魂を貪るもの
其の五 錯綜
2.朝方の闇

 路地で、鈴音は目眩に襲われた。
 右肩の辺りに血が滲んでいる。
「ぐっ、やべぇ。……傷口が開いちまった」
 完治とは程遠い身体を酷使したのがまずかったのだろう。
「くそっ……」
 道の壁に寄り掛かり、荒い息で赤く染まりつつある右肩を左手で抑える。
 もはや、右腕は痛みを感じる領域を通り越して、感覚が麻痺し始めていた。
 すでに目も霞んできている。
 ぼやける視界には、早朝のためだろうか、人影は映らない。
「頭がクラクラするぜ」
 鈴音は苦痛で荒くなった呼吸にむせるように咳き込み、崩れるように屈み込んでしまった。
「くっ、霧刃のもとへ行く前に……」
 鈴音が目をカッと見開く。
「こんなところで!」
 鈴音は気力だけで無理矢理立ち上がり、身体を壁から引き剥がす。
 そして、よろめきながらも、大地を踏みしめる。
「へっ、これくらい……」
 自分を叱咤するような、自嘲するような複雑な笑みを鈴音は浮かべ、荒い息を整える。
「何てことはないぜ」
 そして、歩き出す。
 一歩。
 二歩。
「……ッ!」
 背後からの気配を感じ、鈴音は足を止めた。
 全身に緊張を迸らせながら、睨みつけるように振り返る。
 後方の物影から、一人の女が浮き出るように姿を現すのが見えた。
 露出度の高い服を身に纏った二十歳過ぎくらいの艶かしい女だった。
 邪気のない笑みを振りまきながら、鈴音に近寄ってきた。
「すみません。ちょっと、道に迷ってしまって、あの猫ヶ崎駅ってどう行けば良いかわかります?」
 少し恥ずかしそうに肩にかかった髪を指でいじくりながら、女はそう訊いてきた。
「猫ヶ崎駅?」
 鈴音が全身に走っている激痛を表情に出さないようにしながら、静かに尋ね返す。
「ええ。できれば、送って欲しいんですけど」
「構わないぜ。今すぐ送ってやるよ!」
 鈴音は美女を怒鳴りつけ、まだ何とか動く左手に霊気を収束させて形成した剣の切っ先を突きつけた。
「あの世にな!」
「きゃぁぁぁ!?」
 美女は悲鳴を上げ、驚きのあまりに後ろに倒れた。
 尻餅をついた美女の頭に小さな角のようなものが生え、背中に蝙蝠のような翼が出現する。
「サッキュバスだな。あたしの精気でも吸いに来たか?」
 鈴音が凄まじい形相で、睨みつける。
 サッキュバス。
 精気を食料とし、知能も人間並に高い、女の姿をした高位の魔族だ。
 人間に取り憑き、夜な夜な精気を吸い取るために、夢魔とも呼ばれている。
「ちょ、ちょっとだけよ。後でちゃんと説明して適量だけ貰おうと思ってたの!」
 美女――夢魔サッキュバスは怯えた表情でわめき散らす。
「ホントよ、ホント! ホントだってば! 根こそぎ精気吸い取った相手がお亡くなりになったら、アタシだって後味悪いじゃない!」
 人間の精気を死ぬまで奪い貪るサッキュバスにしては、変わったことを言う。
 それに、必死になって言い訳する姿は、鈴音の知っているサッキュバスとは違って、コミカルで、彼女の戦意を殺ぐには充分だった。
「妙な悪魔だ」
 鈴音は毒気を抜かれた。
 これならば、無理に相手にすることもないだろう。
「許してやるから、行きな」
 鈴音は、霊気が枯渇し始めて細くなりつつあった霊剣を消した。
 サッキュバスが目を潤ませて安堵したように小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
 そして、衣服についた埃を掃って、そそくさと逃げて行こうとした。
 だが、気づいたように鈴音の顔をまじまじ見つめると呟いた。
「あなた、ケガをしているの?」
 鈴音は身体が弱っていることを見破られてしまったことに焦りを覚えた。
 いくら、少し変わったサッキュバスだといっても、相手は悪魔だ。
 いつもなら、いくら高位の悪魔であろうとも後れを取るつもりはないが、今の満身創痍の身体ではさすがに分が悪い。
 先程までならば短期決戦に持ち込み、体力と霊気が尽きる前に倒すという選択肢があった。
 だが、弱っていることに気づかれてしまった。
 もし、持久戦に持ち込まれれば勝ち目は低くなる。
「くっ……」
