魂を貪るもの
其の五 錯綜
1.想いと想い

 午前五時過ぎ。
「ふわぁ……」
 神代ちとせは欠伸をしながら洗面台に向かった。
 顔を洗って、口をゆすぎ、タオルで顔を拭く。
 鏡に映った自分の寝癖が、結構笑える。
 洗面台においてある専用の櫛で髪を梳かしながら考える。
 今日は、土曜日だ。
 週休二日で、ちとせの通っている猫ヶ崎高校は休みだった。
「良いタイミングっていうべきなのかな?」
 ちとせ自身のケガは、葵の治癒術と自分の霊気による新陳代謝の促進で、ほとんど完治していた。
 今のところ、ちとせ個人が狙われているというわけでもないので、彼女は学校へ登校しても問題はないと思っている。
 だが、もちろん、鈴音の具合のことも気になっており、たとえ学校に行ったとしても授業に身が入らないような気がしていた。
 もっとも、学校を積極的に休みたいと思っているわけでもない。
 そう考えるなら、やはり今日が土曜日で良かったといえるかもしれない。
 結局、鈴音は昨夜、目を覚まさなかった。
 葵が徹夜で付き添っているはずだが、ちとせも鈴音の容態が気にかかって仕方がない。
「姉さんも頑張り屋さんだから、無理してなきゃ良いけど」
 姉の一所懸命さを危ぶみながら、ちとせは軽く息を吐いた。
「やっぱ走って来よう。どうも落ち着かないし」
 日課のトレーニング用のスウェットパーカーとレーシングトップとショーツ、それにタオルやスポーツドリンク等を用意する。
 洗面所のすぐ隣が浴室になっており、ちとせは、いつもここでトレーニングスタイルに着替えていた。
 そして、朝のトレーニングから帰って来た後はシャワーで汗を流し、やはりここで制服か私服に着替えるのが毎日の流れだ。
「あら、おはよう、ちとせ」
「あっ、おはよう、姉さん」
 葵が洗面所に入ってきた。
 葵は、かわいい猫の絵の入ったパジャマ姿だった。
 着替え途中のちとせは、上は大きめのシャツに、下は下着だけという格好だ。
 もしも洗面所に入ってきたのが、葵ではなく、悠樹だったら、ちとせのパンチが炸裂していたことだろう。
「今日も走りにいくの?」
 葵は洗面器とタオルを抱えていた。
 鈴音の治療に使っているのだろう
「うん。なんだか、走ってすっきりさせたい気分なんだよね。鈴音さんの具合はどう?」
「まだ目は覚まさないのだけれど、今のところは落ちついてはいるわ。ただ、重傷だけに治癒術で消耗する体力も激しいから治療には時間がかかるわね。特に右腕の治療には気を使わないといけないのだけれど」
「鈴音さんの右腕、そんなにひどいの?」
「鈴音さん自身が強力な霊気の持ち主で治癒力も高いから、どうにか治療ができる状態までは回復しているのだけれど、常人だったらとっくに使い物にならなくなっているでしょうね」
「そんなに……」
「でも、時間をかけてちゃんと治療をすれば大丈夫。きっと完治させて見せるわ」
 葵が力強く言う。
 ちとせは、葵から鈴音の様子を聞いて少しだけ安心した。
 目を覚まさないのは気になったが、命に別状はなさそうだ。
 葵の診断に間違いはない。
 そして、姉の治癒術は一流だと、ちとせは確信している。
 その姉が、鈴音を完治させると言っているのだ。
 それなら、自分は、その言葉を素直に信じるだけだ。
 ちとせはレーシングショーツに脚を通した。
 レーシングトップの上から、パーカーを着て、着替え完了。
「姉さんも無理しないでよ」
「ええ。大丈夫です。あ、そうそう、私は手が離せないから、悠樹クンが朝食を作ってくれるから」
「悠樹が?」
 悠樹は料理が上手い。
 時たまだが、当番制の朝食だけでなく、夕食を作ることもある。
 葵も家事全般が得意であったし、ちとせも料理以外の家事には自信があった。
 両親が長期間家を空けているので、そういうことは自然と身についた。
