魂を貪るもの
其の四 天武夢幻の剣
3.機嫌の悪い女 

 目の前の惨状を一瞥した女は、手にしたサフランの色をしたリキュールの入ったグラスを口に運んだ。
 一気にグラスの中身を飲み干すと、自分に視線を向けている男たちを睨みつけた。
 ロックは、ぼんやりと、女の飲んでいる鮮やかな黄色のリキュールは、きっと『魔女(ストレガ)』だな、と思った。
 そして、すぐにそんなことを考えている場合ではないと気づき、女に逃げるように叫ぼうとしたが、身体を蝕む苦痛に呻き声が口を出ただけだった。
「一つ忠告してやる。ここは酒を飲む場所だ。殺し合いの場所じゃない」
 女が空になったリキュール・グラスを揺らしながら言った。
「何だ、おまえは?」
 サルヴァトーレ・トッチーニが不審そうに声を上げる。
「あたし? あたしは、鈴音さ」
 女――鈴音はグラスを近くのテーブルに置いた。
 据わった目元は赤く、艶っぽい唇から漏れる吐息はアルコールの香りを含んでいる。
「名前など聞いてはいない。……ただの酔っ払いか」
 トッチーニは闖入者に舌打ちし、隣で構えている部下に、この目障りな女を始末するように目配せをする。
 部下がナイフを振り翳して、鈴音に斬りかかった。
 だが、鈴音は迫り来るナイフを紙一重で避け、男の腕を抱え込んだ。
 そして、力を込めて、肘の関節を砕いた。
「がああっ!」
 無様な悲鳴を上げながら、腕を折られたトッチーニの部下が床に転がる。
「何?」
 トッチーニが予想外の展開に驚愕の声を上げ、ロックも意外な事の成り行きに目を見張った。
「あたしとやる気かい?」
 鈴音が、にやりと笑った。
 だが、その目はまったく笑っていない。
「何者かは知らんが、生かしておくわけにはいかんな」
 トッチーニが疵面に憤怒の表情を浮かべ、鈴音を睨みつける。
 砕かれた肘を押さえながらのた打ち回っていた男が、鈴音から逃げるように床を這いずり、トッチーニの足元に縋った。
「トッチーニさん、助けてください。オレの腕が、オレの腕が折れちまった!」
 助けを求める部下にトッチーニは冷たい視線を送り、纏わりついてくるその男に向かって腕を振った。
「シチリア人が泣き言を言うんじゃないぜ。それに、オレは役に立たぬ部下は嫌いなのだ」
 トッチーニから一瞬、銀色の帯が伸び、部下の男は動かなくなる。
 男の首をナイフが床に縫い付けていた。
「……!」
 鈴音の機嫌は一層悪くなった。
「コロネオーレの若造の前に、おまえから殺してやるよ。目障りだからな」
 トッチーニはそう言うと、鈴音に向かって新たにスーツの懐から取り出したナイフを構えた。
「殺すしか能がないのか? こっちの兄さんの方が、有能そうじゃないか」
 鈴音はロックに一瞬向けた視線をトッチーニに戻すなり、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「有能か無能か試してみるんだな!」
 トッチーニが野獣の俊敏さで鈴音に飛びかかる。
 だが、その素早い動きを目にしても、鈴音にはまったく動揺する気配はない。
「遅いぜ」
 トッチーニの右手のナイフの軌道を見切り、鈴音は半歩動いただけで紙一重で身をかわした。
 そして、疵面にカウンターの拳を叩き込もうとした瞬間。
「かかったな!」
 トッチーニのナイフの刃部分が、柄から飛び出した。
「刃に仕掛けが?」
 鈴音は瞬時に狡猾な罠を察し、銀の光をかわそうとしたが間に合わなかった。
 柄から飛び出たナイフの刃が鈴音の肩に突き刺さった。
「ぐっ……」
 不意打ちを食らって動きの止まった鈴音の顔面を、トッチーニは刃のなくなった柄で殴りつけた。
 太い腕から放たれた見た目通りの強力な一撃に殴り飛ばされて、背後の壁に叩きつけられる鈴音。
 小さな呻き声を洩らして、鈴音は頭に残っている衝撃を振り払うように頭を振った。
 トッチーニの疵面が凶悪な笑い声を上げる。
「甘く見過ぎだぜ。お嬢ちゃん」
 鈴音は無言で顔を上げた。
 その表情を見て、ロックは悪寒を覚えた。