 完全に不利な状況に陥った鈴音は焦燥に駆られながら、再び左の手のひらに霊気を収束させる。
 だが、左手のひらは微かに青白い輝きを帯びただけで、霊剣が形成される様子はなかった。
 先程の霊剣を形成するための霊気放出が限界だったようだ。
 鈴音は青白く輝く左手を拳の形に握り締めた。
 その拳に宿る光さえ、徐々に薄くなっていく。
 霊気を込めた攻撃を出すことができる状況も、長くは続かないだろう。
 鈴音は己の弱りきった身体に毒づいた。
 そうこうしているうちにもサッキュバスは微笑みを浮かべながら、鈴音に近づいて来る。
「ダメよ。そんな弱っている身体で無理しちゃ」
「うるさい!」
 鈴音が先手必勝とばかりにサッキュバスに殴りかかる。
「きゃっ、ちょっと! 無理しちゃダメだってば!」
 サッキュバスが必死にその攻撃を受け止めながら喚き散らす。
 微弱な霊気しか宿っていなくても、鈴音の優れた格闘センスに生み出された拳は、受け止めたサッキュバスを必死にさせるくらいの力はあるようだった。
「戦う気はないってば! くうぅ、えい!」
 まったく戦いに慣れていないのか、サッキュバスは目を瞑って全力で鈴音の拳を押し返す。
 だが、そのまるで腰も入っていないサッキュバスの押し返しに、鈴音の拳は意外なほど簡単に弾かれた。
「へっ?」
 サッキュバスが目をあけると、唇の端から血を流している顔面蒼白の鈴音の顔が目の前にあった。
「うぐっ、傷口が……」
 くらくらっと、たたらを踏む鈴音。
「わぁっ、血が!? 無理しちゃダメだっていったじゃない! 大丈夫なの?」
 サッキュバスが慌てて、鈴音に近寄る。
 どうやら、このサッキュバスは、弱った鈴音を襲うという考えはまるでなく、心底、彼女の心配しているようであった。
「本当に変わったサッキュバスだな」
 寄り添ってくるサッキュバスを見ながら、鈴音が弱弱しく呟く。
「くっ、ごほっ!!」
 鈴音は咳き込み、膝から崩れ落ちた。
 その唇から鮮血が溢れ出る。
「ああっ、大丈夫? しっかりしてよ!」
 サッキュバスが優しく抱きしめるように鈴音を支える。
 その行為に敵意はまったく感じられなかった。
「しっかりしてよ」
「……すまない」
 鈴音がサッキュバスに殴りかかったことを詫びる。
 サッキュバスは心配そうに自分の顔を覗き込んでいるのがわかったが、鈴音は徐々に意識が薄らいでいくのを感じていた。
 もう声を出す体力も残っていない。
「あっ!」
 唐突に鈴音を支えるサッキュバスが歓喜の声を上げた。
「迅雷さま!」
 薄れる意識の中で、鈴音はサッキュバスの視線を追った。
 そこには一人の男が立っていた。
「レイチェ、そいつは?」
 鈴音に驚いたように目をやりながら、男がサッキュバスに尋ねる。
「ケガをしていて、大変なんです!」
 サッキュバスに迅雷と呼ばれた男が、ゆっくりと鈴音の前に屈み込んだ。
「おい、大丈夫か?」
 鈴音は、返事の変わりに咳き込んだ。
 喉の奥から再び、赤い液体が逆流してきた。
 飲み込もうとするが、無駄な努力であった。
 その吐血でさらに意識が朦朧とし、目の前が暗くなる。
 鈴音の脳裏に、哀しそうな葵の顔が過ぎった。
 いや、怒った顔だったか。
 鈴音は、意識を失った。

 幅の広い河が、鬱蒼とした森を横切っている。
 爪研川と呼ばれる猫ヶ崎最大の川だ。
 その付近は、昨晩とは裏腹に、今朝は静寂を保っている。
 それが本来の姿であり、また、河原から見上げる夜空は絶景であり、観光や天文学者がよく星の鑑賞に訪れている。
 その静かな河原に、二つの影があった。
 ちとせと悠樹、二人の足音が響く。
「もう、鈴音さんてば、どこ行っちゃったのよ」
 ちとせの呟く声には、微かな怒気が混じっていた。
「見つけたら、まず、一発パンチだよねッ!」
「ちとせ?」
 その怒気を感じ取り、悠樹がちとせを振り返る。
「それか、後頭部にレンガでも一発……ぶつぶつ……」
 ちとせが何やら危険なことを口走る。
「鈴音さんは、霧刃さんのことで周りが見えてないんだよ」
 悠樹がなだめるよう言いながら近寄り、ちとせのポニーテールの尻尾部分の髪を指ですくった。
