魂を貪るもの
其の四 天武夢幻の剣
4.織田鈴音

 堤防にとまっていたカモメたちが一斉に飛び立った。
「『裏長』」
 鈴音は老人を油断無く見据える。
「なるほど。あんたが、ロックが言っていた『裏』のボスってわけかい」
「その通り。私がファミリーの『裏』を指揮っておる」
 しわがれた声だが、はっきりとした口調で応じる。
 『裏長』から隙は感じられない。
 そして、邪気は感じられたが、どういうわけか殺気の類は感じられなかった。
「その裏の首領さんが、あたしの後をつけて来るってのは、どういうわけだい?」
「おまえさんがトッチーニを殺ったのだろう?」
「ヤツの仇でも討ちに来たのか?」
 鈴音は注意深く『裏長』に言葉を返した。
 『裏長』に殺気はないのはわかっている。
 もちろん、だからといって決して安心できる相手ではないのだが、目的は別にあると確信していた。
 だが、鈴音にその目的まではわからなかった。
 鈴音は、マフィア組織の人間ではないのだ。
 成り行き上、ロックたちの組織に関わったとはいえ、『裏』の首領に直接会う理由はない。
「ふむ。トッチーニは、腕は立ったが、思慮が浅かった。死んだのは当然の結果だろう」
 老人は、ため息を吐きながら応える。
 直属の幹部を倒されたにもかかわらず、『裏長』の声は穏やかだった。
 それはつまり、この老人が部下の死に何の感慨も持ち得ない冷徹さを兼ね備えていることの証明でもあった。
「私の目的は、ヤツの仇を討つことではない」
 間を置くように、『裏長』は鈴音を凝視した。
 その双眸には相変わらず殺気の類は浮かんでいないが、鋭く、鈴音の姿を捉え続けている。
「確か、鈴音とかいう名だそうだが、……どうだね、私の仲間になる気はないか?」
「!?」
 『裏長』の言葉に鈴音はいつもの癖で前髪をかきあげかけていた手を止めた。
 そして、老人を睨みつける。
「何を言っている。あたしに仲間になれだと?」
「私の組織も人材不足でね。良くてもトッチーニ程度だ。しかも、ヤツはおまえさんに倒されてしまったのでな」
「あたしはロックの世話になっている」
 鈴音の語気が少し荒くなる。
「雇われているわけではないだろう。キミはシチリア人ではないが、私は拘るつもりはない」
 『裏長』は顎鬚をしごいた。
「あたしは、あんたたちの争いに興味はない。だが、あんたよりはロックの方が好きになれる」
「ふむ。コロネオーレの若造は優男だからな。惚れたのかね?」
「……」
 『裏長』を睨みつける鈴音の視線が激しくなる。
「おやおや、図星かね?」
 鈴音は今一度、先日のロックとの出来事を思い出していた。
 あのまま、彼に抱かれても、鈴音は後悔しなかっただろう。
 ロックは今まで出会ってきた男たちとはまるで違った雰囲気を備えている。
 この社会の裏という穢れた血の海にいながら、血の匂いを感じさせない。
 血の海を否定しながら、自らの手が血に染まることを恐れない。
 そして、やさしさを決して忘れない。
 忘れていたぬくもりを、与えてくれる男だった。
 ――彼と一緒に暮らしたい。
 それが、鈴音の本音だった。
 だが、その想いを口にするわけにはいかない。
 鈴音には命懸けでやらねばならないことがあるのだ。
 姉を止める。
 それまでは一箇所に留まり続けるわけにはいかない。
 ロックとの暮らしという幸せによって、姉を止めるために研ぎ澄ませた刃を(こぼ)れさせるわけにはいかないのだ。
 そして、ロックへの想い以上に、鈴音には『裏長』の言葉に従うわけにはいかない理由があった。
 ――天武夢幻流は、人を魔から守るための武術だ。
「あたしは悪魔と契約しているような組織に加わる気はない」
 鈴音は鋭い声で、はっきりと『裏長』の誘いを断った。
 『裏長』が統べるマフィア組織の『裏』は、悪魔と手を結んでいる。
 そう、ロックに聞いていた。
 鈴音が倒したサルヴァトーレ・トッチーニもまた、悪魔に魂を売った人間だった。
 悪魔を利用しようとする人間は、たいてい邪悪な野望を持っている。
 人々を脅かす闇の勢力と戦ってきた鈴音は今までの経験上、それを知っていた。
