魂を貪るもの
其の三 闇の咆哮
3.魔獣ケルベロス

「おまえは……、ロック・コロネオーレ……」
 姿を現した男の顔を見て、霧刃が呟くように言う。
 冷たい眼差しは、目の前の男を無機質に射抜いている。
「……鈴音サンを放せ」
 ロックと呼ばれた男が少し語気を強めて言った。
 だが、それは男が目の前の女――"凍てつく炎"織田霧刃に対する恐怖を押し殺そうとしているからだ。
 実際、ロックは銃身が震えないようにするので精一杯だった。
「ファミリーの敵討ちのつもりか?」
 霧刃の問いにロックは応えない。
 霧刃は、かつて彼の所属していたマフィア・ファミリーをたった一人で殲滅したのだった。
 ロックも霧刃の手にかかり、あの世とこの世の境をさ迷った。
 一度は自分を冥途に送りかけた死神を前にした恐怖以上に強い感情が、彼をその場に踏み止まらせる。
 それは復讐の念ではなかった。
「もう一度言う。鈴音サンを放せ。妹を手にかける気か」
 霧刃の手の内にある瀕死の鈴音の姿を見て、復讐よりも先に彼女を助けなければならないという想いがロックの身体を支配している。
「……なるほど。あの時、確か鈴音もイタリアにいたと聞いていた」
 "凍てつく炎"こと織田霧刃の名は、ここ数年で裏社会に知らぬ者はいないほどに知れ渡っている。
 そして、彼女を追って裏世界へと身を投じ、人間に仇なす闇勢力を相手に破邪の力を使い続ける鈴音の名もまた、"凍てつく炎"の雷名に及ばずとも、裏社会に響き渡っている。
 闇と光の両刀。
 正反対とも言える立場に身を置く霧刃と鈴音が姉妹であるということを知るものは少ない。
 だが、ロックはそれを知っている。
 そして、ロックは鈴音のことも知っているようであり、霧刃はそこに親しみの感情があるのを見抜いた。
「その命、鈴音に救われた、というわけか」
 ロックの視線が厳しくなったが、霧刃は意に介した様子もなく、鈴音の左胸を鷲掴みにしている指にさらに力を込める。
 霧刃の指の爪が鈴音の胸へ突き刺さり、血が滲み出す。
 禍々しい邪気が鈴音の肉体への侵食を再開し、体内から破壊していく。
 完全に気を失っているはずの鈴音の顔が苦悶に歪み、喉の奥から逆流してきた血が、赤い涎のように唇の端から幾筋も流れ落ちる。
 失神しても倒れることすら許されず、鈴音は無惨にも死へと向かう苦痛を与えられ続けていた。
「鈴音サン!」
 地獄の苦しみを味わわされている鈴音の惨状を見せつけられ、拳銃を握るロックの手に力が込められるが、霧刃の表情は能面のように変わらない。
「撃てば、鈴音にも当たる」
「……的を外しはしない」
「私が鈴音を盾にするとは考えないのか?」
「"凍てつく炎"が姑息な手を使うとは聞いたことがない」
「……気に入らない回答だ。だが、撃ちたければ、撃つが良い」
 霧刃は冷淡に、ロックに言い放つ。
 そして、右手で鈴音の胸を鷲掴みにしたまま、左手だけをロックに向けた。
 その掌に、淡い光が宿る。
 殺気が収束していく。
「……ッ!」
 ロックが引き金を引いた。
 射撃には自信があった。
 だが、霧刃は銃弾を簡単に見切り、鈴音を抱えたままで簡単に避けて見せた。
「無駄なこと」
 激情に濁った目でロックを見下すように睨みつける。
 ロックは動けない。
「邪魔だ」
 霧刃の霊気が膨れ上がり、左手から禍々しい真紅の光が開放される。
 ――まさに、その寸前。
「(霧刃、それ以上はよせ)」
 霧刃の頭の中に――今、戦闘中であろう忠実なる魔獣――ケルベロスの声が響いた。
 魔獣の呼びかけに霧刃の動きが止まる。
「ケル。なぜ、止める?」
「(興奮しすぎだ。身体に障る)」
「だが……鈴音は『まだやれる』と言った」
「(いや、もはや戦えまい)」
「……鈴音は……戦えない」
「(そうだ。彼女は戦えない)」
「鈴音は戦えない」
「(戦う必要はない)」
「……」
 ケルベロスの諭すような指摘を受け、霧刃が無言で、鈴音とロックを見つめる。
 そして、左手に収束していた死の光を消した。
 次いで、鈴音の心臓を左胸ごと締め上げていた右手を離す。
 処刑台から開放された鈴音は失神したまま前のめりに崩れ、どさりと地面に倒れた。
 その姿は無惨としか言いようがない。
「……ケル。後始末を頼むわ」
 そして、何事もなかったように霧刃は闇へと消えた。

 突然去った霧刃を不審に思いながらも、ロックはすぐに鈴音に駆け寄り、優しく抱き起こした。
「良かった。息はある。だが、ひどいな。実の妹をここまで……」
 ズタボロに破れたチャイナドレスから覗く痣だらけの肢体。
 暴行に次ぐ暴行を受けた身体は、痛めつけられていない箇所はないというほどに傷ついている。