 ちとせが少しだけ表情を和らげ、悠樹の手をそっと払いのける。
「だからって、一人で無理するなんて。心配かけてるんだから喝を入れてやらなきゃ!」
 表情こそ柔らかくなったが、ちとせは相当怒っていた。
 葵を気絶させてまで、一人で出て行った鈴音に。
 そして、大事な時に現場にいなかった、自分に。
 鈴音とは出会って数日だが、ちとせは彼女に好意を寄せている。
 だからこそ、相談してもらえなかったことに無性に腹が立っているのだ。
 早朝のトレーニングから帰ってくるなり、ちとせは葵から鈴音が姿を消したことを聞かされた。
 そして、すぐに失踪した鈴音の捜索を始めたのだ。
 この街に来て数日の鈴音が動ける範囲は狭いはずだ。
 彼女の目的は姉の霧刃を探し出すことだから、昨夜、霧刃との接触があった爪研川周辺に来ると思ったのだが、猫の子一匹姿を見せない。
「ハズレかな?」
 悠樹が、ちとせに言う。
「う〜ん、ここじゃないのかなぁ」
「爪研川じゃないとすると、『ヴィーグリーズ』の施設とか」
「あそこは企業の所有物だから、いくら鈴音さんでも、そうそう入れるはずもないよ」
 悠樹の言葉にちとせは頷く。
 『ヴィーグリーズ』も表面上は大企業として機能している。
 悪魔を使役しているほどの組織だから裏ではどのようなことをやっているかはわからないが、その所業にすべての人間が関わっているとは考えにくい。
 わざわざ尋ねて行っても相手にされるはずもなく、徒労に終わるだけだろう。
 それに加えて、昨日行った施設は警戒が強くなっているのが当然だろうし、その他の施設を目指すにしてもその数は一人で、ましてやケガ人に回りきれるものではない。
 それは、鈴音もわかっているはずだ。
「やっぱ、占いの館の方かも」
 ちとせが、考え込むように顎に手を添える。
 あと鈴音の行きそうな場所は、先日尋ねたシャロル・シャラレイの占いの館くらいだ。
 確かに『ヴィーグリーズ』の他に手掛かりがない以上、もう一度霧刃の居場所を知るためには、シャロルの力を頼るのが、一番可能性が高いのかもしれない。
「それなら、葵さんたちが見つけてくれるさ」
「うん」
 ちとせたちは二手に別れて鈴音を捜索していた。
 ちとせと悠樹は、爪研川方面へ。
 葵はロックと一緒に、シャロルの占いの館の方面へ。
「一応、もう一回、ここら辺一帯をカバーしておこう」
 悠樹がちとせの肩を叩く。
 ちとせは頷いて、歩き出した。

「その占いの館っていうのは、そんなに当たるんですか?」
 ロックが、葵に尋ねる。
「ええ。ちとせが言うには百発百中だそうですわ」
「それは、すごい」
 ロックの声は意外と落ち着いていた。
 鈴音はロックに一目も会わずに、そして一言も言わずに出て行ったが、彼に取り乱した所はない。
 ショックは受けているはずだ。
 だが、その様子を見せようとはしない。
 時折、葵のことを気遣ってくれさえしてくれる。
 ――とても優しくて強い男性だ。
 葵はロックと出会って一日に過ぎなかったが、彼に対して好意を感じていた。
 この人に再会したら、くじけてしまうと鈴音は恐れたのかもしれない。
 それだけ、彼女にとっても特別な存在なのだろう。
「鈴音サンの情報が得られなくても、そのシャロルという占い師に占ってもらえば良いかもしれませんネ」
「そうですね、霧刃さんの居場所がわかったくらいですもの」
 ――きっと鈴音さんの居場所も占ってもらえるはず。
 葵は少し気分が軽くなったような気がした。
 鈴音の部屋で目を覚ました時、葵は哀しさに包まれた。
 しかし、すぐに行動に出た。
 鈴音が危険な目に会う前に見つけて助けてみせると誓っている。
 葵は前向きなのだ。
 ただ、もっと自分がしっかりしていれば、と思うと悔しかった。
 だから、少しでも鈴音の居場所を掴むための手掛かりになりそうなことに気づいたことは、葵にとって幸いであった。
「鈴音さん」
 葵が鈴音の名を口の中で呟く。
 ――無理だけはしないでくださいね。


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