「あと、ロックさんも手伝ってくれるそうよ」
「う〜ん、男が家事をする時代だね」
 ちとせがそう言うと、葵は笑って答えた。
「ちとせも、スポーツドリンクや、ええと、プロテイン? ……の知識だけじゃなくて、少し、お料理の勉強もしておかないと」
「そだね。んじゃ、行ってきます」
 ちとせも笑いながら、玄関に向かう。
 すでに頭の中は、日課のトレーニングメニューを遂行するモードに切り替わっている。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 葵はちとせを見送ると、鈴音の寝かされている部屋へと向かった。

「うぅ……ん……」
 鈴音は朦朧とする意識のピントが合った時、自分がちとせの家のあの部屋に寝かされているとわかった。
 はじめて、この神代家に来た時に寝かされていた部屋だ。
「そうか、あたしは……」
 意識がはっきりした途端、霧刃に返り討ちにあった記憶が鮮明に蘇ってきた。
 あれほど焦がれていた姉を、人の道を外してしまった姉をやっと見つけたはずなのに、止めることができなかった。
 まるで手も足も出なかった。
「あたしは無力だった」
 思わず拳を握り締めようとした途端、身体中に激痛が走った。
 特に霧刃に徹底的に砕かれた右腕は凄まじい痛みを絶え間なく発し始め、指を動かすだけで、体力が消耗していくのがわかる。
 破壊された身体中の筋肉が鋭い痛みで、内臓が鉛を埋め込まれたかのような鈍い痛みで、そして、精神が疲弊感で、鈴音を蝕む。
 だが、鈴音は無理矢理、痺れる右の拳を握り、苦痛を自分に刻み込んだ。
 ――霧刃。
 あたしは、まだ生きてる。
 苦痛を感じる意識もある。
 あたしは、まだやれる。
 待ってろ、霧刃。
 今度こそ必ず……。
「霧刃、もう逃がしはしない」
 身体に走る激痛を無理矢理に無視して、鈴音は布団から抜け出した。
 鈴音の頭の中は霧刃のことでいっぱいだった。
「す、鈴音さん、何を!?」
 葵の声が、突然降ってきた。
 振り向くと、葵が部屋の入口で、水の入った洗面器とタオルを抱えて立っていた。
「葵……」
「鈴音さん、まだ、安静にしてないと。傷はまだ完全に癒えてはいないんですよ!」
 葵が慌てた様子で、鈴音に近寄る。
「葵、あたしは霧刃を探しに行く」
「ダメです。そんな身体じゃ無理ですよ!」
 葵は鈴音の言葉を聞いてもってのほかと言った顔で、鈴音の左手を掴んだ。
 そっと触れただけでも砕かれた鈴音の右腕には激痛が走る。
 治療に当たっていた葵は、鈴音の利き腕の治り具合を知っているのだ。
 だから、咄嗟とはいえ、自然に鈴音の左腕を掴んだのだろう。
 しかし、鈴音は、葵の手にやさしく空いている右手を重ねた。
 葵が、はっとしたように鈴音の顔を見上げた。
 予想通り、今のちょっとした行動だけで、鈴音の額には苦痛のために汗が浮かんでいる。
「鈴音さんの右腕の骨は完全に砕けて、腱もズダズタに裂けていたんですよ。今、治療に専念しないと使いものにならなくなるかもしれないんです!」
「行かせてくれ、頼むよ。霧刃を見失うわけにはいかないんだ。腕を一本失うことになっても!」
「ダメです」
 葵は常日頃のおっとりとした調子からは想像できないような強い声音で、鈴音に言った。
 一時の感情に流されてはいけない。
 今は、鈴音をどうしても止めなくてはならないという強い決意が、葵の顔に厳しさを与えていた。
「鈴音さん。焦らないで。まだ、時間はあるはずです」
 葵が鈴音の目を正面から真っ直ぐに見つめながら、ゆっくりと諭すように言う。
「鈴音さん。今、もし霧刃さんをまた見つけたとして、止めることができるのですか?」
「それは……」
 鈴音が口ごもり、悔しそうな表情で俯く。
 霧刃の強さは圧倒的だった。