 身体中の骨が折れているのがわかった。
 その中でも、特に右肩の骨は完全に砕け、筋肉の損傷も激しい。
 その上、出血もひどい。
 いくら霊気による治療が可能だとしても、このまま放っておけば、二度と使えなくなることは確実に思えた。
「これでは、身体の中も。まずいな。早く、手当てしないと……」
 尋常でない吐血量は内臓も酷く損傷していることを示している。
 破裂している恐れすらある。
 握り潰されていた左胸は地獄の圧搾から開放され、その豊かな輪郭こそ取り戻していたが、傷から溢れた血で赤く染まっている。
 鈴音は生きていることが奇跡といえるほどの瀕死の状態だった。
 数年前、ロックは鈴音に命を救われたことがあったが、それが二人の知り合うきっかけだった。
 今の状況は、その時と立場が逆だった。
「鈴音サン……」
 ロックは鈴音を抱き上げた。

 一方、ちとせたちも苦戦していた。
 相手は、ギリシア神話において、冥界から逃げ出そうとする亡者を引き裂き、貪り喰うといわれる魔獣ケルベロス。
 冥界の番犬と恐れられるその実力を容赦なく見せつけられていた。
「きゃあああっ!」
 悲鳴を上げたちとせの身体が大木に背中から叩きつけられる。
 ずるりと崩れ落ち、ちとせが咳き込む。
「げほっ、げほっ……」
 霞む目を必至に凝らし、自分を弾き飛ばした敵の位置を確認する。
 ケルベロスは、悠樹に向かって疾走していた。
「くっ!」
 大きく振り被った魔獣の爪が悠樹を襲う。
 悠樹はそれを避けることはできたものの、勢い余って地面に転がった。
 そこへ、ケルベロスが炎を吐きつける。
 悠樹は地面を転がり、その追撃の炎もどうにか避ける。
「悠樹!」
 ちとせが体勢を立て直し、ケルベロスに向かって疾走する。
 そして、霊気を込めた拳をケルベロスに振るった。
 しかし、その打撃を魔獣は避けようともしない。
 ケルベロスは平然とした様子で、ちとせの攻撃を受けた
「あうっ!」
 拳を叩きつけたはずのちとせが悲鳴を上げる。
 魔獣の頑丈な肉体と激しい霊気に阻まれてダメージを与えることができず、逆に傷ついたちとせの拳から血が噴き出した。
 ケルベロスは、ちとせに向き直ると頭から突っ込んできた。
「がはっ!?」
 魔獣は頭でちとせの腹を突き上げ、そのまま空中に放り投げる。
 ちとせは、悠樹の近くの地面に受身も取れずに背中から叩きつけられた。
「ちとせ!」
 悠樹が叫ぶ。
 全身に走る苦痛に耐えながら立ち上がったちとせが、悠樹に大丈夫だとばかりに視線を送る。
 悠樹も、ちとせの無事を確認すると、ケルベロスの次の攻撃に備えた。
 すぐに魔獣は容赦のない攻撃を加えてきた。
 死の爪が連続して悠樹を襲う。
 風を駆使しながら必死に攻撃を受け流そうとするが、魔獣の力は風の盾を粉砕して悠樹へと迫る。
「ぐあああっ!」
 受け損なった爪の一撃が悠樹の胸部を切り裂く。
 血が吹き出し、悠樹が膝をつく。
「くっ!」
 地獄の番犬ケルベロスの力は圧倒的だった。
 ――ばらばらに攻撃していては勝てない。
 悠樹が、ちとせを見る。
 ちとせは、瞬時に頷いた。
 まさに以心伝心。
 ――力を一つに。
「悠樹!」
 ちとせの呼びかけに悠樹が頷き返す。
 そして、一足跳びにちとせの隣まで身を退いた。
 二人がお互いに手を重ねる。
 莫大な霊気が二人の重ねた両手に収束した。
「これでも食らえぇっ!」
 巨大な霊気弾。
 ちとせと悠樹の全霊を込めた霊気の光球が、ケルベロスへと放たれる。
 その塊は圧力で地面を抉り、周りの木をなぎ倒しながら突き進み、ケルベロスを直撃した。
 同時に地面を揺るがすほどの衝撃が起こり、爆煙が上がる。
「やった」
 ちとせは、全身から力が抜けるのがわかった。
 全霊気をぶつけてやったのだ。
 さすがに立っているのも辛い。
「ちとせ」
 悠樹が、ちとせを支えた。
 彼の足もともおぼつかない。
 それでも、ちとせは自分を支えてくれる悠樹の腕が心強かった。
 しかし。
「グルルルルル……」
「なっ……?」
「ケルベロス……」
 煙が晴れ、魔獣の姿が顕わになる。
 獅子よりも巨大な肉体のところどころに傷を負っていたが、それは致命傷には程遠い。
 腹に響く重低音の咆哮を上げ、ケルベロスがちとせと悠樹に向かって突進する。
 全力を使い果たした二人には、魔獣のぶちかましに抵抗する力など残っていない。
 二人は魔獣の体当たりをまとも受け、無様に地面に叩きつけられてしまった。
 ちとせには、もはや起き上がる力も残っていない。
 魔獣が、ちとせに向かって口を開く。
 その真っ赤な口の中に真紅の炎が宿る。
 殺られる。
 ちとせは、そう思った。
 ――死ぬ?