 殴られて唇を切ったのだろう。
 唇の端から血が滴り落ちている。
 もともと鋭かった瞳は、さらに妖しげな輝きを帯びて、浮世離れした美を醸し出していた。
 そして、鈴音は肩に突き刺さっている刃をこともなげに引き抜いた。
 途端に傷口から鮮血が溢れ出した。
「くくくっ、深手だろ?」
 トッチーニの笑いをよそに、鈴音は血の混じった唾を地面に吐き、ゆっくりと口元を拭った。
「そんなに嬉しいか?」
 低い、不機嫌そうな声を発して、鈴音がトッチーニをねめつける。
 肩からどくどくと流れ落ちる鮮血が、鈴音の右半身を赤く染めていく。
「敵にとどめを刺さないで勝利の気分か? やはり、おまえは無能だよ」
 鈴音がトッチーニに吐き捨てるように言い放つ。
「小娘が、その傷で勝てるつもりか」
 笑みを浮かべていた疵面を怒りの表情に変え、トッチーニは再び、ナイフの柄を握った拳で鈴音へ殴りかかった。
「勝てるつもりさ」
 鈴音は血塗れの右手でその拳を掴んだ。
「何だと?」
 トッチーニの両目が驚愕に大きく見開かれる。
 押し込もうとするが動かない。
 慌てて引こうとするが、やはり、びくとも動かなかない。
「う、動かん……?」
「おまえの負けだ」
 鈴音が静かに宣告し、トッチーニの拳を掴んでいる右手に力を込めた。
 骨が砕ける音がした。
「がああああっ!」
 続いて、トッチーニの悲鳴がショットバーに響き渡った。
 トッチーニの右拳は、鈴音に完全に潰されていた。
「痛てえ! ぐっ、がっ、畜生め!」
 トッチーニは砕けた右拳を左手で抑えながら、憎悪の眼差しで鈴音を睨みつける。
「殺す。殺してやるぜぇ!」
「そのセリフ何度も聞いたことがあるが、あたしにそう言って来たヤツは皆、実行できずに冥土に逝っちまったぜ」
「オレは負けねえ。オレに負けはねえんだよ。オレが負けるわけがないのだ!」
 トッチーニの疵顔が興奮のためか、どす黒く染まる。
 そして、全身から異様な雰囲気が解き放たれる。
 筋肉が脈動し、血管が浮き上がった。
「な、何だ?」
 テーブルに身体を預けながら起き上がったロックが、トッチーニの変貌に驚愕の声を上げる。
「悪魔に魂を売った輩かよ」
 鈴音がやれやれといった表情で、前髪をかきあげる。
 かきあげて、自分の手が血で濡れていたことに気づいて顔をしかめた。
 その目の前で、トッチーニは徐々に姿を変えていく。
 肉体の大きさが三倍にも膨れ上がり、筋肉が鋼鉄の輝きを帯びる。
 背中からは鷹のような漆黒の翼が生え、頭部は狼のように変わった。
 顔に残っている疵跡だけが、サルヴァトーレ・トッチーニの面影を残している。
「オレは負けん。なぜなら、これがオレの真の姿だからだ」
 トッチーニだった存在は哄笑した。
「バ、バケモノ……!」
 マフィアの中で育ったロックも、トッチーニの常軌を逸した変貌には恐怖を感じずにはいられなかった。
 そして、思い出していた。
 部下が『裏』は『闇』と手を結んだと言っていたことを。
 闇組織は、神話や伝承に名を轟かせる悪魔や怪物を使役するという噂があるということも。
「こんな異形がオレたちの敵になったというのか」
 もしそうならば、戦慄せざるを得ない。
 トッチーニだったものは、大きく膨れ上がった肩を揺らして笑った。
「悪魔との契約で、オレは人間を超えたのだ」
「だからどうした?」
 鈴音は気にも止めない口調で言った。
「おまえが何に変わろうが、おまえの負けさ」
「強がりを」
 魔物が鈴音に向けて腕を振るう。
 突風が巻き起こり、店の一部が吹き飛ぶ。
 鈴音は間一髪、衝撃波を避けていた。
「どうだ、この威力!」
 魔物は間を置かずに鈴音に殴りかかった。
 その力任せの攻撃を鈴音は両腕で防御したが、魔物の腕力は予想以上に強く、衝突の威力で壁に背中から叩きつけられる。
 衝撃で抉られた肩の傷口から新たな血が吹き出した。
「ちっ……」
 鈴音は舌打ちすると、左手で傷口を抑えた。
「これでも、オレがおまえに負けるというのか?」
