魂を貪るもの
其の四 天武夢幻の剣
1.愛憎

 鈴音は駆けていた。
 駆ける。
 駆ける。
 駆ける。
 闇の中を一条の銀なる閃光となって駆け抜ける。
 大切なものを取り戻すために。
 ただひたすらに、一心不乱に。
 駆け続けていた。
 周りの闇が嘲笑うように蠢いた。
 闇が刃となって飛来する。
 全身を闇の触手に貫かれ、激痛とともに血が吹き出す。
 しかし、歯を食いしばり、走り続ける。
 倒れるわけには、いかない。
 見失うわけには、いかないのだ。
 目の前の闇が、隆起した。
 そして、それは求める者の姿へと形を変えた。
「霧刃!」
 姉、織田霧刃。
 姉の姿を取った闇に、懸命に手を伸ばした。
 だが。
 闇色の霧刃は無表情にその手を跳ね除け、右肩を掴んできた。
 途端、右肩が柘榴のように弾けた。
「ぐああああああああああああああっ!!」
 絶叫。
「おまえは無力よ」
 続いて闇色の霧刃は、無造作に伸ばした手で左胸を鷲掴みにしてくる。
 そのまま左胸を容赦のない握力で握り潰された。
「があああああああああああっ!」
 凄まじい圧搾の激痛に耐え切れず、身を悶えさせる。
 霧刃の五本の指が左胸に食い込み、心臓に突き刺さる。
 ずぶり、ずぶり、と、生命そのものを貫かれるのが、わかった。
 身体の中から切り裂かれ、全身から血が吹き出す。
「あっ、ぐっ、あぁ……」
 力を失った肢体が地面に崩れ落ちる。
 手足は動かなかった。
 それでもどうにかして顔だけで見上げる。
 闇でできた霧刃は無表情に見下していた。
 そして、そのまま霧刃の姿は周囲の闇に溶け消えた。
 残っているのは闇。
 闇。
 闇。
 闇。
 どこまでも闇。
 もはや求める姉の姿はどこにもない。

 闇と戦っていた。
 無力感の闇、絶望感の闇、己を侵食する闇と。
 闇が形を成す。
 霧刃の姿ではない。
 その数は無数。
 知っている。
 この闇は己に蓄積したものだと。
 この闇は過去からやってきたものであることを。
 その闇の中でひときわ濃い暗黒が、にやりと笑った。
 この闇は自分がもっとも無惨な敗北を喫した荒ぶる神だ。
 太古の封印が解け、千年以上に渡る怨念と憎悪が蓄積されたた荒ぶる神とその分霊(わけみ)たち。
 闇たちの悪夢を見る時、この荒ぶる神は過去と同様にもっとも苛酷に責めてくる。
 天武夢幻流を継ぐ退魔師として再度封印しようとしたが、敵わず、敗北し、逆に囚われたのだ。
 怨念をぶつけるような拷問紛いの暴虐に晒される苦痛と、欲望を晴らす標的とされて輪姦の地獄に落とされた記憶が、甦ってくる。
 闇たちは、嬲り、突き上げ、痛めつけ、破壊してくる。
 無力感の喘ぎが、絶望の悲鳴が、唇から漏れ出る。
 闇が敗北者に与えるのは生き地獄。
 何度も何度も犯され、犯され尽くした。
 何度も何度も拷問を受け、拷問漬けの末、また犯された。
 何度も失神し、何度も苦痛によって覚醒させられた。
 間断なく犯され、嬲られ、痛めつけられた。
 それでも、死ぬわけにはいかなかった。
 姉を救わねばならなかったから。
 それでも、発狂するわけにはいかなかった。
 姉を救わねばならなかったから。
 拷問され続け、輪姦され続け、それでも、あきらめるわけにはいかなかった。
 そして、いつものように――。
 いつものように、悪夢の最後がやってくる。
 そう、同じ展開だ。
 それは、記憶の片隅にある真実なのか。
 それとも、そうあって欲しいという願望に過ぎないのか。
 わからない。
 荒ぶる神を倒したのは自分ではない。
 あの時、痛めつけられ、犯され尽くしていた自分の意識は、はっきりとしていなかったから。
 だが、この闇の悪夢の最後の展開はいつも同じなのだ。