 ――死にたくない!
 心の中で叫んだが、無情にも炎は放たれた。
 恐怖に目を閉じる。
 しかし、炎はちとせに振りかかって来なかった。
 ちとせは、ゆっくりと目を開けた。
「悠樹!」
 悠樹が、ちとせの上に覆い被さっていた。
 そして、魔獣の炎が悠樹の背中を直撃していた。
 炎が止むと同時に、悠樹がちとせの横に崩れ落ちる。
「悠樹、しっかりして!」
 ちとせが叫んだ。
「ボクをかばって!」
「……ちとせ、逃げろ」
 悠樹は目を閉じて、力なく地面に倒れ伏した。
 高熱の炎に焼かれた上着は炭と化し、その背中から黒煙が上がっている。
「悠樹!」
 ちとせは慌てて、悠樹の身体に手を当てる。
「良かった。気を失っているだけね」
 悠樹の心臓の鼓動と呼吸を感じて、ちとせが一安心したようにため息を吐く。
 だが、悠樹の背中の火傷は酷い。
 それに、状況的には最悪だ。
 ケルベロスが、ゆっくりと近づいてくる。
「くっ……」
 最後の力を振り絞って身体を起こし、ちとせは精神を集中させ始めた。
 ケルベロスを倒すのは無理だ。
 だから、結界を張って近づけないようにするつもりだった。
 時間稼ぎにしかならないかもしれない。
 それに結界を張るには専用の道具と、強靭な精神が必要になる。
 無論、道具などありはしないし、激しい戦いのせいでちとせの精神力は尽き掛けている。
 それでも、死ねない。
 死にたくない。
 悠樹も死なせない。
 ――死なせてたまるか!
 だが、不思議なことにケルベロスは、なかなか近づいてこない。
 ――なぜ?
「警戒しているの?」
 そんなはずはない。
 ちとせたちの力が尽きているのは、ケルベロスにもわかっているはずだった。
 弄りものにする気なのだろうか。
 もしそうだとしても、近づかなければならないはずだ。
 さすがに、いつまでもそうしていてくれるわけもなく、ケルベロスが足をこちらに向けた。
 悠然とした足取りで、ゆっくりと静かに近づいてくる。
 ちとせは意を決して、その大きな瞳に凛と強い光を宿した。
 結界を張ろうと、桃色の唇で呪を紡ぎ始める。
 その時。
「ガルルルル……」
 突然、魔獣が唸り声を上げた。
 見れば、いつの間にかケルベロスの前、ちとせの側に一人の女性が立っていた。

「姉さん?」
 ちとせの姉、葵だった。
 白衣に緋色の袴という見慣れた巫女の装束を身に纏っている。
「ちとせ、大丈夫?」
「うん。ボクはダイジョブ。悠樹が助けてくれたんだ」
「悠樹クンは?」
「気を失ってる。火傷が酷くて……」
 葵はやさしく微笑み、ちとせに聞こえないような小さな声で、「ちとせを守ってくれてありがとう」と呟いた。
 そして、ちとせと悠樹の盾にでもなるかのように二人の前に立つと、魔獣を見据えながら呪文の詠唱を始めた。
「姉さん?」
 ちとせは、葵の行動に驚いた。
 葵は、『治癒』や『結界』に代表される『静』の属性、いわゆる『魂鎮(たましずめ)』に関する術に関しては非常に優れた力量を発揮することができるし、『術』自体に関しての知識も豊富に持っている。
 しかし、霊気を活性化させて肉体を強化したり、霊気を攻撃力に転換して敵を討つ等に代表されるの『動』の属性である『魂振(たまふり)』の力、つまりは戦いに関する行為においては、身体能力の高いちとせの方が間違いなく上だった。
「いくら姉さんでも一人では無理よ!」
 自分と悠樹を庇うように立つ姉の身を案じて、ちとせが叫ぶ。
 ケルベロスは突然現れた伏兵に対して一瞬だけ警戒の色を見せたが、すぐにためらいもなく、突っ込んできた。