 余裕を全身に漲らせて魔物が再び、鈴音に向かって拳を振り上げ、突き出す。
 そして、動きが止まった。
「なっ?」
 鈴音はトッチーニだった魔物の拳を血に濡れた右手で受け止めていた。
 トッチーニが人間の姿をしていた時に最後に放った拳を受け止めた時と、まったく同じように。
「ああ。おまえの負けさ」
 鈴音の目が冷たい光を帯びる。
 次の瞬間、魔物の全身に亀裂が生じた。
 そして、サルヴァトーレ・トッチーニだった魔物の絶叫が木霊した。
「ぐがああああああっ!」
 魔物の小山のような肉体は光を放つと、全身に走った亀裂から割れるように弾け散った。。
 四散した魔物の肉片は、すぐに蒸発するように消え失せた。
 妙な静けさだけが、ショットバーに残った。

 ロックは固まっていた。
 『裏』の大幹部サルヴァトーレ・トッチーニは悪魔に魂を売って魔物に変貌した。
 そして、その怪物を目の前の血濡れの美女が、いとも簡単に退治してみせたのだ。
 目前で起こった一連の出来事は、ロックの知っている常識を越えていた。
 すべて血が足りなくなったせいで見た幻覚ではないのかと疑いたくなる。
 だが、すべて現実であった。
 ロックの目の前の美女――鈴音が魔物のいた場所から視線を外し、出血のおびただしい肩に目をやった。
「ちっ、アルコールのせいで血が止まらねえよ」
「オレのせいで、巻き込んでしまって申し訳ない」
 ロックはよろめきながらも、鈴音に近寄った。
「気にするなよ。別に、あんたのために戦ったわけじゃない」
 鈴音が視線を下に向けながら言う。
「あいつが、あたしの酒の邪魔をしたからさ」
「傷は大丈夫ですか?」
 鈴音の肩からはまだ、新しい血が滲み出し続けている。
「あ、ああ。やっぱ、酒が回ると血が止まらないってホントなんだな」
 鈴音が、とぼけた風に言う。
 ほのかに桃色に染まっている頬は酒のせいだけではないようだ。
 どうやら、やさしくされるのは恥ずかしいらしい。
 先程の戦いで恐ろしいまでの強さを見せた女性の意外な一面に触れて、ロックは苦笑した。
 鈴音は懐からハンカチーフを取り出し、肩の傷を応急処置しながら話を続けた。
「あんたの脚は良いのかい?」
「ええ。何とか大丈夫ですヨ。動脈も外れていますしネ」
 ロックの太腿の傷はひどく痛むが、歩けないほどではなかった。
「それなら良いけどよ。しっかし……」
 鈴音は店内を見回した。
「このショットバーもずいぶん、凄惨な状況になっちまったな」
「こんな言い方は何ですが、後始末はちゃんとできますから」
「ああ。見たところ、あんたもマフィアみたいだしな」
 鈴音は世界の裏のことは熟知している。
 目撃者はこのショットバーの関係者だけであり、買収で口止めをする気なのだろうと察しはついていた。
 この店に転がる死体に関しても何らかの手立てすぐに打ち、ロックにも鈴音にも警察の捜査の手が伸びないようにするのだろう。
 マフィア・ファミリーの派閥の長であるロック・コロネオーレには、それだけの権力も財力もあるに違いない。
「ただ、警察が介入してくる前にこのショットバーから出なくてはいけません」
「酒は不味いままか」
 鈴音は誰にともなく呟くと、まだ血の滲み出している肩を抑えて呻いた。
 そして少し、よろめく。
 血が出すぎたようだ。
「情けねぇな。あの程度のヤツに。……飲み過ぎて動きが鈍ってたな」
「やはり、ちゃんと手当てしないと……」
 ロックがよろけた鈴音を支えた。
「オレの館に招待しますよ。そこでちゃんとした手当てをしましょう」
「し、しかし、あたしは……」
 鈴音が慌てたように断りかけたのをロックは制した。
「アナタはオレの命の恩人。そうでなくても、傷を負った女性をこのまま見過ごすほどヒトデナシではありませんヨ」
「……わかった。少し、お世話にならせてもらうよ」
 鈴音はため息を吐き、頷いた。
「お酒もうちで飲み直しましょう。オレも付合いますから」
「ああ、美味い酒なら大歓迎だな」
 鈴音は器用に片目を瞑ると、ロックにいたずらっぽく微笑んだ。

