魂を貪るもの
其の四 天武夢幻の剣
2.恩讐
足元を屍と血で埋め尽くして、その女は立っていた。
漆黒のロングコートを揺らめかせながら、女は無表情で生き残りに一歩一歩近づく。
女が歩を進めるごとに、屍が一つ追加された。
女は顔色の悪さとこの状況を除けば極上の美女であった。
だが、ロック・コロネオーレには死神に見えた。
女が手で不可思議な印を切る。
爆風と閃光が女を中心に巻き起こった。
ファミリーの仲間たちが壁に叩きつけられ、息絶える。
もはや立っているのはロックと、その女だけであった。
ロックの所属するマフィア組織は最期の時を迎えようとしていた。
――抗争の始まりは、跡目争い。
ロックの義父である偉大なるゴッドファーザーのマフィア・ファミリーには二つの派閥が存在していた。
組織の『表』と『裏』。
『表』は、ビジネスや民衆の保護を行ない組織の支持を固める。
『裏』は、対抗組織との血の抗争、非合法の活動を主としていた。
その『表』と『裏』をバランスよく使い分け、ゴッドファーザーはシチリア島を拠点としてイタリア南部に
ロックは『表』の看板だった。
柔らかな物腰と、卓越した容姿、そして、回転の速い頭脳の持ち主だった。
彼は優れた判断力で、ビジネス全般に関わる紛争解決に手腕を発揮し、莫大な利益を確保する基盤を整えることなどに貢献した。
ただ、ロック本人は、孤児であった自分を引き取って育ててくれた義父への恩を返すことにしか興味がなかった。
マフィアは、どんなに格好をつけてもマフィアでしかない。
『表』では民衆の支持を取りつけても、『裏』では血で血を洗う。
いつか自分も血の海に沈むかもしれない。
彼はそんな素振りは見せなかったが、いつもそう思っていた。
その懸念は義父の病死をもって現実味を増した。
『裏』が、反乱を起こしたのだ。
『裏』の長は、ゴッドファーザーの支配力が消えたことを契機に、表舞台への進出を図ったのだった。
義父のいなくなったファミリーに未練はなかったが、ロックは義父の遺産が影に侵されるのを見過ごすことはできなかった。
「マフィアは、どんなに格好をつけてもマフィアでしかない。血で血を洗い、いつか自分も血の海に沈む」
ショットバーでグラスに入った透明なグラッパ酒に視線を落としながら、ロック・コロネオーレは小さく呟いた。
相手の血が自分にふりかかる度、そう感じる。
自分の血が相手にふりかかる度、そう実感した。
「ロックさん。何か言いましたか?」
部下の男が不思議そうにこちらを見る。
「いや……」
ロックは軽く首を横に振り、手にしたショット・グラスを口に運ぶ。
葡萄の微かな香りが口の中に広がった。
毎日のように『裏』の刺客と殺し合いを演じているためか、無意識に日頃の想いが口を出てしまったが、幸いにも部下たちの耳には届かなかったようだ。
ロック・コロネオーレは"名誉ある男"として『表』の部下たちから尊敬を受けていたし、ゴッドファーザーの後継者として申し分のない資質を垣間見せていた。
だが、組織を率いるには年齢と経験、そして、何よりも野心が不足していた。
ロックはそれを自覚していたし、それを敵対している『裏』の
『表』の看板として、優雅に振舞ってきた少年は、翳りを持つ青年へと変わりつつあった。
ショットバーには、まだ昼であるためか、ロックと彼の護衛も兼ねた部下の三人の男、そして、カウンターに一人、見知らぬ東洋人らしき女が座っているだけだった。
「『裏』もだいぶ疲弊してきているようですね」
「我々による兵隊の引き抜きが効いているのだろう。幹部はともかく、兵隊は成り行きで『裏』に付いたものも多いからな」
「だが、油断はできない。引き抜きに応じぬもの、つまり、選り抜きが残っているということだからな」
「それに」
護衛の一人が憂いを帯びた表情でロックと他の護衛の顔を見回す。
「『裏長』が、闇組織と手を組んだという情報が今朝方、届きました」
「闇組織か。『裏』よりもさらに暗闇か……」
部下の報告にロックの顔が曇った。
闇組織。
世界の闇に潜み、ロックたちマフィアの犯罪ですら赤子の遊びに見えるほどの殺戮と狂気を生業とする組織。
だが、闇組織と手を組むことの代償は大き過ぎるようにも、ロックには思えた。
万が一にも『裏』が『表』との戦争に勝利したとしても、闇組織の勢力拡大によって狂気と殺戮の伝染を恐れる他のマフィア・ファミリーをも敵に回すことになるだろう。
いや、マフィアだけではなく、イタリアのすべてから敵視される可能性も高いのだ。
ロックは違和感を覚える。
『裏長』は強欲ではあっても、愚かな男ではないはずだ。
「『裏』が手を組んだ闇組織ですが、妙な術を使うという話です」
「妙な術?」
ロックが部下に尋ねる。
「はい。何でも、異形のバケモノを手なづけているとか」
「バケモノね」
神話や伝承に名を轟かせる悪魔や怪物を使役する闇組織もあるという。
人間の心に存在する闇が具現化したといわれる魔物たちを。
ロックは今までその噂を眉唾物だと思っていた。
だが、『裏長』は闇組織の使役する怪物たちを目にし、その力に当てられ、野望を肥大化させたのかもしれない。
「もしかしたら、『裏長』は本当にイタリア全土を相手に戦争をするつもりなのかもしれないな」
ふと、ロックの表情が緊張を帯びたものに変わった。