 牙を剥いて葵に跳びかかる。
「汝、夢幻へ還れっ!」
 葵は同時に印を切り、ケルベロスへ手を掲げた。
 力の衝突。
 ぶつかり合った不可視の力が衝撃波となり、夜を振るわせる。
 葵の額から一筋の鮮血が流れる。
 そして、ケルベロスは次の瞬間、掻き消えた。
 跡形もなく。
 葵は荒い息を吐きながら、地面に片膝をついた。
「すごい!」
 ちとせは信じられないといった表情で叫んだ。
「すごいね、姉さん。地獄の番犬ケルベロスを一撃なんて!」
「いいえ、倒してはいません。あの魔獣は私の力量では倒すことはおろか傷つけることもかなわないほどの高位の存在。一時的に追い返すだけで精一杯でした」
 肩で息をしながら葵が、ちとせを振り返る。
「追い返す?」
「そういう霊術を使ったの。召喚された存在を召喚主のもとへ還すという術を、ね」
「召喚主……、鈴音さんのお姉さん。そうだ、鈴音さんは?」
 ちとせは慌てて立ち上がろうとしたが、全身に耐えがたい痛みが走った。
「うぐっ!」
「ちとせ、傷の治療を」
「姉さん。ボクのことは後回しにして、悠樹をお願い。それから鈴音さんの様子を見に行かないと。霧刃さんを追ってあっちに行ったはずなのよ」
「わかりましたわ」
 葵は地面に片膝をつき、悠樹の背中の火傷に手を翳した。
 淡く暖かな光が悠樹を包み、見る見る傷が治っていく。
「う……ん……」
 悠樹がうっすらと目を開ける。
「悠樹!」
 ちとせが歓喜に満ちた声を上げた。
「ちとせ、無事なのか。……えっ、葵さん?」
「姉さんに助けてもらったんだよ」
「そうか、鈴音さんは?」
「わからない。悠樹の手当てが終わったら姉さんに見に行ってもらうつもりよ」
「それなら、葵さん、ぼくはもう大丈夫です。鈴音さんを頼みます」
「悠樹クン……」
 悠樹の顔を見て、葵は火傷の塞がった背中に翳していた手を放した。
「治癒術で火傷を塞ぎましたが、術による新陳代謝の不自然な促進の負荷で体力は消耗していますから、無理をしてはダメですよ」
「そうですね、本当なら、すぐ後を追いますと言いたいところですけど。……ぼくは少し休ませてもらいますよ」
 悠樹は消耗が激しく、しばらく動けそうもない。
 ちとせはやさしく少年の肩に手を触れた。
「さっきはカッコ良かったぞ、悠樹。守ってくれてうれしかったよ、ありがと」
「男は女を守るものだよ」
 気恥ずかしそうに言う悠樹に、ちとせが笑った。
「何、古風なこと言ってんのよ、女も男を守るよ」
「ははっ、そのお言葉に甘えて、しばらく頼むよ。動けそうもないから」
「それでは、ちとせ、悠樹クンを頼みますよ。私は鈴音さんを見てきますから」
 葵がゆっくりと立ち上がった。
 と、目の前の草叢が揺れる。
 ――ざっ。
 同時に人の気配がした。
 鈴音が帰ってきたのかと、ちとせたちはそちらを向いた。
「鈴音さん!」
 確かに、そこにいたのは鈴音だった。
 だが、彼女は黒ずくめの男に抱き抱えられていた。
 まるで、苛烈な拷問にでもかけられたかのように無残に痛めつけられた姿で。
 意識はないようだ。
 男は見知らぬ顔だった。
 だが、邪気は感じられない。
 むしろ、鈴音を抱き抱えるその姿は、やさしさで満ち溢れている。
 敵ではないようだ。
「急いで、治療を」
 葵が慌てて鈴音を抱えたダークスーツの男に近寄った。
「お願いします」
 男――ロック・コロネオーレは、素直に頷いた。


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