそうな顔で応じるちとせ。
「う〜あ〜……だうっ……」
「熱でもあるの?」
「ない」
「じゃあ、二度寝?」
「そんなとこ」
答えて、ちとせはようやく首をテーブルから上げた。
かなり疲弊しているようで、悠樹の知っているいつもの機敏な動きに比べて、だいぶ緩慢な動作だった。
顎の下に手を置いて支えにすると、ちとせは言葉を続けた。
「嫌な夢見ちゃって、寝れなかったのよ」
「嫌な夢?」
「悪夢だね」
よく見れば、いつもなら猫のように力強く輝いている大きな瞳の下には、隈ができていた。
「で、どんな夢だったの?」
「死ぬ夢」
「そ、それは確かに嫌な夢だ……」
「しかも……」
「しかも?」
「殺されるのよ」
「だ、誰に?」
「シギュン・グラム……」
シギュン・グラム。
その名は、死であり、恐怖であった。
表向きは北欧系の大企業として世界を股にかけ、そして、その裏の顔としては、魔と契約し、人外の力を持つものたちが組織――表社会でも裏社会でもその名は知らぬと言われる――『ヴィーグリーズ』。
その総帥ランディ・ウェルザーズの腹心にして、筆頭の幹部。
それが、シギュン・グラムという名の女性だった。
ちとせと悠樹は、猫ヶ崎の街で策動する『ヴィーグリーズ』と接触し、シギュンとも死闘を演じた。
その結果、シギュンを退けることに成功したものの、ちとせは仇敵として、彼女に命を狙われている。
死刑宣告のようにちとせの名を口にしながら去ったシギュン・グラムの冷酷な喜びと灼熱の屈辱を灯した狂った瞳を忘れることなどできはしない。
彼女に殺される夢を見たのならば、ちとせが憔悴していてもおかしくはなかった。
「ちとせ……」
悠樹は首を振った。
悠樹も、ちとせとともにシギュンと刃を交えた時、全身を切り刻まれて瀕死の重傷を負った。
それだけに、シギュンの恐ろしさは熟知しているのだ。
だが、悠樹がかける言葉を捜していると、ちとせはそれまでの重苦しい空気を吹き飛ばすように突然、飛び上がった。
「うわっ、もうこんな時間! 朝練に遅れる」
「あれ、朝練行くの?」
悠樹が少々意外そうな顔でちとせに聞き返した。
調子の悪いのだから、学校はともかく、部活の朝練は休むと思っていたのだ。
「もちのろん。サボったらタイムが悪くなるわ」
「そ、そういう問題……?」
「そういう問題」
きっぱりと断言するように答えたちとせに、悠樹は引き攣った笑みを浮かべた。
信念が強いというのは良いことだが。
まあ、元気さが戻ったので良しとするべきか。
ちとせが立ち上がると同時に、葵がリビングに顔を出した。
「あら、ちとせ。ごはんできたわよ」
「了解。急いで着替えてくる!」
ちとせは自分の部屋に転がるように飛び込んだ。
「あら、悠樹クン、おはよう」
「あっ、おはようございます、葵さん」
「ちとせ、調子が悪そうだったけど、治ったみたいね」
「はっ、ははっ……」
悠樹は虚ろに笑った。
「悠樹クン、朝ごはん並べるのを手伝ってくれる?」
「わかりました」
「それと……」
「はい?」
「髪の毛、後ろ立ってるわよ」
「そういえば、洗面所に行く途中でした」
「ピンピン立ってて、ちょっと面白いわ」
「あははっ、すぐ直してきますね」
悠樹は洗面所に、葵はキッチンへと向かった。
猫ヶ崎高等学校は、学校法人猫ヶ崎学園が設置する私立学校であり、明治初期に開校してから現在まで続いている由緒正しい学び舎だ。
その広大な敷地に点在する数多くの校舎や施設も、先の『猫ヶ崎市隔絶事件』の影響でその一部が破損していた。
突然、猫ヶ崎市全体が巨大な植物によって外界と隔絶され、神話や伝承に登場するような魔物が街の中に多数出現し、多大な被害を及ぼした。
事件の真相は街に進出してきた北欧系大企業『ヴィーグリーズ』の陰謀なのだが、それを知るものは、事件に関わったちとせたち以外にはほとんどいない。
その『ヴィーグリーズ』も本拠であった超高層ビル『ヴァルハラ』を失い、街の郊外へとその本拠地を移している。
警察の手も『ヴィーグリーズ』には伸びていないようだった。
ちとせたちも『ヴィーグリーズ』のことを警察やマスメディアには話をしていない。
下手に真実を伝えても、混乱と被害が増えるだけだという考えがあるからだ。
街の復興は自衛隊や猫ヶ崎市警、街の産業を一手に引き受けている『吾妻コンツェルン』及びその中核企業である『吾妻グループ本社』などが協力して進めている。
元々、力のある街であることもあり、活気もすでに戻っていた。
猫ヶ崎高校も通常通りのスケジュールで授業を再開しつつある。
尻尾部分の長いポニーテールと中身が見えそうで見えない絶妙な短さのプリーツスカートの裾をなびかせて、ちとせは正門の前に辿り着いた。
「やっぱ、朝の空気を吸うと、気分も良くなるね」
日課の自主トレーニングも休まずにやれば良かったかもしれない。
そんなことを考えながら、全身に朝陽を浴びる。