部下に目配せをすると同時に、ショットバーの扉が乱暴に開け放たれる。
そして、数人の男たちがショットバーに雪崩込んできた。
「久しぶりだな。ロック・コロネオーレ」
先頭の男が見下すような視線でロックの姿を捉え、黄色い歯を剥き出しにして笑った。
男の顔には右目の上から左頬にかけて刃物で切られたような傷跡が走っており、白いブランドスーツに包まれたどっしりとした重量感のある肉体からは野獣のような雰囲気を放っている。
「おまえは、サルヴァトーレ・トッチーニ!」
ロックと、部下の三人はすでに拳銃を抜いていた。
サルヴァトーレ・トッチーニと呼ばれた野獣然とした疵面の男は自分に向けられた銃口にもまったくひるんだ様子はない。
「おうよ。『裏』の大幹部であるこのオレ自らがおまえを殺しに出向いて来てやったぜ。覚悟するんだな、優男」
「ちっ……」
ロックは舌打ちした。
状況は圧倒的にショットバーに乗り込んできたサルヴァトーレ・トッチーニが優勢だった。
ロックの部下は腕利きではあったが、トッチーニの部下は『殺し』のプロフェッショナルである『裏』の精鋭の戦闘員なのだ。
そして、人数も向こうが上回っている。
トッチーニ自身の精強さもまた、ロックの義父であるゴッドファーザーの時代からファミリーの内外に響き渡っていた。
彼は外見通りの凶暴な男で、好んで着る白いスーツを殺した相手の返り血で赤く染めるのが趣味だという噂さえあった。
「殺れ」
トッチーニが部下に短すぎる命令を下す。
戦闘員たちはまったくの躊躇もなく、ロックたちに襲いかかってきた。
彼らの武器は、いずれも銃ではなくナイフだ。
「ナイフは良い。直接、切り刻む感触が手に伝わるからな」
トッチーニが陰惨な殺気を放ちながら手に持ったサバイバルナイフを慣れた手つきで操り、滑るような動きでロックへと斬り込んできた。
「ぐっ……」
避け損なったロックの左腕が抉られ、血が溢れ出した。
痛みを堪えながら銃で反撃を試みたが、トッチーニは鈍重な見た目とは裏腹の身軽さで銃弾を避けた。
そして、この疵面の大男と入れ替わりに戦闘員が二人、ロックの前に立った。
「死ね」
「くっ!」
一人の蹴りがロックの右手から銃を叩き落とし、もう一人のナイフがロックの胸をダークスーツ越しに浅く切り裂く。
胸部を斬られたロックが、よろめきながら後退った。
それを好機と見たのだろう。
二人の戦闘員は呼吸を合わせて、同時にロックへと斬りかかった。
しかし、次の瞬間に血飛沫を上げて倒れたのは、ロックではなく、襲いかかった二人の戦闘員たちだった。
二人とも喉にトランプのカードが突き刺さっていた。
「いかにも優男が使いそうなチンケな武器だな」
トッチーニが、その凶悪な疵面に嘲笑を浮かべる。
「特別製のカードでね」
応えるロックの笑みは、腕と胸の傷口から全身に広がる痛みのために歪んでいた。
トッチーニから意識を逸らさず、自分の部下たちへちらりと視線を向ける。
部下の男たちはすでに血まみれで床に倒れており、その周りにトッチーニの戦闘員が二人、屍を晒している。
ロックは善戦した部下たちに、心の中で黙祷を捧げた。
トッチーニと戦闘員二人が、残り一人となったロックへサバイバルナイフを振りかざす。
ロックはカードを投げつけて迎え撃とうとしたが、今度は簡単に軌道を読まれ、避けられてしまった。
「同じ手は食わんよ。そんな銃弾よりもはるかに遅い代物に、そうそう当たるものか」
トッチーニのナイフが、ロックの左太腿に突き立てられた。
ロックは悲鳴を噛み殺し、再びカードを投げつける。
トッチーニは慌てて、ロックの太腿にナイフを残したまま飛び退いてカードを避けた。
そして、戦闘員の一人がトッチーニと入れ替わりに、ロックの胸に蹴りを加えてきた。
「ぐうっ……」
ロックはハンマーで殴られたような衝撃を感じ、反動で後ろに倒れた。
次の瞬間、空気を斬り裂くような音がショットバーの中に微かに響き、ロックを蹴り倒した戦闘員の身体が揺らいだ。
「がっ!?」
戦闘員の後ろ首から血が吹き出す。
後ろ首にはカードが深々と突き刺さっていた。
ロックがトッチーニに投げつけたカードに微妙な回転を加え、ブーメランの要領で戻ってくるように調整していたのだ。
偶然にも等しい成功だが、幸いにも戦闘員を一人倒すことができた。
「あと二人」
「諦めの悪い野郎だぜ。だが、もうお終いだ」
トッチーニが倒れたロックの前に立ち、猛獣の眼差しで見下す。
――がたっ。
ロックの耳元で音がした。
苦痛を堪えて、そちらに視線を向けると女が一人立っていた。
カウンターに座っていた東洋人らしき女性客だ。
「……この騒動の中、まだ店の中にいたのか」
自分の最期が迫っているにもかかわらず、ロックはカタギの人間を巻き込んだことに激しい後悔を覚えた。
長く美しい髪と勝気そうな目をした女だった。
女性にしては背が高く、その端正な顔立ちに凛々しさと色っぽさが見事に共演している。
酒が回っているのか、頬がほんのり赤みを帯びていた。
「おい。血の匂いのおかげで、酒が不味くなった。どうしてくれるんだ?」
女は不機嫌そうにトッチーニに向かってそう言い、前髪をかきあげた。
「――これが、鈴音サンとオレとの出会いでした」
ちとせたちに過去を語るロックの言葉が熱を帯びてきた。