 鈴音の技がまるで通じなかった。
 その上、利き腕がまったく役に立たない状態でまともに戦えるわけもない。
 それは直接に刃を交え、完全な体調でさえ惨敗した鈴音自身が他の誰よりも理解していることだった。
「鈴音さん。鈴音さんは一人ではありません。私たちもいます」
「葵……」
「それに、ロックさんも鈴音さんの大きな力になってくれますわ」
 葵が温かな微笑みを浮かべ、その名を口にした。
「えっ、今、何て!?」
 思いもかけない名前を聞いて、鈴音が驚いた表情で思わず聞き返す。
「ロックさんも力になってくれます」
 葵は、もう一度、はっきりと言った。
 そして、やさしい目で微笑みかけ、鈴音の手に重ねていた自分の手を降ろした。
「……ロック、……ロックが……」
「ロックさんが、霧刃さんとの戦いで重傷を負った鈴音さんを助けてくれたんですよ」
 葵の告げた事実に、鈴音は小さくない衝撃を受けていた。
 あの、霧刃を一緒に追おうと言ってくれたロック・コロネオーレがここに来ている。
 しかも、鈴音を救ってくれたのだという。
「二階の空き部屋で休んでいますわ。昨夜から、私と一緒に徹夜で鈴音さんを看ていてくれたんですよ」
「ロックが、あたしのために……」
 鈴音はロックに感謝した。
 だが今、彼の顔を見てしまったら……。
 あたしは、ちとせたちと知り合って随分と変わってしまった。
 そのことに後悔はない。
 ただ。
 あたしの心は……。
 鈴音は目を伏せ、項垂れた。
 鈴音の心は散々に乱れていた。
 ちとせ、悠樹、葵、そして、ロック。
 暖かい光。
 孤独が癒されていく、暖かい光。
 その光に照らされて冷たく凍った闇が浮かび上がる。
 闇は、霧刃の姿をしていた。
 ――鈴音、おまえは、おとなしく寝ていろ。
 霧刃の冷たい影が鈴音の心を侵蝕する。
 ――おまえはもう、戦えないのだ。
 鈴音は知らず知らずに、唇を強く噛み締めていた。
「私たち、そんなに鈴音さんの力になれないのですか?」
 葵の視線は、片時も鈴音の目から反らされない。
 真摯な想いが、鈴音の心を貫く。
「すまない。わかったよ」
 葵の真っ直ぐな瞳を見つめ返しながら、鈴音があきらめたようにため息を吐いた。
 ――私たち、そんなに鈴音さんの力になれないのですか?
 それは、痛い一言だった。
 自分は葵たちを頼りにしていないんじゃない。
 だけど。
 あたしは……。
「では、治癒を続けますから、布団の上に寝てください」
 鈴音が落ちついてくれたと思い、葵は安堵の微笑みを浮かべて洗面器を側の台に置いた。
「……悪いな、葵」
 自分への注意の反れた一瞬をついて、鈴音は葵の後ろに回り込んだ。
 そして、鈴音は手刀で葵の首筋を軽く叩く。
「……ぁ……鈴……音……さん?」
 崩れ落ちる葵。
 その揺れる瞳に鈴音の哀しそうな顔が映り込む。
「……行っては……ダメ……です……」
 葵は懸命に鈴音に手を伸ばそうとしたが、暗闇へと落ちていく意識はそれを許してはくれなかった。
「……ごめんな」
 鈴音は気を失った葵を優しく抱き、自分が寝かされていた布団に寝かせた。
「頼りにしてないわけじゃない。ただ、霧刃を見失うわけにはいかないんだ」
 鈴音は申し訳なさそうに、葵の頬を撫でた。
 立ち上がり、部屋を抜け出す。
 癒えない傷が痛む度、身体中から汗が流れ落ちる。
「はぁ、はぁ、……これぐらいのことで」
 葵は、壁に寄りかかりながら玄関に進んだ。
 目指すのは、――シャロル・シャラレイ。
 あの占い師なら、もう一度、霧刃の居場所を占えるはずだ。
「ロック、ごめんな。今、おまえの顔を見たらくじけちまうかもしれないんだ」
 鈴音は小さく呟いた。


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