 そして、鈴音から家族を奪い去ったのも、そんな人間たちだった。
 『裏長』の気は、鈴音にとって危険な雰囲気を漂わせている。
 それも気に入らなかった。
「残念だ」
 『裏長』は一言そう言うと、そこではじめて殺気を解放した。
 杖を握る手に力を込める。
「ならば、死んでもらうしかあるまい」
 体勢を整える『裏長』に対して、鈴音も身構える。
「コロネオーレの若造も、もうこの世にはおるまいから、仲良くあの世で暮らすのだな」
「何……?」
「今日、『表』の会合(クーポラ)が開催されるという情報は掴んであった。そこへ、『闇』の刺客を送り込んでおいたのだよ」
 老人は杖を刀のように構えた。
「その始末の間に、おまえの腕を見込んで誘いに来てやったのだったのだぞ。せっかくの誘いを不意にしおって……」
「ロック・コロネオーレの首、あんた自ら取りにいかなくても良いのかよ!」
 ――ロックが狙われている。
 そのことに、鈴音は激しい動揺を覚えた。
 『裏長』は鈴音の心を見透かしたように、唇の端を吊り上げて笑った。
「問題ない。"凍てつく炎"に失敗はないからな」
「!」
 凍てつく炎……!
 霧刃……!
「聞いたことがあるという顔だな。ならば、結果もわかるだろう」
 鈴音の耳に『裏長』の言葉は言葉として認識されていない。
 衝撃が身体を突き抜けていた。
 霧刃がここにいる。
 しかも、ロックを殺そうとしている。
 鈴音は、我知らず呆然としていた。
 突然に隙を晒す鈴音を見て、『裏長』の顔に不審と疑念の表情が浮かぶ。
「まあ、良い。この機会をむざむざ逃すこともない」
 『裏長』が老人とは思えぬ速さで鈴音に向かって駆けた。
「しまっ……」
 鈴音はそこでようやく我に返った。
 慌てて身を退いて避けようとするが、『裏長』の攻撃には油断していて逃げられるような甘さはなかった。
「もらったぞ」
 『裏長』の伸ばした杖の先端が鈴音の胸に激しく打ち込まれた。
 胸部から身体の内部に伝わった衝撃に、熱い物が喉に込み上げてくる。
「がはっ……」
 血を吐く鈴音。
 続けざまに杖で『裏長』は連撃を繰り出してくる。
 鈴音はその二撃目を何とか身を捻って躱し、三撃目は霊気の剣を作り出して受け止めた。
「立て直したか」
 鈴音が体勢を立て直したのを認めて、『裏長』が間合いを離す。
「くっ、はぁ……」
 たった一撃を食らっただけだが、鈴音の呼吸は荒い。
 胸に手を当てると違和感がある。
 肋骨が折れているようだ。
 だが、今の鈴音にとって身体のケガを気にしている暇はなかった。
 今、倒れることは許されない。
 ――霧刃。
 そう、霧刃が近くにいる。
 そして、ロック。
 ロックの命が、自分の実の姉によって奪われようとしている。
 そのことが鈴音に火をつけていた。
「霧刃。……霧刃がいるなら、……霧刃がロックの命を奪おうとしているのなら、あんたの相手をしている暇はない!」
 鈴音の叫びに呼応して身体から荒々しい霊気が解放され、大気が渦巻いた。
「こ、これほどまでとは!?」
 鈴音の霊気の奔流で生まれた風を受けて、『裏長』の顔に動揺が浮かぶ。
 鈴音の力は『裏長』の予想をはるかに越えていた。
 彼にとっては思わぬ計算違いだったようだ。
 支配に応じるような力ではなかったのだ。
「もう一撃。もう一撃、胸に衝撃を与えれば、折れた肋骨が心臓を貫く」
 裏世界で半世紀以上も命のやり取りを仕事としてきた男の本能が、鈴音の存在を消せと命じる。
「冥府に旅立て!」
 『裏長』は杖を構えて、鈴音の心臓を狙った。
 しかし、それよりも一瞬速く鈴音が舞うような連撃を繰り出す。
「ぬううっ!」
 鈴音の猛攻は『裏長』に反撃の隙を与えることなく追い詰めていく。
「この私が押されているだと?」
 手も足も出ないという状況に焦燥を顕わにする『裏長』。
 鈴音は攻撃の手を緩めない。
「ぬがぐああっ!」
 『裏長』の身体から血飛沫が上がる。
「こ、この私が、『裏』の長たるこの私が、こんなに簡単に!?」
「相手が悪かったな」
 鈴音が前髪をかきあげ、鋭い視線で睨みつけながら『裏長』に言った。
 実力の差ははっきりしている。
 呻きながら『裏長』は己の傷口に手を当てた。