 ――ロックは、一息つくように、コーヒーを啜った。
 周りには、ちとせ、悠樹、そして葵がテーブルを囲んで座っていた。
「そして、オレと鈴音サンが知り合って、十日目。ある女性がオレの目の前に現れました」
 ロックと鈴音の関係。
 二人はどのような関係なのか。
 そのちとせの問いに、ロックは命の恩人だと答えた。
 そして、彼は、促されるままに鈴音との出会いについて語ってきたのだ。
「ある女性?」
 ちとせが、ロックに答えを求める。
「……"凍てつく炎"織田霧刃」
 ロックが告げた名を聞き、場にいる一同の表情に緊張度が増した。

 ――鈴音がロックの館に来て十日目の朝。
 コロネオーレ邸の庭でくつろいでいた鈴音に、ロックがアニス酒を加えた熱いコーヒーの入ったカップを手渡しながら声をかけた。
「鈴音サン。傷の具合はどうですか?」
「ああ、もう傷口は完全にふさがったよ。ここは空気が良いからな」
「空気が良いですか?」
「ロックの気が、良い空気を作り出してんのさ」
「?」
「わかんないならいいさ」
 鈴音はコーヒーカップをテーブルへと置いた。
 その顔には微かに照れたような表情が浮かんでいた。
「さてと、天気も良いし、ちょっと散歩でもしてくるぜ」
「そうですか。今日は、オレも出かけるんで……」
 今日は、マフィアの『表』の最高幹部による会合(クーポラ)のある日だった。
 そこで、今後の『裏』への対策を決定するのだ。
「んじゃ、夜まで適当にぶらついてるよ」
「夕食は遅くなると思いますが、義父から伝授された自家製カポナータのパスタを振舞いますよ」
「かぽ?」
「カポナータですよ。シチリア伝統の揚げ茄子の甘酢煮です。おいしいですよ」
「そっか。まっ、とにかく楽しみにしとくぜ」
 ロックに背を向けて挨拶代わりに手をひらひらと振り、鈴音はコロネオーレ邸の外へ出た。

 港で、カモメが優雅に舞っているのをぼんやりと眺めながら、鈴音は考え事に沈んでいた。
 ――霧刃、何処にいる。
 霧刃がイタリアに渡って一仕事するという情報は掴んでいた。
「ロック・コロネオーレ、イイ男だけど、そろそろ、あたしの休憩も終わりだな」
 鈴音は自分の中で、ロックの存在が大きくなりつつあるのを自覚していた。
 先日、偶然、彼の身体に触れた時、自分の血液が沸騰するのを感じた。
 それは彼も同じようだった。
 それまで、まるで意識することもなかったのに、互いを愛おしく想うようになっていた。
 自分も、ロックも、そのまま互いの指と指を絡み合わせていた。
 そして、互いの両手を相手の肌に滑らせ、胸と胸を合わせ、磁石と磁石がくっつくようにぴたりと身体を重ねていた。
 二人は互いのすべてを確かめ合いたいという衝動に駆られ、強く抱き締め合った。
 唇と唇が触れそうになった時に来客を知らせるチャイムが鳴らなければ、二人は激しく求め合っていたかもしれない。
 来客を迎えるために立ち去るロックの背を見ながら、鈴音は自分の孤独が彼に削られている事実に気づいてしまった。
 このまま彼の傍に居続けては、別れが辛くなる。
 ひとりで立てなくなってしまう。
 鈴音は振り切る決心を固めた。
「すべてが終わったら、また、いつか来てみよう」
 彼に会うために。
 そのためにも、霧刃を必ず見つけ出す。
 そして……。
 鈴音の物想いは中断した。
 自分を見つめている視線があることに気がついたのだ。
「誰だ? 隠れてないで出てきな」
「気配は完全に消したつもりだったが」
 鈴音の声に応えて、物影から一人の男が姿を現す。
 老人だった。
 柔和な笑みを浮かべ、杖を片手にした姿は、温厚そうな好々爺という印象だ。
 だが、鈴音は老人が只者ではないことを見抜いていた。
 抑えてはいるが、老人から感じられる"気"が邪悪さを含んでいる。
「あんた、何者だ?」
「『裏長』」
 老人は静かにそう答えた。


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