 真っ黒に塗り潰された闇の中。
 ズッ……ズッ……と二回の鈍く重い衝撃が下腹部を打ち、次いで切り裂かれるような痛みが這い上がってくる。
 その激痛に脂汗が滲み、呼吸が荒くなる。
 見悶えようとするが、気力も体力も尽きていて動かすことができない。
 いや、疲弊しきった肉体は、動かされていた。
 両側からがっしりと押えられ、腰を上下させられている。
 荒い息とともに、涎と白濁の穢れた液体が唇から垂れ落ちる。
 朦朧とした意識で思い出す。
 その穢れは胎内に満たされている。
 下腹部に捻じ込まれている二つの闇のモノから、何度もぶちまけられて。
 唇を割って出た穢れは、先ほどまで口にも咥えさせられていた闇のモノから喉の奥に放たれたものが逆流してきたのだ。
 すでに三日三晩、闇に嬲られて続けている。
 後ろに控えていた闇によって髪を掴まれ、顔を無理矢理上へ向けさせられる。
 目の前に立った魔人のソレが口の中に捻じ込まれた。
 頭を強制的に前後させられ、達した闇の欲望が口内を白濁に染め上げる。
 呼吸を阻害され、噎せて、それを吐き出す。
 どろりと唇を伝って流れ落ちる白濁の穢れを見て敗北感が大きくなっていく。
 だが、ぐったりと項垂れた途端、肉体を突き上げていた二本の闇のモノが同時に脈動し、胎内に何回目か、否、何十回目かの穢れを大量にぶちまけられた。
 不意に腹部に鈍痛が走った。
 口の中に欲望を放った闇が、腹部に剛拳を減り込ませていた。
 メリメリッと音を立てて腹部に埋まった拳の衝撃が胎内を貫く。
 かっ……はっ……ッ!
 血の混じった涎と胃の中に溜まっていた白濁の穢れが口から吐き出された。
 同時に突き上げを続けている二本の闇との結合部からも胎内から逆流した穢れた液体が溢れ出る。
 意識が遠のく。
 だが、気を失うことを許さぬというように右乳房を力任せに捻り潰される。
 う……あ……あ……。
 苦痛と屈辱に垂れそうになる頭を掴まれ、グイッと前を向かせられる。
 目の前には闇のモノがそそり立っていた。
 その先端から欲望が溢れ出ている。
 ――休んでいる暇などない。
 ――さっさと銜えろ。
 ――それとも下に三本目を捻じ込まれたいか。
 あれほど性欲を肉体の隅々にまでぶちまけてきたのに、闇たちの情念は限界を知らない。
 あ……ああ……ああああ……!
 言葉の代わりに口から零れ落ちる白濁の液体。
 鈴音はすでに廃人になりかけていた。

 唐突に、闇たちが動きを止める。
 青白い閃きと真紅の煌めきが走った。
 荒ぶる神の形をした闇が四散する。
 自由を取り戻した四肢はしかし、動かない。
 その場に崩れ落ちる。
 荒い息を吐き、半濁の意識で周囲を見回す。
 見覚えのある背がぼやけた視界に映った。
 肩の辺りで無造作に切られた黒髪。
 背を向けているために僅かにしか見えない顔は白蝋のような血行の悪い色をしている。
 腰には黒金の鞘を帯び、右手には青白い輝きを放つ日本刀を持っていた。
 ――姉貴ッ!
 そう叫ぼうとしても、限界まで痛めつけられた肉体と精神は、声を出すことさえ許さなかった。
 懸命に繋ぎ止めようとしていた意識も遠退き、視界も暗転した。
 そして、気づいた時には、姉らしき姿は消えていたのだ。

 はぁ……、はぁ……、はぁ……。
 なぜだ……?
 姉貴……。
 あたしは……、もう……、失いたくないんだ……。
 何故、あたしを拒否するんだ……?
 すべてを失ったのは……姉貴だけじゃない……。
 親父も、母さんも……。
 姉貴の恋人も、皆……。
 皆……。
 ……奪われた。
 そして、あたしは、おまえにおまえを奪われたんだ……。
 ……姉貴。
 あたしから、姉貴を奪ったのは……。
 ……姉貴自身だ!
 畜生……。
 必ず……。
 必ず、止めて見せる……。