 その手が流れ出る血で赤く染まる。
「おのれ……」
 己の血を見て、『裏長』の顔は狂気に染まった。
「まだ、やる気かい?」
「私をなめるなよ、小娘!」
 瞬間、『裏長』が、鈴音に向かって手を振った。
「これでどうだね!」
「なっ!」
 真っ赤な液体が、鈴音の目を濡らし、視界を奪った。
 血の目潰し。
 『裏長』は手で拭った自らの血を鈴音に放ったのだ。
「ふ、ふふ、はははっ!」
 狂ったように哄笑する『裏長』が鈴音の胸を杖で抉るように突いた。
「くぅっ、ごほっ!」
 再度胸部を打たれた衝撃に鈴音は苦痛の呻きを洩らして、地面に膝を落としてしまう。
「ふむ、どうやら心臓は外したか。だが、その吐血量、砕けた肋骨が肺腑を貫いたのではないか?」
 『裏長』が邪悪な笑いを浮かべる。
 彼は勝利を確信しているようだ。
「おまえさんの力は私を遥かに超えていたが、この戦いの最初と最後の油断が命取りよ。私の勝利というわけだ」
「違うな。ごほっ、今の卑怯な戦法で……、テメーの地獄……行きは決定だ。老いぼれっ!」
 霊気の剣を地面に突き刺して杖代わりにし、荒い息を吐きながらも、鈴音は『裏長』を睨みつけた。
「ぬうっ、その戯言をのたまう口を今すぐに閉ざしてくれる!」
 『裏長』が杖を振り上げた。
 その時。
 閃光が走った。
 いつの間にか地面から引き抜かれた鈴音の青く輝く霊気で形成された剣が天を指している。
 土埃が舞い、地面に亀裂が走った。
 亀裂は真っ直ぐ『裏長』の足元に走り、その背後まで及んだ。
 と、『裏長』の身体の正中線にも赤い筋が走る。
「……何だ?」
 『裏長』は自分の身に何が起こったのか理解できていないようだった。
 その身体の左右がゆっくりとずれ始める。
 『裏長』の身体は縦に、二つに斬られていたのだ。
 走った閃光は、鈴音が霊気の剣で『裏長』の身体を断った閃きだった。
「おおおおおおおおおおっ!!」
 『裏長』は真っ二つになり、地面に倒れた。
 鈴音が口元の血を拭って、『裏長』を見下ろす。
 その雰囲気には、冷たい炎の如きものが隠れているように感じられた。
「"凍てつく炎"」
 半分に斬られた唇から、『裏長』の最期の言葉が発せられた。
 自分を殺した相手を見て、『裏長』の頭に最後に浮かんだ言葉は、『表』の会合へ送り込んだ刺客の二つ名と同じものだったのだ。
 ――鈴音は『裏長』の死を確認すると、呼吸を整えながら胸の傷を確かめた。
「肋骨と臓腑に大分食らっちまったか」
 『裏長』の言う通り、油断が招いた重傷だった。
 立っているだけでも辛い。
「だけど、骨が肺に突き刺さってるってことはないようだな。これなら、まだ動けるさ」
 鈴音は身体中を走る激痛に汗を滴らせながら、自分に言い聞かせるように言った。
 身体は動く。
 ロックの元へ急がねばならない。
 そこには、霧刃がいるはずだ。
「ロック、生きていろよ」
 霧刃にロックは殺させない。
 ――殺させてたまるか。
 霧刃を止め、ロックを救う。
 鈴音は身体の痛みに耐えて歩を進めながら、それだけを考えていた。

 会合が行なわれる館の場所は、ロックから聞いて知っていた。
 ロックの率いる『表』の本拠ともいうべき場所だ。
 港からそれほど遠い場所ではなかったのが幸いして、時間を要せずに到着することができた。
 だが、鈴音の全身は苦痛に蝕まれ、疲労の色が濃い。
「ここか」
 邸内から人の気配がしない。
 鈴音は絶望的な不安と焦燥感に駆られた。
 鈴音は緊張を抑え、扉に手をかけた。
 扉が開き、中の様子が鈴音の視界に入った。
「!!」
 そこには、血の海が広がっていた。
 二度目。
 この光景は、鈴音にとって二度目の経験だった。
「霧刃が、やったってのか?」
 ――あの時。
 鈴音の家族が失われた時は、悪魔たちを従える闇の勢力の仕業だった。
 父親も母親も切り裂かれて死んでいた。
 霧刃の恋人も首を引き千切られて死んでいた。
 そして、霧刃は恋人の生首を抱き抱えて泣いていた。
 絶望の空間が、そこにあった。
 だが、今回、この惨殺を行なったのは霧刃のはずだ。
 ――なぜ、ヤツらと同じことをする!