この透き通った光の中にいると、今朝の悪夢など嘘のように感じられた。
深呼吸して自分に軽く気合いを入れてから、正門に向かう。
猫ヶ崎全土を巻き込んだ災厄の後も、歴史を感じさせる巨大な門は微塵も揺るいでいない。
少しだけ、誇らしい。
正門の向こうに見える時計台で時刻を確認する。
急いでいけば、部室に行って着替える時間を入れても、陸上部の朝練が始まる時刻には何とか間に合いそうだ。
「ふぅ、始まりにはぎりぎり間に合ったかな。……ん?」
と、轟音が鳴り響いた。
激しいエンジン音。
車だ。
真っ赤なアルファロメオ。
その赤い車は正門を抜けると職員専用の駐車場に止まった。
運転席が開く。
姿を現したのは、女性だった。
ゆっくりと立ち上がると、長い黒髪がふさぁっと流れ落ちた。
背が高い。
白い七分袖のストレッチワイシャツに、黒いパンツ、靴は黒のパンプス。
理知的な顔にかけられた黒縁眼鏡のレンズが、朝陽を反射する。
「
ちとせが女性運転手に駆け寄る。
黒縁眼鏡の奥から、英知と色香の同居した視線が、ちとせを捉えた。
「ちとせくんか。おはよう」
「おはようございます。真冬センセ」
猫ヶ崎高校の教師で、化学を担当している。
そして、ちとせと悠樹の所属するクラスの担任でもあった。
「今日は遅いな。珍しいじゃないか」
遅いといっても、部活のない生徒はちらほらとしか登校して来ていない。
ちとせにしては遅いということだ。
「ちょっと寝坊しちゃいまして」
「悠樹くんは一緒じゃないのか?」
「悠樹は朝練ないですから。……って、センセが化研の顧問じゃないですか」
「ははっ、私は朝が苦手なんでな」
「それにしても、センセ。カッコイイですね。車通勤なんて」
「好きなんでな」
「う〜ん、その上、美人で、凛としていて、バリバリ仕事できるって感じだしっ」
「世辞を言っても何も出ないぞ」
「そんなんじゃないですよ。素直な感想です」
大人の女性の魅力への純粋な憧れだ。
「そうか」
真冬は満更でもなさそうに軽く頷いた。
「そういえば、先生って教師になる前は大手の研究機関に勤めてたってホントですか?」
「んまあ、嘘ではないな」
曖昧に応える真冬。
「何で辞めちゃったんですか?」
「いや、勤めたことが若気の至りというものかもしれない」
「はあ……?」
「確かに前の職場でも素晴らしい出会いはあった。私の中でそれは忘れ得ぬものだ。ただ、研究内容に問題があってね。残してきた課題も山積みなのだが……とにもかくにも話すと長くなるな」
「……?」
「それよりも、ちとせくん。朝練に出るのだろう。急がないと時間がなくなるぞ」
「ああっ、そうだった!」
ちとせは慌てて真冬に一礼して、部室に向かって弾丸のように走って行った。
「フフッ、元気な娘だ」
ちとせの背中を見送る真冬の長い髪が風になびいた。
「しかし、あのちとせくんが、か。どうにか守ってあげたいものだが……」
真冬は流れる髪を手で抑え、深い知性を湛えた瞳を伏せた。
「副部長が朝練に遅れるなんて珍しいこともあるんですね」
スポーツシャツにスウェットハーフパンツという格好をした陸上部員の少女が、セパレートのレーシングウェア姿で屈伸運動をしているちとせに話しかける。
ちとせと同じ短距離走の選手で、一つ年下の後輩だ。
良い筋を持っており、地道な努力で、タイムを伸ばし続けている。
忙しく上下運動していた長めに結わえられた特徴的なポニーテールが動きを止める。
「ん〜、ちょっとね。朝からドタバタしちゃってさ」
悪夢を見たせいか、今朝は何かと落ち着かない。
やっと辿り着いた愛しのグランドの土の匂いと朝特有の澄んだ空気が、心地良い。
大きく空気を吸い込む。
フェンスの外に目をやると、ちとせの名前が描かれた旗や、ボンボンを持った女生徒たちが、ちとせに向かって黄色い声援を送っているのが見えた。
「ちとせお姉さま〜☆」
「お姉さま、命ですですっ!」
「エルオーブイイー! ラブラブちとせ!」
応援団ではない。
チアリーディング部でもない。
女性のみで結成されたその団体は、『ちとせ親衛隊』と呼ばれている。
ちとせに憧れる女生徒の集まりなのだが、熱狂的な親衛隊員の中には『ソッチの気』がある女生徒もいる。
ちとせも、その中の何人かに何度か、告白されたこともある。
もともと明朗で社交的なちとせは、異性以上に同性にもモテるのだ。
「さて、応援に応えて、イイとこ見せなきゃね」
ちとせは後輩にウィンクをして、スタートラインに移動した。
後輩の少女は頷いて、その傍らに立って、遥か遠くのゴール付近に立っている部員に手を振った。
「神代先輩、行きます」
「オッケー」
ゴールの部員からの返事を確認して、スタートの合図に使う銃を手にした。
ちとせがそれを確認して、クラウチング・スタートの態勢を取る。
地面に指をつくと、シギュン・グラムの悪夢も頭から消えた。
白い。
純白の思考。
その目には、もうゴールしか映っていない。