「コロネオーレさん?」
 悠樹の腕に包帯を巻きながら、ちとせがケルベロスとの戦いの後に出会った黒髪の男の名前を確認する。
 ちとせも悠樹も大きなケガはすでに、葵に治癒術を施してもらっていた。
 残りの小さなかすり傷程度は自然治癒に任せる。
 治癒術は無理に新陳代謝を促進して傷を癒す霊術であるため、治癒を施された者の体力を消耗する。
 だから、不必要に乱発して良いものではないのだ。
 それに、治癒術による不自然な傷の回復が続くと、自然治癒能力が低下するのだと、昔、葵が教えてくれたのを、ちとせは忠実に守っている。
 一方、鈴音は、霧刃との戦いの後から目覚めることなく眠り続けていた。
 救出された直後の鈴音は、まるで陰惨な拷問にでもかけられたかのように全身に傷ついていない箇所はないという姿だった。
 まさに瀕死の状態だったが、全身全霊を尽くした葵の治癒術のおかげで何とか一命は取り留めることはできた。
 だが、鈴音の全身に刻まれた傷は深く、もう何度か体力の回復を見計らって治癒を施さねばならない。
 特に右肩の傷は酷い。
 筋肉も骨もめちゃくちゃに破壊されており、時間をかけて入念に治癒を施さねば廃物になるかも知れなかった。
 それに肉体的なダメージだけでなく、精神的なダメージも大きいはずだ。
 ずっと追いかけてきて、やっと見つけた実の姉。
 しかし、対峙したのも束の間、文字通り手も足も出ず、一方的に死の淵に立つまで痛めつけられたのだ。
 鈴音の無念と絶望は計り知れない。
 今、ちとせたちできることは、鈴音が意識を取り戻すのを待つことだけだった。
「ロックでイイですヨ。ちとせサン」
 ファミリーネームで呼ばれたロックが、ファーストネームを名乗る。
 今はサングラスをはずしており、透き通った青い目が美しかった。
 女顔と揶揄されることがある悠樹よりは男性的ではあるものの、端正な顔立ちであることには間違いがない。
 しかし、線が細いと印象はない。
 腕力はあるようで、意識不明の鈴音をおぶって神代神社まで運んでくれたのだ。
 治癒術の使い過ぎの葵も足取りは不確かだったが、彼女は一人で歩けると主張し、神社に着いてからも自らの疲れも気にせずに台所でお茶の用意を始めている。
 ちとせは姉にも少し休むように言ったのだが、葵の気性にはあまり効果はなかったようだ。
「終わりっと」
 悠樹の包帯を巻き終えたちとせが、トンッと彼の肩を包帯の上から叩く。
 悠樹は顔をしかめたが、文句は言わなかった。
「それで、ロックさんは鈴音さんとどんな関係なの? 彼氏?」
 ちとせは興味津々といった様子でロックに向き直り、鈴音との関係を尋ねた。
 死にかけた激戦の後だというのに、いつもとかわらぬ調子だ。
 それは、ちとせの良いところであり、悪いところでもある。
「彼氏だなんて、そんなんじゃありませんヨ」
 ロックは微かに頬を赤く染めて答える。
「彼女は、オレの命の恩人なんですヨ」
 ロックは鈴音と会った時のことを昨日のことのように鮮明に覚えている。