 鈴音の胸に怒りが込み上げてきた。
「くそっ、霧刃、なぜだ。なぜ、ヤツらと同じことをするんだ!」
 鈴音は拳を壁に叩きつけ、唇を噛み締めて奥に進んだ。

 奥の会議室らしき場所に出た。
 ここで、会合が行なわれていたのだろう。
 最も多くの人間たちが床の染みと化していた。
「ロック!」
 部屋の中央に倒れているロック・コロネオーレの姿が見えた。
 鈴音は、急いで駆け寄った。
 ロックの胸から大量の血が流れ出していた。
「ロック!」
 鈴音が屈み込み、ロックを見つめる。
 顔面蒼白だが、まだ微かに息があった。
「生きてる。息があるなら!」
 鈴音がロックの胸部の傷に手を翳す。
 手に光が宿り、ロックの身体に流れ込んで行く。
「あたしにあるだけの力、頼むぜ!!」
 鈴音の治癒術の力はその腕っ節とは違い微々たるものだった。
 治癒の術は数多ある霊術の中でも高度な術に属し、人間の身体の知識、代謝能力の計算はもちろんのこと、生まれもっての資質がその能力を大きく左右してしまう術体系なのだ。
 鈴音も訓練を積んだが、治癒術の能力はほとんど上昇しなかった。
 それでも鈴音はロックへ、一心不乱に治癒術を試みた。
 もちろん、鈴音は自分の治癒術の才能がないことは承知していた。
 だが、ロックのために何もできないわけではない。
 鈴音は今まで、生きるために何でもしてきた。
 天武夢幻流を継ぐ退魔師として力を磨きながら、人々を魔から守るために身を挺して魔から人々を守るために戦い続けてきた。
 退魔に失敗し、瀕死の重傷を負ったこともある。
 敵に捕らわれ、壮絶な拷問にかけられたこともある。
 その度に鈴音は微々たる治癒の力で何とか命を取り留めてきた経験があるのだ。
 生き延びられたのだ。
 鈴音は、どうしてもロックを死なせたくはなかった。
「霊気もだ!」
 鈴音の全身が淡い光を帯びる。
 治癒術と併用して、自分自身の霊気をロックに送り込む。
 霊気を送り込むことで相手の基礎生命力を高める。
 それもまた、鈴音が何度か命を救われた技だった。
 だが、自分の霊気を他人に分け与えるということは、自分の生命を削るに等しい危険な行為だ。
 それに今は、鈴音自身が『裏長』との戦いで、肋骨が折れるほどの重傷を負っているのだ。
 下手をすれば、自分も死んでしまう危険もあった。
 それでも鈴音は力尽きるまでロックに霊気を送り続けた。

「うぐっ、うっ……」
 ロック・コロネオーレは胸に走る焼けるような痛みで目が覚めた。
 その痛みは全身を駆け巡り、頭脳を覚醒させた。
 虚ろだった焦点が徐々に合ってくる。
 ロックが横たわっているのはベッドの上ではなく、固い地面の上だった。
 空は青く澄み渡り、鳥の囀りが聞こえていた。
 ロックは起き上がろう、上半身に力を入れた。
 途端に、心臓の辺りを激しい痛みが襲い、思わず呻いた。
「う、あぐ……」
 その痛みで、ロックは思い出した。
 自分が今まで何をしていたのかを。
 そして、思い出した。
 あの女を。
 死神のようなあの女のことを。
 ――"凍てつく炎"。
 それが、女の異名だった。
 あの女は突如、『表』の会合に姿を現すなり、ロックのファミリーを皆殺しにしたのだ。
 そして、ロック自身も、あの女の持つ刀に心臓を貫かれて死んだはずだった。
「生きている……?」
 ――オレは生きている。
 ロックは自分の胸に手を当てる。
 痛みはあるが傷痕はない。
「目が覚めたか。良かった」
 声をかけられて、ロックは初めて自分以外の人間がそこにいるのを知った。
 視線を向けると女が一人、大きな岩に越しかけていた。
「鈴音サン……?」
 鈴音だった。
 ロックの視線を受けて、鈴音は岩から降りた。
 彼女の表情は、その美しい顔立ちとは裏腹に暗い。
 鈴音の表情の翳りは、ふと、ロックに、あの女を連想させた。
 ロックは頭を叩いた。
 鈴音が、あの死神のような女に似ているわけがない。
 彼女はトッチーニの襲撃から自分を救ってくれた恩人ではなかったか。
「心臓のギリギリ隣に風穴が開いてたんだぜ」
「鈴音サンが、助けてくれたんですか?」
「……」
 鈴音は答えなかった。
「助けてくれたなら、お礼を……」
「礼などいらない。いや、礼など言ってもらうわけにはいかない」
 鈴音が視線を落とす。
「なぜです? オレは二度もアナタに救われた」
「ロックを殺そうとした女……」
 鈴音の声は震えていた。
「"凍てつく炎"織田霧刃が、あたしの姉貴だからだ」
 鈴音はしぼり出すように、だが、はっきりとした声で言った。
「なっ!?」
 命の恩人である鈴音が、自分の命を奪おうとした女の妹であるという衝撃的な事実に、ロックの表情が驚愕に染まる。
 鈴音はロックの澄んだ蒼い瞳から逃れるように後ろに下がった。
 打ちひしがれるように一歩引いた鈴音を見て、ロックは彼女が自分に嫌われることを恐れているのだと悟っていた。
 出会って数日に過ぎないが、鈴音の存在はロックの中で大きなものになりつつあった。
 彼女にとっての自分も同じだろう。
 だからこそ、彼女は実の姉がロックを殺そうとしたことに罪の意識を感じ、怯えているのだろう。
 鈴音はロックの館にいる時、″凍てつく炎″と呼ばれる女の妹とは思えない、やさしげで哀しそうな瞳をしていた。
 そして、勝気な容姿だが、ひどく疲れたような雰囲気も漂わせていた。
「本当にあの女の……?」
 ロックはやっとのことで絞り出した問いの間抜けさを呪った。
 その残酷な問いは鈴音を傷つけてしまうものでしかない。
 だが、鈴音は動揺した素振りは見せず、静かに息を吐き、頷いた。
「ああ。だけど、あいつは、あたしの仲間じゃない」
 鈴音の澄んでいた瞳に憎悪が宿った。
 研ぎ澄まされた刃のような目だった。
 ロックは、そこではじめて確信した。
 織田鈴音は、確かに、"凍てつく炎"の妹なのだ、と。
 そして、その間抜けな確信を呪った。
 そのようなことは、どうでもいいことではないのか、と。
「……霧刃を止められるのは、あたしだけさ」
 鈴音は独り言のように小さく呟いた。
 ロックには、その呟きが幼子の泣き声のように聞こえていた。
 鈴音の瞳の色はまた、捨てられた子猫のような目に戻っていた。
「鈴音サン……」
 鈴音の顔は複雑だ。
 ロックが読み取れるのは、霧刃を逃がした失望感。
 あとは、たぶんロックを殺そうとした霧刃の行動に対する罪悪感。
 そして、恐ろしいほどの孤独感。
「許してくれとは言わない。ただ、あんたと出会えて良かったよ」
 鈴音は心苦しさを隠して、ロックに背を向けた。
 まるで、潮時だと自分に言い聞かせるように。
 その背が微かに震えていることに、ロックは気づいた。
「そうそう、『裏長』とかいうヤツは倒しておいたぜ。世話になった礼だと思ってくれ。だから、もうできる限り、霧刃にも、そして、……あたしにも関わらない方が良い」
 後ろを向いている鈴音の表情はロックからは見えなかったが、努めて明るい声を出しているのはわかった。
 ロックは衝動的に立ち上がっていた。
 彼は自分自身で思うほどに間抜けではなかった。
「鈴音サン!」
 去ろうとする鈴音の腕を掴み、引き止める。
 鈴音が振り返る。
 ロックは彼女を引き寄せ、抱き締めた。
「な、何を!?」
 鈴音が戸惑ったように声を上げたが、すぐに自分を抱きしめるロックの腕の暖かさに気づいたように表情を和らげた。