 その部屋は牢獄のような部屋だった。
 窓一つ無く、唯一の出入り口は重厚な扉だけであり、部屋を彩る装飾品は何一つ無かった。
 部屋の隅に置かれたベッドに腰掛けている一人の女の姿があった。
 この無味乾燥な部屋に似合わぬ美しい女性。
 だが、しかし、その雰囲気は、無表情で冷たく、この部屋に溶け込んでいる。
 織田霧刃だった。
 その足元には寄り添うように魔獣ケルベロスがうずくまっている。
 霧刃は白い胴衣の上半身だけ脱ぎ、右肩の傷の治療をしていた。
 治療といっても消毒薬を塗り、包帯を巻いただけの簡単な処置だ。
 鈴音との戦闘で受けた唯一の傷だが、自然に身体を循環する霊気の代謝促進によってすぐに治癒する程度の浅いものだった。
 ごんごんっ。
 鉄の扉がノックとともに開けられた。
「何の用だ」
 霧刃が入ってきた人物に視線も向けずに詰問する。
「何の用だとは、ご挨拶ね。相変わらずの無愛想ですし」
 入ってきたのは、クリップボードを脇に抱えた艶かしい女だった。
 濃紺のスーツに、タイトなロングスカート。
 スカートのスリットからは黒のストッキングを穿いた長く美しい脚が覗き、ハイヒールの高い踵の先端は針のように尖っていた。
 美しい光沢を放つ金色の髪をシニヨンアップに結い、左側の前髪だけを切れ長の目にかかる程度に垂らしている。
 蒼い瞳の生粋の白人と見える。
 決して露出度の高い服装ではなく、むしろ、その大理石のように白い肌が見えるのは、顔と首、そして手首から先程度のはずなのだが、全身から淫靡な雰囲気が滲み出ていた。
「それに殺風景だわ」
 女が部屋を見まわしながら言った。
「こんな牢獄みたいな部屋で、よく過せますこと」
 霧刃は、女が自分の雇い主であるランディ・ウェルザーズの秘書ミリア・レインバックであることを知っていたが、迎える表情には何の変化もない。
「総帥のご命令で、あなたのお見舞いに来ただけよ。すぐ帰るわ」
 ミリア・レインバックの声は濡れたような語感があり、非常に艶かしく感じられた。
 そして、知的でありながら淫靡な瞳は、治療のために片肌を脱いでいる霧刃の豊かとはいえない胸元に注がれている。
 その視線に気づいているのか、気づいていないのか、霧刃は無言で肩の治療を続けている。
「それにしても」
 霧刃の巻いている包帯に目をやりながら、ミリアが眉を顰める。
「"凍てつく炎"に、傷をつけることができる者がいるなんてね」
「……」
「その傷をつけた者に同情するわ。もちろん、殺っちゃったんでしょ?」
 ミリアが喉で笑う。
 霧刃は相変わらず無言だった。
 ミリア自体が部屋にいないかのような素振りで、肩に包帯を巻き続ける。
「本当に、つれないわね」
 少し拗ねたような口調で呟き、ミリアは霧刃の背に回り込むようにベッドへ腰掛け、クリップボードを脇へ置いた。
 ベッドが軋んだ音を立てる。
 そして、ミリアは、霧刃の肺病(はいびょう)病みの遊女のように浮き出た鎖骨へ、艶めかしい視線を送り、舌なめずりをした。
「もっと、仲良くしましょうよ」
 ミリアはそう言うと、霧刃の細いうなじに濃厚な薔薇の香りにも似た甘美な吐息を吹きかけた。
 包帯を巻いていた霧刃の手が止まった。
「……失せろ」
 霧刃が小さく呟いた。
「何か言ったかしら?」
 ミリアは気づかずに、霧刃の首筋に舌を伸ばそうとする。
「失せろっ!」
 霧刃は激情を爆発させるように叫んだ。
「うひいっ!」
 霧刃の怒号に驚き、ミリアが無様にベッドから転がり落ちる。
 そして、ロングタイトスカートに鋭く入ったスリットから大股を広げて尻餅をついた。
 その広げた股の真ん前の床に霧刃は細雪の刃を突き立てた。
「ひいっ!」
 妖艶さを凝縮したようなミリアの顔が恐怖に引き攣る。
 "凍てつく炎"の二つ名を思い知らせるような霧刃の灼熱の激情と冷酷な殺気に濁った視線が、ミリア・レインバックへ向けられる。
「もう一度だけ言う。この部屋から出ていけ」
 ミリアは唾を飲み込み、床に落ちたクリップボードを急いで掴んだ。
 そして、引き攣った表情で、尻餅を吐いたままの姿勢で這うように後退する。
 どんっ。
 背中に何かが当たった。
 首だけで振り返ると、ケルベロスの姿があった。
「グルルル……」
「ひいっ……」
 小さな悲鳴を漏らし、ミリアはほうほうのていで部屋の出入口まで逃げた。
「融通の利かない人ね。せっかく楽しませてあげようと思ったのに!」
 ミリアは捨て台詞だけ吐いて、乱れた服装を直すのも忘れて慌てて部屋の外に出ると扉を閉じた。
「下衆が」
 霧刃が吐き捨てるように呟き、床へ突き刺さっている細雪を抜いた。
 そして、青白く輝く織田家の家宝である退魔刀の刀身を眺める。
 そこに映り込んでいるのは、憎悪に呪われた自分自身の青白い顔。
 その姿が、妹の顔へと変わったような気がした。
 霧刃の双眸に宿っている憎悪の光が微か、ほんの微かに弱まる。
「鈴音……」
 ふいに刀身を眺めていた霧刃の真紅の瞳の瞳孔が窄まる。
 刀を握っていた手から、力が抜ける。
 カランカラン。
 乾いた音を立てて、細雪が床に転がった。
「(霧刃?)」
 霧刃の異変に気づき、ケルベロスが首をもたげた。
「こほっ……こほっ……ごほっ……ごほっ……」
 脱力したように跪き、霧刃が激しく咳き込み始める。
 口元を手で押さえるが、咳は抑え込まれるどころか激しさを増していく。
「ぐっ……ごほっ……ごほっ……ごぼっ…!」
 絡みつくような咳に混じって、口元を覆った指の間から鮮血が流れ落ちる。
「(霧刃!)」
 ケルベロスが床に膝をついた霧刃に寄り添う。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 しばらくして呼吸こそ何とか落ちついたものの、霧刃の顔からは血の気が完全に失せ、苦痛によって流れ出たらしい汗が全身をぐっしょりと濡らしていた。
「大丈夫……いつもの……発作よ……」
「(霧刃……)」
 霧刃が何かに耐えるようにケルベロスを抱きしめる。
 その姿には、世界最高の退魔師にして退魔狩りと恐れられる″凍てつく炎″の異名を思わせるほどの威圧感はない。
「ケル……」
 ケルベロスを撫でながら霧刃はもう一度、抱きしめた。
「おまえは、あたたかいね」


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