「鈴音サン。オレにアナタを止める権利も義務もない。だけど、アナタもオレを止められない」
 ロックは鈴音の耳元で静かに言う。
「オレも"凍てつく炎"を追う。一緒に行きませんか?」
「!!」
 腕の中で鈴音が身体を強張らせるのをロックは感じ取った。
 一緒に霧刃を追おう。
 それは、ロックを愛し始めていた鈴音に魅力的な誘いだったろう。
 だが、いけない。
 一緒には、いけない。
 鈴音はロックから離れた。
「ロック。ありがとう」
 鈴音の目に光るものがあった。
 それは、涙。
「だけど、あたしは独りで行く。今、あなたと離れなければ、独りで立てなくなってしまう」
「鈴音サン」
 鈴音は振り返らずに去って行った。
 ロック・コロネオーレは痛む胸を手で抑えながら、遠目に見える鈴音に背を向けた。
 そして、鈴音とは反対の方向に歩き出した。
 組織の復讐と、いつか必ず鈴音の力になることを誓って。

「――そして、オレは、織田霧刃の情報を追って、この街に来ました」
 過去の話を終えたロックは、重く息を吐いた。
「そっか」
 ちとせも息を吐いた。
「ロックさんも鈴音さんのお姉さんを追っているのね」
「ええ。しかし、実際、彼女を目の前にして何もできなかった」
 織田霧刃を目の前にして鈴音を救うのが精一杯だった。
「織田霧刃」
 ちとせは沈んだ表情のロックを見ながら、霧刃の顔を思い浮かべた。
 ちらっと見ただけだったが、鮮明に思い出すことができる。
 絶世の美女といっても差し支えない鈴音の姉だけあって、綺麗な顔立ちをしていた。
 だが、その美しさは凄絶で、近寄りがたかった。
 肌は白かったが、病的な白さだったようにも思う。
 そして、冷たい眼差し。
 その濁った目は、実の妹を痛めつけている時どんな感情を抱いていたのか。
 ちとせには、わからない。
 自分の姉である葵の顔を覗った。
 ――姉さんは、ボクを大切にしてくれる。その姉さんが、ボクを殺そうとしたりする状況?
「ちとせ?」
 葵が不思議そうな顔で、ちとせを見つめ返してくる。
 ――想像できない。
 この優しい姉が自分を殺そうとするところなど想像できない。
 だが、それは、鈴音にしても同じだったはずだ。
「うん、何でもないよ」
 ちとせは、照れたように微笑んだ。
「そう、じゃあ、ちょっと、鈴音さんの様子を見てきますね」
 葵は席を立った。
「オレも一緒に……」
 ロックが遠慮がちに葵に声をかける。
「ええ……」
 葵はやさしく微笑むとロックと一緒に、鈴音の寝ている部屋へ向かった。

「ねっ、悠樹」
 ちとせが悠樹に話しかける。
「ん?」
「鈴音さん、大丈夫かな?」
「葵さんが命に別状はないって言ってたじゃないか。右腕は集中的な治療が必要だって言ってたけど」
 悠樹がちとせの肩に手をかける。
「そうじゃなくて、霧刃さんのこと」
「ちとせ」
 悠樹が安心させるように、ちとせの頬を撫でる。
「大丈夫さ。鈴音さんなら、ね」
「悠樹。……うん、そうだね」
 ちとせが気持ち良さそうに目を細めた。
「だけど、気になるのは、『ヴィーグリーズ』と霧刃さんの関係だね」
 悠樹が言った。
 ちとせも、それは気になっていた。
「ヤツら、この街で何をしようというのかな?」
「『力』がどうとか、言ってたけど」
「その『力』で慈善事業をやるって訳じゃないでしょ」
 ちとせが頭を上げた。
 サラサラと髪が流れる。
「となると、ちとせが望んでいることは鈴音さんの手伝いをしながら、『ヴィーグリーズ』の計画を調べることだね」
 悠樹はちとせと目を合わせる。
「そゆこと」
 ちとせが器用に片目を瞑って、悠樹に応えた。


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